私の歩幅が、あと十センチ大きければなあ。
そうしたら、彼の乗り込んだ電車に乗れたかもしれないのに。

走り去って行く電車を眺めながら、はあと息を吐いた。こんなことになるなら、昨日ちゃあんとパスモにチャージしておくんだった。先ほど残金不足で頑なに私を阻んだ改札を恨めしく眺めた。けれども、古本屋の彼とまさか駅で遭遇するだなんて、昨日の私が想像などできるはずもなかったので、致し方ない。

古本屋の彼。本を譲ってくれて、図書館でお礼を言えた。もう、用はないと言えば、ない。けれども、どうしてももう一度彼に会いたかった。もう一度話したかった。

二度あることは三度ある。駅で彼を見かけたとき、頭の中をことわざが駆けて行った。今日の彼は古本屋の時とも図書館の時とも違う髪形をしていた。前髪をガッと後ろにかき上げるようにした髪形は、はじめて会った時、長い前髪を煩わしそうに真ん中で分けていたことを彷彿とさせた。飽き性なのかな、それとも、前髪が鬱陶しかったのかな。真相は定かではない。ただわかるのは、髪形がどんなにコロコロと変わっても、私は彼を見つけられるということだった。
彼は私がチャージをしている間に、桃山町行きのホームに降りて行った。重そうなキャリーケースを引きづっていた。追いつけるかもしれない。やっと開いた改札を抜け、桃山町行きのホームに続く階段を颯爽と降りたのだけれど、その頃には既に電車は扉を閉まり、動きだす直前だった。息を上げながらホームに辿りつく。電車は走り出す。ザッと見回したけれど、彼らしき人は見当たらなかった。きっと、この電車に乗ってしまったんだわ。そうしてはあと、冒頭、息を吐いた。

三度目の正直。もう彼には、会えないかもしれない。
彼は、探しまわって探しまわってようやく巡り合えたのに、なかなか手中に収まってくれない、あの宝物の本のようだった。

次の電車の出発は五分後だった。この駅は、電車の間隔が長くて困る。まあ、いいか。次は急行だし。
そう自分を励まして、ホーム中央にある待合室に足を運んだ。今日は風が冷たいから、外で待つより風よけがあるところのほうがいいだろう。

「え」

待合室の扉が開いて、思わず声を零した。ベンチの真ん中に、彼が座っていた。古本屋の彼だ。

どうして?電車、乗らなかったのかしら。
もしかして、私のこと、待っていた、とか?
なんてね。ご都合主義も、いいところ。単純に、急行電車に乗りたかったんだろう。

彼は腕を組んで目を瞑っていた。寝ているのだろうか。
向かいのベンチの真ん中に座る。彼をそっと見た。今日は前髪が立っているから、眉毛までよく見える。やっぱり、最初の印象通り。強気で勝気。

「(どこか行ってたのかな……)」

彼の黄色のキャリーケースをぼんやりと眺める。ちょっと日焼けた?南国、とか。旅行?この時期に……?夏休みでもないし。もしかして、高校生でもなかったり。勝手に、同い年だと思っていたけれど。
彼のことをなんにも知らない自分に、少しだけ寂しくなった。知らなくて、当たり前なのだけれど。知らないから、もっと知りたいと、もう一度会いたいと、思ったのだ。
たった三回しか会ったことのない人に、おかしな感情を抱いていると、自分でも思う。

私だって、自分が一目惚れするだなんて、夢にも思わなかった。

ああ、この二人だけの待合室が、永遠になればいいのに、な。

しかしながら電車は決められた時間に規則正しく駅にやって来た。駅員のアナウンスがホームに鳴り響く。背中から、電車の近づいてくる低い音がした。
乗らないと。立ち上がる。けれども、彼は立ち上がろうとしなかった。
本当に、寝ているのかしら。
起こしてあげないと、不親切だよね。そう、これは親切でするの。やましい気持ちなんて、全然ないよ。もう一度話したいから、じゃ、ないよ。
だから、ね。その肩、叩いて、いいかな。
触りたい。

「ね、ねえ」

肩を叩く。
鬱陶しそうに、眉を顰めた。いつも眉を顰めるのね。皺になっちゃいそう。

じっと見つめていると、彼がうっすら目を開けた。目が合う。久しぶり。彼の目に、私が映る。心臓が、ドキドキした。初めて会った時の跳ね上がりでも、彼を再び見つけた時のモーターでもなく、淡く小刻みに。だって、彼が私を見るから。
やっぱり、こんなのちょっと、運命的だなあ、なんて。そう思ったら、緊張してしまった。

「……」
「あ、の、電車……」
「あ、やべ」

私の背中に到着した電車を見た彼は、飛び起きるようにして立ち上がり、キャリーケースをひったくる様にして持って電車に駆けて行く。

え、私は無視?

思わず立すくんでしまった。急いでいるとはいえ、また私のこと、忘れてしまったのかな。図書館で思い出してくれたと思ったのに。
忘れられても当然の存在にすぎないのに、図々しくも、凹まずにはいられなかった。
しばらく茫然としていると、発車ベルが鳴ってハッとした。あ、私もやばい。急いで待合室から飛び出す。しかしながら、無情にも電車の扉は閉じようとしていた。
やだ、電車乗りたい。彼の乗った、電車。走るけど、間に合わない。あと十センチ。歩幅が、大きかったらなあ。

あーあ。

「きゃ!」
「乗れよ」

突然、扉の隙間から手が伸びてきて、勢いよく挟まれた。驚いて声をあげると、閉じきれなかった扉が再び開く。驚いて立ちすくんでいたら、扉のすぐ傍に立っていた彼が姿を現す。挟まれていた手を引っ込めた。あ、彼の手だったんだ。ぼんやり扉を開けてくれた手を見つめていると、彼は「はやく乗れよ」と私を促した。
ハッとして、電車に駆け込む。今度こそ扉が閉じ切ると、電車は走り出した。

「あ、ありがと……」
「ふん。大したことしてねえよ」

あれ、敬語じゃない?
図書館であったときは、もっと物腰柔らかそうだったけどなあ。でも、初めて会った時は、こんな感じだったかも。
もしかして、私のこと覚えてて、砕けて接してくれるようになったのかもしれない。
それって、少し、いやとても、うれしい。

「二度目だね、助けられたの」
「二度目……?」
「うん、古本屋……でもあれは、助けてもらったってわけじゃないか。本を譲ってもらったんだから、親切にしてもらった……?」
「ふるほん……」

彼はそう呟いて外を眺めた。

あまり、話はしたくないのかな……。私は、もう少し話をしたかったけれど。でも、彼は外を眺めるのに熱心だったから、私もそれ以上なにも言えなかった。

しばらくして、桃山町に着くと、彼はキャリーケースを引きずり出した。

「桃山町に住んでるの?」

興奮して、思わず、食いつく様に尋ねてしまった。近所の図書館であったから、まさかとは思っていたけれど、やはり最寄駅が一緒だったらしい。
これはやはり、運命だったのかもしれない。

「まあ、一応」
「私もなの!やっぱり、そうかなあって思ってたんだけど」
「……ふうん」

彼ははしゃぐ私を置いて、ズンズン歩いて行ってしまう。興味がないのかもしれない。少し、素っ気ない。でも、彼が素っ気ないのは、毎度のことだった。当たり前だ。だって私なんて、彼からしたらその辺の通行人と同じ価値しかないもの。でも、私にとっては運命で、とてつもなく大きな存在に違いなかった。
私は彼の背中を追いかけて、高揚した気持ちを抑えつつ、努めて理性的に話せるように何度か息を大きく吸った。

「ね、ねえ」
「ん?」
「な、名前……なんていうの?」
「……」
「あ、いやなら……」
「リュウジ」
「え、あ……リュウジ、くん?」

リュウジくん。リュウジくんリュウジくん!
何度も頭の中で唱える。どんな漢字を書くのかしら。リュウは、難しい方の「龍」かしら?それとも「流」かもしれない。ジは?「次」「治」「二」たくさんあって、判断がつかないわ。今度、漢字辞典を借りてこよう!

「それか、オウゾウ」

リュウジくんが、ぼそりと呟いた。

「……え?なにが?」
「名前」
「え?おう……?」

名前、二つあるのかしら。そんなはずない。もしかして、あだ名、かな。オウ……なんとかって、ちょっと名前にしては聞き慣れないし。
あだ名で、呼んでいいのかしら。そこまで近づいていいのかしら。そりゃあ、私は彼と仲良くなりたいけれど、でも、さっきまで素っ気なかったのに、ちょっとたじろいでしまう。

「わ、私……あなたのこと、なんて呼べばいいの……かなあ?」
「俺はコタ」
「こた……?」

また違う名前、だ。彼が何を言っているのか、よく分からない。
不思議な人、と二度目に会った時に思ったけれど、やっぱり彼は不思議な人に違いなかった。

「じゃな」
「あ、ちょ、ちょっと待って!」

改札を抜けると、彼は手を上げて去って行ってしまおうとした。慌てて彼のモッズコートを掴む。引き摺っていたキャリーケースの音が止んだ。

「あ、あの、私」

行ってしまうのか、ここで。顔が真っ赤になるのがわかる。恥ずかしい。こんな、人のたくさんいる場所で、私はとんでもないことを言おうとしている。もしかしたら、知り合いに見られているかもしれない。明日、からかわれるかもしれない、冷やかされるかもしれない。
それでも、私はここでどんなに恥をかいてでも、言わなければならないことがあった。三度目の正直。四度目の偶然は、もうないかもしれない。ならば、これからは偶然にも運命にも頼っていられない。自分自身で、必然に変えなければならないのだ。

私は、もっと、彼のことを知りたい。
夢中で本を読む時みたいに。彼のことを知りたい。
彼は、探しまわっても探しまわってやっと見つけてもなかなか手中に収まってくれない、あの本のようだった。
本に巡り合うのは縁。だとしたら、彼が同じ本を探していたのも、譲ってくれたのも、図書館で再会したのも、同じ電車に乗れたのも、きっと縁だ。
だから、大丈夫。

「私、あ、あなたのこと、す、好き、で」
「虎太くん、お帰りなさあい」

え。
遮るような声が私と彼の間を駆け抜けた。驚いて彼を見ると、声のした方に視線を送っていて、ゆっくりと同じ方に視線を送った。

「……は……?」

我が目を疑った。
何故なら、彼と同じ顔をした人がこちらを見ていたからだ。それも、二人も。

思わず、掴んでいた彼のモッズコートを離すと、彼は二人の傍に歩いて行く。

「久しぶりだな、虎太」
「ああ」
「元気そうでなによりですよ」

同じ顔が同じ顔に語りかける。鏡?ドッペルゲンガー?忍術?混乱する頭で幾つもの可能性が頭の中を駆け巡るけれど、一向にまともな答えに辿りつかない。一人オロオロと立ちすくんでいると、前髪を真ん中で分けた子が、こちらに視線を送った。

「虎太、あいついいの?」

彼が私を指差す。
うっ。
彼と一緒にいる時、いつも忙しなかった心臓が、止まった気がした。

「知るかよ、俺は」

前髪を立てた子が、ぶっきらぼうに言う。

「俺じゃなくて、むしろお前らじゃねえのかよ」
「竜持?」
「僕は凰壮くんだと思いますけどねえ」

前髪が揃っている子が、クックッと喉で笑った。

「凰壮くん、僕がお使い頼んだ本、彼女に譲ってしまったんでしょう?」
「本……?ああ、そういえばそんなことあったかもな」

真ん中分けの子が、私にもう一度視線を送った。
同じように、前髪が揃った子と、前髪が立っている子が、私をジッと見る。思わず、息を呑んで、それから、小さく深呼吸した。
ねえ。
前髪が揃った子が、私を呼んだ。彼にそっと視線を集中させる。すると、彼はやはり笑った。

「僕たち、三つ子なんです」

みつ、ご。

某魔女っ子アニメに出てくる三兄弟が頭の中に浮かぶ。
みつごって、もしかして、三つ子?

「あ、あ、あー!」

三つ子!
そうだ、どうしてこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。鏡でもドッペルゲンガーでも忍術でもない。三つ子だ!
私は時々、こういう簡単なことを見落としてしまう。例えば、脚立の存在を忘れて、届かない本棚に一生懸命手を伸ばしてしまう、とか。

なんて、こと……。
それじゃあ私は、いったい誰を好き、に。

「フフ」

前髪が揃ってる子が、可笑しそうに笑う。何がおかしいのだ。
思わず睨みつけるのだけれど、全く効果はないみたいだった。

「告白、しなくていいんですか?」
「な!」

顔が、茹蛸のように赤くなる気がした。実際、なっていたと思う。その証拠に、前髪が揃った彼は、唇で大きな弧を描いた。

「さあ、好きな人に告白してくださいな」

意地の悪い満面の笑みの彼に、一言、感情的に泣き叫んだ。

「そんな親切、いらない!」





凰壮くん、髪の毛そろそろ切った方がいいですよ、と竜持(2013.11.27)


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