私の勇気が、あと十センチあったらなあ。
そうしたら、あの一番端っこに座る彼に声をかけられただろうに。
近所の大きな図書館の、窓際に並べられた机の更に一番端に座る男を眺めながら、心臓は跳ねるというよりも高速で回転するモーターのようだった。
彼がいた。
古本屋の彼だ。驚いた。まさかこんなところで会うだなんて思ってもみなかった。本棚から隠れるようにして盗み見る。兎にも角にも落ち着こうと、一度本棚に背を向けてから、深呼吸をした。吸い込む紙の匂い。好き。
間違いない、彼だった。少しだけ、あの日と出で立ちが違うけれど。
あの目を奪われた真っ赤なナイロンジャケットを着ていた彼は、今日は目に優しいモスグリーンのコートを着ているらしい。彼の隣の席にかけてあった。服装も、青いセーターの下に着たシャツのボタンが一番上まできっちりしまっていて、ものぐさだった印象が少しだけ変わる。髪の毛だって。切ったのだろうか、今日はきっちり揃っている。あの長い前髪、鬱陶しそうに真ん中で分けていたもんね。ついでに、髪形変えたのかな。襟足も揃っているし、横髪もきっちり耳にかけている。
けれでも、彼に違いない。あの横顔。この世に二つとあるはずないもの。あの日から、何度だって思い出した。間違うはずない。
しかしながら、古本屋の次に図書館で会うだなんて、運命的。本が好きなのかしら。同じ本を手に取ったくらいだし、趣味が似ているのかもしれない。そう思うと、顔が熱くなる気がした。
お礼を、言わないと。本を譲ってもらったお礼。
そう思って、先程から何度も声をかけようと試みているのだけれど、どうしようもなく勇気がでない。だって、たった一度会っただけの私を彼が覚えているだなんて、到底思えない。こんな地味な私。
本棚の陰から見つめるばかり。私が声をかけるのをためらううちに、彼は何度ページを捲ったのだろうか。
だめ、だめだめ!お礼も言えないなんて、そんなのダメ!
そう自分を叱咤して、もう一度深呼吸する。紙の匂い。森の中にいるみたいで、好き。
よし!拳を握り決意を固めて、彼の方に振り返った。
あ。
振り返ると、彼の姿は忽然と消えていた。あるのは、隣にかけていたモスグリーンのコートだけだ。
どこへ行ったのだろう。
おろおろと、辺りを見回す。帰ったのだろうか。いや、コートがあるのだから、帰るはず、な……。
「ねえ」
「ひっ!」
突然、後ろから肩を叩かれて、跳ね上がった心臓が喉から飛び出しそうになったせいか、思わず声をあげてしまった。
しまった、図書館!
咄嗟に口を手で覆って、ゆっくり後ろに振り向く。
「(わ!)」
彼だ!
「何か用でも?」
彼の眉が訝しげに顰められる。あ、デジャヴ。やっぱり、同じ人だ。
きっと、盗み見ていたのが、バレてしまったのだろう。
早く、弁解しなければ。
「あ、あの、わたし」
「……」
ジッと黙って私を睨む。腕を組んだ彼は、あの日よりもずっと警戒心が強く見えた。やっぱり、私のこと、覚えてないんだろうな。少し、溜息。
それにしても、同じ顔なのに違う人みたい。不思議な人。
「あ、その本……」
彼が持っていた本の背表紙に、見覚えがあった。先ほどまで、彼が読んでいたものだろう。
「これ?」
彼は、あの日と同じように本を差し出した。
やっぱり!
「あの時の!」
彼が古本屋で譲ってくれた本だった。
「あの時……?」
「やっぱり、欲しかったんだ、その本?」
「……」
私が尋ねると、彼はまた、眉を顰めた。そうして、持っていた本を同じように訝しげに眺めてみせる。
「あの、譲ってもらったのに、お礼言えなくって、その、ずっと、後悔してたの……。私、あの本すごく欲しかったから、嬉しかったんだ。ありがとね」
「……ああ、そういうこと」
思い出したのだろうか、彼は納得したように頷くと、口の端を吊り上げた。
あ、笑った。
「やさしーいですね」
「え?」
優しい……私?
お礼を言っただけなのに?
「こっちの話です」
「はあ……」
「じゃ」
「あ!」
彼は私の隣を横切って、席に戻ろうとした。
あ、やだ。
やっと会えたのに、また彼が行ってしまう。運命的と思ったけれど、これ以降会える保証なんてない。いやだ、まだ話したい。行ってほしく、ない。
そして、思わず引き留めるような声をあげてしまった。
私に背を向けていた彼が、小さく振りむく。あ。またデジャヴ。あの日みたい。
「あの、えと」
「……」
「お礼、は、欲しくない、ですか……?」
彼は、フッと、嘲笑ったようだった。
「いらないですよ。僕には」
それだけ言うと、席に置いていたコートを着て、受付に向かっていった。
今日のモスグリーンは、図書館に溶け込んでいた。