金曜日をどうしても休校日にしたかったのは、例えば毎週金曜日になるとロンドンに住んでいる恋人が電話をくれるからだとか、例えば好きな芸能人の冠番組が毎週金曜日に放送されるからだとか、例えばバイト先のシフトに憧れの先輩が毎週金曜日に必ず入るからだとか、そんな大層な理由でもくだらない理由でも有りふれた理由でもなかった。単純に、連休が欲しかっただけだ。カレンダーを確認したら今年は月曜祝日が多い。つまり、金曜日を休校日にしておけば、うまくすると四連休になるという、どうしようもなく怠惰な理由であった。

大学も二年目になり、単位制の授業にも大分慣れた。一年目は授業を組むだけで精一杯で、随分と一週間を非効率に過ごしていたと思う。今年は効率よく時間割をつくって、学校外のことも充実させたいと考えていた。(というのはやはり建前で、あるのはただただ連休がほしいという欲のみである)

だから、このわけのわからない授業も、予定調和のためには必要なのだ。

水曜日の三限に選んだのは、数学科の授業だった。このコマでは受けたい授業が特になく、時間割の中では最後まで空白だった。けれども金曜日を休みにするためには、どうしてもこの水曜三限に授業を入れたかった。他の曜日は四限まで既に埋まっていたし、水曜日は四限しか授業が入っていなかった。一時間のために登校するのはもったいない。朝ゆっくり登校するためにも、三限に授業を入れるのが最適だと考えた。その一コマを埋めれば、習得可能単位数いっぱいに授業をとることができる。
シラバスをめくり、目についた数学科の授業をとったのは偶々だ。
他の学科の授業に少なからず興味があった。数学もそんなに嫌いじゃない。
そんな軽い気持ちで登録した。

しかしながら、実際授業を受けてみると、なにを言っているのかほとんど理解できない。私が知っている数学とは少し違うのだろうか。いや、単純に私が数学を忘れてしまったのかもしれない。毎日数学の授業があった高校生の頃と比べれば、随分数学とは疎遠になっている。きっと昔解けた問題だって、今はちんぷんかんぷんだろう。受験の時、あんなに勉強したのにな。なんだか、もったいない。(しかしながら、それを差し引いても、数学科の授業は難解を極めていた)
教授が説明を続けながら、板書していく。次第に教授の声は消えていき、子気味良く刻むチョークの音だけが響いた。この教授は、時々周りの見えない子供のように夢中になって黒板と睨めっこするように数式を連ねる。数学に対し、熱心なのだ。

わからないのならば、わかるように真剣に聞いてみよう。
そう何度も試みたが、私の理解に合わせたレベルで授業が進むことは決してない。まるで宇宙語で語りかけているようだとさえ思っていた。仕方がないので、試験の時に困らないよう、ただただ丁寧にノートだけをとる授業となっていた。



彼に気付いたのはその授業を受講し始めて一ヶ月、五月の半ばだった。
誰も座りたがらない最前列の窓際の席に座っている人がいた。
真面目な人もいるものだ、とはじめこそ思うだけだったけれど、その次の週も、またその次の週も、毎回必ず同じ席に座るので、次第に目に付くようになっていき、彼を後ろの席から眺めるのが私の日課となっていった。

彼は姿勢がよく、一度たりとも机に伏せって夢の中に旅立つこともなかったし、船を漕ぐこともなかった。隣の席に友人を座らせることもなく、一人きりで授業を受けていた。彼の背中を眺めては、度々猫背になる自身の姿勢を正した。
彼の髪は少女のように艶やかで、はじめこそ女性ではないかと一瞬だけ見紛う程には、男性にしては長かった。肩につくかつかないかの髪の毛は、同じ長さに綺麗に切り揃えられており、几帳面な印象をもたらした。背筋と同じく真っ直ぐ伸び、寝癖など一度たりとも見たことはなかった。彼の髪を眺めては、今夜もトリートメントに力をいれなければと決意を固めた。
彼はよく緑色の服を好んで着ていた。シャツのボタンは上までかっちり閉め、だらしなく裾をひらつかせることもズボンを腰で履くこともなく、清潔感があった。深い緑は目に優しく、穏やかな気持ちにさせる。植物と同じ色であるからだろうか。彼を眺めては、穏やかな気持ちになることに気づいた。

彼の後ろ姿を眺めては、一体どんな人間かと想像を膨らませるようになった。
丁寧にとっていたノートには、数式の代わりに福笑いのような拙い絵が増えた。彼の顔を想像しては、授業中に落書きした。私は彼を、真正面から見たことが、ただの一度もなかった。(彼はノートパソコンでノートをとっているから、落書きなんてしないのだろうなあ)
何故彼を真正面から見たことが一度もないかと問われれば、それは水曜三限のC館三〇五教室以外で彼を見かけたことがなかったからだ。
広い校内。受講している授業や学科が違えば、必然と利用する校舎や在校時間も変わってくる。会えない人には探したって会えない。
実際、私がC館へ行くのはその水曜日三限だけであった。

大学とは不便である。高校ならば、胸ポケットの校章の色で学年を見分けることができたり、クラスの時間割を調べて会いに行くことも可能だというのに。(少しだけストーカーみたいだけれど)
知り合いもいなければ学科も違う。学年さえわからない。人によって時間割も違うので、彼のことを知ることはおろか、行動の予測だって出来やしない。彼に会えるのは、水曜日三限のC館三〇五教室以外に他ないのだ。それをいつしかもどかしく思うようになった。

一度だけでいい。
彼を真正面から見たいと思った。

六月も終わりになると、金曜日にも学校へ行くようになった。彼を探すためだ。
もうすぐ前期の試験である。それが終わると、七月末から二ヶ月間の夏休みが始まる。つまり、あとひと月もしない内に、彼と二ヶ月間も会えなくなってしまうのだ。(今までが「会う」にカウントされるかは、甚だ疑問であるのだが)
まだ一度も彼をまともに見たことがない。穴があくほど見続けたのは、後ろ姿と、教室を出て行く横顔ぐらいだ。このままでは長期休みで彼の顔を忘れることもできない。
金曜日の学校で偶然遭遇した友人には「あれ?金曜日授業ないんじゃなかったっけ?」と勘繰られることもしばしば。
「ちょっと聴講しに」
その度に、そんなもっともらしい言い訳を述べたが「真面目ねえ」「そんなに熱心だったっけ?」などと、さらに不思議がられてしまっただけだった。

ふと「そんなに熱心だったか」と問われてはじめて、そうかこれは熱心なのか、といやに納得してしまった。
私は彼に対して熱心だった。
後姿しか知らない彼にこのように執着してしまう感情に、少なからず心当たりがあった。けれども、それはまだ蕾のような存在で、よくある台詞を借りるならば「気になってるだけ」である。なぜならば、私は彼を知らない。
だがやはり気になっている。あの真っ直ぐ伸びる背中と、艶やかな髪の毛、清潔感のある服装に緑を好む趣味。独りぼっちの最前列でジッと授業をきくあの「熱心」が。

私は、答え合わせがしたいのだ。後姿から見える彼の人柄と、実際の彼を。


しかしながら、金曜日の校内で彼を見つけることはできなかった。
もしかしたら、彼も金曜日は休校なのかもしれない。本当に存在するのかさえ疑ったが、次の水曜日の三限には必ず最前列窓際に腰掛けるので、彼の存在を実感せずにはいられなかった。


そこで私は大胆な作戦を決行することにした。
名付けて彼の隣に座ろう作戦。である。
七月も三週目を迎えて、私は焦っていた。来週のテスト期間が終われば、人生で最も長さを極めた夏休みが幕を開ける。さすれば必然と、彼とも会えなくなるのだ。
一週間でも待ち遠しいのに、二ヶ月だなんてとんでもない。彼の存在に気づいてからも同じく二ヶ月の月日を過ごした。日数にするとおよそ六十日。時間にすると実に千四百四十時間。秒数にするとなんと五百十八万四千秒である。もはや長いのか短いのかもわからない。
彼を見つけての二ヶ月は確かにあっという間だったけれど、二ヶ月間も彼を見つめられないのは、上から落ちた雫で石が窪みをつくってしまうほどに長い。時間とは不思議なものである。(いっそ二ヶ月という時間が長いのか短いのか、数式で証明してほしい)
会えない間に、私の気持ちに窪みができてしまうのは、よろしくない。


七月三週目の水曜日、三限。
いつも通り、C館三〇五教室へ赴いた。教室の後ろの扉からそろそろと中を覗いた。
いた。指定席に、彼が。今日は濃い緑のTシャツを着ている。いつもは私の方が早いのに。
唾を飲み込むと、ゴクンと音が身体中で鳴った。緊張しているのがわかった。
意を決して、深呼吸をする。作戦開始である。
一、教室へ入る。
二、長机と長机の間の通路を、ゆっくりと進む。
三、最前列へ。
最前列に着くと、そっと足を止めた。長机の奥には、頬杖をついて窓の外を眺める彼がいる。あとは、窓際の彼の隣に座るだけだ。

心臓が持久走を終えた後のように足音を立てながら跳ねる。太鼓を叩くような低い音がうるさい。手に汗をかくのがわかる。
当たり前だ。席はいくらでも空いている。わざわざ知らない人間の隣に座る必要もない。彼も、何故隣に座るのかと不審がるかもしれない。そう思うと今度は足がすくんだ。

始業のベルが鳴る。早く、席を決めなくては。彼の隣に、座らなければ。どうしよう。でも、やっぱり、変に思われるのは嫌だし、なにより、緊張する、し。
焦りから目の前が歪曲して見える。決断を迫られ、混乱しているのだ。心臓が一層早く鳴った。

もたもたしていたら、前の扉から教授が入ってきた。「はい、授業を始めますよお」と教授の穏やかな声が着席を促す。慌てて、一番近い、最前列通路側の先に座ってしまった。

……あ、座っちゃった。


結局、彼の隣に座ることはできなかった。
同じ最前列ではあるけれども、窓際と通路側。間には実に三つも空白の席がある。これでは、隣とは言えない。今からわざわざ詰めるのも、変な話だ。それこそ不審がられるに違いない。
作戦失敗である。一人でそっと、溜息を吐いた。


ならば仕方がない。この手段はあまり使いたくなかったのだけれど。

授業が終わり、彼が身支度をして後ろの扉から出て行く。彼が背中を向けたのを確認してから、そっと席を立って、私も後ろの扉から教室を出た。

ストーキングである。

廊下を颯爽と歩く彼の後ろを、一定の距離を保ちながらついて行く。時々、人の波で見えなくなりそうになったけれど、その濃い緑だけは見失わないようにと、瞬きすら最小限に抑えた。彼ばかり見るから、何度か人にぶつかった。
C館の三階から一階へ階段を使って降りる。エントランスを横切って、裏庭に続く出口に向かって歩いて行く。エントランスのベンチを占領している女の子たちの甲高い笑い声や自販機の音、ざわつく足音や待ち合わせの友達と電話で話している声が、次第に遠くなっていく。わざわざ裏庭へ向かう人はあまりいない。こちらの出口は、生徒にはほとんど使われていなかった。
彼が扉を開け、校舎の外に出た。見失うまいと、小走りに追いかけて出口に立つ。外を窺うように、そっと扉を開けた。

「(あれ?)」

どこにも彼がいない。


「何か用ですか?」


ひっ!


ばくん!
心臓が爆弾のような音を立てた。
開けた扉から顔をだし、視線を真横に移動させると、彼が壁にもたれるように立っていた。充分注意を払ったつもりだったけれど、死角だった。いや、その前に、気付かれていたのか。それ自体が、誤算だった。

汗がどっと噴き出す。混乱から頭が真っ白になり、言葉が出てこない。何か言い訳をしないといけないと思うのだが、そう思えば思うほど、頭はまるで漂白したかのように真っ白くなるばかりだった。

「僕の後、つけてましたよね?」

彼が壁から体を離し、私の前を塞ぐように立った。
目が合った。

あ。真正面。

見た。初めて彼を真正面から見た。

印象的だったのは目だった。鋭く吊り上って、気が強そうだと感じさせた。やけに馴染んだ敬語を使っていたけれど、その言葉には警戒心が含まれていて、また不快だとも言っているようだった。私が想像していたのは、真面目で几帳面で清潔感のある、絵に描いたような優等生くんだったので、ほんの少し、意外だと思った。トラブルに対しても、もっと穏便にことを運ぶタイプだと思ったのに、まさかこんな真正面から物を申すだなんて。少しだけ、怖いと思った。(しかしながら、怒られるようなことをしたのは紛れもなく私なので、怖いなどと言ってしまうのはお門違いも甚だしい)

「黙ってちゃわかりませんけど。その口は飾りですか?」

辛辣。やはり、気が強いようだ。意外。後ろ姿だけではわからなかった彼が見える。
怒られて、もしかしたら嫌われてしまっているかもしれないのに、私の中には例えば道端に咲いたたんぽぽを見た時のような、そんな小さな感動が生まれていた。

「ストーカーですか?なんとか言ったらどうです?」
「あ、い、や、あの、その」

彼の目が一層鋭くなって、形のいい眉が神経質にぴくりと動いて見せた。眉間に皺が増える。
まずい。
慌てて答えようとするけれど、意味のない音だけが口から漏れる。このままでは、ストーカー扱いだ。それはまずい。私はただ、彼を真正面から見て、それで……。

「こ、答え合わせ、を」
「答え合わせ?」
「そ、そうです!あ、あの、さっきの、授業、ね! 1+1の証明について、その、ちょっと、よくわからなかったものですから、あの、テスト前だし、えっと、私あの授業、友達いないし、だから、えっと、席の近いあなたに、ちょっと、教えてもらいたかった、と、言います、か……」
「……」

実にしどろもどろ。
穴だらけの拙い言い訳を必死で述べた。喋りながら、そういうのは教授に相談すればいいのに、と一人でツッコんだ。
彼がジッと私を睨む。
顔が見れなくて、そっと床の汚れに視線を落とした。あれほど見たかった彼が念願叶って真正面にいるというのに、なんて滑稽なのだろうか。緊張する。後ろの席から眺めていた時には感じなかったものが込み上げてくる。息ができない。どうやって息をするんだっけ。彼に見られていると思うと、一挙一動にも力が入る。

「……書くもの、持ってますか?」
「え?あ、ああ、はい」

慌てて鞄からノートとペンを取り出して彼に差し出すと、それを受け取った彼は私に背を向けた。二三歩進んで、校舎と地面を繋ぐ二段しかない階段に腰掛ける。ノートにペンを走らせるのを見て、彼の隣に歩み寄った。
隣に立つと、彼がこちらを見上げる。座れ、とでも言うように顎を動かすので、慌てて腰掛けると「まず、0は自然数ですが、自然数nが存在すると……」と、授業で聞いたことがあるような、ないような、説明が始まった。

どうして教えてくれる気になったのだろうか。やはり真面目なのか。面倒見がいい?
それとも、数学に熱心なのかもしれなかった。

ペンを持つ指を盗み見る。男の子にしては長い。けれど、骨ばっていて、やはり私のものとは少し違う。ノートに生まれる字は、意外と丸い。もっと、角ばった字を書くんだと想像していた。
答え合わせをする度に、意外な彼が見える。
それを、嬉しいと思った。間違った解答ばかりだったのにね。

「きいています?」
「き、きいてますとも!」
「ふうん」

彼が疑うように目を細めた。

「あ、あの、何年生の方ですか?」

思い切って、彼自身への質問をした。
彼は、説明の途中で茶々を入れられて不機嫌そうに顔を顰めた。

「……二年ですけど、一応」
「一応……って? 浪人生とか?」
「いえ、違いますけど。僕、ここの生徒じゃないので」
「え!」

仰け反った。

「さっきの授業を聴講しに来てるんです。あの教授、ずっと憧れてたんですけど、今年から大学の講師になったって聞いて」
「へえ……」

どうりで、いくら校舎を探しても、彼を見つけられないはずである。
ここ最近の金曜日を想って、馬鹿なことしてたなあと苦笑いを漏らした。
それにしても、他校に潜りこんで授業をうけるだなんて、随分度胸がある。やはり、気が強いのだろうなあ。

「なに笑ってるんですか」
「あ、いやあ、別に……えっと、ね、熱心なんですね、他校に聴講しにくるなん、て」
「君だってそうでしょう」
「え、私?」


わざわざ知らない人間に質問しにくるなんて、よっぽど熱心ですよね。


彼が可笑しそうに笑った。
あ。笑った。

初めて笑った顔を見た。

こんな顔で笑うんだあ。
私の拙い落書きだけでは想像しきれなかった笑顔が、私の目を奪った。また、手に汗をかいた。やっぱり、緊張する。


「あ、あの」
「なんですか」
「あの、な、名前、を」

真正面から彼を見れた。笑った顔も見れた。
今度は、名前を知りたいと思った。


彼のことを、もっと知りたいと思った。


「竜持です。降矢竜持」
「ふるやくん」
「竜持でいいですよ。あまり名字で呼ばれるのは、慣れていないんです。兄弟が多かったものですから」
「りゅうじくん」


はい。


竜持くんが返事をした。
ああ、竜持くん。竜持くんね。そういえば「りゅうじ」って顔、している気がする。

「あなたは?」
「……夢山夢子、です」
「夢山さん」
「や、呼び捨てでいいよ」
「僕、誰にでもこうなんです」

へえ、そうなんだ。
どんどんどんどん、彼を知っていく。それが、嬉しくて。

「さ、証明の続きですよ」


私は、彼に、熱心になってしまうのです。




椿さん
企画への参加、ありがとうございました!
いつもお世話になっています…!この度はリクエストいただきまして、本当にありがとうございました…!遅くなってしまい、すみません><
理系の大学てどんな授業するんだ…と思いながら書きました笑
至らない点多々あるとは思いますが、精一杯書きました!
受け取っていただけると幸いです…!
これからも、どうかよろしくお願いします^▽^
それでは、失礼します!
(20131102)

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