失恋した女がすることと言えば、髪を切るか、ヤケ食いか、もしくはヤケ酒と、昔から相場は決まっている。

「なんれおしえてくれなかったのお、すわあ」

 夜も深まる二十三時。浴びるように酒を飲み、呂律も回らなくなるほど出来上がるには丁度良い時間帯だ。もう何杯目になるかわからないカシスオレンジで酔っ払う夢子は、机に突っ伏しながら目の前の諏訪に管を巻いている。
 そんな夢子を、片眉を吊り上げて見下ろしながら、諏訪は五本目となる吸い殻を灰皿に押し付け、溜息ついでに煙を吐いた。

「だぁから、同じ話を何度もさせんな! 俺はちゃんと忠告しといただろうが」

 諏訪は、その居酒屋で一番人気のメニューである若鶏の特大唐揚げを箸で掴む。夢子が嫌がるのでレモンはかけていないそれを豪快にひと齧りすると「風間の野郎はやめとけってよお」と続けた。

「やめろけっていうなら、しゃんとりゆうまでいうべきれしょ! すわっれしんせつじゃないのよお」
「おいこらてめー、誰の失恋話にこんな時間まで付き合ってると思ってんだよ! つーか漢字で喋れ!」

 諏訪の言い分は最もだった。
 諏訪が大学構内で、人目も憚らず号泣する夢子に捕まったのが十八時半。それから、大学を出てほんの五分ほど歩いたところにある、三門市立大学生御用達のチェーン居酒屋に連れ込まれてから、約四時間半も夢子の一方的な話に付き合ってやっているのだ。文句を言われる筋合いなど毛ほどもないというのが諏訪の心情だが、失恋による情緒の乱れおよび度を越したアルコール摂取が引き起こす支離滅裂な思考構築により正常な判断能力を失っている夢子に、常人の理屈など通じるはずもない。諏訪の真っ当な抗議は、さながら彼の吐くタバコの煙の如く、虚しく宙を舞っていた。

「おい夢子、酒飲むならちゃんと飲めよ。こぼれまくって服が紫になってんぞ。新品だろ、それ」

 夢子はもう身体に力が入らないのだろう。関節という関節が、タコのようにぐにゃりと曲がっている。右手のグラスは夢子の胸元に向かって傾けられていて、服に酒がひたひたと零れ落ちていた。シースルーのベージュのトップスは、夢子が今日のためにわざわざ三つのショッピングモールを梯子して吟味したとっておきだ。色気のある透け感に、大人っぽさを感じる色合い、袖には小花の刺繍があしらわれていて、愛らしさも兼ね備えられている。風間の目に少しでも可愛く映りたいといういじらしい想いで購入されたそれも、今となってはカシスの紫が毒々しく侵食して台無しになっていた。
 見かねた諏訪は、夢子からグラスを取り上げると、彼の烏龍茶の傍に避難させた。ビールを好む諏訪が柄にもなくソフトドリンクを飲んでいるのは、夢子のために他ならない。入店直後、まるで真夏に水分を補給するようなスピードでカシスオレンジを消費していく夢子を見て「今日は荒れる」と静かに悟った諏訪は、一杯目のビールを飲み終えたところで烏龍茶に切り替えた。サシ飲みである以上、夢子の介抱は諏訪の役目だ。それに諏訪にしてみれば、夢子の失恋話を肴に飲む酒も美味くなどなかった。
 諏訪に酒を取り上げられた夢子は、グラスが何故消えたのか、最早理解できなかったのだろう。掴んでいた物がなくなって空を切る自身の指をぼんやりと見つめていた。それがしばらくすると、何かを思い出したかのように瞳に雫を溜めていき、終いには先ほどまでのけたたましさとは打って変わった様子でポロポロと涙を落とし始めた。これには諏訪もぎょっとした。

「らってらって」

 夢子は両手で顔を隠すと「けっこんしてるなんて、きいてないもん」と呟いた。
 夢子は今日、同じ大学に通う風間蒼也に告白をした。もちろん、愛の告白である。諏訪には何度も「やめとけ」と忠告されていたものの、もう見ているだけでは耐えられなかったのだ。風間はボーダー隊員とだけあって忙しいのだろう、なかなか大学で会えることも少ない。そもそも夢子とは学部も違う。飲み仲間の諏訪に紹介されて出会った。校内で会えば挨拶を交わして世間話をする程度の仲ではあるものの、諏訪という共通項を除けば、接点はほぼ皆無だった。用事という用事もないので、かろうじて交換した連絡先を活用したことすら一度もない。夢子は、口実など必要としなくとも風間と会える関係になりたかったのだ。
 結果は玉砕だったわけだが、これがただの失恋であれば夢子もここまで荒れなかったかもしれない。こうして諏訪を巻き込んだ四時間半にもおよぶヤケ酒に興じている原因は、ひとえに風間が学生の身でありながら既に結婚をしていたからだ。予想だにしていなかった事実を、あろうことか夢子は、告白の返答という最悪の形で聞かされた。

「ゆびわらって、ひっく……してなかったのに……ひどい、よぉ……」
「……夢子?」

 徐々に夢子の声量が小さくなっていく。不審に思った諏訪が声をかけると、返事の代わりに聞こえてきたのは寝息だった。

「かー! 寝てんじゃねーよ、面倒くせー!」

 思わず脱力した諏訪は、ひとまず一息つこうと、実に六本目となるタバコを取り出した。火をつけてからゆっくりと肺に煙を吸い込むと、天井に向かって長めに煙を吐き出す。
 机に顔を擦り付けて眠る夢子のつむじをぼんやりと眺めながら、諏訪は風間が結婚した日のことを回想した。


 その日、諏訪は作戦室で推理小説を読んでいた。物語は、連続殺人事件の犯人に繋がる証拠を探偵が発見した、まさに終盤。ミステリーは専ら推理をしながら読み進める派である諏訪は、これまでの伏線を一つずつ整理し、犯人を特定するため思考を巡らせていたところだった。突然、風間が訪ねてきたのだ。「おいてめー、間が悪ぃんだよ」と非難する諏訪を当然のように無視し、風間は淡々と自身の用件を伝えた。婚姻届の保証人欄に今すぐ署名してほしいと。
 それは諏訪にとっても寝耳に水だった。社会人に劣らない収入があるとは言え、風間は学生の身である。早すぎるだろ、というのが諏訪の率直な感想だった。ましてや風間にとってその日は遠征任務のまさに前日であり、入籍などという人生の一大イベントを業務タスクのようにこなしている場合ではないはずだ。腑に落ちなかった諏訪は、どういうつもりなのだと尋ねた。諏訪の問いに、風間はやはり淡々と答えた。

「俺が死んだ時、真っ先に知りたいんだそうだ」

 風間の必要最低限の返答で、察しの良い諏訪は全てを理解した。
 風間の結婚相手……即ち恋人に当たる女性は、元は風間の兄の恋人だった。風間の兄である風間進は、近界民との戦闘により数年前に亡くなっている。
 風間進が亡くなった時、彼女の元に連絡が届いたのは随分と時間が経ってからだった。風間も風間の両親も風間進の死に気が動転していて、恋人にまで連絡をする余裕はなかった。そのことは彼女の中でしこりになっているのだと、以前酔っ払った風間がうっかり漏らしたのを諏訪は覚えていた。
 配偶者であれば、怪我をした時、危篤になった時、もしくは死んだ時、真っ先に連絡がいく。恋人という口約束の不確かな関係よりも、確実に効力がある。
 風間の恋人は、大切な人のことで、もう二度と後回しにされたくないのだろうと、諏訪は推理した。そして、風間が彼女の願いを聞き入れる代わりに、遠征に行く許しを得たのだろうとも。


 六本目のタバコを吸い終わる頃、諏訪の携帯に加古から連絡が入った。夢子が酔い潰れることを想定して、加古に連れ帰ってもらおうと、事前に手を回していたのだ。夢子はもう自力で立つことが出来ない。おぶって帰ることもできたが、付き合ってもいない女の身体に触れるのは気が引けた。
 結局あの日、諏訪は風間の婚姻届に署名をした。風間に「もっと丁寧に書けないのか」とダメ出しされた時は頼みを聞いてやったことを早まったと思ったが、風間の不安定な恋人を想えばしてやらない理由が見当たらなかった。決断力があり、潔く、それでいて思慮深い性格の諏訪が過去を後悔することは、ほとんどない。
 しかしながら今、諏訪は自身の行いを確かに悔いている。「せめて夢子には風間の口からではなく自分の口から伝えてやるべきだった」と。風間自身が周囲に話していることではないので、諏訪もあえて触れ回ることはなかったのだが、夢子が風間を想って泣きじゃくる姿を目の当たりにし、少なからずこたえた。
 机に突っ伏して眠る夢子が身を捩る。ふと、夢子の頬に残った痛々しい涙の跡が、諏訪の目に止まった。

「……ったく、面倒くせーよな。お前も、俺も」

 お前が俺のこと好きになれたら、楽なのによ。
 諏訪の独り言は、虚しく宙を舞った。


(20210612)
もくり企画「WT男子に『既婚者なんだ』と言われて振られる」というシチュエーションお題で書きました。

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