※お姉さんの描写について、捏造多めです。

 あの日から、ずっと雨が降っている。耳を劈くような雨音と、視界を不確かに滲ませる無数の繁吹きがこの世との一切を遮断して、いつからか己の存在すら虚にさせていた。俺だけが、まだ、あの場所に取り残されたままだ。

「あはは、また負けちゃったよお」

 ソロランク戦のロビー脇に設置された自販機で飲み物を買っていると、特筆すべきところなど一つもないひどく平凡な発言が、土足で俺の意識を踏み荒らしてきた。鈴を転がすような声に似つかわしくない、能天気な印象を与える抑揚が、無性に腹立たしい。声の主は、もはや顔を見ずともわかる。一学年先輩の、夢山夢子だ。

 この女の声は、どうしても耳に付く。初めて逢った時からそうだった。

 話しかけている相手はわからないが、おそらく、夢山と同じ野良B級隊員の誰かだろう。小さく振り返りロビーに目をやると、顔も知らないC級やB級隊員がうじゃうじゃといた。ランク戦を観戦したり、ソファで呑気にくっちゃべったりと、時間の過ごし方は様々なようだ。一瞥しただけでは夢山の姿を見つけることは到底できなかったが、決して会いたいわけではないし、むしろ会いたくなかった。鉢合わせる前に作戦室へ戻ろうと、踵を返して歩を進める。それとほとんど同時に、後ろから誰かに肩をぶつけられた。
 思わず、買ったばかりのペットボトルを落とす。中身が満ちたペットボトルは重たげに床へ打ち付けられると、そのまま動かなくなった。かがんで拾うと、「わ、ごめんなさい」という謝罪が背中越しに聞こえる。その声で、ぶつかった相手が夢山だったのだと、振り返るより先に気付かされた。

「あ、三輪くんだったんだ。ごめんね。飲み物、大丈夫だった?」

 夢山も俺に気付いて、見慣れた間抜け面で笑った後、今度は俺の手元のペットボトルに視線を向けた。落ち着きのない奴だ。夢山の隣には、知らないB級隊員の女子がいた。おおかた、話に夢中で周りを見ていなかったとか、そんなところだろう。「ちゃんと前を見て歩けよ」と、嫌味の一つでも言ってやりたいところだったが、話が長くなっても不快だったので、薄く開きかけた口をいったん噤んでから慎重に言葉を選び直した。

「……お前には関係ない」
「はは、相変わらずだね。あ、そういえばさっき悪魔的に美味しいチョコレート買ったんだけど食べる? 新商品だよ」
「いらない」
「あー、三輪くんクッキーの方が好きだったっけ。じゃあ今度は美味しいクッキーでも見つけておくね」

 もう行かなきゃ、バイバイと手を振って、夢山はB級隊員の女子とラウンジへ向かっていく。聞いてもないし、会話を繋げようともしていないのに、何故か毎回、夢山はくだらない話で俺の時間を奪う。昨日見たテレビの話だとか、ソロランク戦の戦績だとか、好きなアーティストの話だとか、そういった取り留めのない話だ。今日は比較的、短かったので助かった。俺は極力、夢山と話をしたくなかった。

 望んでもいないのに、夢山の声は、どんな雑踏にいても耳に届く。例え姿を探し出せなくとも、声だけは必ず捉えることができた。

 夢山の声は、死んだ姉さんに似ていた。

 姉さんは、四年前の第一次大規模侵攻で命を落とした。三門市の総人口二十八万人の内、死者数は千二百人、行方不明者は四百人に及ぶ。異世界からの侵略という正真正銘の未曾有の災害で、千二百人という死者数が果たして多いのか少ないのか、当時の俺にはよくわからなかったし、考える余裕もなかった。たった一人きりの姉が死んでしまったという事実に向き合うだけで、精一杯だった。
 ボーダーが設立されると、すぐさま入隊を希望した。両親には「秀次だけでも生き残ったのに、死に急ぐようなことをしないでくれ」と泣きながら反対されたが、俺の意思は固かった。
 ボーダーに入隊してからは、近界民を駆除するのが生き甲斐となっていった。ボーダーの活動が、生活のすべてに成り変わった。朝から晩まで、近界民を根絶やしにすることばかり考えていた。近界民をこの手で原型も留めないほどにぐちゃぐちゃに壊すと、ほんの一瞬は気が紛れたが、またすぐに消えることのない憎しみに苛まれる。いつからか、近界民を殺すことでしか、生きる気力を保てなくなっていた。姉さんが殺される前には、人並みに好きなものや趣味があったはずだが、今となってはそれがなんだったのかも忘れてしまった。ありふれた日常の中で喜びを感じ、心を動かされ、人生を楽しむといった、平和を享受できる運の良い人間だけに許された感性は、四年前のあの日に死んでしまっていた。
 姉さんはもう二度と笑うことができないのに、姉さんがいないのに、俺だけがのうのうと生きていられるはずなかった。そうしたいとも思わなかった。姉さんは、助けてくれと無様に叫ぶだけだった無能な俺の腕の中で、重く、硬く、冷たくなっていった。あの死の感触が消えることは、一生ないだろう。
 夢山を知ったのは、今からほんの一年前のことだ。本部のラウンジで米屋と出水がくだらない話をするのを、話半分に聞いていた。椅子が床を擦る音、食器がぶつかる音、ボールペンが紙の上を走る音、小銭が落ちる音、隊員の話し声、いろんな音が重なり合い何の意味も持たない雑音になっていく中で、どこからともなく、聞こえてきた。夢山の声だけが、まるで意味のあるもののように、はっきりと聞こえてきた。馬鹿みたいな話だが、一瞬、姉さんが帰ってきたのかと、本気で思った。
 勢いよく席を立つと、戸惑う米屋や出水を無視して、無我夢中で声の主を探した。そうして角の席でC級隊員の女子と食事をしていた夢山の後ろ姿を見つけて、思い切り肩を掴み、その顔を覗き込んだ。
 夢山はミートソースパスタを食べていて、唇の端を赤茶色に染めていた。俺にいきなり掴まれたものだから、驚いたように丸い目を見開いていた。口の中のパスタを十分に咀嚼してからいっぺんに飲み込むと、能天気な面でへらりと笑い「えーと、どちら様で?」と戯けた調子で言った。
 俺は、ひどく落胆してしまった。声の主が姉さんじゃなかったことはもちろん、仕草も顔も、全く姉さんに似ていなかった。姉さんは、唇をソースで汚さなかったし、淑やかに笑う人だった。極め付けは、声こそ似ているものの、喋り方は全く似ていなかった。姉さんは鈴を転がすような声で歌うように喋ったが、夢山はお調子者のように喋ることが多かった。
 その出来事から夢山は俺を見かけると、へらへらと笑いながら「三輪くん」と声をかけてくるようになった。友好的な態度を示す夢山とは対照的に、俺は苛立ちを覚えるようになっていった。姉さんと同じ声で、姉さんと違う話し方をする。姉さんと同じ声で、姉さんが知らなそうなことを話す。姉さんと同じ声で、姉さんと違う呼び方で、俺を呼ぶ。夢山の声をずっと聞いていたいと思うのと同時に、姉さんはもういないのだと思い知らされるようで、頭がおかしくなりそうだった。夢山といるのは、苦しかった。


 今日は朝から気が立っていた。その上、学校からボーダー本部へ向かう途中で忌々しい雨に降られてしまい、最悪の気分だった。小雨だったらよかったのだが、次第に勢いは強くなっていくので、十五分だけ雨が弱まるのを待とうと決めて、すぐ傍にあった公園の東屋に避難した。学ランを滑る水滴を払いながら、空から降り頻る雨を睨み上げて舌打ちをした。よりにもよって、何故こんな日に。

 今日は、姉さんの誕生日だった。

 かつて家族にとって特別だったこの日は、四年前からは別の意味を帯びるようになってしまった。母さんはこの日が近づくと、体調を崩すようになっていた。父さんは毎晩、姉さんの幼少期のビデオテープを慣れない酒を飲みながら、一人でこっそり見る。俺も、なるべく本部でソロランク戦をしたり防衛任務を代わってもらうなどして気を紛らわしていた。
 もう二度と誕生日を迎えることができない姉さんの歳を、自分が追い越していくのが、耐えられなかった。姉さんが、過去の人間になっていくみたいで。
 雨は嫌いだ。あの日を嫌でも思い出す。何も、今日降らなくてもいいじゃないか。

「三輪くん?」

 地面に激しく叩きつけられる雨音の中から、まっすぐ俺を呼ぶ声がした。なんであんたが、こんなところにいるんだ。今日は、とことん運が悪い。

「どうしたの? 傘ないの?」

 声の主である夢山は、白地に赤のギンガムチェック柄の折り畳み傘を差して、東屋の前に立っていた。セーラー服を着ているので、学校の帰りだとわかる。

「本部に行くなら、私の傘に入っていきなよ」
「……いい」

 夢山と肩を並べるつもりはなかった。夢山といると頭がおかしくなりそうだし、今日の俺は気が立っていた。例え嫌いな雨に打たれることになっても、夢山と長時間いるよりはマシだと思った。それなのに、お節介な夢山は引こうとしなかった。それを俺は、図々しいと感じた。

「遠慮しなくていいよ。この雨、しばらく止みそうにないからさ」
「……」
「あ、そういえば、すっごく美味しいクッキー見つけたんだ。この先のコンビニに置いてあるから、本部行く前に寄って買って行っていい?」
「……うるさい」
「三輪くんサクランボは好きかな? コンビニとは思えないクオリティのドレンチェリークッキーでね、生地もただのクッキーとは違って」
「うるさいな! いいって言っているだろ!」

 力任せに怒鳴った声は、俺と夢山の間だけで低く響いた。
 あの日、俺の周りには死体がごろごろと転がっていて、その中の一人が姉さんだった。あの場にいて、俺だけが死に損なった。死体の中には、屋内から慌てて逃げてきたのだろう、裸足や下着に近しい格好の人もあった。四年という月日の中で、三門市は徐々に復興していった。新しい家や店が経ち並び、警戒地区に取り残された死体も遺族のもとへ返され、埋葬された。人々が前に進もうとする中で、俺だけがまだ、衰えることのない憎しみを抱えている。時々、姉さんのことを夢に見て、それがただの夢だと気付くと、殺意は衰えるどころか増すばかりだった。
 俺は、姉さんの思い出と、近界民を殺すことだけを考えて生きていたい。そうしないといけないのだ。あの日の俺を、俺が許せない。何より、姉さんが浮かばれない。
 それなのに、ここのところ俺の夢には、夢山が登場することが多くなっていた。最初は姉さんだった人が、いつの間にか夢山にすり替わるのだ。夢の中の俺はもう、姉さんの声と夢山の声の区別がつかなくなっていた。そしてそれは、現実の俺も同じかもしれなかった。夢山の声が聞こえるたび、ありえない期待に心臓が跳ねるのを感じている。俺は、ひどく恐ろしい気持ちになった。思い出の中でしか生きられない姉さんが、俺の中ですら、消えてしまうのではないかと。

 姉さんのことを、忘れたくない。絶対に。だから、夢山。頼むから、もうこれ以上、俺の中に入ってこないでくれ。

 突然怒鳴られた夢山は、初めて出逢った時と同じように目を丸く見開いていた。お喋りだった口は次第に歪な形になり、何かを言いかけようと口を上下させたが、結局何も言わずに閉じた。右手で持っていた傘を両手で持つと、ゆっくり俯いてしまった。
 そんな露骨な態度に、ますます苛立った。ベンチに置いていた荷物をひったくるようにして掴み、東屋を出る。夢山の隣を横切ると、慌てた様子で腕を掴まれた。

「ちょっと、濡れちゃうよ」
「うるさい、俺に構うなよ!」
「でも……」
「でもじゃない! うざいんだよ、お前!」

 夢山の手を振り解くように腕を強く払うと、偶然、傘の中棒を思い切り叩いてしまった。傘は重力に従って、地面に落ちた。
 公園のぬかるんだ土で汚れていく傘を見て漸く我に返る頃、夢山が消え入りそうに呟いた。

「わたし……三輪くんに、なにかしたかな?」

 今にも泣き出しそうな声だった。普段の夢山からは想像もできないほど寂しげなその声に、バツが悪くなる。元はと言えば、土足で踏み込んできた夢山のせいなのに、と俺は声には出さずに言い訳をした。降り注ぐ雨が、ひどく冷たい。
 雨の隙間から夢山を盗み見ると、泣いていた。否、泣いているように見えた。大粒の雨が夢山の額や髪や睫毛に落ち、それが頬を伝っていく。その中に涙が混じっているかもしれなかったが、真偽の程はわからなかった。
 ただ、いつも煩くて、間抜け面で、調子が良くて、能天気な夢山が、静かに俯いていた。こんな時、喚き散らしたり、顔を歪ませて泣いたりしないのは意外だなと、頭の隅で思った。

「三輪くんが私のこと嫌いでも、私は三輪くんのこと、好きだよ」

 夢山の声は、どんな雑踏の中でも耳に届く。ほとんど独り言みたいな、雨音よりも小さな声を、しっかりと聞いた。
 夢山はゆっくりと顔を上げて、静かに俺を見た。悲しそうでもあり、微笑んでいるようにも見えた。その初めて見る、なんとも形容し難い表情に、心臓が大きく跳ねるのを感じた。

「傘、使ってくれていいから。私、行くね」

 しばらくすると、見慣れた間抜け面でぎこちなく笑った夢山は、足早に公園を去って行った。夢山がいなくなると、雨の音が強くなった気がした。

 俺は、四年前からずっと正気じゃなくなっていて。近界民を殺すことでしか、生を感じることができなくて。人が、当たり前に感じる喜びも、感動も、楽しさも、全て忘れてしまって。死んでいく姉さんを、ただ抱えることしかできなくて。姉さんを見殺しにした世界で、二度と姉さんが笑えない世界で、人間らしく生きる価値も、意味も、資格もないと思った。
 そんな死に損ないの俺を、夢山は好きだと言った。

 髪や学ラン、スニーカーが水を吸って重くなってきた頃。夢山の傘を拾って頭上に差すと、俺の上だけ雨が止んだ。夢山の趣味であろうギンガムチェックの傘は、俺には似合わなかったが、暖かい色味だと思った。

 あの日から、ずっと雨が降っている。この雨が止むことはない。
 ただ、俺の手元には、夢山の傘だけが残っていた。

(20210509)

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