齢十五にして、空閑遊真はまだ恋をしたことがなかった。それゆえ、夢子と初めて目が合った瞬間、縫い付けられたかのように彼女から視線を逸らせなくなった不思議な現象に、名前をつけることができなかった。

 日直の遊真と夢子は、誰もいなくなった教室で日誌を書いている。書いていると言っても、実際にペンを走らせるのは夢子の役目だ。遊真はそれをじっと見守っている。

 日誌は私一人で書いておくから、遊真くんは帰って大丈夫だよ。

 日本に来て日の浅い遊真は文字を連ねるのに時間がかかるし、ボーダーのB級隊員として何かと忙しいだろうと、気を使ったのは夢子だった。そうでなくても、通常ボーダー隊員は授業や行事を免除される立場にある。遊真の分も夢子が引き受けるのは、至極当然な流れだった。
 しかし遊真は「いやいや、自分の仕事はやり遂げます」と夢子の申し出を断って、今ここに残っている。同じ支部に所属する修には、先に帰ってもらった。
 年季の入った木製の学習机を挟み向かい合う二人の間には、ほとんど会話はない。
 夢子は無意識にペンを宙で遊ばせて、今日の授業を頭から一限ずつ思い返しては、枠いっぱいに文字を敷き詰めていく。他のページは白の占める割合が多いのに、夢子の書き込んでいるページは黒の密度がぐんと高かった。もうすぐ自由登校が始まり、卒業も間近、内申にも響かないという年度末にも関わらず、真剣に日誌を埋めていく夢子は真面目と呼ぶに相応しい。
 そんな夢子の様子を、遊真は静かに見つめている。何も特別なことはないというのに、ありふれた夢子の細い指を、飽きもせずただ眺めていた。それが何時間に及んでも、きっと飽きることはないのだろう。爪の形や、骨の作りが自分のそれとは異なると気付くだけで、じんわりとした気持ちになった。遊真はこれまで、人の指をまじまじと見たことなどなく、興味を抱くことさえなかった。それが、夢子の指であるというだけで、自分の指との些細な違いがひどく気になり、目が離せなかった。不思議な感覚だった。

 遊真はたびたび、夢子を前にすると、思考が鈍くなる現象に陥っていた。いつからだと聞かれれば、紛れもなく、二人が初めて会ったときからである。正確な話、初めて会ったのは遊真が転校してきた日なのだが、遊真の方が最近まで夢子の存在を認識をしていなかった。遊真の目的は日本で友達を作ることなどではなかったので、クラス名簿と睨めっこして一日も早くクラスに溶け込もうなんてことはする必要がなかった。話しかけてくれた人を、一人ずつ覚えていった。遊真が夢子を認識したのは、修と千佳とチームを組むと決めて、第二次大規模侵攻から少し落ち着いた頃。話しかけたのは、夢子の方からだった。事務的な用事だった。

「遊真くん、先生が呼んでたよ」

 控えめな声に呼ばれて振り返った遊真が、夢子を見た。夢子も、遊真を見ていた。二人の視線が初めて交わった瞬間、遊真は世界がスローモーションになっていくのを感じた。そして、夢子から目を離せなくなった。夢子を瞳に映すことに全トリオンを使ってしまったと言わんばかりに、一瞬、頭の中から言葉や音が消えた。実際はおよそ数コンマの時間だったが、遊真にはとても永く思えた。
 それは傍目にはわからないほど繊細だったので誰にも気付かれなかったが、遊真の中で確かに起こった異常だった。俗に言う目を奪われるという現象だが、遊真の辞書にその言葉は載っていなかった。その場面を目敏く捉えたおそろしく察しのいい誰かがお節介を焼いてくれたなんてことも、もちろんなかった。ゆえに、遊真はたびたび陥るこの現象の理由を、知る術がなかった。夢子がいない時は正常だったことや、どう言葉で説明すれば良いかわからなかったこともあり、大したことではないだろうと誰かに相談するようなこともしなかった。修や小南に伝わると、必要以上に心配をかける懸念もあった。レプリカがいれば何か分かったかもしれないなと、今は隣にいない相棒へ想いを馳せることが何度かあった。

「遊真くんの名前って、遊真くんらしいよね」
「らしい、とは?」

 日誌もほとんど書き終えようという頃、二人分の氏名を記入しながら夢子が言った。夢子の書いた漢字を、遊真は改めてまじまじと覗き込む。
 遊真はあまり字が上手い方でもないので、自分以外の人は大抵上手だと思っており、また字の良し悪しが分かる方ではないと自負もしている。それでも、夢子の書いてくれた自分の名前はトメ、ハネ、ハライが一画一画丁寧で、今まで見た誰の字よりも美しく見えた。なんとなく、夢子本人に似ている気がするな、と声に出さずに思った。

「遊って字には、気ままとか、何にも囚われないっていう意味があるんだよ。遊真くんって、なんか型にはまってない感じがする」
「……なるほどな」

 夢子の何気ない感想に、遊真は遠くない過去を思い出していた。頭をひねろ、想像力を働かせろ、ひとつのやり方に囚われるなと、まだ三つの遊真に言い聞かせた父のことだ。
 遊真はこの世界で言うところの近界民という存在だった。近界民の住む近界では昼と夜となく至る所で戦争が行われていて、日常だった。物心ついた頃にはすでに母はなく、父とレプリカによる三人きりの小さな世界と、死と背中合わせの戦場が彼の全てであった。
 訪れた国々で新しい出会いはあれど、それは遊真の人生をほんの一瞬すれ違うだけの縁に過ぎない。出会いと別れを繰り返し、故郷もない遊真にとって、父とレプリカの在る場所だけが帰るべき場所だった。
 しかしながら、父は死んだ。忠告を聞かず死にかけた遊真を救うために、命を注いでブラックトリガーとなり、今は遊真の命をかろうじて繋いでいる。父の命が宿るブラックトリガーを手に、遊真は限られた時間を生きている。その限られた時間があとどの程度なのか、遊真が考えることはほとんどなかった。戦場で育ったと言っても過言ではない遊真にとって、死という概念はおそろしく身近なものだった。そして何より、父の命と引き換えに生かされている身。今さら己の命を惜しいと思うには、色んなことがありすぎた。

「だからね、私、初めから『空閑くん』じゃなくて『遊真くん』って呼んでたんだ。馴れ馴れしいって思ってたらごめんね」
「なんで? 名前は呼ぶためにあるもんだろ。好きに呼べばいいよ」

 遊真の返答に夢子はふふと笑うと、日誌を出して帰ろうと言った。半透明の筆箱にペンをしまい、スクール鞄と日誌を持って立ち上がる。遊真は「結局何もできなかったな、すまん」と言いながら身長に似合わないサイズのダッフルバッグを肩にかける。夢子は「寂しくなかったから、いてくれて嬉しかった」と笑った。

 職員室は一階にある。二人は三年三組の教室から長い廊下を進み、階段を降りた。並んで歩いた時には遊真の方が小さかったが、夢子が先に階段を一段だけ下ると、ほぼ同じ高さになった。遊真の身体はトリオン体になってから成長することはなく、十五歳の平均身長を大きく下回っており、もちろんクラスでも一等小さかった。普段、遊真の目線から見ることが叶わないアングルで、夢子の後頭部が目に入る。下るたびに揺れる髪の毛を無意識に追っていると、「卒業式までに桜、咲かないかな」と呟いた夢子の声で引き戻された。

「さくら、って何?」
「あ、見たことないかな? 日本で春に咲く花だよ。すごく綺麗なんだ」
「ほう」

 踊り場に着くと、夢子は窓を開けた。あまり開けられることがないのか、サッシは軋んだ音を立てる。外に見える木を指差して、あそこがピンク色に染まるんだよと夢子が説明するのを、遊真は小さく背伸びをして聞く。けれども桜を見たことのない遊真は、目の前にないものをイメージすることができなかった。

「大体、三月の後半から四月の前半くらいに咲くんだよ。一週間くらいで散っちゃうんだけど」
「ほうほう、それはそれは。儚いですな」
「うん。だから綺麗なんだよね」
「ふむ、よくわからん」

 儚いものが綺麗という価値観が、遊真にはよく理解できなかった。無数の命が、それこそ儚く消えていった。その血生臭い事実を、綺麗だと思うことはなかった。
 夢子はうーんと唸り、言葉を選び直す。

「儚いから、咲いている一瞬が大切でかけがえのないものだって、心が感じるってことじゃないかな」

 春に向かってわずかな暖かさを含みはじめた風が、柔らかく吹き抜けた。夢子の髪がほんの一瞬舞ったのを見て、いつもの思考が鈍くなる現象に陥ると、遊真はほとんど無意識に「なるほど」と呟いた。

「桜、一緒に見れるといいね」
「……たぶん、無理だと思う」
「なんで?」
「ボーダーでやることがあるから。その頃、ここにはいないかも」

 時期は定かではないが、近々大規模な近界への遠征が行われる。何日になるのか、何ヶ月になるのかわからない。

「そっか、ありがとう」
「……? なんで?」
「だって、ボーダーが守ってくれるから、私たち桜を見られるわけだし」

 近界への遠征は修と千佳のためでもあり、レプリカを探したいという遊真自身の目的でもあった。それは、何においても優先されるべきことだった。街を守りたいという殊勝な想いからではなかったが、それでもいいかと、夢子の横顔を眺めながら遊真はぼんやりと納得した。

「じゃあさ、今年見れなかったら、来年は一緒に見れるといいね」
「来年?」
「うん。遊真くんも三門第一でしょ? 私もなの」

 窓を閉め、再び階段を降り始める夢子を、遊真は踊り場に留まったまま見ていた。二人の距離は一歩ずつ開いていく。

  父の命が宿るブラックトリガーを手に、遊真は限られた時間を生きている。その限られた時間があとどの程度なのか、遊真が考えることはほとんどなかった。戦場で育ったと言っても過言ではない遊真にとって、死という概念はおそろしく身近なものだった。そして何より、父の命と引き換えに生かされている身である。今さら己の命を惜しいと思うには、色んなことがありすぎた。……はずだった。
 今、遊真は確かに、残された時間のことを考えている。来年という遠くない未来は、遊真にとって決して近くはない未来だ。

「遊真くん?」

 尚も踊り場に佇む遊真に、振り返った夢子が不思議そうに呼びかける。先程までは隣に立っていたのに、随分と遠くなっていた。遊真は理解する。

 すれ違うばかりの縁だった。きっと夢子も、そうなのだろう。おれにはおれの、やるべきことがあるから。親父の命を代償に得た身体で。

 だからこの約束は、夢子は、おれにとって"儚い"なんだ。

「ああ、一緒に見ような」
 
 それは紛れもなく恋だったが、未だ正しい名前をつける術を知らない空閑遊真は、柄にもなく嘘をついた。

(20210430)

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