誰にも見られずに、五秒間。メディア対策室の入り口に飾られている等身大の嵐山さん像を抱き締めることができたら好きな人と両想いになれるとかいう、創設わずか四年のボーダー本部においては歴史も実績もかなり浅そうな新米ジンクスなんかにそれでも縋ろうと思ったのは、途方もなく脈のない恋をしているからである。こんな非現実的な話を鵜呑みにしていることが知られたら、菊地原くん辺りに「馬鹿じゃないの」なんて呆れられるかもしれない。いや。菊地原くんほどハッキリ言葉に出さずとも、皆呆れるに違いない。高校も卒業間近という年齢にもなって、おまじない頼りだなんて。
 それでも、自分磨きやアプローチといった一見堅実な方法よりかは、幾分望みがあるように思えた。自分磨きをしようにも相手の好みを知らないし、なにより彼の前では大根役者並みに上手く喋れない。夜な夜な脳内で繰り広げるイメージトレーニングは完璧なのに、いざ本物に話しかけると頭が真っ白になって、気の利いたことなんていっこも言えやしないのだ。彼はコミュニケーション能力がボーダー内でもダントツに高いから、なんとか会話に仕上げてくれるけど、決して楽しくなんてないだろう。
 だから、このジンクスは絶望的な片想い中の私に舞い込んだ、たった一つの勝ち筋なのだ。共にボーダーに所属しているとはいえ、高校を卒業したら接点がグッと減るのは目に見えている。首の皮一枚で大学も同じところになれたけれど、大学なんて選択する授業が違えばすれ違うことすらないと太刀川さんに教えてもらってからは、戦々恐々の日々だった。(太刀川さんが大学に行っていないだけかもしれないが)
 このジンクスを教えてくれた小南ちゃんには、感謝しかない。どこから仕入れた情報かは定かではないが、小南ちゃんによると、このジンクスで少なくとも五十人は恋愛成就をさせているらしい。……そんなにご利益があるのなら、パワースポットとして一般開放した方がいいんじゃないか、と思う。さすがに五十人は騙されているのではと罰当たりな考えが一瞬よぎったけれど、火のないところに煙は立たないという昔の人の教えで無理矢理打ち消した。
 もちろん多くを望んだりはしていない。せめて、もう少し緊張せず、楽しくお話ができたらいいなって。そしてあわよくば、両想いになれたら、なんてね。
 もしもこのジンクスのおかげで彼との関係が進展したら、女神・小南にはどら焼きを献上しようと思う。

 時は午後十時。決行。

 私は忍び足で、メディア対策室へと向かった。このジンクスをおさらいすると「誰にも見られずに五秒間、嵐山さんの等身大像を抱き締める」だ。ポイントとなるのは、誰にも見られずに、という点である。
 ボーダーという組織は異世界からの侵略に対抗すべく、昼夜問わず稼働している。本部内には泊まり込みの隊員もいる。つまりは、人がいない時間帯が存在しないのだ。しかも、入り口に嵐山さん像が置かれるメディア対策室は、ガラス張りのため中から廊下が丸見えなのである。よって、誰にも見られずにこの任務を遂行するのは、極めて困難というわけだ。まったく、五十の先人たちはどう乗り越えたというのだろう。
 とはいえ、勝機が全くないわけではない。メディア対策室はその業務内容柄、他の部署よりも夜間の人員が圧倒的に少ない。ゆえに、タイミングさえ合えば、誰にも見られずに遂行することは可能なのである。
 案の定。メディア対策室前に辿り着くと、業務時間外扱いなのか、廊下の電気は消えて真っ暗だった。対策室の灯りはついていたものの、中に職員は一人しかいない。しかも、計ったかのように席を立って部屋を出て行くではないか。灯りはつけたままなのでトイレにでも行ったのだろうが、これはもう、神様に味方されてるとしか思えない。来るか、パワースポット界に新しい波が。
 今がチャンスとばかりに、さながら戦闘で見せる迅速かつひそやかな身のこなしで、等身大嵐山さん像に近づいた。

「神様、仏様、小南様、嵐山様……わたくしめにどうか力を」

 右手と左手をぎゅっと交互に組んで、等身大嵐山さん像に祈りのポーズを捧げた。見上げると、嵐山さんは人形であっても、笑顔が爽やかだなあなんてぼんやりとした感想を抱く。ボーダーの顔というだけあって品行方正だし、誰に対しても優しい。根っからの良い人で、考えれば考えるほどご利益がありそうだ。
 両手を伸ばして、ふわり。嵐山さん像を抱き締めた。
 どうかどうか。両想い、なんて贅沢言いません。せめて、人並みに緊張しないで、お話しできるようになりますように。

「(いち、に、さん……)」

 人が戻ってくる前にやり遂げなければいけない焦りからか、頭の中のカウントが心なしか速くなる。いかんいかん。短くてご利益が得られないより、長いほうがいいに決まってる。しっかり五秒、たっぷりと数え直して、等身大嵐山さん像からゆっくりと身を離した。

「……よし」

 やり切ったという達成感か、無意識に止めていた息をはあと吐きながら力強く頷いた。自己満足に過ぎないかもしれないけど、願掛けにはなっただろう。というか、こんな恥ずかしいことやってのけられたのだから、彼を前にしても慌てずに話せる精神力を得られた気がする。これぞプラシーボ効果。
 ふふんと、どこか得意げになりながら、さーてと帰りましょうか、なんて軽快に踵を返したその時。心臓が止まるかと思った。

「なにしてんの、夢山ちゃん」

 私の好きな人、犬飼くんがいたからである。
 パーテーションにもたれ掛かるように立っていた犬飼くんは、防衛任務帰りだろうか。暗がりの廊下に静かに溶け込む、夜みたいに真っ黒な隊服を身に纏っている。メディア対策室から漏れる灯りがうっすらと照らす彼の表情は、普段と変わらなく笑って見えるのに、どことなく力なくも見えた。
 衣擦れのわずかな音さえ響いてしまいそうな静けさの中、誰もいない廊下に二人きりという状況も相まって、少なくとも通常の三倍は緊張が増す。
 犬飼くんはゆっくりと前屈みになって、体重を両足に移した。

「あ、い、う? な、ん……?」
「今日は防衛任務だよ。さっき交代して本部に戻ってきたら、夢山ちゃんが人気のない方に行くからどうしたのかなーって思って。こっそりついてきちゃった」
「あ、そう、えっと、あの……ど、どこから?」
「だから、ここに来る前からだって」

 面白いねー、夢山ちゃん。と言いながら、犬飼くんはゆっくりと近付いてくる。確かに笑ってはいるけれど、声色は廊下の暗闇に沈んでしまいそうなほど淡々としていて、いつもの無邪気さは感じられない。やはり確実に、何かが違った。
 けれども完全にパニック状態の私は、母音を「あ」から順番に漏らしてただひたすらに狼狽するばかりだった。絶対に見られてはいけないジンクスの最中を、他の誰でもない犬飼くんに見られてしまったのだから無理もない。ジンクスは失敗したのだから、プラシーボ効果も当然無力だった。
 そうこうしている内に、犬飼くんが私の目の前でピタリと止まった。ちょっと蹴躓いたら、犬飼くんの胸に飛び込めてしまうような、そんな距離。かつてないほどの距離感に、いよいよ死ぬんじゃないかという速度で心臓が脈打ち始める。止まりかけたり、高速になったり、どうにも忙しい。犬飼くんにも聞こえてしまうのではないかと心配になっておずおずと視線を上げて盗み見ると、犬飼くんは目を細めて私の視線を捉えた。ドキリとして、ますます息が苦しくなるのに、なぜか逸らせない。
 それは、犬飼くんの目が、笑っているのに笑っていなかったからだろうか。飄々としている犬飼くんが、こんな風に感情を隠さないのは、珍しかった。それが、ちょっと怖いような。嬉しいような。犬飼くんの感情がどんな種類のものなのかは、見当もついていないのだけど。
 ゆっくりと屈んだ犬飼くんが、私の耳元に唇を寄せる。身体の半分がワッと熱くなった。

「知らなかったなぁ。夢山ちゃんが、嵐山さんのこと好きだなんて」
「……え?」

 犬飼くんは囁くように、でもハッキリと言った。
 私が、嵐山さんのことを好き、だと。

「だって、こんな時間に人目を避けて抱き付きにくるくらい好きなんでしょ?」
「あ、あう」

 犬飼くんを前にすると私はただでさえポンコツになってしまうというのに、犬飼くんの解釈も、態度も、行動も、物理的距離も、何もかもが異質のこの状況で、会話をキャッチボールするのはほとんど不可能だった。違うと言いたいのに、うまく返せない。ジンクスの話を持ち出したら、じゃあ恋愛成就したい相手は誰なのかと、結局堂々巡りになってしまう。普段は私の意を汲んでイイ感じに会話を成立させてしまう犬飼くんのセルフサイドエフェクトも、なぜか今日は発揮されない。わざと、なのだろうか。でも、何のために? やはり、真意は不明だ。

「あの、私」
「夢山ちゃんは」

 なんとか声を絞り出して、犬飼くんの言葉を否定しようとするけど、他でもない犬飼くんに遮られてしまった。いつもの犬飼くんなら、どんなに拙くても、緊張してつまんないことしか言えなくても、私の言葉を、待ってくれるのに。私が嵐山さんを好きだと犬飼くんに勘違いされるのは、絶対に絶対に、嫌なのに。

 私は、ただ犬飼くんのことが好きで、もっと話せるようになりたいな、少しでも好きになってもらいたいなと、思っていただけなのに。

 いっぱいいっぱいになってきて、目の奥がじんわりと熱くなった。瞬きをしたら何かが溢れてしまうかもしれないと思って、目に力を入れた。
 ふいに、私を見つめる犬飼くんの瞳が揺れる。
 それが合図みたいに、彼の口の端がフッと吊り上がって、途端空気が変わった。

「……夢山ちゃんは、おれのことが好きなんだと思ってた」
「え」

 ……うそ、バレてたの?

「おれの前でだけ素っ気なくなるのは好きの裏返しかと思ってたけど、嵐山さんが好きってことは嫌われてるってことなのかな?」
「ちょ、嫌いじゃないよ!むしろ……」

 顎に手を当てて、考えるような素振りを見せる犬飼くん。少しわざとらしい気もしたけれど、見過ごせない彼の独り言にも似た呟きに、ほとんど反射的に反論の声をあげた。
 嵐山さんのことを好きだと勘違いされるのももちろんだけど、犬飼くんを嫌ってるなんて思われるのは、もっと嫌だった。
 私の勢いに、犬飼くんは一瞬驚いた顔を見せたけど、みるみる目が弧を細く描いていく。へえ、と深みを感じさせる犬飼くんの相槌は、いつものように余裕を含んでいた。

「むしろ?」
「う、あ……」

 どうしたことか。続きを促そうとする彼は、すっかり私のよく知る犬飼くんだった。先程までの異質さはほとんど消え、残る異質はなおも近いこの距離ぐらいだった。

「大体もう想像つくけど、夢山ちゃんの口から聞きたいなー」
「あの、その」
「んー?」

 犬飼くんはすっかりご機嫌みたいな顔をして、私の髪を指に絡めて遊んでる。いくら他人との距離が近いと噂の犬飼くんでも、さすがにこんなスキンシップは初めてで、私は完全にキャパオーバーだった。

「まぁいいや、時間はいっぱいあるし。嵐山さんに抱きついてた理由も教えてもらわないとね」

 そう言って後ろ向きに歩を進める犬飼くんが、一歩二歩遠ざかる。助かったと思う反面、残念にも思った。

「ああ、そうだ」

 背中を向けて、二宮隊の作戦室がある方向に歩き出す犬飼が振り返る。そして、私の好きな飄々とした顔で笑った。

「ヤキモチ妬いちゃうから、ああいうことはもうやめてね」

さ、戻ろうか。と言う犬飼くんの背中を、再び激しく動悸する心臓を押さえて追いかけた。

 晴れて五十一人目のジンクス証明者となれた私は後日、小南ちゃんの元に大量のどら焼きを届けることとなったのだった。

(20210422)

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