ふーう。
 繊細な加減で息を吹き込めばみるみると、命がまあるく形作られてゆく。触れることが許されないほどに脆弱な薄膜は、光の干渉によって紫や青緑へ豊かにうつろい、透明な輪郭を見え隠れさせる。己の存在を示すように。

「しゃぼん玉かあ。また随分と懐かしいものを」

 レースカーテンがはためく。嫋やかな風を思わせる軽やかな声が、私の耳元を柔く掠めた。吹き具の先端で留まっていたしゃぼん玉はふっと宙へ零れ落ち、玉狛支部の無骨な窓を抜けて空を目指し始める。その行く末を見届けることはせず、私はちいさく振り返って声の主に視線を送った。
 他人の部屋にも関わらず、いつからか音もなく溶け込んでいた男・迅悠一はへらへら笑うと、窓辺でしゃぼん玉を吹く私のかたわらに並び立った。ノックのひとつもなしに居座っておいて、この男は全く悪びれる様子がない。いつものことなのでもはや怒る気力もないのだが、そんな私の反応を見越した上での行動だろう。類稀なサイドエフェクトに頼るまでもなく、共に過ごした経験則で。

「部屋を片付けていたら見つけたの。未開封だったから、捨てるのも忍びなくて」
「いいねえ。おれにもやらせてよ」
「だめ。そういうのはカンセツキスになるから簡単にしちゃいけないって、小南が言ってた」
「あはは。おれは歓迎なんだけどなあ」

 ケタケタと笑う迅を尻目に、吹き具の先端をしゃぼん液に浸らせ、再び息を吹き込んだ。今度は、ほんのり強めに。小さなしゃぼん玉がリズミカルに連なり、勢いよく青空へ飛び立ってゆく。光の中に遠ざかっていく一群を見送れば、一抹の感傷が、不意に心臓を撫でた。
 あれが辿る末路なんて、未来視を持っていない私にだってわかる。

「……それで、身辺整理、はもう終わった?」

 ぱちん、と。

 ひとつふたつ、揺蕩っていたしゃぼん玉が、誰に惜しまれることもなく弾けて消えた。やさしく突かれた核心は、まるで指の腹に押し潰された痣のように、仄かで鈍い痛みを伴う。後ろめたさだとか、そういう、いろんなこと。隠し通せるとは思ってもいなかったけれど、いざとなると、バツが悪い。
 おもむろに目を伏せれば、基地の足場を流れる川面が見えた。さだめに抗えなかったしゃぼん玉が行き着くであろう、冷たい墓場。藻屑にすらなれず、ただ消えるだけ。

「本気で、別れの挨拶もなしに、黙っていなくなるつもりだったんだ? ボスに口止めまでして」

 迅は、髪を撫でる冷たい風に似た声色で問いた。横目で盗み見ればその口元に薄い笑みを浮かべていたが、それが却って寂寥を滲ませている。
 飄々として見える態度は、この男に染み付いた癖のようなものだ。どれほど悲惨な未来が視えていても、それを周囲に悟らせまいとする処世術。難儀なサイドエフェクトを持つには、やさしすぎるのである。まだ起きていない未来だからといって、その可能性に、心を痛めないわけではないのに。けれども今、彼にそういった振る舞いをさせているのは他でもない私だった。

「別れを惜しんだところで、未来が分岐するわけでもないでしょう?」

 ただ、心残りが増えるだけで。

 本音を隠すための皮肉と共に、しゃぼん液を拭き具でかき混ぜる。粗雑に揺らぐ様を、投げやりに見つめる。「おれは何も、暗躍のためだけに行動しているわけじゃないよ。少なくとも、今はね」迅はあやすみたいに説いた。繊細なゆらめきを帯びた金春色の瞳が、私を追っていた。
 未来を左右しない選択に、他でもない迅がこだわっている。その事実にどんな意味が含まれているのか、わからないわけではない。どうしようもなく嬉しいけれど、嬉しいと、声にすることはなかった。だって、そんなの、虚しいだけじゃないか。だったら、初めから何もなかった方がいい。そうすれば少なくとも、失わずには済む。

「所詮、役人だからさ。帰ってこいって要請されたら、帰らないと」

 物分かりの悪いフリをして苦笑いをこぼすと、備え付けの家具しかない殺風景な部屋に虚しく響いた。五年も生活していたというのに、ここに「私」という断片はもう何ひとつ存在しない。あとは、ここを去るだけ。

「……ねえ、迅。玄界は、いいところだったよ」 

 本当に。

 ボーダーと同盟を結ぶ祖国から遣わされて五年。いろんなことを知った。星が瞬くこと。平和にも匂いがあること。街の色を変えるのは戦火ではなく季節だということ。迅悠一という、男のこと。
 そうしたいろんなものを連れて行けないのはやっぱり、さみしいから。だから、手放すのだ。とりわけ、迅への想いは。「さよなら」も「好き」も、声に乗せて届けたりせず、すべて、水底へ沈めてしまう。それがきっと、私にとって、最良の未来だ。

「……ここを好きになってもらえたなら、おれとしてもよかったよ」
「うん」

 二人の間を、寒々しい風が通り過ぎた。
 窓の外を見ると、もうしゃぼん玉はどこにも見えやしなかった。

「……ねえ、これ。やっぱり迅にあげる」

 そう言って私は、御守りのように握り締めていたしゃぼん玉セットを、迅に差し出した。
 引き出して見つけたしゃぼん玉セットは、いつだったか、林藤が気まぐれに買い与えてくれたものだった。迅や小南に習いながらしゃぼん玉を飛ばしたあの頃が、もう随分と遠い。

「いいの? 間接キス、嫌なんじゃなかった?」
「私がするわけじゃないから」
「はは。つれないなあ」

 戯けたように目尻を下げる迅が、受け取った吹き具を咥える。それから窓の外に向かって、ふ、と息を吹き込む。生を受けた小ぶりなしゃぼん玉たちが、空へと旅立つ。その行先を、目を細めて見つめる。
 
 もしも。あのしゃぼん玉が祖国まで行き着くとしたら。私と迅の未来も、別の道があったのかもしれない、なんて。
 
 そんな往生際の悪い想いが、ふつりと心の奥底で湧き立った頃。何の脈絡もなく「……ああ、そういうこと」と、迅が意味深な相槌を打った。思わず眉を顰めて彼を見上げると、迅はいつもの、見透かしたような、勿体ぶったような笑みを私に向けた。

「迅……?」
「いや、まあ。何も言うつもりがなければ、それでいいよ。口が聞けなくたって、おれはきみのこと見失うことはないから」
「……もしかして、何か視えた?」
「さあね」

 惚けた調子の迅がへらりと笑うと、窓の外で何かがちかちかと瞬いた気がした。促されるように、窓の外へ視線を送る。

 迅が吹き込んだ命。弾けずに生き残ったひとつが軽やかな風に運ばれて、どこまでも高く昇っていった。

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -