「別れよう、生駒くん」
「なんでですか!」

 なんでも何も。一週間だけって約束だったし、最初から。

 この店自慢のブレンドコーヒーを差し置いて注文したクリームソーダは、ある種の芸術品のようだった。エメラルドの海で鈍く透く、宝石のような氷。整列して踊り舞う炭酸たち。積もった雪を彷彿とさせる純白のバニラアイスと、小さいながらもその存在を主張する真っ赤なサクランボのコントラスト。一つひとつは全く異なる存在にも関わらず、何故か調和していた。
 目の前に置かれているそれをうっとり眺めていると、突然、勢いよく項垂れた生駒くんがグラス越しに映り込んできた。カメラのシャッターを切るみたいに瞬きを一つすると、クリームソーダから生駒くんへピントが切り替わる。ついさっきまで正常に掛けられていたはずのサングラスが、本来の位置よりもずっと下……彼の立派な鷲鼻の先端になんとか留まる形で乗っていた。どうやら、俯いた拍子にずり落ちてしまったらしい。
 今日の生駒くんは、本部で会う時よりもずっと装飾が多く、少しくどかった。椰子の木柄がプリントされた、爽やかなグリーンのアロハシャツ。シルバーの厳ついブレスレット。そして、青紫色のレンズのサングラス。きっと、デートだからと生駒くんなりに気合を入れてきたんだろう。そういう好意を全身全霊であらわにしてくれるところは可愛いなと思うけれど、あいにく、これは私が好むファッションではない。
 テーブルを挟み向かい合って座る生駒くんは、強い目力で真っ直ぐ私を捉えると「もう一回、チャンス貰えへんですか」とか「絶対、夢子さんのこと笑かしますんで」などと意義を申し立てる。そうして、如何に私のことを好きかという話をとくとくと始めたのだけれど、私はといえば、いつ落ちてしまってもおかしくない位置で踏ん張っているサングラスの方が気になってしまい、彼の話がちっとも頭に入ってこなかった。クリームソーダをストローでちゅうと吸うと、甘いような、苦いような、痛いような感覚が口の中で広がる。

「生駒くん」

 私への想いを語ってくれている途中だったが、名前を呼ばれると生駒くんはピタリと停止した。それを認めた私は、徐に手を伸ばす。しっかりと狙いを定めるため、生駒くんの鼻先を集中して見つめる。どこかで「ごくり」と誰かの喉が鳴った気がしたけど、すぐに意識の外で溶けて消えた。
 伸ばした人差し指の先がサングラスの蝶番に到達すると、こつんと控えめな音が鳴った。生駒くんが、ほんの少しだけ首を後ろに反らす。そのままついっと、追いかけるように人差し指を押し込んで、ずれ落ちていたサングラスを本来あるべき位置まで戻してあげる。
 小さな達成感を覚えながらゆっくり指を離して生駒くんを見やると、唇をわなわなと震わせていた。
「ごめんね、サングラスが落ちそうなのが、どうしても気になっちゃって。で、なんの話だっけ?」
 笑いながら謝ると、生駒くんは「そうやって、俺の純情を弄ばんでください……!」と涙声で言った。一体どこに弄ぶ要素があったのかは謎だったが、特にツッコむことはしなかった。
 
 二週間前、私は三年付き合った彼氏と別れた。大学に入学してすぐ付き合い始めたので、キャンパスライフにまつわる思い出には、ほとんど彼がいた。元カレは二学年先輩で、今年大学を卒業した新社会人だ。元カレが学生の頃は、私のボーダーのシフトに合わせてもらう形でうまくやっていたのだけれど、元カレも仕事を始めたことで予定を合わせるのが難しくなりすれ違ってしまった。
 生駒くんに告白されたのは、元カレと別れてから三日も経たない頃だった。中央オペレーターである私は、生駒くんとの接点なんてほとんどなく、まともに話したこともなかったが、なんでも生駒くんは一年も前から私を好きでいてくれたらしい。いわゆる一目惚れというやつだそうだ。私に恋人がいたので泣く泣く諦めていたが、破局したと聞いて居ても立っても居られず、その足で告白しに来てくれたという。確かにあの時、生駒くんの息は上がっていてひどく汗をかいていた。ちょうど、クリームソーダのグラスを水滴が伝うみたいに。
 正直な話、付き合うつもりはなかった。別れて間もないのに、恋人を作る気力などなかった。しかしながら生駒くんがどうしてもと食い下がるので、「そんなに言うなら、とりあえずお試しで」ということになったのだ。
 元カレとは三年も付き合っただけあって、感性がよく合った。相談もしていないのにその日食べたい物が一致したり、示し合わせたわけではないのにペアルックのような格好で待ち合わせに現れるなんてこともあった。一緒にいると、楽な人だった。
 一方、生駒くんとそういったミラクルが起こることは、全くなかった。例えば生駒くんはサッカーが好きだけど、私はどちらかと言えばインドア派なので、スポーツ全般に興味がなかった。好きな音楽も、ファッションも、被ることはあまりなかった。いい子だとは思うし、元カレに未練があったというわけでもなかったけど、付き合いが長かったせいかどうしても比較してしまう自分がいた。そんな気持ちで付き合おうだなんて、生駒くんに相応しくない。そういうわけで、約束の一週間をもって恋人期間を終わらせようと、今日ここに生駒くんを呼び出したというわけだ。
 
「じゃあ私、先に帰るね。ここ、支払っておくから」
「ちょお!」

 クリームソーダを飲み終えると、伝票を持って立ち上がった。生駒くんも慌てて身支度をし、「俺が払います」と追いかけてくる。

「いい、いい。大人しく先輩に奢られておきなさい」
「女の子に払わせるなんてあきません」

 レジ前で少しの押し問答があったが、最終的に別会計をするということで落ち着いた。先に会計を済ませて喫茶店を出ると、真夏の日差しの眩しさに、思わず目を細めた。コンクリートから這い上がる熱気が蒸し暑い。クーラーの効いた店内でしっかり冷やした身体に、あっという間に熱が戻ってくるのを感じた。
 
「あ」
 
 交差点の向こう。ふと、人の波間から現れた見慣れた横顔が、私の瞳に映った。でもそれはほんの一瞬で、瞬きをしたら簡単に見失ってしまった。あちらは、私に気付かなかった。私だけが気付いてしまったのだ。
 たったそれだけのことで、私はすっかり身動きが取れなくなった。ただただ茫然と、その場に立ち尽くすことしかできないでいた。蝉の音がジクジクと煩かった。
 ピントがぼやけていく視界を意味もなく眺めていると、突然、後ろから腕を掴まれた。ハッとして顔を上げると、生駒くんがいた。

「夢子さん、逃げましょう!」
「え?」 

 生駒くんは私の返事も聞かずに、手を引いて駆け出した。

 ◇

「はぁ、はぁ、生駒くん、何」

 人の行き来が激しい大通りを抜け、広い公園に辿り着く。入り口付近に設けられた噴水までよろよろと歩き、縁に腰掛けた。真夏の昼間から走ったせいで二人とも汗をかいていたし、生駒くんはやっぱりサングラスがずり下がっていた。水の冷気がありがたかった。

「まことにもうしわけない」
「いや、謝って欲しいわけではなくて」
「夢子さんの元カレさんがおったんで、つい」

 生駒くんの言葉に、息が止まった。生駒くんも同じものを見ていたのだ。私だけが気付いたのかと思っていた。

「じゃあ、見たんだね。新しい彼女といるところも」

 元カレと最後に会った日、好きな人ができたから別れてほしいと言われた。「自分とは真逆のタイプで、一緒にいると新鮮で楽しい」とも。
 私は元カレと感性が似ていたところを気に入っていたのだけれど、どうやらあちらは退屈に感じていたらしい。

「すんません」
「……ね、私って可愛い?」
「もちろんです!」
「ふふ、ありがとう」

 生駒くんの好意は、素直に嬉しかった。失いそうだった女としての自信を取り戻させてくれた。
 でも、私は傷ついていた。到底、次の恋人を作る気になんてなれなかった。

「ほんまに、夢子さんが、世界一……いや、宇宙一、可愛いです」
「……生駒くん、私」
「夢子さん!」

 突然、勢いよく名前を呼ばれたと思ったら、生駒くんが地面に片膝をついた。そして、ポケットから小さな箱を取り出して、手の中に収める。「まさか」と言っている間に、生駒くんが箱を開けた。入っていたのは、ペリドットの指輪だった。

「夢子さんが悲しいときは、俺が笑かします! 夢子さんの笑顔に惚れました。せやから、俺と結婚してください!」

 あまりの急展開に、私は開いた口が塞がらなかった。

 何故、お試しという関係でしかない女に指輪なんて買ってきているんだろうか。
 たった一週間しか付き合っていないのに。
 サイズは合っているんだろうか。

 そんなことをあれこれと考えている内に、元カレと新しい彼女のことがどうでもよくなっている自分に気付いた。
 
 元カレとは、感性が似ていた。私が悲しんでいる時は同調し、自分も悲しんでしまうような人だった。
 対照的に生駒くんは、私が悲しんでいたら笑わせてくれると言った。私たちの感性は全く似ていなくて、どうせ付き合ってもうまくいかないだろうと、勝手に決めつけていた。でも、確かに私は今、生駒くんの予想外の行動に慰められている。それは、生駒くんが私と似ていないからこそ起こることだった。
 ふと、喫茶店で頼んだクリームソーダを思い出した。グリーンの炭酸水、真っ白なバニラアイス、真っ赤なサクランボ……一つひとつの要素は全く異なるものでありながら、同じグラスに盛られると、不思議と調和していたそれを。
 私と生駒くんも、似ている必要はないのかもしれない。

「生駒くん」
「は、はい!」
「お試し期間、一ヶ月延長してあげる」
「ホンマですか!」
「うん。だから、頑張って私のこと口説いてね」

 生駒くんがいつもの真顔のまま、ガッツポーズを高らかに掲げる。その拍子に、サングラスが音を立てて落ちた。それが可笑しくて、ちょっと愛しかった。



(2021.08)
相互さんの誕生日に書いたものを再編集しました。

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