「犬飼先輩は、今日みたいな日に生まれたんでしょうね」
 おれの誕生日がつい一週間前だったなんて知る由もない夢山ちゃんが、しみじみと呟いた。本部までの道すがら偶然会ったおれたちは、流れで一緒に隊員専用通路の入口へと向かっている。彼女は銃手の後輩で、時々頼まれて稽古をつけてあげるのだけれど、それ以上でも以下でもない間柄だった。他の女子に対するみたいに「実は先週、誕生日だったんだよね」なんて軽く伝えてもよかったが、それより、彼女の言葉の意味が知りたかった。
「どうしたの? 突然」
 話の腰を折らないように、相槌を打つ。
「いいお天気だなあって」
 隣を歩く夢山ちゃんは、華奢な首をぐっと伸ばして空を見上げた。光を浴びて透き通る黒髪が、ゆったりと肩から撫で落ちていく。おれはその光景を、ひと房ずつ丁寧に視線で追ってから、彼女に倣って空を見上げた。青々と透き通る快晴に、一筋の飛行機雲がすうっと伸びている。たしかに、「澄晴」という名前を彷彿とさせる空かもしれない。
「もう、すっかり春ですね」
 言われてみれば。包み込むようなあたたかい日差しに、やさしくそよぐ心地よい風。夏や冬と比べてずっと短い、儚い春の存在を今たしかに感じる。
 空を見上げるなんて、ここしばらく忘れていた。慌ただしくて、それどころではなかった。
 一週間前のことだ。あれは、おれの誕生日の翌日だった。チームメイトである鳩原ちゃんが、近界へ渡ってしまった。それも、民間人を引き連れて。さらに悪いことに、鳩原ちゃんはトリガーを持ち出した挙句、民間人に横流しするという重大な隊務規定違反まで犯していた。
 二宮隊は幹部陣から事情聴取という名の叱責を受けた他、B級への降格、密航者の家族への事情説明を命じられた。いわゆる尻拭いである。
 先日、他の隊員たちにも鳩原ちゃんに関する表向きの除隊理由≠ェ伝達され、二宮隊はここ数日、腫れ物扱いされている。気を遣ってくれているのだろうけど、却って気疲れしてしまう。隊の雰囲気も、まだ少しぎこちない。
 時間が解決してくれることもあるだろうけど……と思いながら、空に引かれた細く真っ直ぐな白を視線でなぞる。
「残念だけど、雨が降るみたいだよ」
「え? こんな青空なのにですか? 降水確率も低かったような」
「ああいう風に飛行機雲が残っていると、天気が崩れるって言われているんだ」
 飛行機の排気ガスに含まれる水蒸気が、水滴や氷の粒になったもの……それが飛行機雲の正体だ。空気が湿っていると、飛行機雲は上空に長く留まるのである。
 少し前、ごおっと低い音を響かせていた機体はもう影も形も見えやしないのに、軌道を描く人工雲は今なお残っている。天気の崩れる兆候と言える。
 そういえば、あの日も雨が降っていた。密航者の家族を訪ねた日。妹に当たる女の子の、涙で揺れていた瞳。
 おれは、静かに目を伏せる。
「……今日、傘持ってなかったな」
「あ、じゃあ私の折り畳み傘を使ってください」
「それだと夢山ちゃんが困るでしょ?」
「私は本部に置き傘があるので平気です」
 夢山ちゃんはおれの手を取ると、半ば強引に折り畳み傘を握らせた。自分から女子にスキンシップを仕掛けることはあるけれど、こうして相手から触れられることは滅多にないため、少し驚いてしまった。彼女から下心は一切感じられないのに、無意味にどきりとしてしまう。悟られないように、へらりと笑って見せる。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「はい、ぜひぜひ」
 それから直通通路に辿り着いたおれたちは、軽い挨拶を交わして別れた。
 ◇
「本当に降ってる」
 用事を終え本部を出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。昼間とは打って変わった肌寒さに、小さく身震いする。降り注ぐ雨粒が、気温をぐっと下げているのだ。もっと早く出ればよかったと反省しながら、夢山ちゃんに借りた傘を開いた。
「あ」
 思わず声が漏れた。二人で見た空によく似た、水色の傘だったからだ。
「今日みたいな日に生まれたんでしょうね……か」
 ふと、彼女の言葉を反芻する。それから、辺りを暗く色づかせるあの日≠ニ同じ雨の中を歩き出した。コンクリートに弾かれた水滴が、スニーカーに滲む。きっと家に着く頃にはびしょ濡れになっているだろう。
 
 それでも、おれの気分は幾らか軽くなっていた。
 
 彼女に借りた、傘のおかげだろう。頭上に広がる晴れやかな水色を見上げ、目を細める。
 澄み渡る空の下で眩いていた彼女の髪が瞼の裏に蘇るたび、嫌な記憶に呑まれかけていたはずの誕生日が、誇らしく思えた。


(22.05.05)
大遅刻だけど誕生日おめでとう!

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -