菊地原の自宅からボーダー本部へ向かう途中に、子どもたちの間で有名な幽霊屋敷がある。雨垂れによって黒ずんだ外壁、家全体を呑み込んでしまいそうな鬱蒼とした草木、乾いた土が薄く撒かれた欠けた植木鉢……。大きさはこの辺りの平均的な一軒家だが、幽霊屋敷と呼ぶに相応しい不気味さはたしかにあった。
 加えて、この辺りでは珍しい洋風の外観が、異質さに拍車をかけていた。一族が何世代にも渡り住み続ける三門市では、家や土地が受け継がれていくため、築年数の古い日本的な家屋が大半を占めている。童話じみた丸い塔が組み込まれたデザイン、緑色の三角屋根、敷地をぐるりと囲む煉瓦造りの塀、アーチ窓が施されたバルコニー。それら全てが、ここでは浮いていた。
 今でこそ三門市にはそこら中に廃屋が溢れているが、その幽霊屋敷は近界民の侵攻よりもずっと前から存在している。菊地原がその屋敷の噂を初めて耳にしたのも、五年ほど前のことだった。
 ──その幽霊屋敷では、玄関の照明が無人にも関わらず不規則に点滅していて、死者の来訪を告げている。
 ──その幽霊屋敷では、夜になると塀の上に人の手が現れ、通行人をあちらの世界へ引き摺り込もうとする。
 ──その幽霊屋敷では、どこからともなく子どもの声で「助けて」と語りかけてきて、返事をすると取り憑かれてしまう。
 ──その幽霊屋敷では、開かずのカーテンの隙間から血のように真っ赤な眼球が外を覗いていて、目が合ったら最後、呪われてしまう。
 同級生が嬉々として噂する怪談話が耳に入るたび、菊地原は心の中で「幼稚だな」と毒突いていた。無人でも反応する照明は、単なる故障。塀の上の手は、風に揺れる葉。カーテンの隙間から覗く眼球は、窓際に置かれた人形。幽霊の正体なんていくらでも説明がつくというのが、彼の言い分だった。
 それに、菊地原は知っていた。あの家には幽霊などではなく、れっきとした人間が住んでいることを。実際に見たわけではないが、強化聴覚のサイドエフェクトで屋敷内の話し声を無意識に拾ってしまうことがたびたびあった。幽霊の声がどんなものかは知らないが、人間の肉声とたがわなかった。疑う余地もなく、住人のものだろう。もちろん、決まってひとり分の話し声しか聴こえないことを訝しく感じたりもしたが「こんな荒れた家に住んでいるのだから、偏屈な人物に違いない」と、それ以上深く考えることはなかった。
 ◇
 次第に寒さが増していく、十月の午後のことだった。菊地原は深夜から正午にかけて続いた長時間の防衛任務を終え、一刻も早く身体を休めようと、急いで帰路についているところだったが、ふいに足を止めた。自分以外の通行人が誰もいない道で、突然『助けて』と囁かれたからだ。部屋の中にいるような、籠った音。ちょうど、幽霊屋敷の前だった。
「今の……」
 菊地原のサイドエフェクトを以てしても微かに聴こえる程度の音量だったが、決して空耳などではなかった。彼の脳裏に、噂のひとつがよみがえる。

 ──その幽霊屋敷では、どこからともなく子どもの声で「助けて」と語りかけてきて、返事をすると取り憑かれてしまう。

 どうやら、あながちデタラメでもなかったらしい。
 菊地原は周囲に誰もいないことを確認すると、敷地内の様子を窺おうとした。塀の上から中を覗いたが、生い茂る草木に阻まれ、手掛かりを得ることができない。
 助けを求める理由として、様々な可能性が考えられる。その中でも、近界民絡みである確率は極めて低いだろう。ここは警戒区域内ではないし、門が発生すればボーダーが真っ先に感知するはずだからだ。それに、近界民が現れたにしては静かすぎる。トリオン兵らしき足音も聴こえない。
 とはいえ、全くありえない話だと言い切ることもできなかった。菊地原は近界への遠征を経験している。そこでは、思いも寄らない性能を持つトリガーがいくつも存在していた。まだまだ未知数の世界で、いつイレギュラーな事象が起こっても不思議ではないだろう。仮にボーダー関係でなかったとしても、警察へ相談する必要があるかもしれない。
 お節介は菊地原の性分ではなかったが、生真面目な風間や優等生の歌川であれば、確かめに行くだろう。ここで見過ごしたことを、後に咎められても面倒だった。
「はあ、仕方ないな……」
 しばらく悩んだ結果、菊地原は丁番の錆び付いた木製の門扉を開け、幽霊屋敷に足を踏み入れることにした。

 敷地内は、想像以上にひどいありさまだった。空車の駐車場にはいつから置かれているのかわからない、日焼けて、雨風に晒された粗大ゴミが並べられていた。庭はもう何年も人が通っていないみたいに、雑草で地面が埋め尽くされている。剪定されていない植木は、縦横無尽に成長していた。塀を飛び越える葉もあれば、無惨に折れた枝もあった。互いを押し退け合って、境目がどこかもわからないほど重なり合っている。かつては真珠のように眩かったであろう白の壁には苔がむしていた。蜘蛛の巣、虫の羽音。嫌というほどの生命力が蔓延る一方で、皮肉なことに、そのすべてが死を連想させた。通行人によって投げ込まれたのだろうか、空き缶やペットボトル、コンビニ弁当の空箱といったゴミも点々と転がっている。警戒区域の方がまだマシと思えた。
 ふと、すぐ傍から、音色が伝わってきた。
「……歌」
 それは、菊地原ですら知っている有名な童謡だったが、まったく別物のようにも感じられた。透明色に、仄暗い水底を思わせる寂寥が、一滴、二滴と、滲んでいる……そんな、この世の何者とも似つかない歌声だった。
 歌は庭に面した部屋から聴こえていた。静かに近寄ったが、手垢で薄汚れた掃き出し窓はカーテンが閉め切られていて、中の状況を確認することは敵わなかった。
 菊地原は溜息をひとつ零すと、気怠い動作で踵を返し、来た道を戻ろうとする。これ以上、調査を続行する必要がないと判断したのだ。
 ──暢気に歌えるんだから、緊急事態なんかじゃないんだろ。ガラにもなく気を回して損した。
 心の中で吐き捨てた菊地原は、ひそやかな湿り気を帯びる雑草を踏み締めて、幽霊屋敷から立ち去ろうとした。

 カシャン。

 ふいに、後方から、カーテンレールの金具が走る音がした。振り返ると開かずのカーテン≠ェ開いていた。部屋の中から、菊地原と同い年くらいの女子が、こちらを見つめていた。
 全身をブランケットに包み、片手にはテディベアを抱えている。髪はしばらく切られていないのか、腰まで届く長さだった。良く言えば個性的、悪く言えば奇妙な風貌であると言えた。菊地原が怪訝に眉を顰めると、窓越しに『誰?』と訊ねられた。籠った音。声の主だとわかる。
「……ここの家の人? キミ、さっき助けてって言わなかった?」
『……言ってない』
 少女は控えめにかぶりを振った。他に、人間の気配はなかった。菊地原は『助けて』と呟く声を、たしかにこの幽霊屋敷から聴いた。つまり、当の本人が否定しているということになる。やはり、大した理由などなかったようだ。己の行動の無意味さを突き付けられたようで、苦々しい気持ちになる。「真に受けるんじゃなかった」と不貞腐れたように口を窄め、ポケットに手を押し込んだ。出入口へ歩を進める。
 コンコン。
 またしても、背中越しに放たれた音に引き止められた。自分に向けられたものだと理解し、煩わしげに視線を送る。窓に張り付いた少女が菊地原に向かって、手を振っていた。
『また来てね』
 そう言って、花が綻ぶような微笑みをたたえていた。
 見知らぬ人間が敷地に侵入していたというのに、あまりにも危機感に欠けた反応である。能天気にしても度を越している、と菊地原は思った。背丈や顔立ちの印象よりもずっと、幼さを覚える。
 彼女の言葉を無視し、今度こそ幽霊屋敷を後にした。
 ◇
 数日が経ち、菊地原はげんなりしていた。彼女にかけられた最後の言葉が、耳をついて離れなかったのだ。噂通り、返事をしたことで取り憑かれてしまったのかもしれない。関わらなければ良かったと、何度も後悔した。
「はあ、またか……」
 風間隊での打ち合わせを終え、帰宅のために幽霊屋敷の前を通ると、あの日と同じ童謡が聴こえてきた。素通りしようとも思ったが、寸前で考えを改める。彼女のせいで悩ましい思いをしているのだから、一言くらい物申しても良いのではないか、と。
 そうして歌声に誘われた菊地原は、再び幽霊屋敷へ足を踏み入れた。

『いらっしゃい』
 昼間にも関わらず、影と静寂が濃い庭へ足を運ぶ。拳ひとつ分が開かれたカーテンの隙間で、先日の少女が置物のようにじっと体育座りをしていた。相変わらず、窓は固く閉ざされたままだ。菊地原のことを待っていたような口振りだった。
『ありがとう。約束、覚えててくれて』
 にこり、とあどけなく笑った少女は、嬉しくて仕方がないといった様子で両のカーテンを掴み、自身の胸元に引き寄せる。首から下がすっぽりと隠れて、まるで生首が浮かんでいるみたいだ。幽霊屋敷の所以を垣間見た。
「おめでたいね。約束したつもりなんてないんだけど」
『ねえ、名前はなんて言うの? 私は夢山夢子』
 ころころと話が変わる。それを不快には思わなかった。少女──夢子の話し方は、しとやかだった。
「……教えないよ。個人情報でしょ」
『こじんじょうほうって、何?』
「……キミ、何歳なの?」
『えっと、たしか……十八歳?』
 皮肉のつもりで質問したのだが、想定外にも、夢子は両手の指を一本ずつ折り曲げて、自身の年齢を確認した。その割には、自信の少ない回答だった。
『ねえ、じゃあ、なんて呼べばいい?』
 夢子は、目をまるくして窓に顔を近付ける。息遣いが、ふたりの間を隔てるガラスに霧散する。菊地原はわざとらしく、身体を後ろに倒した。
「……菊地原」
 抵抗感はあったが、しつこく訊かれるのも鬱陶しい。それに、個人情報という言葉すら知らない夢子が悪用できるとも思えなかった。
『菊地原くん。ねえ、今日はなんの花がキレイだった?』
 突飛な問いかけに、菊地原は顔をしかめた。
「花?」
『うん。今の時期なら、バラとか、ムラサキシキブかな? グロリオサもキレイだよね』
 自分の年齢すらあやふやだった夢子が、花に関してはずいぶんと博識で、前のめりだった。こんな、何もかもを放棄したような家に住んでいるくせにと、菊地原は釈然としない気持ちになる。
「勝手にキミの常識を押し付けないでよ。花なんて、毎日見るものじゃないでしょ」
『菊地原くんは、花、好きじゃないの?』
「考えたこともないね」
『そっかあ……』
 夢子はまるい片膝を抱えると、その上に頬を擦り付けた。不自然なまでに白い彼女の肌が押しつぶされ、ふっくらと強調される。ふと、作戦室での一場面が思い起こされた。菊地原は今日、夢子の肌のように白い花弁の、ひと束を見た。本部に訪れていた宇佐美が、学校で貰ったのだと言って、三上にお裾分けをしていたものだ。しかし、その花の名前を、菊地原は知らなかった。
『どうかした?』
 話すほどのことでもないので沈黙を選択したが、目敏く指摘されてしまった。しぶしぶ口を開く。
「……白い花を見たけど、花の名前までは知らないよ」
『白い花? なんだろう。プルメリアかな? それともコスモスかな? ダリアかもしれないね』
 思いがけず、夢子はたったこれだけのことで、目や口元を柔らかくした。白い花という情報ひとつから複数の名称を挙げ、連想し、楽しんでいた。その様子が、やけに鮮やかに映る。耐えきれず、菊地原は目を逸らした。
「こんなことで……安くて助かるね」
『? 花の値段のこと?』
「はあ、もういいよ」
 ◇
 それからも、窓越しの逢瀬は続いた。菊地原は、本部への行き来ついでに夢子の元へ立ち寄るようになった。たいていが二、三分と短いものだったが、夢子はたいそう喜んだ。彼女の親が仕事で家を空けている日中ということ以外、訪れる時間はまばらだったにも関わらず、夢子は必ず窓辺で菊地原を待っていた。
 今まで意識していなかったが、生活には、花という存在が根付いているものなのだと知った。駅前の花屋や、学校の花壇、道端に咲いた野草。花を見かけた日は、その特徴を伝えに行ってやった。そのたびに夢子は、カバーのへたった子ども用の花図鑑を開きながら、雑学を披露した。
 ──この花は、寒くなると葉が紅くなるんだって。
 ──この花は、ココアの匂いがするんだって。
 ──この花は、たった三日しか咲けないんだって。
 彼女の声が身体の中にゆっくりと染み込んで、一部になっていく。不思議と、心地良いと思った。
 
「しばらく来れなくなるから」
 そう夢子に告げたのは、十月の最終日。出会ってから三週間が経とうという頃合いだった。詳細な日程こそ未定だったが、年内に執り行われる遠征任務のメンバーに風間隊が選出されたのだ。A級ボーダー隊員である菊地原は、立場上、秘匿案件や特殊任務を振られやすい。近界への遠征もすでに何度か経験しており「面倒くさいな」という感想に尽きる。
 夢子は眉を八の字にして、いかにも悲しげな表情を浮かべた。元々、約束も保証も存在しない関係なのだが、事前に「会えない」と宣告されてしまうと、縋る期待もなくなってしまうものだ。
『そっか……どのくらい?』
「さあ……長期にはならないと思うけど」
『寂しいなあ』
「本当に思ってるのか怪しいよね」
『え、思ってるよ?』
「よく言うよ。窓を開けもしないくせに」
 夢子はどんなに菊地原を歓迎していても、たった一枚の隔たりを取り払うことは一度もしなかった。窓枠に手をかける素振りすら見せない。まるで親の言い付けを執拗に守る、子どものような頑なさで。初めから選択肢など存在しないみたいに。ただしそれは、決して菊地原を拒絶するためのものではなく、夢子を隔絶させるためのものではないかと、菊地原は考えていた。
 初めから、いつ訪れても、必ず家の中にいた夢子。学校には通っておらず、近所の公園やコンビニにも足を運ぶことはないという。おそらく、目の前の庭先さえも例外ではない。一歩たりとも外へ出ない、閉じ籠った生活。そのくせ、時折窓ガラスを指でなぞっては、遠くを眺める。夢子はずっと、不自由で、息苦しそうだった。
 菊地原の非難めかした言葉に対して、夢子はあの、歌声に滲ませていた寂寥を、瞳に浮かべた。それから、フローリングの木目に視線を落とすと『外は危ないから、出ちゃダメだって……お母さんが』と呟いた。手入れなどされていないだろう、長く傷んだ黒髪が、窓の向こうにいる夢子の表情を隠す幕と化する。それをのぞく術を、菊地原は持ち合わせていなかった。明確にふたりの世界を区切る、それこそ幽霊のような透明色の壁が、忌々しかった。
「危ないって、近界民のこと?」
『ねいばーって、なに?』
 思わず耳を疑う。四年前の侵攻以来、近界民を知らない三門市民に初めて会ったからだ。自らをボーダー隊員だと伝えたことはなかったが、そもそも理解できなかっただろう。
「幼稚園児でもまだ賢いよ。いつから?」
『えっと……小学校、二年生から』
 それから夢子は、自分の生い立ちをぽつりぽつりと語り始めた。要領を得ない彼女の話を聴き漏らすまいと、菊地原は横髪を耳にかけた。
 
 かつて夢子の母は、ガーデニングが趣味だった。玄関、庭、食卓……季節の花が一年中、色とりどりに咲き誇り、温かい匂いを放っていた。夢子も母の後ろについてまわり、花の世話を手伝っていたそうだ。優しい父、穏やかな母、悪戯好きの弟との、ありふれた四人家族だった。
 ある日、弟が行方不明になった。母が目を離した一瞬の出来事だったそうだ。弟は当時、たった五歳だった。手を尽くして探したが、今も見つかっていない。
 自身の不注意で我が子を失った母は、次第に正気を保てなくなっていった。せめてもうひとりの子どもは失うまいと、夢子を、家の中に閉じ込めた。母は、子どもたちを深く、愛していた。
 初めこそ抵抗したものの、夢子が一歩でも外へ出ようものなら、母は半狂乱になった。次第に別の生き物になっていく母に、恐怖を抱くようになっていった。母の愛が見えない蔦となって肢体に絡み、夢子はいつしか、扉も、窓も、開けることができなくなってしまった。それから十年、家に閉じ籠っているという。
 家主が病んでいくと、まるで心を映す鏡のように、家も傷んでいった。すっかり忘れ去られた植物は、一種の毒のように、呪いのように、土地を侵食し、蝕んでいった。
 父は家を空けることが増え、いつしか帰ってこなくなっていた。母は父の荷物を捨てた。今も、駐車場には父の家具が処分されないまま背景の一部と化している。
 母は、弟が帰ってくることを今も信じている。変わり果てたこの家を、弟が見つけられるはずもないのに。
 
『だから、菊地原くんから、外の話を教えてもらえるのが嬉しいんだ。私はもう、花を見れないから』
 
 ──あの日、見つけてくれてありがとう。
 
 夢子の元を後にした菊地原は、花屋の前を通りかかって、足を止めた。赤、白、黄、橙、紫。彩り豊かな花が大量に並べられている。夢子が見たら、大袈裟に感激するのだろう。
 あれから。彼女に打ち明けられた話が、菊地原の脳内で何度もリピートされている。
 弟を連れ去ったのは、おそらく近界民だろう。当時とは違い、現在はボーダーも組織化され、日々防衛に当たっている。本部ができてからは、三門市内における行方不明者数は減少した。それまで神隠し的な扱いをされていた近界民による被害が、未然に防がれるようになったためだ。にも関わらず、夢子の母は今なお、危険だと嘯いて娘を閉じ込めている。まるでボーダー、引いては風間隊が舐められているようで、気に入らないと思った。
 母親が働きに出る日中、夢子はひとりだった。幽霊屋敷の中で灯りもつけず、窓も開けず、姿の見えない脅威から身を隠している。背中を小さくまるめて、返事をしないテディベアと会話し、歌以外の娯楽を持たず、ひとつの本を擦り切れるまで読み、カーテンの隙間から外を羨む。誰も彼女を知らない。誰も覚えていない。幽霊と変わらない。それを自己犠牲という精神で受け入れている。
「……ムカつくね」
 ──ぼくにしか聴こえないような、透明色の声で、助けを求めていたくせに。
 音を通し、あらゆる情報を得ることができる菊地原は、相手の心音から繊細な機微を把握することもできる。初めて会った日、夢子の歌声は、孤独に濁っていた。
 
 窓ガラスに遮られ、籠りがちに伝わる、夢子の声。あの障壁がなければ、本当はどう聴こえるのだろうと、菊地原は想像を巡らせた。
 そして、ある行動に出る。
 ◇
 十一月が始まる日の午後。非番にも関わらずわざわざ夢子を訪れるのは、これが初めてだった。追い風が菊地原の背中を押し、髪を揺らす。
 コンコン。
 いつも通り庭にまわり窓を叩くと、待ち構えていたようにカーテンが開いた。夢子が顔を出す。視線が合うと、ふわりと笑った。
「これ」
 菊地原は花屋のロゴが入った縦長の袋から、中身を取り出す。窓の前に差し出すと、夢子がわあっと声を上げた。
『ダイヤモンドリリーだ』
 宇佐美が三上に渡していた花。名前がわからなかったため答え合わせをできずにいたが、花屋の店先に出されていて、やっと正体を知ることができた。
 ダイヤモンドリリーはネリネとも呼ばれ、十月から十二月の三ヶ月間のみ市場に出回る。金粉が散りばめられたような、美しい花弁が特徴的だ。
 生に執着するあまり死の色を落とす、幽霊屋敷に場違いな、儚げに眩く白。
 たった一輪をうっとりと見つめる夢子に、菊地原が囁いた。取引を持ちかけるように。
 
「キミにあげる」
 
 え、と声を漏らした夢子は頬を上気させたが、すぐに困った顔をした。窓を開けることができないのだから、受け取りようがない、ということだろう。
 夢子は菊地原の意図をはかりかねて、不安げに目を泳がせた。
『で、できない』
「あれだけ花好きを自称しておいて、ほしくないの?」
『ほしい、けど……』
「じゃあ、キミが開けてよ。この、目障りな窓」
 菊地原の声が揺れる。苛立ちか、切望か。
 夢子は顔を歪め、ごくりと、喉を上下させた。縋るようにカーテンを握ると、ゆっくりと手元を寄せる。
 カシャン。
 カーテンレールの金具がぶつかる。カーテンはぴったりと閉じられ、夢子が家という箱に閉じ籠ってしまう。
 しかし、菊地原は冷静だった。彼だけが聴き取れる。微かな息遣い。カーテンが擦れる音。彼女はまだ、そこにいる。ただ、恐れているだけなのだ。
 菊地原が、静かに言葉を零す。
 
「こんな弱そうなものだって生きてるんだから、そんな怖いものでもないんじゃない」
 
 それから、どれくらい時間が経ったのか。
 風が吹き、雲が流れ、空が光る。幽霊屋敷を覆う草木に、木漏れ日が射す。葉が透く。
 ダイヤモンドリリーの花弁が瞬いた。
  
 ……カチリ。
 
 物音だ。見ずとも、菊地原にはわかった。これは、鍵を開ける音。
 カシカシ。これは、震える夢子の指先が、窓枠の窪みを引っ掻く音。
 今、ふたりの隔たりが消えようとしている。
 ガタ。そして、窓が開く音。
 
「……菊地原、くん」
「遅すぎ。帰ろうと思ったよ」
「うん……待っててくれて、ありがとう」
 
 それは、透明色。
 混じり気のない、澄んだ水面のような声だった。

(2022.01.08)

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