隠岐孝二が中学三年生の冬。彼の家で飼われていた猫が死んだ。寿命だった。
 暗闇に溶けてしまいそうなほど黒く、柔い長毛を身に纏っていたカノジョは、彼の両親が結婚してすぐの頃に知り合いから譲り受けてきた雑種猫で、隠岐が生まれるずっと前からその家で飼われていた。
 母親が隠岐を孕った時、生まれてくる新しい家族がカノジョに受け入れられるのか、両親は懸念した。猫は環境の変化を嫌う生き物だし、ストレスにも弱いからだ。しかし、それは全くの杞憂だった。
 カノジョは、隠岐を気に入った。
 彼の実家には、赤ん坊の隠岐にぴったりと寄り添うカノジョの写真が、何枚もアルバムにまとめられている。「孝二の体温が高いから、居心地がよかったのかもしれへんな」と両親が言うのを、隠岐は何度も聞いた。
 この、カノジョとのコミュニケーションは十五年続いた。カノジョは縁側やベッドに寝転んでぼんやりしている隠岐を見つけては、彼の胸の上や脇の隙間に小さく収まって、昼寝に興じようとする。隠岐は決まって、その様子を一頻り見守ってから、カノジョの顎や眉間を指のはらで撫でてやった。それから、身じろぎをしないように努め、カノジョの規則正しい寝息に耳をすませた。そうしている内に、大抵、まどろみの中に意識が落ちていくのだ。温かい重みの感覚だけが、最後まで残っていた。
 二人はまるで面倒見の良い姉と頼りない弟のような、時間を共有するだけで楽しめる親友のような、言葉を介さずとも通じ合える恋人のような、そんな関係だった。
 隠岐の人生には、いつもカノジョがいた。だからこそ、隠岐はカノジョが死んだという事実とどう折り合いをつけるべきか、決めあぐねていた。
 ボーダーからスカウトをされたのは、そんなタイミングだった。
 ◇
「あかん、迷子になってしもたわ」 
 隠岐が単身、大阪から三門市へ越してきて数日が経っていた。今日は三門市立第一高等学校の入学式で初登校だったのだが、通学中に野良猫と目が合ったのがマズかった。猫は隠岐に向かって一鳴きすると、尻尾を揺らして脇道へ入っていった。誘われるようにふらっと後を追い、気が付いたら住宅街に迷い込んでいた。辺りを見渡せば似たような外観の家が連なっていて、代わり映えしない景色が続いていた。適当に歩けば歩くほど、元の通学路から遠ざかっていくようだった。
 隠岐は「参った」とでもいうように頭を掻いた。三門市は約三年前、近界民による大規模侵攻に見舞われた。今でこそ警戒区域が設けられているが、ボーダー本部が建てられる以前は至る所で門が出現していた。未だに復興が追いついていない三門市では、警戒区域外でも、ちょっとした損壊で通行禁止になっていたり、改修された場所が点々と存在する。アプリの地図は、あまり当てにならなかった。
 時刻を確認すると、入学式まで残り十分程度しかない。「初日から遅刻はあかんなあ」と暢気に思っていると、曲がり角から突然、人影が飛び出してきた。
「おっと」
 隠岐が反射的に声を漏らすと、まるでそれに応えるかのように、相手も振り向いた。
 目が、合った。
 人影は女子だった。隠岐と同じ、三門市立第一高等学校の制服を身に纏っている。一度も染めたことがないのだろう艶やかな黒髪が印象的で、隠岐は思わず目を奪われた。

 驚いた。カノジョが、会いに来たのかと思った。

 何故か、死んだ猫と見間違えた。
 隠岐は僅かばかり目を見開いたが、無意識に口の端に力を入れた。口角がきゅっと上がり、意図せず微笑んでいるみたいになった。
 女子生徒はすぐに目を逸らし、そのまま歩き続けようとする。隠岐は慌てて声を掛けた。
「すんません」
 彼女が足を止めて、再び隠岐を見た。
「……はい?」
 高く、可愛らしい声だった。
「おれ、市立第一の新入生なんすけど、土地勘あらへんから迷ってしまって。同じ高校ですよね? ついてってもええですか?」
「……」
 女子生徒は表情を変えずに隠岐を一瞥した後、スカートを翻して歩き始めた。隠岐はそれを、了承と捉えた。「おおきに」と軽く礼を言って、後をついて行く。
「何年生ですか?」
「……二年」
「先輩っすね。これからよろしくお願いします」
「……」
「今日は入学式なのに、上級生も登校せなあかんのですね。大変やなあ」
「……」
 女子生徒は見ず知らずの男を警戒している様子で、必要最低限の返答をする時以外は無視をしていた。隠岐もそのことには気付いていたが、話すのを止めはしなかった。
 彼女は訝しんでいるだけで、不快に思っているわけではない。むしろ黙ることで不安を助長させてしまうだろうと、感じていた。
 女子生徒の相槌がなくても成り立つ話題や言い回しを、隠岐は感覚的に選んだ。そして、野良猫でも手懐けるような声色で語り掛け続けた。
「……めっちゃ入り組んでますね」
 二人は、細い裏道や野草だらけの空き地、斜めになった階段、時には道とも言えない隙間を進んでいた。いつまで経っても、正規の通学路に出る気配がない。
「……靴でも汚れた?」
 素っ気ない言い方だった。隠岐は緩く笑ってみせた。
「いやー、ネコになった気分でオモロイですわ」
「……」
 女子生徒は、隠岐をおもむろに見つめてきた。まるで何かを見極めようとしているみたいだった。
 隠岐は真っ直ぐ注がれる視線にも動じず、相変わらず笑みを浮かべていた。ただ、彼女の答えを促すように、首を傾げるポーズをして見つめ返した。
 しばらくすると、女子生徒がゆっくり口を開いた。
「……秘密の、近道なの」
 初めて彼女から話を切り出してくれたことで隠岐は内心浮かれたが、必要以上に表には出さず、会話を続けた。
「秘密なのに、おれに教えてよかったんですか?」
「うん、内緒にしてね」
 住宅街の裏に面する溝川に架けられた、頼りない木の板を渡ってさらに少し歩くと、高校の裏門に辿り着いた。入学式の三分前だった。
 女子生徒の案内で、隠岐は体育館へと向かう。
 本来はクラスごと教室でホームルームを行ってから、廊下で整列し入場をするので、厳密には既に遅刻だったのだが「しれっと紛れ込めばバレないよ」と女子生徒が言うので、そうすることにした。
 体育館の前では、パリッとした新品の制服に身を包んだ新入生たちが列をなしていた。隠岐は自分のクラスメイトがわからなかったので、適当に混ざることにした。
 女子生徒に礼を言って、群衆の中に飛び込もうとする。ふと、足を止めて振り返った。
「そういえば、名前はなんて言うんですか?」
 隠岐が尋ねると、女子生徒はゆっくり瞬きをした。
「私? 夢山夢子だよ。よろしくね」
 女子生徒、もとい夢子は、この時ようやく笑みを見せた。
 ◇
「隠岐くん、また来てるの?」
「夢子先輩、おはようさーん」
 多種多様な野草が無造作に生い茂る中にしゃがみ込んで野良猫と戯れていると、隠岐の頭上から声が降ってきた。視線を向けると、夢子が真後ろに立って見下ろしていた。
 隠岐はあれからも、秘密の近道を使って通学していた。入学式の日、夢子に連れられて通り抜けた空き地が猫の溜まり場であることを知ったからだ。こうして登下校中に、偶然夢子と顔を合わせることがよくあった。
 同時期に入隊した一学年上の水上に「おまえ、いつ登校しとるん?」と尋ねられたことがあったが、夢子に「内緒」と言われていたので、適当に濁しておいた。水上も、隠岐に答える気がないことを察し、さして興味もなかったので、それ以上踏み込んでくることはしなかった。
 夢子は隠岐の隣に屈み、腹を見せている猫を撫でた。猫は草むらに背中を擦り付け、右へ左へ身体をくねらせている。うっとりとして、気持ちよさそうだ。まだ肌寒さが残っていた四月に比べ、五月の陽気はだいぶ麗かで、日向ぼっこに最適な日と言える。
 二人の間に会話はなかったが、流れる空気は穏やかで心地良いものだった。隠岐にとって夢子といる時間は、飼い猫とのそれに近かった。
 空き地には、赤花夕化粧の花が咲き始めていた。赤花夕化粧は五月から九月にかけて、全国各地で見ることができるアカバナ科の多年草だ。二、三十センチほどの茎の先に小さな薄紅色の花をつける。夕方から夜に開花することが名前の由来だが、近年は午前中に開き、夕方に閉じてしまうこともあるらしい。実際、この空き地でもそうだった。現在、七時五十分。登校前という朝の時間帯を、四枚の花弁が可憐に彩っている。
 この野草のことを、隠岐は夢子に教えてもらった。「この花、なんていうんやろなあ」と何気なく呟いた言葉を、夢子が予想外に拾ってくれた。軽い雑談のつもりが、明確な答えが返ってきたので、隠岐は感心してしまった。同時に、思いがけず会話が広がるのは楽しかった。
 そのように夢子を博識と思うこともあれば、驚くほど世間に疎いと感じることもあった。例えば、夢子はメッセンジャーアプリを使っておらず、アプリ名すら知らなかった。高校生といえば友人との交流に躍起になる年頃のはずだが、夢子曰く、必要性を感じないのだという。 
 群れを作らず、マイペースで掴みどころのない夢子を、隠岐は猫のようだと思っていた。

「隠岐くんって本当、猫が好きだよね」
 猫と戯れる夢子の姿を眺めていたら、話しかけられた。
「んー、実家で飼ってたもんで」
「そうなんだ。どんな子なの?」
 隠岐は、遠くを見るように目を細めた。そして、カノジョの姿を、丁寧に瞳の中に描いた。
「……先輩みたいな、綺麗な黒い毛並みの女の子でしたよ」
 聞かれたことにだけ答えたつもりだったが、「でした」という過去系の表現が引っ掛かったらしい。夢子は耳聡く「その子は今も元気なの?」と尋ねてきた。
 隠岐はこの話を、家族以外とするのは初めてだったので、少しだけ緊張した。
「半年くらい前に」
「……そう」
 最後まで言わずとも、夢子が理解してくれたのはありがたかった。隠岐は今も、カノジョの最期を思うと、心臓が鉛のようになる。
 猫は死に際を見せないというが、カノジョもそうだった。家猫の平均寿命は十五年程度と言われている。カノジョは十七歳で、見た目にはわかりにくいが老体だった。昔は軽快に上り下りしていた階段も、いつからか一段ずつしか進めなくなっていた。
 去年の冬は例年に比べ、冷え込みが厳しかった。カノジョの元気がなかったので獣医へ連れて行くと「病気ではないので、できることはない」と言われてしまった。カノジョの死期が近いことを知った隠岐は、できる限り傍にいてやった。膝の上に乗せてやると、カノジョは喉をゴロゴロと鳴らしていた。
 その日、隠岐が学校から帰宅すると、カノジョの姿がどこにもなかった。家中を捜した。日も暮れてきた頃、縁の下で冷たくなっているカノジョをようやく見つけた。そこは影が深く、黒猫のカノジョはまるで暗闇の中で溶けてしまったかのように同化していて、目を凝らさなければ姿を捉えることは困難だった。
 なにも、こんな寂しい所で……。
 隠岐は喪失感と無力感が、今も拭えずにいた。
「……寂しいね」
 夢子が、自分に言い聞かせるように、ぼそりと呟いた。その台詞は、やけに隠岐の耳に響いた。静かに視線を向けると、夢子の伏目がちな横顔から、言い知れぬ危うさを感じた。
 隠岐ははたと気付き、取り繕うように苦笑する。三門市は、死という話題にあまりにも近く、敏感だ。
「あー、すんません」
「何が?」
「三門市の方が、大変だったやないですか」
「……?」
 気を遣ったつもりだったのだが、夢子は不思議そうな顔で隠岐を見つめて、言った。
 
「大事な相手を失ったのは隠岐くんもでしょ? どっちの方が、なんて、あるわけないよ」

 迷いのない夢子の声が、言葉が、隠岐の中にじんわりと広がっていった。当たり障りのない会話は得意なはずなのに、思い付く語句はどれも相応しくない気がして、声にできなかった。ただひたすら、どこか寂しげに艶めく夢子の瞳から目が離せなかった。
 
 カノジョのことを誰にも話したことがなかったのは、たかがペットのことで、と言われたくなかったからだ。隠岐にとって、カノジョは唯一の理解者だった。
 物心がついた頃から他者の気持ちに聡かった隠岐は、相手の喜ぶ言葉を選び取ったり、場の空気を和ませる立ち居振る舞いを、自然と身に付けた。反対に、自分の本心は適当な言葉で濁すのが癖になっていった。
 そうして一歩引いている内に、曖昧な距離にいることが多くなっていた。隠岐が心の内を隠すことで、周囲が見えない壁を感じていたからだった。誰からも好かれる代わりに、誰かの特別になることもなかった。
 隠岐の自己肯定感が高くないのもそのせいだ。寄せられる賛辞にしつこく謙遜したり、予防線のような言い訳を並べる光景が、よく見られる。本気を見せようと、本音を伝えようとする度に、失望されるかもしれないと心に影が差した。
 言語というツールを持たずとも、姉弟のような、親友のような、恋人のような関係でいられる存在を失った隠岐は、心細かった。この先、誰かに理解されることはないかもしれないとすら考えていたのだ。

「夢子先輩、おおきに」

 隠岐が曝け出さずとも、そっと寄り添ってくれる夢子は、やはり死んでしまったカノジョに似ていた。
 ◇
 梅雨入りをした六月の金曜日。今日は朝から空が陰っていた。天気予報によると、夜から雨が降るらしい。
 学校を終えた隠岐と夢子は、いつものように空き地に集っていた。夢子はどこで調達してきたのかわからない、くすんだ色の擦り切れた紐を片手に、猫と遊んでいる。隠岐はその隣で、「めっちゃ跳ぶやん」「素早いなあ」など、長閑なコメントをしていた。
 最近は、登下校中にこの場所で落ち合うのが共通の習慣になっている。時間に余裕がある朝や予定のない放課後は、相手が来るまで空き地で待つ。しばらく時間を潰して、会えなければ適当に帰るというアバウトなものだった。二人の間で約束が交わされていたわけではなかったが、どちらからともなく、そうするようになっていた。ひとえに、隠岐にとって、夢子との時間が特別になっていたからに他ならない。
 しがしながら、この日の夢子はずっと、心ここに在らずといった様子だった。隠岐は「元気ないやん」と声を掛けたが、そんなことないと否定されてしまったので、それ以上は詮索しなかった。極力、無難な話題を振った。
 しばらくすると、夢子が辿々しく切り出した。
「……ねえ」
「んー?」
「今日、聞いたんだけど……」
「なんやろ?」
「……隠岐くんが、ボーダー隊員って、本当?」
 まるで雨が降る直前の空のように、静かに、且つ慎重に、しかし重々しく、夢子は言葉を零した。紐を揺らす手はおざなりになっている。
 隠岐は物々しい雰囲気を感じていたが、あくまで普段通りに相槌を打った。
「一昨日、B級に上がりました」
 五月に正式入隊したばかりだった隠岐は、スカウト組として初期ポイントをかなり高く与えられていた。成績も良かったので、すぐに昇格した。
 夢子は悩ましげに目を細めると、隠岐から顔を背ける。何かを思案するように俯き、口の中でぶつぶつと呟いていた。
「そうだよね。関西弁だし、土地勘ないし。転校生だってことはわかってたし、三門市にわざわざ転校してくるなんて、ボーダー関係者くらい……」
「夢子先輩?」
「……あの、私、隠岐くんに……きゃっ!」
 突然上がった悲鳴に驚いて、隠岐は反射的に視線を巡らせた。どうやら、紐で遊んでいた猫が、勢い余って夢子の手を引っ掻いたらしい。彼女は痛みを隠すように、引っ掻かれた箇所をもう片方の手で覆い被せていた。
「大丈夫ですか」
 傷の状態を確認しようとした隠岐が、手を伸ばした。夢子の指先に触れた。その時だった。

 彼女の肩が微かに、けれども確かに揺れた。
 隠岐はそれを、見逃さなかった。

 その僅かな仕草に込められた意味を即座に汲み取ると、まるで何も気付いていない素振りで、腕を引っ込めた。
 極めて柔らかい語調で「保健室に寄った方がええですね」と言う隠岐を、夢子は罪悪感や哀愁といった幾つもの感情が無数に入り混じる、一言では形容し難い瞳で見つめていた。
「……優しいね、隠岐くん」
「いやいや、普通っすわ」
「……気付かないフリしてくれて、ありがと」
 今にも消え入りそうな声だった。哀しげに眉を下げ、口元だけで微笑む夢子は、儚げだった。
 突然、何とも言えない不安が隠岐を襲う。
「ねえ、さっき言いかけた話、していい? 隠岐くんに、お願いがあるんだ」
「……夢子先輩がお願いなんて、初めてやなあ」
 隠岐はあくまで、いつもの調子を崩さないように意識した。
 夢子は二、三度、口を薄く開いた後、意を決したように言った。
 
「警戒区域に入りたいの。一緒に来てくれる?」
 
 二人の足元に咲く赤花夕化粧の花弁は、もうすっかり閉じていた。
 ◇
 感覚的にはまだ金曜日だが、時計の針は既に十二時を回っていた。予報通り、外は雨が降っている。隠岐はビニール傘を片手に、夢子との待ち合わせ場所まで徒歩で向かっていた。時間帯のせいか、車とも人ともすれ違うことがない。雨音だけがひどく響いていた。
 コンクリートで跳ね返る水滴が、スニーカーの爪先やジャージの裾を濡らす。汚れてもいいように黒いアイテムを選んだのは正解だった。
 透明の傘地に雨粒が弾ける様子を眺めながら、隠岐は今日の出来事を回想していた。
 手が触れた瞬間の、夢子の反応。おそらく彼女は触れられることを怖がっている。そして、そのことを知られたくないとも思っているみたいだった。
 理由はわからないが、それも今日の「お願い」が関係しているのではないかと、隠岐は直感していた。
 
「隠岐くん、こんばんは」
 待ち合わせ場所に着くと、すでに夢子が待っていた。膝丈のワンピースに、ショート丈の長靴という装いだ。偶然、彼女も全身黒だったので、意図せずペアルックみたいになってしまった。制服姿以外の夢子を見たのは初めてだったので、新鮮な気持ちだった。
「こんばんは」
「じゃあ、行こうか。こっちだよ」
「夢子先輩の家、初めてっすわ」
「そりゃね。私だって三年ぶりだよ」
 夢子のお願いは、警戒区域に放棄された自宅に行くことだった。夢子は三年前に被災しており、一度も帰宅していないのだという。取る物も取り敢えず避難したので、大事な物も家に置いてきてしまったそうだ。
 正直、このお願いを引き受けるつもりなどなかった。隠岐はB級に上がったばかりで、実戦経験がない。ましてや、隠れてチャンスを伺うスナイパーは、単体で戦うことにあまり向かない。いざ戦闘になった時、夢子に怪我をさせない保障がなかった。のらりくらりと躱すつもりだったのだが、夢子がどうしても引かず、結局断りきれなかった。それに、彼女に頼まれて、隠岐に跳ね除けられるはずもなかった。
 警戒区域は有刺鉄線で囲まれ、立ち入り禁止の看板が等間隔で掲げられている。境界線付近は不良の溜まり場になることも度々あるそうで、鉄線が巻き付けられている木の柵は、無残にも壊されていた。向こう側に見える、廃墟となった住宅街は、どこか異様だった。損壊している家もあれば無事な家もあって、それが返って不気味さを醸し出している。
 夢子は躊躇うことなく、有刺鉄線が弛んでいる場所から警戒区域に入っていった。その後ろを隠岐もついて行く。しばらく歩くと、一軒家の前で夢子が足を止めた。表札には「夢山」と彫られている。
「よかった、あんまり壊れてない」
 夢子は自宅を見上げながら、安堵したように呟いた。外観を見る限り、窓が割れていたり、屋根や壁が一部崩れていたりはするものの、ほとんど原型を留めた状態だった。
 夢子は鍵の掛かっていない玄関から、中に入って行く。靴を脱ごうとしていたので、隠岐が「破片が危ないですよ」と注意すると、夢子は素直に靴のまま上がった。雨を滴らせた靴底が、くっきりとした二人分の足跡をつける。
「私の部屋、二階なの」
 まさか、こんな形で部屋に上がることになるとは思わなかった。隠岐は、階段を登っていく夢子を、複雑な気持ちで見上げた。
 夢子の部屋はベッド、学習机、それから小さな本棚と、ハンガーラックが壁に沿って並べられていた。
 三年前から時が止まっているこの部屋では、過去の夢子を垣間見ることができる。例えば、夢子は普段、持ち物には無地で落ち着いた色味のものを選ぶが、この部屋はピンクがメインとして使われている。学習机のデスクマットは有名な猫のキャラクターだった。時が経って、好みが変わったのだろう。
 被害としては、出窓が割れていて、壁の一角は人ひとりが通れそうな大穴が開いている。ガラスや瓦礫、本、小物なんかが部屋中に散乱していたが、探し物ができないというほどではなかった。
 夢子は、机の引き出しを隈なく覗いたり、床を隠す本の山を退かして、何かを一心不乱に探し始めた。隠岐が「手伝いましょうか?」と声を掛けたが、返事はなかった。
「あ……あった」
 しばらくすると、夢子の声が静かな部屋に響いた。床に這いつくばって、ベッドの下に腕を伸ばし、目当てのものを掴み取った。
「携帯ですか?」
「……うん、三年前、使っていたの」
 部屋に散らばる瓦礫が直撃したのだろうか、中の部品が目視できる程度には潰れていた。復元は期待できそうにない。
 携帯を見つめる夢子は、隠岐に背中を向けながらフローリングに座り込んで、その場から動かなくなった。
 隠岐はその光景が何故か、死に際も見せずに暗い場所で冷たくなったカノジョと重なって見えた。夢子も、カノジョのようにふっと死んでしまうのではないかと、そんな不安が脳裏を過った。
「連絡取りたい相手でもいたんですか?」
「……彼氏」
「え?」
「彼氏。三年前、死んだの」
 夢子は俯きながら、割れた携帯を優しく撫でていた。それから、低い声で話し始めた。
「ずっと会ってないから、彼の顔を忘れそうで、怖いの。でも、彼の写真、この携帯にしか入ってなかったから。だから、取りに来たかったの」
 表情は見えなかったが、途中から、声が震えていた。隠岐は夢子の隣に行き、片膝をつく。
 それに気付いた夢子が、顔を上げて、真っ直ぐ隠岐を見つめた。罪悪感や哀愁が入り混じった瞳が、縋り付いてきた。
「このまま、彼のことを忘れて、他の人を好きになるのが、怖い」
 瞬きをした夢子の目から、涙が零れ落ちた。彼女は、喪服のようなワンピースの裾を握りしめた。
「私が他に好きな人を作ったら、彼、悲しむでしょ?」
 萎れた花のようにぐったりと項垂れる夢子は、生きたまま散ってしまいそうに脆く、儚かった。
 
 隠岐はずっと、群れを作らず、他者に固執しない彼女を、猫みたいに思っていた。しかしながら、それは誤りだったと気付いた。本当の彼女は、寂しがり屋で、繊細で、二度と大切な人を失いたくないと怯えている、弱い人間なのだ。そして、今も亡くなった恋人を想っている。
 夢子が触れられることを恐れていたのは、これ以上、隠岐に心を持っていかれたくなかったからだった。本当は寂しさで壊れしまいそうなのに、亡くなった恋人のために、長い人生を一人で生きようとしている。
 隠岐は虚ろな目で、夢子の黒髪を眺めていた。
 これまでの隠岐は、周囲に合わせるばかりだった。相手の望む言葉を差し出す代わりに、本気を見せたり、本音を伝えることを避けてきた。失望や拒絶をされたくなかったからだ。
 しかし、今、彼女は隠岐自身の言葉を求めている。夢子は、隠岐の手を待っているのだ。
 それを理解した隠岐は、心を決めた。

「……ええよ。夢子先輩の一番になれへんでも」
「隠岐くん……」
「ただ、隣に居れるだけで」
 
 そんで、夢子先輩が死ぬ時、おれの前から消えなければ、それでええよ。
 
 夢子の涙を、隠岐の指が拭う。夢子は身を委ねるように、静かに目を瞑った。
 隠岐は手のひらを滑らせて、夢子の頬を撫でる。
 それから、夢子の身体を柔く抱き締めた。夢子は、やはり抵抗せず、受け入れた。
「……隠岐くんって、温かいんだね」
「はは、よう言われる」
 いつか言われた言葉を聞きながら、隠岐は遠い日々に想いを馳せた。
 カノジョを瞼の裏に描きながら、夢子が夜闇に溶けてしまわないよう、腕に力を込めた。雨は、いつの間にか止んでいた。
 
 じき朝が来る。赤花夕化粧の花弁が、開こうとしていた。

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