閉店も間際だというのに、引き戸のガラスから漏れ出る灯りに誘われるように、私はかげうらの暖簾をくぐった。
 食事時には、鉄板の音や客の話し声で賑わいを見せる店内もすっかりがらんとしていて、ちょうど最後の客が会計をしているところだった。入店したにも関わらず、私は店員も呼ばずに、扉の前でただ立っていた。
 支払いを終えた客が、訝しげな視線を送りながら、私の横をすり抜けて店を出て行った時、レジを打っていた店員……影浦雅人と目が合った。
 どうやら、今日の雅人は防衛任務がなく、店の手伝いをしていたらしい。かげうらは、彼の両親と兄が経営するお好み焼き屋だ。次男坊である雅人自身も、後片付けや簡単な接客に駆り出されることが、時々あった。
 雅人は私の顔を見るなり「遅ーよ、今日はもう店仕舞いだ」と突っぱねたが、たまたま厨房から出てきた彼の母親が「いいよ、食べていきな」と、気前良く招き入れてくれた。私はかげうらが梅宮橋に移転してきてからの常連で、店の主人である雅人の両親とも見知った仲だった。
 雅人はチッと舌打ちすると、暖簾と電飾看板を下げに外へと出て行った。私はその背中をじっと見つめていたが、雅人の母に「好きなところに座りな」と促されたため、視線を店内へ外した。一番近い席を選んだが、座った途端に身体が鉛のように重くなる感覚に襲われ、疲れていたことを自覚した。
 メニューも見ずにぼおっとしていると、閉店準備を終えた雅人が近づいてきて、「おい、注文は?」と面倒くさそうに尋ねてきた。
 私は、ゆっくりと雅人を見上げた。そして、一呼吸置いてから「いつもの」と、笑って答える。その瞬間、雅人が眉を顰めたのがわかった。かと言って何か言葉をかけるわけでもなく、厨房へと消えていった。
 再度現れた雅人は、両手にボウルを持っていた。一つは、薄力粉、水、山芋、出汁、生卵、キャベツ、天かす、紅生姜、青ネギといった基本的な材料に加え、豚ばら肉、チーズ、餅のトッピングが盛り付けられているもの。これは、私が頼んだ“いつもの”餅チーズ豚玉だ。もう一つのボウルには、豚ばら肉、イカ、エビがトッピングされていた。雅人が私の向かいに、どかっと座る。
「焼いてくれるの? 雅人、優しいー」
「俺も食うんだよ」
 ぶっきらぼうに吐き捨てた雅人は、まず餅チーズ豚玉を手に取った。油を引いた鉄板を熱している間に、材料を豪快且つ丁寧に混ぜていく。頃合いを見て生地を半分だけ流し込むと、焼き上げる鉄板の音が、私たちの間に響いた。
 私は、ヘラで生地の形を整える雅人を眺めていた。手元ではなく、動くたびに揺れる無造作な髪や伏せられた睫毛を。しばらくすると、雅人は鉄板に視線を落としたまま「それ、やめろ」と言った。私は、内心どきりとした。
「それって何?」
「辛気臭ーもん刺すなっつってんだよ」
 雅人は、一口サイズに切られた餅を生地の上へ並べると、その上にもう半分の生地を重ねた。
 この「刺す」という言葉を、雅人はよく使う。時々かげうらで見かける、ボーダー隊員らしい男の子たちの会話から、何か意味のある言葉だということはわかっていた。ただ、私はボーダーとは一切関わりのない平凡な会社員のため、明確な答えを知れる立場ではなかった。文脈的に、他人の視線や気持ちを感じるのが人より上手いのだろうと、勝手に解釈していた。
 私は雅人から、お好み焼きに視線を移した。生地の上に、二枚の豚ばら肉が真っ直ぐ並べられる。
「……実は、彼氏にプロポーズされまして」
「あ?」
 雅人が顔を上げたのが気配でわかったが、お好み焼きを見る私とはもちろん目は合わなかった。
 私は小さく息を吸うと、しっかりと口角を上げて笑顔を作った。
「断っちゃった。で、別れた。今日、私の誕生日だったのに」
「あ? 誕生日かよ。早く言えよ」
「え、なに? 雅人、伝えてたら祝ってくれたの? 優しいー」
 楽しげな私の態度とは裏腹に、雅人はくっと片眉を吊り上げて、苛立った表情を見せた。そして、ぴしゃりと言った。
「……その空元気みてぇな、うぜーテンションもやめろ」
 鋭利で、有無を言わせない、断定的な指摘だった。私の口角はみるみる下がってしまって、笑顔を保てなくなっていた。図星だったのだ。
 雅人が器用にお好み焼きをひっくり返すと、鉄板から不規則に昇る薄い白煙が、私たちの間を遮った。
 
 恋人のことは、確かに好きだった。少し頼りないところもあったが、穏やかで、他人を気遣える、優しい人だった。私は特別、結婚願望が強いタイプではなかったが、こんな人と結婚したら幸せになれるのだろうと思うことが何度かあった。
 確かに好きだった。しかし、この一年半も同じ気持ちで愛せていたかどうか、正直わからない。警戒区域の拡大に伴い、かげうらが近所に移転してきたことで、私は雅人と出逢ってしまった。
 出逢ってから今日に至るまで、私たちは店員と常連客という関係でしかない。特筆するような出来事が二人の間にあったわけでもない。
 ただ、初めて会った時からずっと、何故か雅人から目が離せなかった。粗暴な口調や仕草の中に優しさが隠れていることに気付いてからは、それがより顕著になった。
 雅人への想いには、わざと名前を付けなかった。雅人はまだ高校生だ。悪い冗談、気の迷いだと、何度も呪文のように唱え続けた。反対に、恋人の好きなところを、毎日探した。しかしながら、そうやって理性的に恋人を愛そうとすればするほど、ブレーキをかけるべき雅人への想いが、ひどく本能的だということを思い知らされていった。
 そんな私の葛藤に、恋人が気付くことはなかった。私は、本音を隠すのが上手かった。そしてそれは、後ろめたかった。
 恋人からのプロポーズに、とっさに思案したのは「どうやって断ろう」ということだった。それこそが、自分の正直な気持ちに他ならなかった。同時に、この一年半の努力は無駄な足掻きに過ぎなかったのだと悟り、絶望した。あれほど優しい恋人を身勝手な想いで傷つけたという罪悪感も相まって、心身共に疲弊してしまった。
 恋人と別れたからといって、雅人とどうにかなりたいとは思っていなかった。慰められたかったわけでもない。そもそも、傷つけた側の私に、そんな資格などない。
 ただ、今日はどうしても、雅人に会いたかった。それだけだった。気付いたら、かげうらの暖簾をくぐっていた。
 
 しばらく互いに押し黙っていると、鉄板の音も次第に静かになっていく。どことなく気まずい空気が流れていたが、焼き加減を確認していた雅人が不意に呟いた。
「オメーは、甘えんのが下手だな」
「え?」
「ムカつくんだよ。笑いたくないなら、笑うんじゃねー」
「雅人……」
「面倒くせーから、もうぐだぐだ考えるのはやめろ」
 二人の間を遮っていた白煙は、いつの間にか消えていた。
「俺はとっくに、覚悟決めてんだよ」
 核心的な言葉があったわけではなかった。しかしながら、雅人の発する一音一音は確実に、私の中に落ちて溶けていった。
 
 自分の弱い部分を曝け出すのが苦手だった。他人に気を遣わせてしまうのが心苦しくて、いつの間にか隠してしまう癖がついていた。それが例え、家族や、恋人相手であっても。暗い想い、悲しい想いは押し殺して、蓋をしてしまう。これまで、私が隠してしまった気持ちを見つける人はいなかった。それを息苦しいと思う自分も確かにいた。
 そんな中で唯一、雅人だけは誤魔化せなかった。だからと言って、気持ちの全部を無闇に暴くようなことはしない。優しさで重荷を背負わせることもない。ただ彼の意思を伝える短い言葉をくれるだけだ。
 気付かれたくないのに、気付いてほしい。助けてほしいのに、助けてと言えない。そんな私にとって、影浦雅人は居心地が良い。
 
 雅人も私も、それ以上言うことはなかった。しばらくすると、雅人は「焼けたぞ」と言いながら、お好み焼きにソースを塗り始める。
「……雅人、マヨネーズで誕生日おめでとうって書いて」
「うぜぇ」
 そのような憎まれ口を叩きながらも、雅人はお好み焼きの上に細い文字を連ねていった。あまり字が上手い方ではないが、マヨネーズの扱いは慣れたものだったので、お好み焼きの上という条件としてはなかなかのものが出来上がった。
「ありがとう。これが雅人からの誕生日プレゼントってことで」
「……こんなもんじゃなくて、もっと他にあんだろ」
「ううん。今はこれでいいの」
 私がお好み焼きの写真を撮り終えるのを待って、雅人が四等分にヘラで切り分ける。その内の一切れが小皿に乗せられて、目の前に置かれた。ありがとうとお礼を言って、箸で小さく切ってから口へ運ぶ。
「美味しいね、雅人」
「……黙って食え」
 
 この想いに名前を付けるのは、もう少し先でいい。今はただ、二人で食べるお好み焼きが美味しいとわかるだけで充分だった。


(2021.8.14)
フォロワーさんのお誕生日のお祝いとして書きました。

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