「それは悪手だね」

 白のルークで荒々しく敵陣を駆け、黒のポーンを獲ってやったと悦に浸るも束の間。どこからともなく現れた黒のナイトに白のルークが倒されて、マスも駒も奪われてしまった。どう考えても、ただの兵士であるポーンより、戦車のルークを獲られる方が戦力的ダメージは大きい。
 王子くんにチェスを習い始めてかれこれ一ヶ月も経つというのに、相変わらずナイトの一足飛びな動きは見落としてしまう。前後左右二マス先の、さらに左右という変則的な位置へ斬り込むことができるナイトは、駒の移動可能範囲がまだ頭に入っていない私にとって鬼門である。

「私の大事なルークちゃんが……」
「目先の誘いに乗らないで、もっと盤面全体を見ないといけないね」

 わかりやすく項垂れる私を見てくすくす笑う王子くんは、優雅な仕草で紅茶を一口飲む。私も思い出したように、白磁のティーカップを手に取ってみた。花綱を形作る器の凹凸は、シンプルなティーカップを上品に飾っている。なんでも、有名でお高いブランドのものらしい。ブランド名を羽矢さんに教えてもらったのだけれど、カタカナが多かったのですっかり忘れてしまった。日本史を専攻する私には、海外の名称は少しばかり難しい。チェスの駒の名前を覚えるのにだって、一週間もかかったのだ。そんな教え甲斐のない無礼者にも、王子くんは毎回、大切なティーカップを惜しげなく使ってくれている。

「大丈夫。毒なんて入ってないよ」

 しげしげとティーカップを見つめるばかりで一向に飲もうとしない私に、王子くんが微笑みながら言う。これは、王子くん流のジョークである。彼は時々こうやって、遊びのある発言をしれっと繰り出す時があった。それが私にはどうにもツボで、いとも簡単にケラケラと笑ってしまう。「吹き出しちゃうから、飲む前に笑わせないで!」と抗議した後、テンションを落ち着かせてからティーカップに口をつけた。

「んー、美味しい」

 王子くんが淹れる紅茶は、高級ホテルのアフタヌーンティーに匹敵するレベルだと思う。味音痴とまでは言わないが、あまり違いのわかる方ではないと自負している私でも、初めて飲んだ時にはその美味しさに衝撃が走った。

「さぁ、チェスに戻ろうか。カモミールの番だよ。いくらでも時間をかけていいから、じっくり考えるといい」

 芝居がかったように、目の前で王子くんの右手がしなやかに舞った。この、王子くんの言う「カモミール」とは、他でもない私のことだ。理由はわからない。

 一ヶ月前、ランク戦のポイントが伸び悩んでいた私は、王子くんに弟子入り志願をした。度々、猪突猛進とか脳筋と周囲から揶揄される程度には戦術面がお粗末なので、王子くんに教えを乞おうと思ったのだ。王子くんは「戦術を学ぶにはチェスがいいよ」と言い、こうして王子隊の作戦室に私を招いては、盤上で稽古をつけてくれる。私をカモミールという不可解なあだ名で呼び始めたのも、その時からだった。
 他人にあだ名をつけることが習性と言っても過言ではない王子くんだけど、あだ名の付け方には彼なりの整然としたルールが存在する。例えば、玉狛第二の三雲修くんはオッサム。風間隊の三上歌歩ちゃんはみかみか。東隊の小荒井登くんはコアラと、その人の苗字や名前をもじるのである。初出であったとしてもかろうじて通じるため、ランク戦の解説で唐突に披露されても、皆なんとなく受け入れてしまう。現に、穂刈くんの「ポカリ」呼びなんかは、ボーダー隊員内に広く浸透していた。
 そんな王子式命名ロジックに、私の「カモミール」はちっとも当てはまらない。苗字、名前どちらも似ても似つかないのだ。そのため、王子くんの呼びかけに対し、自分のことだと認識できるまでに実に三日を要した。
 一度、王子くんに由来を聞いたことがあるのだけれど「折角だし、当ててごらんよ」とはぐらかされて教えてはもらえなかった。私の決して多くはない知識量では、正直カモミールティーくらいしか思いつかない。王子くんは紅茶が好きなのであながち間違いではないと思うけど、だからと言って私自身に結びつく何かを見つけることができないまま、今日に至る。

「王子くんって、なんでそんなにチェスが強いの?」

 盤面と睨めっこをしながら、ふと浮かんだ疑問を投げかけた。ただの、なんてことのない雑談のつもりだった。

「昔、賭けチェスをしてた頃があったんだ」
「賭けチェス?」
「うん、内緒だよ」

 王子くんは白手袋に包まれた人差し指を口元に立て、妖しく笑った。その表情に、思わずどきりとしてしまう。なぜだか途端に居心地が悪くなって、無意識に目を泳がせた。

「あー……でも、なんか納得かも。王子くんって、穏やかそうに見えるけど、蔵内くんみたいな品行方正さとはちょっと違うっていうか」

 王子くんはその爽やかな顔立ちや悠然とした立ち居振る舞いからどうしても優等生に見られがちだけど、実際はとてもマイペースな性格だ。あだ名がいい例で、遊び心があると言えば良いだろうか。つまるところ、彼は面白いことが好きなのである。

「さすがだね、カモミール。ぼくのこと、よくわかっているじゃないか」

 王子くんは褒めるのが上手い。まだ一度も勝てないチェスを投げ出さずに続けることができているのは、ひとえに王子くんのおかげだった。私はついつい、調子に乗ってしまう。

「まあね。頭は良くないけど、人を見る目はあるつもり。野生の勘って言うのかな。それ一つで、B級にまで上がってきたわけだし」
「なるほどね」

 王子くんは楽しそうに、やんわり笑う。私もなんだか嬉しくなって、つい、思いつきで駒を動かした。

「カモミール。それだとぼくがこうやって動かしたら……」
「ああっ!」
「ね? チェックになっちゃうだろ?」

 チェックとは、あと一手でチェックメイトになってしまう状況のことだ。
 先ほど、もっと盤面全体を見ろと言われたばかりなのに、どうしても身に着かない。数手先を読むことは、実際の戦闘においても勝機を左右するというのに。王子くんに褒められて気が緩んでしまったとは言え、いくらなんでも愚かすぎる。鶏だって、忘れるのは三歩歩いてからだ。私は一歩だって歩いていない。
 王子くんは、顎に手を添えて考えるような素振りを見せた後、うーんとわざとらしく唸った。

「なかなか視野が広がらないね」
「うう、面目ない」
「危機感が足りないのかな?」

 王子くんは、やはりどこか芝居がかったように呟くと、口の端を吊り上げて笑った。
 その表情に、私はなぜか手汗をかいてしまう。頭の中で、警報が鳴った気がした。

「そうだ、賭けチェスをしよう」

 王子くんが、高らかに提案した。

「か、賭けチェス?」
「そう。でも賭けるのはお金じゃないよ。カモミールにとって、一番大切なものがいい。その方が、必死になれるだろ?」
「一番大切なもの? うーん、なんだろう」
「そうだね。例えば……」
 
 例えば、そう、唇とかね。
 
「く、唇?」
「カモミール、キスしたことある?」
「な、ないけど……」
「じゃあ、ぴったりじゃないか」

 一瞬、聞き間違いかと思ったけれど、どうやら私の耳は正常だったらしい。私の戸惑いをよそに、王子くんは軽快に会話を繋いでいく。あまりのテンポの良さに圧倒されている内に、話はどんどん進んでいってしまった。

 このままでは、まずい。

 頭の中の警報がどんどん大きくなっていくのを感じながら、どうにか逃げ道を探そうと、必死に視線を作戦室内に巡らせた。テーブルに置かれたティーカップが目に入った時、羽矢さんの顔が浮かんで、閃いた。そうだ、羽矢さんだ!

「あ、あの、でも、もうすぐ他の隊員のみんなが……」
「こないよ」
「え?」

 渾身の口実は、言い終わらない内に一蹴されてしまった。普段は楽しげに弾む王子くんのリズミカルな声が、その一瞬、確かに鋭さを帯びていた。

「今日は防衛任務もないし、みんな学校の用事で本部にも寄れないらしいんだ。ほら、クラウチやカシオは生徒会長だろう? 何かと忙しいんだ」
「な、るほ、ど……?」
「だから、きみとぼくがキスしていても、誰にも見られることはないよ。安心した?」
「え? あ、はい」
「それじゃあ、このチェックの状態から抜け出してごらん。教えたよね? チェックになってしまった時どうしたらいいか」

 あまりに淀みなく論じられるので、口を挟むタイミングを見失ったまま、話題をチェスへと戻されてしまった。
 まるで王子くんの誘導で、どんどん逃げ道を塞がれていくような、そんな感覚だった。

「勝てばいいんだよ」

 猪突猛進だとか脳筋と揶揄される、いわゆる単細胞な私は、ふいに呟かれた王子くんの一言に「それもそうだ」と素直に納得してしまった。
 目の前に置かれたチェス盤に鎮座する白のキング。そして、その周辺を囲む黒の駒へと、順番に視線を送る。王子くんに教えられた、チェックを回避する方法は三つ。他の駒を割り込ませるか、相手の駒を取りに行って攻撃を潰すか、とにかく逃げるか、だ。

「えーと……あ、わかった! この黒のルークを取っちゃえば」
「お見事! さすがぼくの弟子だね、カモミール」
「えへへ、それほどでも」
「でも、残念だったね」
「……え?」

 王子くんが、黒のナイトを手に取った。そして、白のキングをこつんと転ばせてると「チェックメイトだよ」と言った。
 白のキングを狙っていたのは黒のルークだけではなかったのだ。黒のルークは囮に過ぎなかった。

「えっ、なんで!」
「ルークに気付いたのは成長だったけど、やっぱりナイトの動きには弱いね。どっちの攻撃も回避できる一手があったんだけど、惜しかったかな」
「そ、そんな……」
「賭けはぼくの勝ちだね」

 射抜くような一言に、ぎくりと身体が強張った。王子くんがゆっくり立ち上がると、背凭れの高い、これまた高級そうな椅子が、ぎいと低い音を立てる。私は密かに、冷や汗をかいた。

 こつん。こつん。

 靴が床を鳴らす音が、二人きりの作戦室に響く。王子くんが隣に立った。私はどうしたらいいかわからず、ただ必死に俯いていた。
 王子くんはチェス盤の横に手をつくと、ゆっくり腰を屈めて、椅子に腰掛ける私の耳元に唇を寄せた。ずっと下を向いていたけど、王子くんが近づいてくる気配を肌で感じる。そして、いつも朗らかな声を誰に秘密にするわけでもなくひそめて、こう言った。

「逃げるなら今だよ」
 
 チェックを回避する方法は、三つ。他の駒を割り込ませるか、相手の駒を取りに行って攻撃を潰すか、とにかく逃げるかだ。
 今日は他の隊員が割り込んできてくれることはないと言うし、賭けチェスに勝って話を潰すこともできなかった。ゆえに、私に残された手立ては、物理的に逃げることだけだった。
 
 逃げる? 私が?
 
 瞬間、勢い良く立ち上がって王子くんの胸ぐらを掴んでいた。そのままぐっと引き寄せると、王子くんの唇に自分のそれを重ね合わせた。実際は、唇がぶつかったという表現の方が正しかったかも知れなかったが、紛れもなくキスだった。
 顔を離すと、さすがの王子くんも驚いたように目をぱちくりさせていた。唇に白手袋越しの指を這わせると、顔を逸らしてくつくつと喉を鳴らし、肩を震わせる。次第に震えは大きくなっていき、最終的には声を出して大笑いし始めた。

「カモミール、さすが! まさか、ぼくの方が奪われるなんて」
「だ、だって、逃げるのは性に合わないし」
「あはは、うん、そうだね」

 カモミールの、そういうところ、好きだなあ。
 王子くんがやっぱり笑いながら、さらりと言ってのけた。
 あまりにも自然に言うものだから、やはり聞き間違いなのかと思った。

「やっぱりカモミールって名前に、相応しいよね」
「名前?」
「うん。カモミールの花言葉は『逆境で生まれる力』なんだ。どんな状況でも諦めない、攻めに転じる、きみの戦い方みたいだろう?」

 猪突猛進だとか脳筋と揶揄される程度には、戦術面がお粗末で。野生の勘一つでがむしゃらに戦ってきた。王子くんからしたら、愚かな戦い方に違いないのだろうと、勝手に卑下していた。だから、まさかそんな風に思ってもらっていたなんて思いもしなかったから、嬉しかった。今までの自分を、肯定してもらえたようで。
 目を細めて微笑む王子くんは、まるで絵本の中に登場する王子様みたいに眩しくて、単純な私の心臓は容易く高鳴ってしまった。

「っていうのが建前で」
「え?」

 感動から一転。一気に現実に引き戻される。
 え、なに? 嘘ってこと?
 緩急のついた会話運びに翻弄され、完全に百面相をしている私を見て、王子くんはやっぱり楽しそうに笑っていた。

「ずっとどうやってアプローチしようか作戦を立ててたんだけど」
「え?」
「きみから弟子入り志願してきてくれて、思っちゃったんだよね」



 鴨がネギ背負ってやってきたって。



(20210702)

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