初めて人を殴った。平手ではなく拳で。平手では生温いと思ったのだ。

「俺は夢子の、そういう自分に素直なところは好きだけど……」

 隣に立つ准は独り言のように呟きながら、流れ行く無数の車を視線で追っている。拳が真っ赤に腫れてしまい、痛みで指を曲げることもできなくなった私を病院に連れて行くためタクシーを拾おうとしているのだが、あいにく空車が通らない。
 この幼馴染の説教じみた言葉の続きを促すことはせずに、私はただ唇を噛んだ。拳よりも違うところがずっと痛かった。
 いつだって正しい答えを選び抜ける准の強さ、そして健全さを尊敬しているからこそ、こういった時にはひどく突き刺さる。正論は、正論であるがゆえに、時に耳障りなのだ。誰に指摘されずとも、殴った私が悪いということは、私が一番わかっていた。大学生にもなって自分の感情もコントロールできない、どうしようもない暴力女を、准はどう思っただろう。呆れられたかもしれない。嫌われたかもしれない。正しい人に、好きな人に、嫌われるのは怖い。
 准はいつだってみんなの嵐山准だった。誰にでも親切で、誰の言葉にも等しく耳を傾ける。そういうところが好きなのに、今は、そういうところが悲しい。無条件に私の味方をしてほしかった。こんな時くらい、私だけの准でいてほしかった。
 一方で、そんなの私の好きな准ではない、という思いもあった。心のどこかでは、私を安易に特別扱いするような男でなくて良かったと安堵する自分がいた。
 矛盾した考えが矢継ぎ早に湧いてくるのは、痛みと怒りと罪悪感で頭がよく働いていないからなのかもしれない。自分の感情すら、今どこにあるのかがわからない。

「痛むのか?」

 目の奥が熱くなって、瞬きをしたらぽろっと涙が零れてしまった。准に気付かれないうちに拭おうと、袖で目を擦っていたら、普通に気付かれてしまった。准は拳が痛んで泣いてると思っているらしかった。
 准がポケットからハンカチを取り出して、私に差し出してくる。化粧で汚れるからいらないと断ったけど、洗えばいいよと言うので、おずおずと受け取った。

「俺は夢子の、自分に素直なところは好きだけど……」

 准が改めて、先ほどの言葉を繰り返す。

「もう、人を殴るのはやめような」
「……はい」

 まるで子供が怒られるような内容で同い年から嗜められ、情けなさからとても弱々しい返事になってしまった。
 私は、准が私に対してどんな評価を下しているのだろうかと、そんなことばかり考えていた。
 准は思ったことは意外とハッキリ言うし、だからと言って悪感情を引きずるなんてことはしない。あまねく人に平等で優しく、常に相手の立場になって寄り添える。そんな神様みたいな人なのだ。
 そんな准が、この一件で私を嫌うことはおそらくないだろう……。わかっている。わかってはいるのだけれど、好きな人が自分に抱く気持ちには自信が持てないというのが、世の常だ。どうしても、最悪の未来ばかりを想像してしまう。
 涙は止まるどころか、次々溢れてしまった。

「夢子」

 ふと、准が私を呼んだ。導かれるように顔を上げると、准がなんとも言えない表情でこっちを見ていた。悲しそうな、笑っているような。
 准の表情の意図を図りかねていると、腫れ上がった私の右手を、准が恭しく手に取った。そうしてゆっくりと、准の顔の前に持っていかれる。
 准は、静かな瞳で私の指を見つめた。

「俺のために夢子の手が、こんなに腫れるのは、とても悲しいよ」

 私が殴った男は、ボーダーの、とりわけ准の悪口を声高に言っていた。大学の食堂で、不特定多数の人間が聞き耳を立てる場所で、ありもしないことを吹聴していたのだ。
 世間を揺るがすような規模のニュースがあった時、なぜか陰謀論を唱えたり、根拠もないデマを信じて批判を超えた中傷を繰り返す人間が一定数いる。
 男もその手の人間だったようで、ボーダーがスポンサーからの利益を着服するために近界民と手を組んでいるだとか、特にメディアに露出している隊員は甘い汁を啜っているだとか、ありもしないことをのたまっていた。
 もちろん、最初から殴るつもりだったわけじゃない。何を信じるかはその人の勝手だし、私が口を挟めることでもない。しかしながら、あまりにも聞くに堪えない下世話な内容だったので、気付いた時には男の前に立って「ボリュームを落とすか、人のいないところでやってくれませんか」と物申していた。普段は決してこんなことはしないのだが、先日あった第二次侵攻の傷が未だ癒えていない人も多い中で、黙っていられなかった。
 男は突然、見ず知らずの女に注意されたことにひどく憤った様子だった。私は内心震えながら「拐われた隊員の家族だっているかもしれないのだから、頑張って救出しようとしているボーダーを否定するような話を大声でしないでほしい」と抗議した。今思えば、面倒くさい女だったかもしれない。
 男は怒りで思考がまとまらなかったのか、何か支離滅裂なことを叫んだ後、私の胸ぐらを掴んできた。そのまま首でも絞められそうな勢いだったので、正当防衛も兼ねて、男の顔を殴ってしまった。これが事の顛末である。

「周りにいる人が止めてくれてよかった」

 准が私の目をまっすぐ見て言った。女の拳では、男を撃退することなど到底叶わなかった。逆上した男に殴られそうになったところを、周囲の生徒に助けられた。その後、騒ぎを聞きつけた准が迎えに来てくれたのだ。

「夢子が男と喧嘩してるって聞いて、生きた心地がしなかった」
「……怒ってない?」
「俺のためだったんだろう? 怒ってないよ。ありがとう」

 そう言う准の声があまりにも優しい。准が心から心配してくれたということが痛いほど伝わってきて、また涙が込み上げてしまう。

「でも、もう、無茶はしないでくれ」
「うん……ごめんね」
「俺は、俺の大切な人を守るためにボーダーに入ったんだ」
 准が、困ったように眉を下げて笑った。
「……その中に、私も入ってるの?」
「当たり前だろう」

 准の声には、いつも迷いがなくて、力強くて、好き。私を安心させてくれる。
 准に嫌われてはいなかったとわかり、張っていた気持ちが解けていく気がした。
 漸く空車のタクシーが先に見え、准が手を挙げて留める。

「病院が終わったら、一緒に謝りに行こうな」
「……一緒に来てくれるの?」
「心配なんだ。俺だって、夢子に手を上げられそうになって、本当は穏やかじゃないんだぞ。市民はもちろん大切だけど、俺には俺の優先順位があるんだ。俺は、夢子の味方だよ」

 後部座席に乗り込み行き先を伝えると、タクシーがゆっくりと発進する。准は、今もなお、手を繋いでくれていた。
 指先から伝わる優しさを感じながら「でも、私だって准を守りたいの」と言うと、准は嬉しそうに笑った。
 この瞬間、准は間違いなく、私だけのものだった。

(20210630)

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