青八木くんって、どんな声をしているんだろう。

視線の先にいる、甘い金髪を眺めながら、ぼんやりと考えた。
放課後。勉学から解放された生徒たちの笑い声で賑わう校舎。家路に着く足音を鳴らす校庭。耳を劈くようなあらゆるざわめきが、彼を見つめている間だけは、海を超えた国の出来事のように遠くなって、私の世界から遮断される。
部室に向かおうとしている彼の後ろから、仲良しの手嶋くんが声をかけると、彼の金髪はサラリと揺れた。太陽に反射して、まるでティンカーベルの粉のように美しく映る。その姿に、何度だって目を奪われてきた。
人のはけた教室の窓枠に頬杖をついて、部室に向かう彼を見るのは、これが初めてではない。
青八木くんのことは、一年生の時から知っていた。

桜咲く四月。まだ入学して一ヵ月程度しか経っていない頃。体調が悪くなって、放課後まで保健室で眠っていた。保険医さんは、よくなるまでいていいからと言ってくれたので、お言葉に甘えて放課後もしばらく横になっていたのだ。
しばらくすると、扉の開く音と、保険医さんの「あらあら」と慌てた声が聞こえたので、なんとなしに起き上がった。
ベッドを囲むカーテン越しに、保険医さんが立ち上がるのが、なんとなく見えた。

「転んだの?その恰好、自転車部ね。擦りむいたところ見せなさい」

自転車部。そんな部活あったんだ。
入学して程ない新入生が、全ての部活を把握しきれているはずもなく。この時初めて、自転車部の存在を知った。
けれどもその後も、聞こえるのは保険医さんの声ばかりで、相手の生徒の声は一向に聞こえない。もしかして、実は保険医さんの独り言なんじゃないかなどと疑いを持ち、興味本位から、そっとカーテンの隙間を覗いた。

隙間から見えたのは、紛れもなく、二人の人物だった。
保険医さんと、小柄な男子生徒。

「(いた……)」

保険医さんに黙って手当されているその子をじっと見つめた。いるなら喋ればいいのに。変な子。

そんなことを思いながら目を凝らしていると、不意に、彼が顔を上げて、こちらを見た。

――あっ……!

目が、合った。
長い前髪の隙間から見える、大きな瞳と目が合ったのだ。
心臓が驚いて飛び跳ねた。

――自転車部の、だん、し……。

中性的な顔立ちは、小柄な体格も手伝ってか、少女かと一瞬錯覚させた。金色の前髪は片目と耳を隠し、彼の動作に合わせて、時々毛先が揺れた。

それが、綺麗だと思った。

彼と目が合ったのは、一瞬だけだった。けれども、私にとってその一瞬は永遠のように長く感じられて、心臓は人生で一等騒ぎ立てた。
驚くのと同時に、何故か彼から目を離せなかった。世界中から音が遮断されて、お互いの瞳がお互いを映す間、まるで私と彼以外、誰もいなくなってしまったかのようだった。

確かにその一瞬、私たちの時は止まった。

彼はすぐに保険医さんに話しかけられて、私から目を逸らした。
その様子を見て、私も急いでベッドに戻った。毛布に潜って、隠れるように息をした。心臓がドキドキと鳴って、呼吸も荒くなった。暗闇で目を瞑ると、先程の光景が蘇った。

なにこれ。こんなの私、知らない。

「キミ、ここにクラスと名前を書いてくれる?」

保険医さんが言った。しばらく間が空いてから、また保険医さんの声が聞こえた。

「はい、ありがとう。……青八木くん。一年生ね」

アオヤギくん。
アオヤギくん、アオヤギくん、アオヤギくん。

忘れないように、その名前を何度も何度も、呪文のように唱えて眠った。


それから、廊下などで彼を探すようになった。しばらくして、クラスがわかった。
青八木くんはあまり人付き合いの多い人ではないらしく、共通の友人もいなかったので、私は学校生活でときどき見かける彼をそっと見つめるようになった。
自転車部の彼は、よく自転車で学校の坂を登っていた。教室から、彼が髪を揺らして登るのを見るのが、日課になった。
そんなことをしていたら、あっという間に一年が過ぎてしまった。
友人からは「声かけちゃえばいーじゃん」などと気軽に言われたけれど、話したこともない人に恋をして、どうして気軽に声がかけられるのだろう。見つめてばかりで、声すらも知らないのに。
一目惚れなんて、柄にもないこと、するもんじゃあない。

別に、贅沢言うつもりはない。
友達になりたいとか、付き合いたいとか。
ただ、青八木くんのことが、少しでも知りたいなって思うの。
何が好きなんだろう。休日は何をしてるんだろう。今、誰か好きなんだろうか。

せめて、どんな声をしているかだけでも知りたいなあ。



そんな淡い願いを叶えるようなことが起こった。
偶然とはいつの時代も突然やってくるものである。
その日はいつも通り、放課後に部活へ向かう彼を窓から眺めてしばらく、私も家路に着こうと廊下を歩いていた。人のはけきった校舎は、時々甲高い笑い声が階段の端っこから響く。吹奏楽部の管楽器の音が、どこからか聞こえ始めた。上靴が廊下をきゅっと鳴らす。全ての音が耳を劈く。

聞きたい音は、もっと別のもの、なのに。

「あっ……?」

カツン。
つま先が何かを蹴った間隔がした。同時に、キンキンと金属音が鳴る。慌てて数歩、音の方へ向かうと、何かが光ったのが見えた。慌てて拾ったそれを、目の前に吊るして見る。

「……鍵」

家の鍵……にしては小さいな。

……自転車?

「……あ」

目の前に吊るされた鍵の向こうに、人がいた。視線を合わせると、なんとそれは、あの青八木くんだった。

「あ、お……」

顔が急に熱くなった。無理もない。一年振りに、目が合ったのだ。憧れの青八木くんと。
青八木くんが私を見ている。そんな些細な事実で、パニックになりそうだった。

だって、もう一生、目が合うことなんてないと思っていたのに。

固まる私に、青八木くんは指をさした。「え、なに?」と思ったのも束の間、彼のさす先を辿り「もしかして、この鍵?」と尋ねると、上下に首を揺らして肯定の意を示した。

「あ、青八木くんのだったんだ……はい」

緊張で苦笑いになってしまいながらも、青八木くんの傍まで行き、鍵を差し出したと、同じように青八木くんが手を差し出した。
鍵が、私から青八木くんへ渡る。
その動作を、熱心に見つめた。まるで、神聖な儀式であるかのように。

耳を劈くような、甲高い笑い声も、足音も、部活の音も。全部が海の向こうの出来事のように、遠くなって遮断される。
私と青八木くん以外、誰もいないみたい。

束になった鍵がぶつかって、鈴のような音を立てた。

「……あ」
「え?」
「……ありがとう」

え、いま……。

驚いて彼を見ると、頬を真っ赤に染めた青八木くんが、颯爽と踵を返し、走って行ってしまった。
止める間も無く、彼の金髪が揺れるのを見送る。
何度も見たそれは、まるで今までとは違った景色のように見えた。

「(声……男の子の声だった)」

中性的で小柄な彼の。

私と彼しかいない世界で初めて聞いた声は、紛れもなく、男の子の声だった。



(20141014)
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