真波くんって苦手だ。

「あ」

それは二時間目の休み時間。悲しくも日直であった私は、次の時間の教材を先生から受け取って教室に戻るところだった。重くもないけど軽くもない、英語のCDを再生するラジカセ。きっと今日も、私の子守唄になる英会話を延々と喋り倒すそれを抱えるように運び、渡り廊下を歩く。校舎からは生徒たちの甲高い笑い声や足音が鳴っていて賑やかだけれど、外は対照的に静かだった。箱根学園は山々に囲まれた自然あふれる校舎だ。たかだか十分程度の休み時間にわざわざ校舎外に足を運ぶ人は移動中の生徒を除いてはほとんどおらず、ましてや校舎裏に架かった渡り廊下周辺は当たり前に人気がなかった。
そんな渡り廊下を歩く私の耳に、カラカラと等間隔な空回る音が届いた。

自転車?

あまり考えもせず、なんとなしに振り向くと、そこには制服姿で自転車を引いて、今まさに登校してきたと言わんばかりの、クラスメイトの真波くんがいた。

あ。

思わず間抜けな声が漏れた。「しまった」と思うのも束の間、目が合った真波くんは女子のように愛らしく中性的な表情で首を傾げて、私を見た。真波くんが歩を止めると、タイヤの音がやんだ。瞬きの間、一瞬の判断力が鈍くなる感覚がする。
目が合ってしまった。どうしよう、挨拶くらいした方がいいのかしら。黙って逸らすのも気まずいし、感じ悪いよね。でも……。

でも私、真波くん、苦手なのよね。

真波くんって苦手だ。
遅刻してくるのは当たり前。(今日もそうだ)。宿題もしないし、授業に出ても寝てばっかり。高校生活が始まって四か月も経つのに、まだクラスメイトの名前も覚えてないし、高校生活が始まって四か月しか経っていないのに、もう留年候補生だ。宮原さんが折角先生に交渉してくれて、課題で単位を稼がせようとしているのに、本人は逃げてばかり。いわゆる、不良なのである。にも関わらず、本人はまるで他人事のように笑ってばっかりで、何を考えているかとんと分からない。
だから真波くんって、苦手なのよね。

そんなことを考えていたら、思わず足を止めてしまった。
判断が鈍って、目を逸らすことも挨拶をすることもできずに、気まずい間ができる。しまった。素直に挨拶しておけばよかった。それで颯爽とその場を立ち去れば万事解決だったのに。優柔不断は、百害あって一利なしである。

「……あ、えと……真波くん、おはよ」

今更とは思いつつ、間に耐えきれなくなって、へらっと笑って挨拶をした。もう「おはよう」じゃないけど。
抱えていたラジカセに触れる部分が、汗をかいた。
しかしながらどうだろう。当の真波くんは、大きな目を丸くさせてきょとんとした表情をしている。真波くんの表情に、私もつられて目を丸くした。

えっと、もしかして真波くん、私のこと知らない?

嘘でしょう? 確かにクラスメイトの名前も覚えていないだろうなとは思っていたけれど、顔すら覚えていないだなんて。……まあ、それこそ私は真波くんとは話したことなんてないし、真波くんと違って目立たないし、真波くんが覚えてないのも無理ない、けど。
けど、この一瞬、葛藤した自分が馬鹿みたいで恥ずかしい。こんなことなら、知らんぷりして通り過ぎてしまえばよかった。知らない人に挨拶されて、真波くんだって困らなかっただろうに。
押し寄せる後悔が、顔が熱くさせた。恥ずかしい。自意識過剰みたい。あー私の馬鹿。さっさとこの場から逃げて、教室に戻ろう。
そう自分に言い聞かせて、ラジカセを抱えなおし足を進めた。
その瞬間だった。

「おはよ」

幾らか弾んだ声がして、出しかけた足を戻す羽目になった。もう一度、カラカラと等間隔に空回る音がする。視線を向けると、自転車を引いた真波くんがこちらに歩いてきた。

「夢山さん、日直か何か?」

えっ。

「え……あっ、う、うん」
「ふうん、大変そうだね」
「べ、別に、そんなこと……」

名前、呼んだ。

クラスメイトの名前、まだ覚えてないと思っていたのに。
私の名前、知ってたんだ。私のこと、知ってたんだ。なあんだ。なあんだ。

突然、安堵と共に言い知れぬ緊張が喉元をくすぐって、足の指をもぞもぞと動かした。何故かひどく落ち着かない。上履きを擦る親指の間隔が、幾らか冷静にさせた。

なんだろう、これ。変なの。

タイヤの等間隔が次第に大きくなってやむと、真波くんが私の前で立ち止まった。柵を隔てて向かい合う真波くんが、私を見る。それだけのことがやけに新鮮で、私は無性に視線を逸らせなくなり、思わず息を呑んだ。真波くんの、真夏の光を反射させる澄んだ瞳。それが、相変わらず何を考えているかとんと検討もつかなくて、私を戸惑わせた。
二人の間に、変な“間”が生まれる。
口許に笑みを浮かべた真波くんが、何も言わずに私を見ている。
なに?なんなの?私、なにか変?
突然身なりが気になって、顔が熱くなった。先ほどとは違う種類の恥ずかしさから、ただただ足の親指を上靴に擦り続けた。

真波くんは何を考えているか分からない。
やっぱり、苦手だ。

真夏の日差しが、頬に汗をかかせる。蝉の声がじりじりと音量をあげると、同時に、追い風が吹いた。制服の後ろ襟がはためいて、私の髪先を揺らした。

「あれ?」

ふと、同じように髪を風に揺らす真波くんが、何かに気付いたように小首を傾げた。それが何故だか、可愛らしい印象をもたらした。無邪気な仕草は、まるで子供みたいである。苦手なはずなのに可愛らしく思わせるなんて、真波くんって、不思議な人だ。

「な、に……」

尋ねるのとほぼ同時。
真波くんの腕が伸びてきて、私の揺れる髪先を掬った。

驚いて、思わず固まった。

真波くんは髪を指で梳く。重力に従って指から擦り抜ける髪を眺めながら笑って言った。

「シャンプー変えたの?」

しゃ、ん……。

「しゃ、え、え?」
「甘い匂いがする。オレ、この匂い好きだな」
「えと、あ、の……」

な、なにそれ。なんで、私の匂い、知って……。
顔が熱くなるのと同時に、予鈴が鳴った。真波くんは校舎を見上げて「あ、予鈴鳴っちゃった。委員長に怒られちゃう」と呟くと、駆け足で渡り廊下を横切った。

「また後でね、夢山さん」
「……うん」

無邪気に手を振って私を置いていく真波くんの背中を、茫然見送る。

ああ、そうだ。教室に戻らないと。

随分と鈍くなった判断力に従って教室に戻るけれど、先程の光景が何度も何度も反芻されては、顔が熱くなった。きっと今の私は、茹蛸になっているに違いない。なんだか無性に恥ずかしくなって顔があげられない。思わず床と睨めっこして、いつの間にか込み上げる羞恥から訳も分からず全力で廊下を駆け抜けていた。

だって真波くんは、高校生活が始まって四か月も経つのに、まだクラスメイトの名前も覚えてないような、そんな、そんな人で、何考えているかわからないような人なのに、なのに。なのに……。



ああ、やっぱり、真波くんって苦手。




(20141012)
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