六月に差し掛かった頃。箱学からバスで少し下ったところで、少し早い夏祭りがある。
寮生の多い箱学では毎年この日になると学校終わりにこの夏祭りに行く生徒で溢れるので、一種の伝統行事のようなものになっていた。
そして今年もこの祭りの時期がやってきた。箱学内では、この日に近づくにつれ校内がソワソワしだす。ほとんどの生徒が赴くため、意中の人を誘う人も少なくなかったのだ。
私としてはあまり祭りに出掛ける気分でもなかったのだけれど、友達が行こう行こうと誘うので学校帰りに寄ることにした。

箱学生で蒸し風呂状態になったバスで坂を下ると、通りは出店や人で賑わっていた。
夏に近づくにつれて、日が大分長くなった。夕方は五時をすぎるけれどまだ空は青いままだ。道路沿いに連なる出店の提灯はまだついていない。鉄板の上で焼かれるトウモロコシや焼きそば、たこ焼きの匂いがそこら中から漂い、装飾品のように道を彩るチョコバナナや林檎飴が視界をキラキラとさせた。
通りには箱学生だけではなく、近所の子供たちや浴衣に身を包んだ大人たちで賑わう。雑踏のざわめきやすれ違う下駄や簪の涼しい音。どこからともなく聞こえる太鼓や笛の音が、祭りの雰囲気を盛り上げた。
周囲を見渡して、ゆっくりと息を吸う。祭りの雰囲気を吸い込むと、肺がいっぱいになった。
匂いが、視界が、音が、私を昔に帰していく。思い出すは尽八くんと毎年通った夏祭り。楽しかったなあと、ゆったりと瞬きをする。

友達が「何食べようか」なんて辺りを見回しながら笑った。花火は七時からだから、大分時間がある。適当に食べ歩いて、公園で時間でも潰そうかと提案して、目についた出店で食べ物を買った。
しばらく歩き回ると日が傾いてだんだんと薄暗くなっていく。出店の提灯がポツポツと灯りだし、オレンジ色に看板が照らされた。
一通り見て回りそろそろ公園にでも行こうかと声を掛け合うと、通りの一番隅の出店に目を奪われた。子供が数人しゃがみ込んで食い入るように長方形の桶を見つめていた。

金魚掬いだ。

思わず立ち止まって眺めていたら、友達に「金魚掬いたいの?」と聞かれた。

「別に……」

友達の問いに、小さく首を振った。思い出したのは在りし日の尽八くん。
家にあるのは空っぽの水槽だ。でもきっと、そこに金魚を入れたとしても、何かが満たされることはもうないだろう。

「あ、東堂くんだ」
「……え?」

金魚掬いから視線をあげると、向かいの出店に、尽八くんをはじめとする自転車部の男子が数人並んでいた。友達の声に気付いた尽八くんがこちらに視線を向ける。私たちを見つけると、いつものように指を指して「なんだ、来ていたのか!」と声高に言った。

「東堂くんたちも来てたんだね」
「ああ、隼人がどうしてもチョコバナナが食べたいとうるさいのでな。部活の途中で寄ったのだ」

確かによく見ると、尽八くんたちはロードレースの格好をしていた。
夏祭りには随分場違いな格好で、ある意味目立っている。

「ねえねえ、花火までには部活終わる? 一緒に見ようよ。ねえ、夢子もいいでしょ?」

突然尽八くんたちを誘った友達に、ぎょっとして目を見開いた。
尽八くんは「ふむ……」と小さく呟く。ふと、私をジッと見るので、思わず視線を逸らした。
何故私を見る。

「……いや、やめておこう。すまんね。だが他のオレの女子ファンが嫉妬したら可哀想だろう。何しろオレは箱学一の美形だからな」
「そっかあ、残念だね」

わっはっはと笑う尽八くんに友達が眉を下げて笑うと「じゃあまたね」と手を振って別れた。

「ああ、祭り楽しめよ」

尽八くんが私たちに手を振りかえすのを横目で流し、通りを抜けて公園に向かった。


「夢子、あんな顔することないのに」

しばらく歩いて林檎飴に齧りついていたら、友達が呆れたように溜息を吐いた。
思わず眉を顰めると「そういう顔だよ」と釘を刺される。

「だって……」

そんなに尽八くんと花火を見たかったのだろうか。だったら初めから私ではなくて尽八くんを誘えばよかったじゃないか、と口の中で広がる林檎の味を噛みしめながら思った。

「あんな顔したら、東堂くん可哀想じゃん」
「何が……」

何が可哀想なのだろうか。別に私の反応なんて、尽八くんにはどうでもいいことだろう。尽八くんには黄色い声をあげてくれる女子がたくさんいるし、何より私には興味がないだろうに。
私の呟きに、友達はわざとらしく溜息を吐く。彼女がどうしてそんな反応をするのかいまいちわからなかったので思わず眉間に皺を寄せて彼女をジッと眺めたら、友達は「あのねえ」と、一音一音大事にするように発音した。

そうして、信じられないことを言ったのだ。

「可哀想だよ」
「だから何が」
「だって」


だって東堂くん、いつも夢子の話ばっかりするんだよ。


友達が言った意味が、いまいち噛み砕けなかったけれど、理解力に反して心臓はドキドキとまるで警報機のように大きく脈打った。

いつも私の話をする、って、なに?

「私のこと捕まえてさ、夢子は元気かとか、いろいろ聞いてくんの」
「な、なんで」
「そこまでは知らないけどさあ。ただ、大事に思ってるって感じはするよ。いいなあ、夢子。幼馴染なんだって? ふつーに羨ましい」

友達がぶら下げていた袋の中からイカ焼きを取り出して齧った。ソースの匂いがふっと漂ってきて、林檎飴の匂いと喧嘩する。自分が甘いものを食べているのかしょっぱいものを食べているのか、よく分からなくなった。

なんで、尽八くんが、私の話をするんだろう。
友達を捕まえて?
じゃあ、よく廊下で見かけた二人は……?

芋づる式に疑問が出てきて頭の中が疑問符でいっぱいになる。
分からないけど、緊張で手が汗でジワリとした。これは、夏の熱気のせいではないと思う。

尽八くん、どうして。


「夢子!」


えっ。
聞き慣れた声に後ろから呼ばれて驚きつつ振り向くと、手を振った尽八くんが人ごみを掻き分けてきた。混乱している頭が更に動揺して、うるさかった心臓が倍になってうるさくなる。加えて友達が「私、トイレ寄ってくるね」などと言っていなくなってしまうから、余計に緊張してしまった。
思わず逃げるように俯いてその場で固まると、目の前に人が立つ気配がした。すぐに上から「すまんね。呼び止めてね」と言う尽八くんの声が降ってきて、目をぎゅっと閉じた。

「な、なに……」
「ああ、いやな。これを、と」

尽八くんが、不意に林檎飴を持っていない方の私の手を握った。
感触に驚いて目を思い切り開くと、尽八くんが私の指を包んで、何かを掴ませる。
見ると、金魚だった。

「き……」
「掬ったのだ。天はこの美形に金魚掬いの才まで与えてしまったらしいな! たくさん掬えて困ってしまったよ。わっはっは」
「は、はあ……」

訳が分からず、尽八くんと金魚を交互に見つめると、高笑いをしていた尽八くんが不意に真面目な顔をした。そのギャップに思わず息を呑むと、ふっと穏やかな表情で微笑まれた。

「水槽、また空になってしまったのだろう?」
「……うん」
「夢子が寂しがるといけないからな」

尽八くんが時々する、何でも悟ってしまっているような、大人びた笑みを見せる。

どうして。

どうして、こんなことするんだろう。優しくしてくれるんだろう。
私のことなんて、どうでもいい癖に。

嬉しい気持ちと同時に、腑に落ちない感情で苦しくなった。
あんなにすげなくして、避けて、冷たくした私に。
許嫁の話だって、あんなに興味なさそうだったのに。

どうして優しくするの?

「な、なんで……」
「ん?」
「なんでこんなことするの?」

問いは語気が強くなってしまった。
そんなつもりではなかったのに。感情のコントロールが上手くできなかった。

「なんでって……」
「私のことなんて、興味ない癖に」
「は?」

尽八くんは訝しげに、その凛々しく整った眉を顰めた。

「誰が興味ないと言った」
「だって、許嫁の話が出た時だって、どうでもよさそうだった」
「構わんと言ったろう、オレは」
「普通、もっと考えるでしょ。大事なことなのに」
「考えるか」

尽八くんの眉間に、皺が増える。少しばかり、怒っている様にも見えた。

「オレは、嫌なことは嫌と言うぞ」

彼の揺るぎない真っ直ぐな声に、一つ瞬きを零した。尽八くんを見つめると、同じようにジッと見つめ返された。先ほどまで逃げるように俯いていたのに、今は目が離せなくなっていた。尽八くんは、不思議と目力がある。

「オレの気持ちは昔から変わってないし、変わることもないからな。そういう自信がある。だからあの時、構わんと言った。考える必要もない。ただ、夢子次第だなとは思ったが」

何それ。

「大事な夢子の将来を、どうでもいいと思うわけないだろう。オレの気持ちは、あれが全てだよ」

なに、それ。

「興味あるよ。お前のことなら。どうしたらオレと恋をしてくれるんだ」

……。

「……友達のこと、好きなのかと思った」
「どうしてそうなる」
「……だって、ファンの子と違って、特別扱いしてたし」
「当たり前だろう。夢子の友達なのだから」

はっとして目を見開くと、力の抜けた指先から林檎飴を落としてしまった。
けれどもそんなものよりも、尽八くんのビー玉のような瞳が私を映すから、何も考えられなくなる。同時に、何かがじわじわと満たされていくような気がして、それは私の瞼の上に溜まった。

「嬉しかったよ」

尽八くんが、優しそうに笑う。同い年なのに、時々、ずっと年上みたいな顔をする。大人に囲まれて育ったからだろうか。そういうところが、ずっと好きだった。私のこと、なんでも分かってしまって、悲しい時には、優しくしてくれるの。

「ジャージを借りに来た時。オレのこと頼ってくれて」

そういうところ、相変わらず好きなの。

「思い出してくれて、ありがとう」

視界が歪む。金魚の入った袋のように、透明に光が反射して、水っぽくなる。瞬きしたら、涙が零れた。
もう泣くこともないと思ってたのに。失恋したと思った時よりも、嬉しくて泣くなんて、変なの。

「尽八くん……」
「なんだ?」
「勘違いしてて……ごめん」
「構わんよ……しかしだな」
「?」
「夢子の返事を聞いていない」
「……えっと」

しどろもどろに答えると、笑った尽八くんの瞳がキラキラした。
ずっと見ていたくなるくらい、綺麗だなあ。



空っぽだった水槽は、尽八くんのおかげで満たされた。



(20140713)
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -