重くて見れない方こちら



あの日、尽八くんは一言も文句を言わなかった。
「ああ、構わんよ」と、普段大袈裟に自分のことを褒めるばかりの口は、綺麗な三日月型に吊り上げられて上品な微笑みをつくった。そんな尽八くんの反応は一見すると乗り気にも思えたので、話を持ちかけた私の親はもちろん、尽八くんの両親もこれめでたいと笑ったけれど、私ばかりはまるで空っぽの水槽を眺めるみたいな寂しさを感じていた。

尽八くんの返答は、本当は空っぽだったのだ。



「えっ」

隣で体操着に着替えていた友達が、トートバックの中を漁りながら戸惑った声を漏らした。クラスメイトの女子たちの声でざわめく更衣室で友達の小さな動揺に気付いたのは、どうやら私だけだったらしい。彼女を見守りつつ、自分も体操着に着替え終えてから「どうかした?」と短く尋ねる。友達は一度大きな溜息を吐くと、困った表情で私を一瞥し「ジャージ忘れたみたい」と言った。
今日の体育は体育館でバドミントンだ。大分春めいてきたとはいえ、まだまだジャージ無しでは寒い。コートは交代で使うから、空くまでの待機時間の間に身体が冷えてしまっては風邪をひきかねない。
私は自分のジャージを羽織ると「他のクラスに借りたらいいんじゃない?」と提案した。友達は「そうね」と一度頷いてみせると「ついてきて」と言うので、二つ返事で了承し、二人で少し早めに女子更衣室を後にした。

女子更衣室は一階の空き教室を割り当てられている。故に三年の教室が連なる二階に体操着で行くことはあまりないので、制服姿の同級生たちと擦れ違うのは少しだけ不思議な気がした。
十分しかない授業間の休み時間。既に着替えで大分時間を消費しているので、早くしないと授業が始まってしまう。女子の体育教師は厳しいことで有名な女性の教員で、遅刻者には授業の間、延々とグラウンドを走らせる罰を科すことで女子生徒から恐れられている。
私たちは小走りに他のクラスに駆け込んで、ジャージを貸してくれそうな友達の知り合いに声をかけていった。しかしながら、どこのクラスも今日は体育がないらしく、運が悪いことに誰も置きっぱなしにはしていないらしい。

「うわあ、ツイテないなあ」
「……三組は?」
消沈する友達に、まだ訪ねていないクラスを指差したが、彼女は首を左右に振った。

「あそこは知り合いいないんだよね」
「そっか」
「夢子、三組に知り合いいない?」
「……」

友達に問われ、一人の顔がふっと浮かんだ。
浮かんだけれど、声をかけるのは嫌だった。ましてや頼みごとだなんて。同じ高校に入学して実に三年目になるが、校内で話しかけたことはほとんどない。時々向こうから話しかけてくることはあったけれど、それも頻繁ではないし、軽い挨拶程度だ。
いや、彼に話しかけないのは、校内に決まったことじゃない。どこで会っても、いつからか、私は彼のことを避けるようになっていた。
だって、彼といると、私は空っぽで寂しくなる。

「もう行こうか、忘れた私が悪いし。付き合わせたのにごめんね。早く行こ」

友達はそう言って体育館に行こうと階段に向かうので「あ、待って」と慌てて呼び止めた。不思議そうに振り向く友達に、気まずげに目を逸らす。

「知り合い、いるから……ちょっと聞いてくる」

私のちっぽけな感情のために、友達に寒い思いをさせるのは忍びない。

「え、いいの?」
「うん。先に行ってて」
「え、一緒に行くよ、借りるの私だしさ。夢子だけ遅刻したら嫌じゃん」

小走りに駆け寄る友達が嬉しそうに笑うので私も笑みを返したのだけれど、今から向かう人物のことを思うと気が重く、どこかぎこちなくなってしまった。

三組に足を運ぶと入り口から教室を覗く。端から端にすいっと視線を走らせると、すぐに窓際の席で男子生徒と話しているお目当ての人物を見つけた。身振り手振りが大きいのは彼の特徴だが、どこにいても目立つのは動作や声が大きいからというわけではないだろう。
幼い頃から私の目には、その自信に満ちた姿が、輝きを放っているように見えていた。

「すみません、東堂尽八くん呼んでもらえますか?」

私が入口傍の席の子に声をかけると、友達は「え? 東堂くん?」と素っ頓狂な声を上げた。まさか私の知り合いが、尽八くんだとは思いもしなかったのだろう。
箱根学園の東堂尽八と言えばファンクラブがあるほど人気者だったし、強豪である自転車部のレギュラーだったから校内ではちょっとした有名人だった。友達が尽八くんをはじめとする噂話をする時だって私は素知らぬ顔で相槌を打つばかりだったし、私が尽八くんの話を自らしたことは一度だってなかった。
私に頼まれた子が窓際の尽八くんに話しかけに行くと、その子に向いた尽八くんの視線がしばらくしてふっと跳ねるようにこちらに飛んできた。

色素の薄いその瞳がビー玉のように丸くなって私を捕える。
突然合った目に驚いて一瞬心臓が止まった気がした。

すぐに寄り掛かっていた窓から離れると、尽八くんは私のところに駆け寄った。

「珍しいな! 夢子から訪ねてくるとはな!」

尽八くんはレース中、よく女子に手を振る時に見せる時と同じ顔で笑う。私を見つけると元気に微笑みかけてくれるその姿は、幼い頃より少しも変わらない。
尽八くんの態度はいつも好意的なのだけれど、寧ろそれが私を寂しくさせるのだった。

「あの……今日、体育あったりする?」

尽八くんの言葉には特に返事をせず、自分の要件を遠慮がちに伝える。
尽八くんは首を傾げた。

「体育?」
「ジャージを貸してほしいんだけど……」
「着ているではないか」
「私じゃなくて、友達が忘れちゃったの」
「友達?」

そう言って隣にいる友達に視線を送ると、同じように尽八くんが丸い目で友達を見た。友達は、少し照れたようにはにかむ。頬と耳を染めた彼女はいかにも愛らしい女子で、見ているこちらも素直に「可愛いな」と思わされた。

「……そうか、友達か」

尽八くんがぼそりと呟いた。
その声を聞きゆっくりと尽八くんに振り返ると、彼は頬を心なしか赤く染め、口元には笑みを浮かべて、まるで高揚したような瞳で友達を見つめていた。
その表情を、どこか不思議に思った。

「尽八くん?」
「待っていろ」

尽八くんはふいっと背中を向けて教室に戻ると、すぐに片手にきちんと畳まれたジャージを持って戻ってきて、友達にジャージを手渡した。

「上だけでいいか?」
「あ、はい……ありがとうございます」

友達がいつになく緊張して、尽八くんからジャージを受け取る。それは尽八くんが、普段の女子に対して高笑いしながら自慢げに手を振る時の雰囲気とは大分異なって、どこか凛然としていたからだろうか。どちらの尽八くんも本当の尽八くんだけれど、私の知っている尽八くんは、こちらの方が多かった。
尽八くんは友達に微笑むと、ゆっくりと私に視線を向けた。目が合うと、今度は私に向かってふっと笑う。

「仲が良いのだな」
「う、うん……」
「……そうか」

尽八くんは「体育頑張れよ」と言って私たちを送り出す。私たちは二人でお礼を言って、小走りで体育館に向かった。体育館に飛び込むのと同時にチャイムが鳴り、なんとか授業に間に合う。息切れしながらも安堵に息を吐いて列に並んだら、友達が抱えていたジャージを羽織った。それを見ていたクラスメイトの女子が「あれ? それ男子の?」と尋ねる。

「ちょ、東堂くんのじゃん!」
「えへへ〜」
「東堂くんのジャージ? なんでなんでどうして?」
「ちょっとね」

周囲の女子の間で小さくざわめきが起きる。友達が着たジャージは袖が少し余っていて、裾も他の女子のものより長かった。

「(別に……)」

体育教師の号令で、整列が行われる。ぼんやりと前を眺めながら、尽八くんのジャージを羽織った友達の姿を思い出した。


別に、ヤキモチなんて妬いてない。だって、借りに行ったのは私だもの。
別に……。




尽八くんと私は、所謂幼馴染というやつだった。
親同士の仲が良く、尽八くんの実家が忙しい時なんかはお姉さんと一緒に家に預けられることが多々あった。箱根の温泉街に住む彼との家の距離は車にして三十分程度。子供にとっては大きな距離だったけれど、尽八くんは幼い頃から自転車を漕いで、坂を登って家まで遊びにくることがあった。
幼い頃は、普通に仲が良かったと思う。それこそ尽八くんと一緒に自転車で遠出したり、家の庭で遊んだりした。男女の垣根なく駆けまわっていた。尽八くんの家は休日こそ忙しく、尽八くんは旅行にも行ったことがないと言うので、よく私の家が旅行する日は誘った。どこに行く時も尽八くんが一緒にいたので、なんとなく、市民プールや映画なんかに行く時も、誘うのはクラスメイトの女子ではなく決まって尽八くんだった。
近所で行われる夏祭りも、毎年尽八くんと行った。二人で買い食いをし花火を見て楽しんだ。ある年には、尽八くんが金魚掬いですくった金魚をプレゼントしてくれた。その時、丁度家のリビングには空っぽの水槽があって、尽八くんは置物と化していたそれを覚えていたらしい。
「空のままじゃ寂しいと言っていたろ?」
そう言って、透明の中で漂う橙色の金魚の入った袋を差し出して、顔の前で吊るして見せた。水を通して見る尽八くんの瞳は、幻想的で美しかった。
その日、家に帰ってすぐに水槽に金魚を入れた。水と金魚とビー玉が反射する水槽がいっぱいに満たされると、何故か無性に嬉しくなった。

そういった尽八くんの些細な優しさが、私は好きだったのだ。

それは中学校に上がった頃だろうか。
両親と尽八くんの家に遊びに行った時だと思う。訪ねた時、尽八くんはロードレースの試合か何かで、丁度家にいなかった。
尽八くんの両親とうちの両親が縁側で談笑をしている傍で、私は「早く尽八くんが帰ってこないかな」と庭の鯉を眺めていた。その日は、久しぶりに尽八くんに会えるので、楽しみにしていたのだ。私たちは歳を重ねる毎に、遊ぶ回数どころか会う回数も減っていっていた。
そうしていると、談笑をしていた母が「夢子は尽八くんがいないとつまらないのね」と笑った。これがきっかけだった。

「尽八くんみたいな息子がうちにも欲しいわよねえ、お父さん」
「そうだなあ、あんな子がいたらいいよなあ。夢子、尽八くんと結婚したらどうだ」

どっと笑い声が部屋に湧いたのと同時に、両親が本人たちを無視し、勝手に盛り上がり始めた。
親に恋の話をされることほど、気恥ずかしいこともない。ましてや中学生なんて、思春期真っ盛りだ。私は尽八くんのことが好きだったし、茶化されるように話のネタにされることが、たいそう不快でもあった。
眉を顰めた私が返事をする前に、尽八くんの両親が言った。

「まあ、本人たちがいいのならば、私たちも歓迎ですわ。尽八も、夢子ちゃんなら嬉しいでしょうし。ねえ」

どこの根拠があって言うのだろうか。
ただ、やはり恥ずかしさからか気まずさからか、私は鯉を眺めるのに精一杯勤しんで聞こえないフリをした。
そんな話題で盛り上がっていると、程なくして尽八くんが帰ってきた。
私たちがいた部屋に入ってくると、私は急いで尽八くんを外に連れ出そうと駆け寄った。この会話を聞かれたくなかったのだ。それは、尽八くんとの関係をこじらせたくなかったという想いが一番に強い。それこそ尽八くんに否定でもされたら、立ち直れなかった。

しかしながら律儀な尽八くん。畳に正座してうちの両親に挨拶をすると当然話を振られるので、外に誘う私を「待て」と制止して、親たちの話に耳を傾けた。

「ねえ、尽八くん。夢子と許嫁になってみない?」
「は?」
「別に、堅苦しいものではないのよ。ただそうなったら嬉しいわねっていう、私たちの希望なの。軽い、口約束のようなものよ」

話の脈が掴めない尽八くんは目を丸くして話を聞いた。両親たちの「どう?」「どう?」と期待を含んだ問いかけに答えたのは私だった。

「もう、いい加減にしてよ」

尽八くんが答える前に、この話を終わらせたかった。そして再度尽八くんを外に誘おうと肩を叩くと、尽八くんがゆっくりと口を開いた。

「ああ、構わんよ」
「え?」

予想外の尽八くんの返答に、今度は私が驚く番だった。

「あら、本当?」
「ああ。オレは家を継ぐわけでもないしな。夢子さえよければだが」
「まあ、それは嬉しいわね」

そう言ってその場は再び笑いに満たされた。
私はと言えば、どこかその雰囲気に取り残されるようで、茫然と立ち尽くすばかりだった。尽八くんが、あまりにも抵抗なくこの突然の話を受け入れてしまったからだ。

どうして何も考えずに、了承してしまうの? こんなに大事なこと。

思わず心の中で問いかけたけれど、実際は分かっていた。それは、尽八くんが私に構ってくれなくなったことと、同じ原因だった。

尽八くんは、自転車だけあればいい。それ以外には実際、興味がないのだ。

普段は女子がどうのとか言っているけれど、別に彼女を欲しがっているわけではないし遊びたいと思っているわけでもない。自分の自信に対する、証明とぐらいしか思っていないだろう。
尽八くんにとって本当に必要なことは、自分の美しさを磨ける自転車とそれを取り巻くものだけなのだ。

尽八くんにとって、私という存在は、その程度のものだ。
その答えは、あまりにもショックだった。


それから、あまり尽八くんと関わらなくなった。尽八くんは自転車三昧の日々を送るので私に構う暇なんて全くなかったし、私も尽八くんを避けるようになっていた。
高校に上がり同じ学校に通うようになった。尽八くんは初めこそ私に話しかけてきたけれど、私が避けていることに気付いたのだろう。一度「何を怒っているんだ」と指を指されたことがあったが、そこですげなくしてからは何かを悟ったらしかった。意外と、勘のいい人だから。それ以降、尽八くんは必要以上に話しかけなくてこなくなった。
名目上、私と尽八くんは許嫁ということになるが、実際の私たちはほとんど他人に違いなかったのだ。

尽八くんにもらった金魚は、その年に死んでしまった。




「ねえ聞いてよ。さっき東堂くんに話しかけられちゃった」
「……え?」

尽八くんにジャージを借りてから数日経ったある日のことだ。休み時間に雑誌を読んでいると、友達が嬉しそうに報告してきた。なんでも、ジャージを借りた日から廊下などで擦れ違うたびに、呼び止められるようになったそうだ。
「へえ」と呟きながらも、ページを捲る手が僅かに震えた。
尽八くんは元々分け隔てなく気安い性格をしている方だけれど、友達の話は、私を何故か不安にさせたのだった。それはジャージを借りに行った時、友達を見て高揚気味に目を見開いた尽八くんの表情を思い出したからに違いない。あの時、その表情を不思議に思った。初めて見る表情に近かった。

不安は的中した。

尽八くんと友達が二人きりで話しているところを、それから何度も見るようになった。
尽八くんがファンの集団の声援に応えることはあっても、女子と二人きりでいるところなど見ることは今までほとんどなかったし、仲の良い女子も特別いなかった。それは結局、恋人が欲しいという願望がないから、称賛や声援をもらうこと以外で女子に興味がなかったのだろう。そんな尽八くんが、積極的に一人の子と仲良くしようとしている。
つまり……。

「(尽八くん、自転車以外にも興味あったんだ)」

興味がなかったのは「私に」だった。


そんな虚しい事実に気付いても、涙はちっとも出なかった。普通に笑って普通に授業を受けて普通に下校して普通に夕食を食べて普通に家族団欒を過ごして普通に寝て普通に次の日も登校した。それはもうずっと昔に、尽八くんのことを避けはじめた頃から、彼のことを諦めていたからだろうか。「尽八くんは私との関係には興味ないし、これからも特別に好きになってはくれないだろう」と。それとも、尽八くんと関わらない生活が既に当たり前になっていたからだろうか。
けれども時々、ふとした時に気持ちが落ち込んだ。友達と笑い合っていても、楽しかったものが一瞬で楽しくなくなった。授業を受けていても、突然集中できなくなって自然と溜息が漏れた。フラッシュバックするみたいに尽八くんのことを思い出して、口の中に苦い味がした。
それはきっと、寂しいという気持ちだろう。
あんなに一緒にいたにも関わらず私には友達以上の興味を持ってくれなかった尽八くんが、他の女の子には至極簡単に、特別な感情を抱いたのだから。
涙が出なかったところで、結局こんなに気持ちになってしまうのだから、実際諦めようといった決意は口先ばっかりで、私の心はどこかで「許嫁」の約束が有効になればいいなと思っていたに違いない。尽八くんの気持ちが空っぽにも関わらず、それでもいいから、親同士の決めた形だけの「許嫁」に心のどこかで期待をしていたのだ。なんて情けない。
なにより、自分から避けておいて寂しいだなんて、私ってば調子いい。

「(まあ、きっと許嫁も、もうすぐ終わりになるだろうけど)」

ある日の昼休み。教室の花瓶の水をかえようと廊下に出たら、例の如く三組の前の廊下で友達と尽八くんが話しているのが見えた。楽しそうな二人を細目で眺めてから背を向けて、水道に行く。

花を片手に持って花瓶をひっくり返すと、中は空っぽになった。




六月に差し掛かった頃。箱学からバスで少し下ったところで、少し早い夏祭りがある。
寮生の多い箱学では毎年この日になると学校終わりにこの夏祭りに行く生徒で溢れるので、一種の伝統行事のようなものになっていた。
そして今年もこの祭りの時期がやってきた。箱学内では、この日に近づくにつれ校内がソワソワしだす。ほとんどの生徒が赴くため、意中の人を誘う人も少なくなかったのだ。
私としてはあまり祭りに出掛ける気分でもなかったのだけれど、友達が行こう行こうと誘うので学校帰りに寄ることにした。

箱学生で蒸し風呂状態になったバスで坂を下ると、通りは出店や人で賑わっていた。
夏に近づくにつれて、日が大分長くなった。夕方は五時をすぎるけれどまだ空は青いままだ。道路沿いに連なる出店の提灯はまだついていない。鉄板の上で焼かれるトウモロコシや焼きそば、たこ焼きの匂いがそこら中から漂い、装飾品のように道を彩るチョコバナナや林檎飴が視界をキラキラとさせた。
通りには箱学生だけではなく、近所の子供たちや浴衣に身を包んだ大人たちで賑わう。雑踏のざわめきやすれ違う下駄や簪の涼しい音。どこからともなく聞こえる太鼓や笛の音が、祭りの雰囲気を盛り上げた。
周囲を見渡して、ゆっくりと息を吸う。祭りの雰囲気を吸い込むと、肺がいっぱいになった。
匂いが、視界が、音が、私を昔に帰していく。思い出すは尽八くんと毎年通った夏祭り。楽しかったなあと、ゆったりと瞬きをする。

友達が「何食べようか」なんて辺りを見回しながら笑った。花火は七時からだから、大分時間がある。適当に食べ歩いて、公園で時間でも潰そうかと提案して、目についた出店で食べ物を買った。
しばらく歩き回ると日が傾いてだんだんと薄暗くなっていく。出店の提灯がポツポツと灯りだし、オレンジ色に看板が照らされた。
一通り見て回りそろそろ公園にでも行こうかと声を掛け合うと、通りの一番隅の出店に目を奪われた。子供が数人しゃがみ込んで食い入るように長方形の桶を見つめていた。

金魚掬いだ。

思わず立ち止まって眺めていたら、友達に「金魚掬いたいの?」と聞かれた。

「別に……」

友達の問いに、小さく首を振った。思い出したのは在りし日の尽八くん。
家にあるのは空っぽの水槽だ。でもきっと、そこに金魚を入れたとしても、何かが満たされることはもうないだろう。

「あ、東堂くんだ」
「……え?」

金魚掬いから視線をあげると、向かいの出店に、尽八くんをはじめとする自転車部の男子が数人並んでいた。友達の声に気付いた尽八くんがこちらに視線を向ける。私たちを見つけると、いつものように指を指して「なんだ、来ていたのか!」と声高に言った。

「東堂くんたちも来てたんだね」
「ああ、隼人がどうしてもチョコバナナが食べたいとうるさいのでな。部活の途中で寄ったのだ」

確かによく見ると、尽八くんたちはロードレースの格好をしていた。
夏祭りには随分場違いな格好で、ある意味目立っている。

「ねえねえ、花火までには部活終わる? 一緒に見ようよ。ねえ、夢子もいいでしょ?」

突然尽八くんたちを誘った友達に、ぎょっとして目を見開いた。
尽八くんは「ふむ……」と小さく呟く。ふと、私をジッと見るので、思わず視線を逸らした。
何故私を見る。

「……いや、やめておこう。すまんね。だが他のオレの女子ファンが嫉妬したら可哀想だろう。何しろオレは箱学一の美形だからな」
「そっかあ、残念だね」

わっはっはと笑う尽八くんに友達が眉を下げて笑うと「じゃあまたね」と手を振って別れた。

「ああ、祭り楽しめよ」

尽八くんが私たちに手を振りかえすのを横目で流し、通りを抜けて公園に向かった。


「夢子、あんな顔することないのに」

しばらく歩いて林檎飴に齧りついていたら、友達が呆れたように溜息を吐いた。
思わず眉を顰めると「そういう顔だよ」と釘を刺される。

「だって……」

そんなに尽八くんと花火を見たかったのだろうか。だったら初めから私ではなくて尽八くんを誘えばよかったじゃないか、と口の中で広がる林檎の味を噛みしめながら思った。

「あんな顔したら、東堂くん可哀想じゃん」
「何が……」

何が可哀想なのだろうか。別に私の反応なんて、尽八くんにはどうでもいいことだろう。尽八くんには黄色い声をあげてくれる女子がたくさんいるし、何より私には興味がないだろうに。
私の呟きに、友達はわざとらしく溜息を吐く。彼女がどうしてそんな反応をするのかいまいちわからなかったので思わず眉間に皺を寄せて彼女をジッと眺めたら、友達は「あのねえ」と、一音一音大事にするように発音した。

そうして、信じられないことを言ったのだ。

「可哀想だよ」
「だから何が」
「だって」


だって東堂くん、いつも夢子の話ばっかりするんだよ。


友達が言った意味が、いまいち噛み砕けなかったけれど、理解力に反して心臓はドキドキとまるで警報機のように大きく脈打った。

いつも私の話をする、って、なに?

「私のこと捕まえてさ、夢子は元気かとか、いろいろ聞いてくんの」
「な、なんで」
「そこまでは知らないけどさあ。ただ、大事に思ってるって感じはするよ。いいなあ、夢子。幼馴染なんだって? ふつーに羨ましい」

友達がぶら下げていた袋の中からイカ焼きを取り出して齧った。ソースの匂いがふっと漂ってきて、林檎飴の匂いと喧嘩する。自分が甘いものを食べているのかしょっぱいものを食べているのか、よく分からなくなった。

なんで、尽八くんが、私の話をするんだろう。
友達を捕まえて?
じゃあ、よく廊下で見かけた二人は……?

芋づる式に疑問が出てきて頭の中が疑問符でいっぱいになる。
分からないけど、緊張で手が汗でジワリとした。これは、夏の熱気のせいではないと思う。

尽八くん、どうして。


「夢子!」


えっ。
聞き慣れた声に後ろから呼ばれて驚きつつ振り向くと、手を振った尽八くんが人ごみを掻き分けてきた。混乱している頭が更に動揺して、うるさかった心臓が倍になってうるさくなる。加えて友達が「私、トイレ寄ってくるね」などと言っていなくなってしまうから、余計に緊張してしまった。
思わず逃げるように俯いてその場で固まると、目の前に人が立つ気配がした。すぐに上から「すまんね。呼び止めてね」と言う尽八くんの声が降ってきて、目をぎゅっと閉じた。

「な、なに……」
「ああ、いやな。これを、と」

尽八くんが、不意に林檎飴を持っていない方の私の手を握った。
感触に驚いて目を思い切り開くと、尽八くんが私の指を包んで、何かを掴ませる。
見ると、金魚だった。

「き……」
「掬ったのだ。天はこの美形に金魚掬いの才まで与えてしまったらしいな! たくさん掬えて困ってしまったよ。わっはっは」
「は、はあ……」

訳が分からず、尽八くんと金魚を交互に見つめると、高笑いをしていた尽八くんが不意に真面目な顔をした。そのギャップに思わず息を呑むと、ふっと穏やかな表情で微笑まれた。

「水槽、また空になってしまったのだろう?」
「……うん」
「夢子が寂しがるといけないからな」

尽八くんが時々する、何でも悟ってしまっているような、大人びた笑みを見せる。

どうして。

どうして、こんなことするんだろう。優しくしてくれるんだろう。
私のことなんて、どうでもいい癖に。

嬉しい気持ちと同時に、腑に落ちない感情で苦しくなった。
あんなにすげなくして、避けて、冷たくした私に。
許嫁の話だって、あんなに興味なさそうだったのに。

どうして優しくするの?

「な、なんで……」
「ん?」
「なんでこんなことするの?」

問いは語気が強くなってしまった。
そんなつもりではなかったのに。感情のコントロールが上手くできなかった。

「なんでって……」
「私のことなんて、興味ない癖に」
「は?」

尽八くんは訝しげに、その凛々しく整った眉を顰めた。

「誰が興味ないと言った」
「だって、許嫁の話が出た時だって、どうでもよさそうだった」
「構わんと言ったろう、オレは」
「普通、もっと考えるでしょ。大事なことなのに」
「考えるか」

尽八くんの眉間に、皺が増える。少しばかり、怒っている様にも見えた。

「オレは、嫌なことは嫌と言うぞ」

彼の揺るぎない真っ直ぐな声に、一つ瞬きを零した。尽八くんを見つめると、同じようにジッと見つめ返された。先ほどまで逃げるように俯いていたのに、今は目が離せなくなっていた。尽八くんは、不思議と目力がある。

「オレの気持ちは昔から変わってないし、変わることもないからな。そういう自信がある。だからあの時、構わんと言った。考える必要もない。ただ、夢子次第だなとは思ったが」

何それ。

「大事な夢子の将来を、どうでもいいと思うわけないだろう。オレの気持ちは、あれが全てだよ」

なに、それ。

「興味あるよ。お前のことなら。どうしたらオレと恋をしてくれるんだ」

……。

「……友達のこと、好きなのかと思った」
「どうしてそうなる」
「……だって、ファンの子と違って、特別扱いしてたし」
「当たり前だろう。夢子の友達なのだから」

はっとして目を見開くと、力の抜けた指先から林檎飴を落としてしまった。
けれどもそんなものよりも、尽八くんのビー玉のような瞳が私を映すから、何も考えられなくなる。同時に、何かがじわじわと満たされていくような気がして、それは私の瞼の上に溜まった。

「嬉しかったよ」

尽八くんが、優しそうに笑う。同い年なのに、時々、ずっと年上みたいな顔をする。大人に囲まれて育ったからだろうか。そういうところが、ずっと好きだった。私のこと、なんでも分かってしまって、悲しい時には、優しくしてくれるの。

「ジャージを借りに来た時。オレのこと頼ってくれて」

そういうところ、相変わらず好きなの。

「思い出してくれて、ありがとう」

視界が歪む。金魚の入った袋のように、透明に光が反射して、水っぽくなる。瞬きしたら、涙が零れた。
もう泣くこともないと思ってたのに。失恋したと思った時よりも、嬉しくて泣くなんて、変なの。

「尽八くん……」
「なんだ?」
「勘違いしてて……ごめん」
「構わんよ……しかしだな」
「?」
「夢子の返事を聞いていない」
「……えっと」

しどろもどろに答えると、笑った尽八くんの瞳がキラキラした。
ずっと見ていたくなるくらい、綺麗だなあ。



空っぽだった水槽は、尽八くんのおかげで満たされた。



(20140713)
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