巻島くんって、優しいの?
優しいです!とても!
……そっか。


それなら、よかったの。



珍しい緑色の長髪はどこにいても煌めいた。
自転車部の彼は文字通り目にも止まらぬ速さでいつも私の視界を走り抜けてしまうけれど、ヘルメットからたなびくその髪がお日様の光に透けて、しばらく瞼の裏に名残惜しむように映った。瞳を閉じると真っ暗の中に緑の光が点々とするのが、綺麗だった。
それに彼の髪はまるで学校の中庭に伸びるけやきのようだったので、だから反対にそのけやきを見上げれば彼を彷彿したし、地面に出来る木漏れ日と私の影が重なるのが嬉しかった。

丸い眼鏡の男子生徒と話をしてから結構な月日が経ち、私と巻島くんは相変わらず気まずいまま、季節は夏の真ん中をとおに過ぎていた。受験生にとっては嬉しくない夏休みが始まり、ちらほらと部活を引退して勉強に専念する同級生が増えていた。



「巻島、学校やめるってよ」
「えっ……?」

来週行われる模試に向けて勉強しようと、友達数人とファミレスでノートを広げていた。時々雑談を交えながら各々が教科書と睨めっこしていると、ウエイトレスが運んできたパフェにささっていたポッキーを齧りながら、まるでいつか流行った映画のタイトルのような台詞を友達が言った。

頭が真っ白になった。

苦手な数学に頭を悩ませていた私は、やっと思い出せた公式も泡が弾けるように消えてしまう。彼女の言葉が上手く飲み込めず、公式の代わりに「巻島」「学校」「退学」等の単語がずらずらと並んだ。
ゆっくりと顔を上げると、同じように数人の友達が顔を上げて、ポッキーを齧っている子を見る。すぐに「えーこの時期に?」「なんでなんで?何かしたの?」と、好奇心剥き出しの彼女たちは先ほどまで走らせていたシャープペンを放り投げて、そちらの話題に夢中になってしまった。

「私もよく知らないんだけどさあ、外国の大学に入学するんだって。向こうは九月からだから、それに合わせて日本出ちゃうらしいよ」
「へー、じゃあ高校卒業しないの?」
「海外だって。すごいねえ」
「日本人ぽくないもんね、巻島くん。あはは」
「ねえねえ、夢子知ってたの?」
「……えっ?」

不意に誰か一人が尋ねると、先程まで盛り上がっていた彼女たちは一瞬で私に視線を集めた。未だ混乱している私の口からは思った以上に言葉が出てこず、シンとなってしまう。思わず顔が引き攣った。

「知らないよお。ビックリした。あはは」
「なんだあ、仲良いのかと思ってたからさあ」

そう言うと、すぐに皆は巻島くんの話題に戻っていったが、その後の会話はなかなか頭に入ってこず、だからといって公式が再び思い出せるわけでもなかった。
頼んだティラミスの味は、よくわからなかった。

その日の帰り道。どうやって帰ったかは覚えていない。気が付くと家に着いていた。
自室に向かい、部屋の時計が毎秒同じ間隔で動くのをベッドに寝そべりながら眺めている内に長針は一周回っていた。
夕飯になると母親が部屋まで呼びに来たのだが、私は時計の針が動くのを見るのに忙しいので、小さく断ってまた針を眺めるのに勤しんだ。


馬鹿みたいだと思った。
巻島くんが何を考えているかも知らず、能天気に近寄ろうとしたことだ。私は一人で勝手に、仲良くなりたいと、友達になりたいと、思っていた。けれども……。
丸眼鏡の子と話してから、ずっと考えてた。どうして巻島くんが、あんなことを言ったのだろうかって。それがなんとなく、分かった気がした。

巻島くんは、友達を増やしたくなかったのだろうか。もうすぐやめてしまう学校に。

そう思うと、私を遠ざけたときの巻島くんの笑みがひどく寂しくなる。丸眼鏡の男子の笑顔を思い出すと、もっと寂しくなる。きっとあの子は、巻島くんがいなくなって寂しがるだろう。
巻島くんは、良く目立って、教師からは目をつけられていたし、時々窮屈そうだった。
けど、部活は好きだったに違いない。
昼休みはよく田所くんと一緒にいた。金城くんと笑っていた。下級生は懐いていた。インターハイで優勝するくらい、部活に励んでいた。

走っている時の髪は、眩いくらいに美しかった。

巻島くんは、寂しくないのだろうか。
きっと巻島くんは、置いていくものが多いほど、心を痛めるのだろう。
優しい人だと、言われていたから。


巻島くん、今何を考えているんだろう。


たった一度きり、お昼ご飯を一緒にしただけの私には到底分かるはずもなかった。



受験を控えた三年生は夏休みになっても学校に登校している生徒は多くいたけれど、巻島くんを校内で探すことはしなくなった。探しても無意味だと知っていた。まだ学校にはきているみたいだったけれど、この先巻島くんが学校に登校することはなくなってしまうと、理解していたからだった。
私は、もう巻島くんを好きでいるのはやめた。寂しくて、虚しくなるだけだから。
目に映る生徒の中に、あの緑色がないことを寂しいと思いつつ、考えないようにすることは、さほど難しいことではなかった。
受験生の私には考えないといけないことが山積みであり、たった一度お昼を一緒にしただけで、彼のことをほとんど知らない私が巻島くんについて考えられることは、ずっと少ないのだ。

今までと変わらない。なかったことにすればいい。私を突き放した、巻島くんが望んだ通りに。彼が置いてくものを増やさせない。せめて。

時計の針は今日も等間隔で動き、巻島くんがいなくなる日までカウントダウンをする。
私は針を追うのに忙しい。



それは巻島くんが日本を発つ前日だった。

夕方まで教室で勉強をした後、昇降口に向かうと巻島くんと出くわした。思わずギョっとして、息の仕方を忘れた。
どうして巻島くんが学校にいるのだろう。

誰かを待っていたのだろうか、巻島くんは三年生の靴箱の前に座っていたのだけど、丁度私の靴箱の向かいだったので、ひどく緊張した。
緊張したところで、巻島くんは私のことなど見向きもしないだろうに。何を期待しているのだろうか。私はどうも、無駄なことをするのが好きらしい。話しかけられもしないのに仲良くなりたいと思ったり、目も合わないのに遠巻きに彼を眺めたり、頼まれてもないのにお弁当を作ってきたり、とか、そういうこと。
なるべく平常心を保ちつつ、靴箱に向かうと、巻島くんがこっちを向いている気がした。

「(見てない、見てない、見てない)」

心の中で呪文のように唱えて、ローファーに履き替える。
冬に比べて大分長い夏の陽はまだ昼間みたいに明るい。錯覚して、時間の間隔がおかしくなりそうだった。
颯爽と上靴を靴箱に仕舞って、学校を出て行こうとする。
その時だった。

「なァ……」

心臓が骨を叩いたんじゃないかと錯覚するくらい、跳ねた。昇降口を出て行こうとした足が、金縛りにあったみたいにピタリと止まる。後ろからどこか重々しく聞こえた巻島くんの声はまさしく私を縛る魔法の呪文のようだった。
振り向くことなど到底できずに、その場に俯いて固まると、後ろで巻島くんが立ちあがる気配がした。彼の上履きが、簀子を僅かに揺らす音が聞こえる。
心臓が思い出したように再び大きく弾みだした。唾液もたくさん出る。足の裏も汗ばんだ。巻島くんに声をかけられただけで、私の身体はおかしくなったみたいで、少しだけ不安になってしまった。

なんで、巻島くん。巻島くん、なんで、私?突き放したのは、巻島くんなのに。折角私、巻島くんの言う通りにしようとしたのに。忘れようとしたのに。なかったことに。
巻島くん、なんで。

「……」
「……オレは、言葉にするの、苦手ショ」
「……?」

でも、そういえば、言えてなかったからなァ。

そう言った巻島くんの足音が後ろから迫ってきて私を通り過ぎると、目の前が暗く陰った。
俯けていた顔をゆっくりと上げると、目の前には巻島くんが立っていて、私を見下ろしていた。昇降口を背に光を浴びて透けた緑色の髪が、一等美しく輝いて見えて、ああやっぱり私は、この人が好きなんだろうなあと思い知らされた。

見上げた先の巻島くんは、ジッと、私を見ていた。
思い出すのは、あの日、一人ベンチでお弁当を食べていた日のこと。あの日もこうして、巻島くんは私を見下ろしていたのだった。

「弁当、うまかった、ショ……」

そう言うと、巻島くんはすぐぎこちなく視線を逸らして頭を掻いた。
私はというと、何を言えばいいのか分からず、ただ黙って巻島くんを眺めるしかできなかった。

だって、巻島くんにとって、あの日のことなんて取るに足りない出来事だと思っていたから。だから、わざわざ、お弁当の感想なんて、それも今更、私を突き放した巻島くんが言ってくれる意味が、測り兼ねたのだ。
巻島くんには、分からないことが多すぎる。

「それだけ、ショ」

巻島くんは長い髪を揺らして踵を返すと、校舎を出ていってしまった。
別れの挨拶もなしに。

私はただただその後ろ姿を見送るばかりで、瞬きをすると、鼻の奥がツンとして、どうしようもなく悲しい気持ちにさせられた。




その日の夜。家に帰ってからやはり時計の針が等間隔に動くのを眺めていたが、思い出すのは昇降口での巻島くんのことばかりだった。
一体目が合ったのはいつ振りだろう。声を聞いたのは?あの綺麗な髪を最後に見つけたのは、それこそずっと昔のことのような気がした。

嬉しかった。巻島くんと目が合って、声が聞けて。すごく嬉しかった。気持ちがはしゃいだ。白米と梅干しか入っていないような、味気のなかった私の毎日が、一変したみたいだった。巻島くんを忘れようとした毎日は、私にとってとてもつまらなく、味気のない毎日だった。
こんな簡単なことで、私は何度も巻島くんに恋をしてしまうんだ。
そう思うと、どうしようもなくやってくる明日が、心底恨めしく、同時に心底愛おしく思った。
きっと明日がなければ、今日のこともなかっただろうと。


かちかちかち。時計の針が等間隔で鳴る。明日が一秒ずつ近づいてくる。
転がったベッドは眠気を誘わない。目は冴えて、気持ちは落ち着かない。
明日、巻島くんは日本を発ってしまう。
このままでいいのだろうか。私の可哀想な恋は。

時計の音を子守唄に真白い天井を睨んだ後、徐に立ち上がってキッチンに降りた。




次の日の朝。
私がいたのは巻島くんの家の前だった。
昨日の夜、迷惑覚悟で同じクラスの金城くんに巻島くんの家の場所を聞いた。金城くんは、巻島くんの飛行機の時間も教えてくれた。

来てしまった。また出しゃばった余計なことをしてしまっただろうか。迷惑に思うかもしれない。
それでも、居ても立ってもいられなかったのだ。

二三度深呼吸する。覚悟を決めてからインターフォンを押そうとすると、玄関が開く音がした。
驚いたことに巻島くんの家はとても大きいので、門から玄関までは大分ある。門から中をこっそりと覗くと、見たことのない色合いの私服の巻島くんが外に出てきたので、更に驚いた。
もう出発なのだろうか。すごいタイミングだ。

「……よぉ」
「あ、お、おは、よ」

思わずどもったけれど、巻島くんは私が家の前にいることに、あまり驚いていないみたいだった。不思議に思って首を傾げると、巻島くんが「金城が……」と呟いた。

「え?金城くん?」
「昨日、お前に家の場所聞かれたから教えてもいいかって連絡してきてな」
「あ、そ、そうなの……」

なんだ、巻島くん、私が来るの知ってたんだ。
何故か無性に恥ずかしくなって、顔が熱くなるのがわかった。

「で、何か用っショ?」

巻島くんが何を考えているのか分からない瞳で私をジッと見た。
その視線に思わず緊張から喉が鳴って、目が泳ぐ。早く言い出さなければ、と思えば思うほど、心臓は速く鳴りはじめた。
この期に及んで、意気地がないのは、我ながら意地が悪い。

「……用がねーなら……」
「あ、ある!」
「……なんショ」

慌てて引き留めるように言うと、巻島くんはもう一度待ってくれた。

巻島くんは、優しい。今日は忙しいだろうに、友達でもない私に時間を割いてくれている。
そういうところに、私は恋をしたんだろうなあ、なんて。一緒にお弁当を食べた日のことを思い出すと、気持ちが自然と落ち着いてきた。

もう一度深呼吸をし、巻島くんをジッと見ると、彼は少したじろいで身体を後ろに逸らした。
そして。

「巻島、くん!」
「……ショ」
「お弁当を、作ってきたので!」

は?
巻島くんの口が困惑気味に半開いた。

私はスクール鞄の中からお弁当箱を取り出すと、そのまま勢いよく巻島くんの前突き出してみせる。
巻島くんは私をお弁当を交互に見た後、戸惑いがちにお弁当を受け取った。

「今日の、自信作なの」
「……へー」
「食べてくれる?」
「あ、あぁ……」

尋ねると、巻島くんはやはり私の意図を測り兼ねるかのように、ぎこちなく頷いた。
そんな巻島くんを見て、思わず笑いを零すと、巻島くんは更に眉間に皺を寄せて訝しげな表情をした。

「あのね、巻島くん」
「……なんだよ」
「えと、インターハイ、優勝おめでとう」
「……ああ、サンキュ」
「あは、やっと言えた。ずっと言いたかったんだあ」
「……そうかヨ」
「うん」

巻島くんとは、話したいことが、たくさんあったんだ。
もっと、巻島くんのこと、知りたかったから。

やっぱり私は、巻島くんのこと、もっと知りたいの。
だから。

「ねえ、巻島くん」
「……」
「そのお弁当箱、お父さんのなの」
「……は?」
「だから、ちゃんと返してね。日本に帰ってきたときでいいから。必ず」

私の言葉を聞き終えると、巻島くんは僅かに目を見開いて、驚いた顔をした。
私はというと、言い終えた安堵からか、巻島くんが日本からいなくなってしまうことへの実感からか、どうしようもなく目の奥が痛くなって涙が一粒落ちてしまった。
下唇を上の歯で噛んで嗚咽を漏らさないように耐えると、巻島くんはもう一度目を見開いた。

巻島くんの顔を見ていたら、やっぱり涙が堪えきれなくて、一粒じゃ飽きたらずボロボロ落ちるから、両手で顔を覆うと視界が暗くなってしまうので、巻島くんが見えなくなった。
きっと今日からは巻島くんが見えないことが当たり前なんだ、と何度も思ったのに性懲りもなくまた思ってしまう。

なんでこんなに好きになってしまったのだろうか。
たった数回会話をしただけの人を。
ただ、毎日追いかけていた彼の緑色の髪を見ることができなくなるのは、とても寂しいことには違いなかったのだ。

「……返しにいくっショ」

必ず。

ふと、巻島くんの揺るぎない声が聞こえた。
確かに耳に聞こえたソレに、二三度瞬きをしてからゆっくりと涙を拭って彼を見上げれば、思わず目を見張ることとなる。


そこには、初めて私に笑みを向ける巻島くんがいた。


巻島くんを忘れようなんて、なんて無駄なことをしたのだろうと、涙がまた落ちた。


いつかの私は、もっと仲良くなりたいと思った。笑ってほしいと思った。
欲張りな私の願いが、とうとう届いて、私はきっと、これ以上ない幸せ者に違いないのだろう。だからまた、涙がこみ上げようと必死になるのだ。


だから私も、巻島くんを笑顔で送り出そう。優しい巻島くんが、置いていくものに、心を痛めないように。


「いってらっしゃい。巻島くん」

巻島くん。今日のおかずはねえ、コロッケなんだよ。
喜んでくれるといいなあ。
笑ってくれるといいなあ。


帰ってきたら、たくさん話そうね。




(20140615)
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