あれから一度も巻島くんが会釈を返してくれないのは、きっと私が自意識過剰だからだろう。
私の髪の毛は校則に沿った地味な色で、巻島くんのように目立つものじゃないから、私が人波から巻島くんを見つけるほど簡単に、巻島くんは私を見つけることができないのだ。だから、私が目が合ったと思う時、それは大概勘違いで、巻島くんはきっともっと遠い山を眺めているに違いない。
だから巻島くんはすぐにそっぽを向いてしまうのだ。
私は随分な楽観主義者であった。
「(あ、巻島くんだ)」
月が変わってから最初のお昼休み。やっと訪れたお小遣い日により、充分膨れた財布を抱えて自販機に飲み物を買いに行くと、購買の袋を下げて一人購買から出て行く巻島くんを見つけた。相変わらず彼の穢れなき緑色の髪はよく目立ち、窓から射す日差しに透けるその色がとても目を惹いた。
その靡く髪に見入っていると、ふと、いつもお昼休みには隣を歩いている田所くんの姿がないことに気付く。お休みだろうか。それとも用事?いづれにしても、一つの可能性が脳裏に浮かんだ。
巻島くん、今日は、お昼、一人なのかなあ。
「(もしも一人なら、あの日みたいに、一緒にお昼、食べれないかなあ)」
降って湧いた図々しい願望が、唐突に心臓を慌てさせる。
期待に思わず喉が鳴った。
「(いやいや、それはさすがに……)」
汗ばんだ両手で財布を握ると苦笑いを零して自身を諌めた。
図々しい、図々しい。私は巻島くんの友達でもなんでもないのに。あれから一度も話しもしないのに。そんな人に付きまとわれたら、きっと巻島くんだって困惑するに違いない。あの八の字に下がった眉に皺を寄せて、なんと断ろうか、言葉を選びながら視線を泳がすだろう。あんな優しい人、困らせたくない。
「(でも……)」
どこかで諦めきれない誰かが「(こんなチャンス、滅多にないし)」と囁いた。
苦笑いに引き攣っていた口角は自然と下がっていく。
本当の本当は、また巻島くんと、一緒にお昼ご飯食べたい。
そんな私には気づかない巻島くんは生徒の間を縫って遠くなってしまった。そうして昇降口へ行くと、ローファーに履き替え、校舎をのそりのそりと独特な歩き方で出て行ってしまう。
「(あ!)」
行っちゃう!
あれだけもんもんと悩んでいたのに、頭の中で叫び声が聞こえると無意識に飛び出した足は靴も履きかえずに巻島くんの後を追いかけた。
校舎を出ると既に巻島くんの姿は見当たらず、首を左右に振り回して探すと、丁度校舎の角を曲がる、誘うような緑の毛先が見える。考えるより先に足が地面を蹴る。
「(もしかして巻島くん、あのベンチに行くのかも!)」
彼の切れ端は既に見えなくなってしまったのに、どこに行けばいいのか知っていた。走りながら思い出すのは、初めて巻島くんと喋ったあのベンチ。
そういえばあの日も、巻島くんは一人であそこにやってきた。田所くんと一緒にいない日は、あのベンチに通っているのかもしれない。
思わず頬が緩むのがわかった。
時間があの日に返る。また、巻島くんとお話しできる。巻島くんと。
それがどうしようもなく嬉しい。
足を進めると着実に校舎の角に近づいていく。あの角を曲がれば、すぐ隣にはベンチがある。巻島くんはきっとそこにいる。
巻島くん……巻島くん……まきしまくん!
ようし、ままよ!
「ま、まきし、まくん!」
裏返った。
校舎の角を曲がったと同時に勢いよく裏返った私の変な声に、そのベンチで座っていた人物は、驚いたように肩を上下に震わせた。同時に、緑色の髪が肩から落ちて揺れるのが見えた。
巻島くんは、普段から細い目を一度僅かに見開いてから、すぐにまた目を細めてジッと私を見上げた。
「あ、あの、お昼、一人?」
「……ショ」
「あ、えと……一人、だったら……」
やだなあ、声震える。
「一緒に食べたい、なあ、って……」
しどろもどろにそう言い切ると、当然巻島くんの顔なんて恥ずかしくて見れなくなってしまって、俯いてしまった。無理矢理笑顔をつくった筋肉は緩むことを忘れて引き攣ってしまう。
夏の日差しに熱くなったコンクリートが目を焼く。それでも、巻島くんを見ることの方が熱くなってしまいそうだから、黙って俯いた。
巻島くん、何て言うだろうか。
巻島くんの言葉を待ちながら、正直気持ちは浮かれていた。
巻島くんが優しいことは既に知っているし、前に一度誘った時だって、照れてはいたみたいだけれど、嫌な顔はしなかったもの。
だから、巻島くんが断るはずなんてないと、高を括っていた。だから。
「……そいつぁ無理だなァ」
「……え?」
予想外に答えに顔を上げると、目の前にいる巻島くんは口角をあげて「クハッ」と、笑い声にしては馴染のない音で笑った。
笑った?
巻島くんに笑ってほしいと、さめざめ思っていた自分を思い出す。
けれども全くもって嬉しい感情が訪れないのは、巻島くんの笑った顔が自転車部の人(特に丸い眼鏡の子)に見せる穏やかなそれとは全く違うものだったからである。
今の巻島くんには、どこか嘲笑が混じっているように思えた。
何故?
「え、と……」
「お前とは食わねえっショ」
「あ、え、と、私とは嫌……ってこと?」
「……」
正直、否定を期待して確認したはずだったのに。巻島くんの沈黙は簡単に肯定の意味を私に悟らせて、頭を真白にさせる。
まさか、こんなに面と向かって断られるとは思っていなかった。私は上手く言葉が出ない。いつもだったら適当に笑って取り繕えるのに、巻島くん相手だと、それが上手くいかない。
自分で理解しているよりもずっと、巻島くんのことが好きみたい。
「あ、の……」
「……オレはよォ」
「え?あ、はい」
「他人と飯食うの好きじゃねーんだわ」
「た」
たにん。
巻島くんの台詞を脳内で繰り返すと、目の前が真黒になる。頭の中は真白なのに、目まぐるしく白黒してしまうのは、眼球がそれと同じ色だからだろうか。そんなこと、考える余裕などない。
なんら間違ったことは言われていない。確かに私と巻島くんの関係は知り合い以上友達未満つまり「他人」という括りに他ならないのだが、それでも、面と向かって言われるとショックに違いなかった。
何より、口の端を吊り上げて嘲笑じみた表情をする巻島くんに、酷く動揺してしまったのだ。
なんで、巻島くん。そんな寂しいこと、言うんだろう。
「お前がここのベンチ使うなら、オレが別のとこ行くっショ。じゃーな」
巻島くんはゆったりと立ち上げると、私の隣を横切って去って行った。
私はと言えば、巻島くんの後ろも追えず、引き留めることもできず、詰ることも出来ず、ただただその場で立ち尽くしていた。
嫌われた?なんで?
だって、巻島くんに嫌われるほど、話なんて出来てない。
精々、目が合って会釈して、すれ違いざまにはにかむ程度なのに。
どうしてあんなに突き放した言い方をするんだろうか。
折角巻島くんが笑ってくれたのに。
ちっとも嬉しくないの。
「(だって、こんなの)」
失恋したみたいだ。
「夢子、今日元気少ないね」
思わず友達の問いに瞬きが多くなったのは、次の日の移動教室の時だ。音楽室へ向かうために階段を降りていると、友達は不思議そうに首を傾げて「何かあったの?」と尋ねた。
陰気なオーラでも醸していたのだろうか、適当に笑って「今日のお弁当、パプリカ入ってるの」と言うと「子供ねえ」と友達もつられて笑った。
友達といるのに、内心頭にこべりついた汚れのように消えないのは、昨日の巻島くんの言葉だ。
考えないようにしようと考えると、考えてはいけないことを考えてしまう。
巻島くんのことばかりが頭を巡って、まるであの緑色の長髪に、首でも絞められてしまったみたいに息苦しい。
いっそ「失礼な奴だ」と嫌いになれればどれだけ楽だったのだろうか。それでも「嫌う」という選択肢は私の中に一欠けらも存在しないようで、どうしたら巻島くんの機嫌が取れるのか、そればかりを考えていた。
「(どうしてあんなこと言ったんだろう)」
単純に、素直な気持ちだったのか。けれども、あんな嫌味な言い方をする人なのだろうか。私の知っている巻島くんは、気の利いた言葉を言うのは苦手みたいで、視線は泳ぐし顔は引き攣っていたけれど、でも優しいのはわかった。コロッケをくれて、私のお弁当を食べてくれた。優しいって、思う。
けれども私は、あの日の巻島くんしか知らないから。
それが「思い過ごしだよ」と誰かに言われてしまえば、たちまち自信を失くしてしまうだろう。恋は盲目と言ったのはどこの誰だろうか。私はただただ、巻島くんに盲目になって、自分勝手な解釈で巻島くんを縛っているのかもしれなかった。
もしかすると、私の恋した巻島くんは最初からいなかったのかもしれない。巻島くんは本当の本当にコロッケを忘れただけの人で、私のお弁当も付き纏られるのが面倒くさいから食べてやっただけ、とか。巻島くんの優しさだと思っていたものが、全て私の勘違いだとしたら……?
そんなこと、考えたくもない。寂しい。
誰かが「巻島くんは優しい人だよ」と言ってくれたらなあ。そうしたら、自信が持てるのに。
はあ、と溜息を人知れず漏らし最後の段を降り切って踊り場から廊下に足を踏み入れた瞬間だった。
「わっ」
男子生徒と肩がぶつかった。それほど強くぶつかったわけではないけれど、その男子生徒は前を向いて歩いていなかったせいか、酷く驚いて腕に抱えていた何かを落としてしまった。透明の球体のようなそれは二三度安っぽい音で跳ねた後、コロコロと転がって階段の方に向かう。
落ちる。
咄嗟に小走りで駆け寄ってその球体を拾い上げると、後ろから「わあ、す、すみません、すみませんでした!」と酷く焦った声が追いかけてきた。
球体は小さい頃よく見た、ガチャガチャの入れ物だった。
「すみません、拾っていただいて!」
男子生徒が後ろから声をかける。
振り向くと、どこかで見たことのある丸い眼鏡が私を反射させた。
「(あ、この子)」
巻島くんと、時々喋っている男子だ。
「ご、ごめんなさい!ボク、前を見ていなくって……あの、怪我とかしてないでしょうか」
「してないから大丈夫だよ。そっちこそ大丈夫?ごめんね、こっちこそあんまり前見てなくって」
一年生の階にいるから、一年生なのだろうか。そういえば、制服のズボンの裾も少し長い気がするし、三年生の男子のように解れてはいない。
はい、と拾ったガチャガチャを差し出すと、男子生徒は安堵したように頬を赤らめて「すみません」と謝った。謝罪の多い子だ。
「ねえ、君、自転車部?」
「え?」
ガチャガチャを受け取る彼に尋ねると、不思議そうに首を傾げた。「どうして知っているのか」という意味だろうか。
「巻島くんといるとこ、時々見る……」
「え、あ、ま、巻島さんですか!」
瞬間、戸惑っていた彼の表情が花咲くような満面の笑みへと変わった。
思わず驚いて、目を見開く。
「お知り合いなんですか?」
「うーん、どうかな」
「ま、巻島さん、かっこいいですよね!あと、かっこよくて、気さくで、それから、えっと、オシャレで、強くて、かっこよくて!」
かっこいいって三回言った。
何度も噛むのに、彼は巻島くんのことをそれはそれは嬉しそうに話した。
頬を赤らめる彼の姿をぼんやり眺めていると、相槌を打たない私に気付いたのだろうか、ハッとしたように口を止めると「すみません」と謝った。
「なんで謝るの」
「えっと……ボクばかり喋ってしまって……」
レンズの奥の丸い瞳が、申し訳なさそうに上目づかいをした。
「ひとつ、聞いてもいい?」
私の言葉に、彼は狼狽しているようだった。
突然、見ず知らずの先輩から意味深に質問されるのだから、緊張もするだろう。なんだか申し訳ないことをしている気がする。どこか小動物のような印象をもたす彼。怖がらせないように、口元に笑みを浮かべて見せた。
「……巻島くんって、優しいの?」
至極、優しい声で問いかけたつもりだった。けれどもどこか、泣きそうな声になってしまった。優しいと悲しいは紙一重なのかもしれない。
眼球が熱い。無意識に膜で覆われる。視界がぼやけた。
彼の眼鏡に反射する自分は、酷く情けなさく見えた。
私の問いに、丸い眼鏡の彼はもう一度、満面の笑みを見せ、答えた。
「優しいです!とても!」
その言葉だけで、私には充分だった。
(20140519)