遂にこの時間がやってきてしまった。

学生の本分とされながらも大多数の生徒から嫌厭される勉学より解放され自由の身となる昼休み。欲求に身を任せ食に走る生徒たちが、机の上で色鮮やかなお弁当を広げたり、購買に並ぶ魅力的な惣菜パンに目移りする中、私はといえば一人俯いて廊下を歩いた。腕の中には、お気に入りであるギンガムチェック柄のランチトート。大事に抱えて、早歩きで階段を降りると、昇降口でローファーに履き替えて、校舎裏のベンチに向かう。
今日のお昼はここで食べようと、二時間目の数学の時から決めていた。
友達には「なんで一緒に食べないの?」と訝しまれたけれど、恥ずかしくて到底理由なんて話せたものじゃなかった。

小走りに校舎の壁沿いを進んで角を曲がると、すぐに目的のベンチが顔を出す。予想通り人気はなく静かなそこは、ベンチの向かいに植えられた木の列が日陰をつくっていて、涼し気な木漏れ日がさしていた。何故このような人気のない校舎裏にベンチが一つポツリと置かれているのかは甚だ不明だが、随分と古いベンチだから、もしかしたら捨てるために裏に移動させられたものかもしれない。それが何かの理由で置きざりになっているのだろうか。と、幾ら推測したところで、答えなど出ようがないのだけれど。
兎にも角にも、春から夏に変わりかけているこの季節には、結構な穴場だったりする。

何より、誰にも見られないのが一番いい。

ベンチに座り一息つくと、辺りを見回し誰もいないことを確認してから、ランチトートの中からお弁当を取り出した。楕円形のお弁当箱には有名なキャラクターのイラストが描いてある。小学生の時に買ったお弁当箱を、未だ後生大事に使っている私は、結構物持ちがいいようだ。
そうこうしていると文字通り空の胃袋が「ぐう」と文句を言うので、溜息を吐きながら蓋を開けた。
今日の献立は。

「……質素」

白いお米と、赤い梅干しの日の丸弁当。
それだけ。

「あーお肉食べたいなあ……タンパク質と、コレステロールと脂肪と……」

勉学に脳みそをフル活用し疲れ切った頭は確実にエネルギーを必要としているというのに、私のお弁当の中は、何度瞬きをしてみても、白いお米と赤い梅干し以外、おかずというおかずが増えることはなかった。

お小遣いの使い込みが災いしお昼ご飯さえ買うことができなくなってから早数日。
母親にはせめて昼食代をと強請ったのだが「自業自得なんだから花嫁修業だと思って自分でお弁当でも作りなさいよ。冷蔵庫の中身は使っていいから」と軽く受け流されてしまった。仕方がないのでここ数日は渋々お弁当を作っていたけれど、昨日の夜は作る気力もなく、朝も寝坊して、結果お米を詰めるので精一杯だったのだ。
思わず「漫画かよ」とツッコミでも入れたくなってしまうような質素を絵に描いたお弁当を友達に見られるのが恥ずかしくて、今日は一人の昼食を決めたけれど、やっぱり寂しい。ちびちびお米を食べながら片手では収まらない次のお小遣い日までの残りの日数を数えてみるけれど、ちゃんと毎日お弁当を作れるのか不安になってきた。育ちざかりのお昼ご飯が白米と梅干だけでは到底足りないし、授業中お腹でも鳴ったらいい笑い者だ。

「お腹空いたなあ……」

中身の残ったお弁当眺めつつ箸でお米をつまみ、口に運びながら悲しみに暮れる。
食べながらお腹が空くなんて、我ながら器用だなあ、なんて。
仕方がないから唐揚げ、ハンバーグ、エビフライ……のことを想像しながら白米を咀嚼すると、これが不思議なもので、少し白米の味が…………変わるはずなかった。

そんな寂しい昼食に溜息を吐くと「うわっ!」と驚いたような人の声が傍からして、反射的に振り向いた。
丁度、私が来た道。校舎の角にいる人がこちらを見て固まっている。一瞬だけ、目が合った。
その男子生徒。緑の長髪という、異様な風貌の彼は、学年の中では(ある意味で)有名人だった。

「巻島くん」
「あー、ワリィ。人がいると思わなくてな……ちょっとびっくりした」

そう言った巻島くんは右手の人差し指で頬をかき、視線を横に泳がせる。
確かに、ベンチは校舎の角を曲がるまでは死角だし、曲がったすぐに置いてあるから、誰もいないと思っていると、驚くかもしれない。

巻島くんは左手に購買部の袋をぶら下げている。一人でお昼を食べようとしていたのだろうか。時々、田所くんと食べているのを見たことがある。巻島くんとは同じクラスになったことがないから詳しくは知らないけれど、巻島くんのあの奇抜な髪の毛はどこにいても大層目立ってしまうから、なんとなく知っていた。

今日は一人なのだろうか。というか、巻島くんもこの場所を知っているんだなあ。

気まずそうに視線を泳がす巻島くんをぼんやり眺めていたら、立ち去ろうとしたのだろうか、彼の足は一瞬後ろに後退したのだが、それとほぼ同時、巻島くんは視線を真っ直ぐ私の膝元に注いだ後、眉間に皺を寄せた。同じように目の下は小刻みに痙攣し、口の端は引き攣ったように上がる。
巻島くんはいつも仏頂面というか、無表情だけれど、今の顔は恐いというかなんというか、端的に言うと「ドン引き」していた。
巻島くんの表情の意味を測りかね、不思議に疑問符を浮かべて目を細める。そうしてゆっくり巻島くんの視線を追ってみれば、行きつく先は膝元に置いた質素な日の丸弁当。
そこでようやく、頭の上の疑問符は閃きの豆電球へ変わった。

「きゃあ!」

風を切る速さでベンチに置いていた蓋を掴みお弁当箱にかぶせると、上半身を丸めて、体の中にお弁当を隠す。顔を上げて巻島くんを見ると、何事だとでも言うように、巻島くんは驚いたように目を丸くさせるので「え、えへへ」と取り繕ったように笑って見せたが、あろうことか最高のタイミングでお腹の虫が「ぐうー」と鳴った。割と長く。

最、低。

恥ずかしい。穴があったら入りたいくらいに恥ずかしい。顔は青ざめればいいのか赤くすればいいのかわからない。
喋ったこともない男子に、こんな可愛げないお弁当を見られてしまうだなんて。しかも、こんな人気のないところで、一人で食べているだなんて。

私の苦笑いをやや仰け反り気味に見届けると、巻島くんは決して大きくはない、どちらかというと細い目を更に細くしてから、二三歩後ずさって、特に私に言葉をかけるでもなく、足早に去って行った。

「(い、行ってしまった……)」

巻島くんを引き留めるように、もう一度お腹が低い音で鳴る。
角の向こうは私にとっても死角である。角を曲がった巻島くんの姿を見送る術もなく、間抜けに開いた口をそのままにして、誰もいない景色を眺めた。

「(……引いたのかな)」

花も恥じらう年頃の娘が、このような手抜き弁当と言うにも甚だしい質素なお弁当をつついているのだ。引かれたとしてもしょうがない。
きっと教室では、女子たちが色鮮やかな小さく可愛いお弁当を頬張って「お腹一杯ね」などと頬を満足げに染めているはずだ。サンドウィッチにおにぎりに卵焼きにから揚げにウインナーにほうれん草のおひたしにポテトサラダにプチトマトにナポリタンにピーマンの肉詰めにうさぎのリンゴにゼリーにプリンにそれからそれから……。彼女たちのお弁当は、こんな色の偏ったお弁当ではなく、宝石みたいに輝いているだろう。
それと比べて私のお弁当ときたら、可愛げない。

「(とは言うものの……)」

話したことのない男子に引かれるのは、結構凹む。
巻島くんは口数の多い人ではない(と思う)から、面白おかしく吹聴することは決してないだろうけど、今度から巻島くんと廊下ですれ違うたびに「あ、日の丸弁当の女子だ」などと思われるのかと思うと、生き恥にもほどがある。もういっそ、指差して笑われた方がよかった。

「はあ……」

今日何度目か分からない溜息を吐いて俯くと、不意に私の上に日陰が増えた。
何事かと顔を上げてみると、黒字のチェックが入った黄色のズボン。白いシャツ。男子生徒の制服が見える。目の前に、男子生徒が立っていた。
更に視線を登らせると、陽の光が透けて眩さを秘めた緑色の髪の毛が見える。

緑?

時々赤が混ざるその髪を追っていくと、やはり眉間に皺が寄っている、先程去っていったはずの巻島くんが私を見下ろして立っていた。

「巻島くん……?」

あれ? なんでいるんだろう?

「……あー……」

何か言いたげに口を半開きにした巻島くんが発したのは煩わし気な唸り声で、私と目が合うとすぐに視線を逸らしそっぽをむいて前髪をかきあげた。
緑の髪が彼の動作に合わせて揺れる。

私はといえば、何故先ほど立ち去ったはずの巻島くんが私の前にいるのかわからず、また、巻島くんの発する音が意味を成さないので更に戸惑い、ただただ巻島くんの次の行動を見守ることしかできずにいた。

巻島くんは逸らした視線を一度私に戻し、何か言いたげにジッと見つめる。
私も巻島くんの真意が気になり、見つめ返した。
けれども巻島くんは結局言葉を発さず、重たげに息を吐いてからその手に持っていた購買部の袋をベンチにポイっと放ると、髪を揺らして踵を返してしまう。

「え? 巻島くん、これ、忘れ物?」

背を向けた巻島くんに、ベンチに置かれたビニール袋を指差して尋ねるが、彼はこちらに視線を送ることなく再びその場から立ち去ってしまった。

「なんなんだ……」

訳も分からず既に姿の見えない巻島くんを見送ってから、彼の置いていった袋の中を覗く。
中には、更に紙袋が入っていて、取り出して確認すると、少し冷えたコロッケだった。

「コロッケ……」

なにこれ。



次の日の昼休み。
ギンガムチェックのランチトートを抱えて行くのは、隣のクラス。
廊下からそっと教室を見渡してあの目立つ後ろ姿を見つけると、入り口近くにいた女生徒に「巻島くん、呼んでくれる?」と頼んだ。

「なんショ……」

女生徒に呼ばれた巻島くんが気怠げにやってくる。
八の地になった眉は、突然訪ねてきた名前も知らない女生徒に困惑しているわけではなく、元々そういう顔をしているからに他ならないのだが、落ち着きなく視線を泳がせる様は、やはり困惑しているのかもしれなかった。

「あの、昨日はコロッケありがとうね!」

そう、はにかみつつお礼を言うと、巻島くんは僅かに目を見開いてポカンと口を半開きにさせて私を見た。心なしか頬が赤くなっている気がした。

結局、昨日巻島くんはコロッケを取りに来なかった。もしかして、しつこくお腹を鳴らす私に差し入れてくれたのかもしれないという考えにようやく至ったのは、昼休み終了の五分前である。
内心、困惑した。巻島くんから面と向かって「食べてもいい」と言われたわけではないのだから、勝手に食べていいわけがない。
……と思いつつ、巻島くんの好意がもったいないので食べた。

コロッケは冷えていたけれど、人生で一番美味しかった。

すぐにでもお礼を言いに行こうと思ったけれど、昨日は巻島くんが捕まらなかった。
巻島くんは休み時間になるとあまり教室にいない人みたいだ。放課後はすぐに部活に向かってしまうらしい。部外者の私が部活の邪魔ができるはずもなく、結局今の今までお礼の一つも言えなかった。

やっとお礼を言えた、と一人安堵に満面の笑みを零す。

けれどもどうしたのだろうか、相変わらず巻島くんは固まったまま黙っているので、思わず首を傾げて彼を見上げた。

「……」
「あれ?昨日のお昼……コロッケくれたよね?」

私が尋ねると、巻島くんは顔を逸らしながら頭を掻いた。

「……別に、あげたわけじゃねーっショ……置き忘れただけだ」
「え、嘘!くれたのと違うの!?」
「……」

巻島くんは何も言わず、私の隣を通り過ぎて廊下に出る。急いでその後ろを追いかけた。

「で、でも、昨日勝手に食べちゃったよ?も、もったいなかったし……」
「別に、オレが忘れただけだから気にしなくていいっショ」
「……そう」

のそりのそりと前を歩く巻島くんを眺めながら「なんだ、私の勘違いだったんだ」と、先ほどまでの自意識過剰な自分が恥ずかしくなった。顔が熱い。あんな満面の笑みまで見せてしまったのが、間抜けにもほどがある。昨日に引き続き、穴があったら入りたい衝動に駆られた。
昨日から巻島くんには恥ずかしいところばかり見せているなあ。
巻島くんに気付かれないように、小さく溜息を吐いた。

「……いつまでついてくんだよ」

気怠げな声に呼ばれて顔を上げると、小さく振りかえった巻島くんが私を見ていた。相変わらず眉は八の字で唇はきゅっと結ばれている。
巻島くんの表情は、何を考えているか分かりにくい。

「……巻島くん、どこ行くの?」
「……購買」
「……ふうん」

どうしよう。
実はもう一つ、巻島くんに言わなければならないことがあるというのに、私の勘違いだったという事実からものすごく言い出しにくくなってしまった。

なかったことにしてしまおうか。それとも、恥ずかしついでに言ってしまおうか。
脳内で葛藤していると、腕に抱えたランチトートが重くなった気がした。

「巻島くん……」

再び歩き出し、階段を下っているところで、巻島くんを呼んだ。私より二三段下にいる巻島くんが、顔を上げて私を見る。

「……なんだヨ」
「あの……えっと……」

私の言葉を待つように、ジッと見られる。
視線に緊張する。恥ずかしくなってきた。
でも、でも……。


ええい、ままよ!


「じ、実は!昨日のお礼にと思って、お弁当を、作ってきた、のですが!」
「……は?」
「ま、巻島くん、まだ、お昼買ってないなら、あの……食べてもらえる?」

一息に言い切ると、抱えていたランチトートに力を入れた。
巻島くんを上から見つめると、巻島くんは「え、あ、え……は?」と言葉にならない返事を吐きながら絵に描いたように慌ててみせて、挙動不審とも言える動作をした。そしてどうしてか、僅かに頬を赤くさせながら「べ、別に、礼されるようなことしてねーっショ!」と、どもり気味に答えた。

「で、でも、やっぱり、昨日は嬉しかったし……えと、作っちゃったし……あの、嫌なら、いいんだけど……」

やっぱり、出しゃばったことしたかな……と巻島くんの反応を見ながら羞恥に顔を染めた。よくよく考えてみれば、話したことのない女子からいきなりお弁当持ってこられても困るに決まっている。
折角好意でコロッケをくれたのだから、お金で返すよりもこっちのほうがいいだろうと思ったのだけれど、裏目に出てしまった。

「あは……えと、なんかごめんね!迷惑だったよね!やっぱナシ!ナシで!」

慌てて笑顔で取り繕り捲し立てるように謝ると、巻島くんに背を向けて逃げるように階段を駆け上がった。

恥ずかしくって、もう巻島くんの顔、見れない。

「ま、待てよ!」

するとどうだろう。突然腕を掴まれ後ろに引っ張られると、思わずバランスを崩しかける。驚いたまま反射的に手摺を掴んで踏みとどまってから、後ろに振り返った。

目の端に、緑色が映る。

「え、ま、まきし……?」

先程まで数段下にいたはずの巻島くんが、戸惑った表情をして真後ろに立っていた。
巻島くんの表情に私も戸惑い、加えて掴まれた腕が気になってぎこちなくそちらに視線を向けると、巻島くんは「あ、わ、ワリィ!」と慌てて手を離した。

「巻島くん……?」
「あー、いや、その……なんだ……」

巻島くんは頬をかきながら視線を泳がす。
中々切り出さない巻島くんを、訝し気に眺めた。
しばらくすると、巻島くんは小さくぽつりと呟いた。

「も、もったいねーっショ……」
「え」
「食うっつってんだヨ」

顔を真っ赤にさせて口をへの字にさせる巻島くんは、文字通り、照れているのだろう。
何故照れているのだろうか。
よく分からないけれど、巻島くんが照れているので、私も無性に照れてしまった。



「あ、巻島くん、嫌いなものある?」
「……別に」
「あは、よかったー」

校舎裏のベンチに二人で腰掛けて青い色のお弁当(お父さんのやつ)を差し出すと、巻島くんは詰まっているおかずをまじまじと見た。卵焼き、ミートボール、アスパラ巻きにプチトマトとポテトサラダ……。もしかすると、白米に梅干し一つかもしれないと、疑っていたのかもしれなかった。
私から箸を受け取った巻島くんは、私の様子を窺いながら、左手でミートボールに箸をつける。

「ど、どう?」
「んー……」

生返事をしながらお弁当をつつく巻島くんを眺めつつ、私も自分のお弁当をつつく。
昨日、本屋に寄って買ったレシピ本を見ながら作った献立。色合いも抜群だし味だって悪くない。昨日頑張ってよかったあ。報われたよね、昨日の私が。

やっぱり、食べてもらえてよかったなあ、なんて。

「うふふ」
「……なに笑ってんショ」
「えへ。えっとね、巻島くん、ありがとね」

私が笑うと、巻島くんは訝しげに眉を顰めた。

「お弁当食べてくれて。やっぱり、食べてもらえなかったら、ちょっと悲しかったかも。いきなり喋ったことない女子からお弁当突き出されても邪険にしないで食べてくれるなんて、巻島くん、優しいよね」
「……別に、こんなことで……優しくなんかねーだろ」

巻島くんはぶっきらぼうにそう言って卵焼きを頬張った。
相変わらず八の字に下がった眉の間には皺が寄っていて、仏頂面ではあったけれど、やはり赤みを帯びた頬を見ると照れているということがわかる。
巻島くんは見た目からくる印象よりも、ずっと優しい人みたいだ。
コロッケだって、置いて忘れただけと言っていたけれど、きっと私にくれたのだろう。あんな風に忘れる人、いるはずない。
優しさを恩着せがましく主張しない。その分、不器用が服を着て歩いているような人。
もっと、怖くて変な人だと思っていた。

よかった。巻島くんと話せて。
巻島くんのこと知れて、よかった。

今日は日差しが熱い。



その後、私と巻島くんの距離が劇的に縮まる……ということはなかったけれど、廊下で擦れ違えば会釈をする程度の間柄にはなっていた。
友達には「いつの間に巻島くんと知り合いになったの?」とか「巻島くんと何話すの?」とか「話弾むの?」とか散々質問攻めにあったけれど、巻島くんのことを聞かれる度に、気持ちが楽しくなるのがわかった。
何より“あの”巻島くんの、皆の知らない一面を知っていることが、嬉しかった。

それから、巻島くんが視界に映ることが多くなった。
あの見た目だ。目立たない筈がない。今までだって巻島くんが視界に入れば必ず目についていたが、そもそも視界に入る頻度が高くなった気がした。
もしかしたら、無意識に巻島くんのことを探しているのかもしれないという事実に気付いたのは割と早く、自分の芽生え始めた淡い想いを察すると、遠巻きに彼を眺めることでさえ、躊躇いを覚えるようになってしまった。


もっと、巻島くんと話してみたいなあ。


しかしながら、こんな淡い願望にでさえ、現実は無情なのだ。


「(あ、巻島くん)」

ある日の帰りのショートホームルームが終わり、教室が解散にざわつく中。スクール鞄に教科書を詰めていると、教室前の廊下を巻島くんが横切るのが見えた。揺れる緑色の髪は私を簡単に目敏くさせる。
次第に小さくなるその色に慌てて帰り支度を整えると、駆け足で教室を出て、巻島くんの後ろを追った。
知り合い以上友達未満の関係にすぎない私が巻島くんに気安く話しかけるなんて到底できはしないのだけど、あわよくば、巻島くんの視界に入って目が合えば、会釈ができる。それだけでどうしようもなく私の一日はラッキーになってしまうのだ。

巻島くんが私のことを覚えてくれている。
そんなちっぽけなことを確認するだけで。

巻島くんは部活に向かうのだろうか。昇降口に向かう生徒たちの群の中を、マイペースにふらふらと歩いている。見失わないように、あの目立つ緑色の髪を目印について行くと、階段に差し掛かったところで、誰かに話しかけられていた。
その人をジッと見ると、同じクラスの金城くんだった。

「(金城くん……そうか、同じ部活だもんね)」

巻島くんを遠巻きに眺めるようになってから、気付いたことがある。
学校で見かける巻島くんは、大抵一人でいた。初めこそ、一人が好きなのだろうかと思ったが、そういうわけでもないらしい。巻島くんは、一人でいる以外は、ほとんど同じ自転車部の人と一緒にいた。田所くんや、金城くん。それから、丸い眼鏡の小さい男子。

自転車部の人といる巻島くんは、よく笑っていた。
それは紛れもなく、私といる時には見せなかった顔だった。

そのことに気付いたとき、恥ずかしながら少なからず、自転車部の人に嫉妬してしまった。
皆の知らない巻島くんの一面を知ったからといって、それが本当にほんの「一面」に過ぎなかったことを思い知らされて、正直寂しかったのである。
もちろん、たった一度お昼ご飯を一緒にしただけの私と、苦楽を共にする部活仲間が同列に扱われるはずなんてないと分かってはいる。
けれど……。

「(いいなあ……)」

巻島くんの隣を歩く金城くんを眺めながら、込み上げる羨望に従順になった。

いいなあ、金城くん。色んな巻島くんを知ってて。


巻島くんと仲良くなれたら、私にも、巻島くんは笑ってくれるのだろうか。


そんなことを考えていたら何故か無性に虚しくなって、情けなくも伏し目がちになってしまった。四月に新しくしたばかりの上履きの先っぽが視界に映る。二三度瞬きしてからゆっくりと視線を戻すと、階段を降り終えた巻島くんは靴箱でローファーに履き替えているところで、それを少し離れた階段脇からぼんやりと見つめた。
巻島くんが屈んだ時、彼の長い髪がゆったりと肩を滑ったことに思わず目を奪われて、人目も気にせず凝視する。すると、不意に顔を上げた巻島くんと目が合ってしまった。

私がジッと見ていたからだろうか、巻島くんは目を丸くさせて私を見た。
正直私も驚いた。

「あ、は」

しまった、見てたのバレた。などと内心焦りつつ引き攣る口角を懸命にあげ、無理矢理笑ってみせる。聞こえるはずもないけれど「あははー」と笑って、いつものように軽く会釈した。そうしたら、優しい巻島くんのことだから、内心どんなにドン引きしていても、会釈して返してくれるだろう。

しかしながら、巻島くんの行動は私の考えとは裏腹だった。
彼は丸くさせた目をすぐ細くすると、会釈をすることもなく、まるで何事もなかったかのように知らんぷりしたまま私に背を向けてしまった。

「(あ、あれ?)」

巻島くん、今、目合ったよね?

いつもとは違う巻島くんの対応に、思わず私も目を丸くさせたし、無意識に首を傾げてしまった。

もしかして、私が自意識過剰で、本当は目なんて合ってなかったり、して。
それならば、一人で会釈して、恥ずかしいなあ。

きっと、気のせいよね。




(20140512)
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