重くて見れない方こちら


禍々しいと世間的に定義づけられている存在であるとは裏腹に、少年の笑顔は爛々と神々しく煌めいていた。彼がその桃色の唇でほんの少し弧を描くだけで立ちこめる霧は森の木々に姿を隠し、目の前を塞がれた不安から私たちを救済した。
この世の者ではない。
真偽の程は兎も角とし、幼い私にとってそれは確実に等しい事実でありひいては畏怖の対象であったにも関わらず、そのような感情は霧と共に森の葉の隙間で神隠しにあってしまったかの如く、彼のことをこころ近く感じていた。まるで積年の友だとでも言うように。けれどもどうしたところで彼は、例えば近所に住む一つ下の幼馴染や同じクラスの男の子などとは同列に並べることのできない存在であった。それはやはり彼がこの世の者ではなく、恐らくは禍々しいと世間的に定義づけられている存在または爛々と神々しく自然さえも自在に操ってしまう存在であるからだったのだろうか。それとも、もっと別の。しかしながらその巨大かつとても繊細な違いを察するには私は酷く幼かったし、今となっては確かめようのないことに違いなかった。



物心ついた時には、冬の箱根へ家族旅行に行くのが恒例行事となっていた。
昔話に聞いたところによると、父と母の新婚旅行の地が彼の箱根であったらしい。幼き頃は両親の馴れ初めにこれと言った興味が湧くはずもなければ大した理解をすることもなく、話したがりの二人に適当な相槌を打ちつつ流れる川の水を掬うようにサラリと流してそれ以上の情報を飲み込むことはしなかった。ある程度歳を重ねると今度は両親の馴れ初め話に対して酷く羞恥を覚えるようになり、自分から昔話を強請ることをすることは決してなかったのだけれども、思い出の地に足を運ぶ度に古き良き時代を懐かしむ二人からつらつらと繰り出されるお得意のお伽噺を話半分夢現に聞くこととなる。大学のサークルで運命的に出会った二人はそのまま大きな壁にぶち当たることもなく五年という交際を経てあれよあれよと言う間にゴールイン。家族親戚小学中学大学会社あらゆる知人を招き盛大に行われた結婚式はこの世の幸福を二人占めしたかの如く底なしの祝福に包まれたらしい。しかしながら資金には底があるものだ。丁度バブルも弾け、泡のように湧いて世間に出回っていた夏目漱石や新渡戸稲造や福沢諭吉もあるときぱったりと神隠しにあっていた。掻い摘んで述べるところ、盛大すぎた結婚式の煽りを受け、当初新婚旅行の地として予定していた海外はおじゃんとなり近場である箱根に落ち着いたのだ。とは言うものの、昔を振り返りながら母は「こうして毎年思い出の地に足を運べるのは嬉しいことだ」と幾度となく述べているところを見ると、近場であることに満足感を得ていたようだった。また、海外旅行から国内へ変更になったことにより、当時の二人には少々敷居が高かった有名な老舗旅館に泊まれることになったことも、両親の新婚旅行を美化する要因になっているらしかった。
「毎年、子供が出来ても、何度でもここを訪れよう。初心を忘れないように」
そう当時約束した二人は律儀に、私が産まれてからも冬になれば箱根へ足を運んでいる。

その少年と出会ったのは、五歳の時だったと思う。私の最も古い(かもしれない)記憶は恐らく、幼稚園の廊下にある天井に伸びた手摺を男子と共に登ろうとした時に半分にも満たないところで滑って落ちて尻餅をついたことだった。ついでに、落ちた拍子に数日前からぐらぐらと覚束なく揺れていた下の前歯が抜けた。けたたましい声でわんわん泣く私に駆け寄ってくれたのは担任のミチコ先生だったのだけれど、ミチコ先生は年長に上がるときに寿退社したのだとふとしたある日思い出話を得意とする母より聞かされたので、この記憶は年中の出来事ということになる。(ミチコ先生が寿退社したことは覚えていなかった。ただ、クラスの全員で紙の花を作ったことは覚えている) この頃の記憶は酷くあやふやで断片的に思い出せることが両の手で数えきれるほどある程度でありその時間軸も定かではないので少年との出会いという私にとっては鮮明である筈のイベントも悲しいことに例外ではないのだが、この最も古いかもしれない且つ唯一時間軸が特定されている重要な記憶が少年との出会いにリンクすることとなるので、やはりそれが五歳の時だったということは揺るぎない真実なのであった。(また、彼との出会いは強く覚えている)

五歳の冬。私たち一家は例に漏れず箱根へ足を運んでいた。
両親に言われるがまま寝ぼけ眼の早朝、車に乗り込み後部座席で退屈気ままに数時間の時を過ごした後、お目にかかったのは夥しく目の前で発ちこめる霧景色であった。その日は天気が悪かったように思う。と言いますか、私たちが箱根旅行に赴く時は大抵天気が悪かった。故に私の記憶の中の箱根は霧が多い。何故そのように天気の悪い日ばかりに当たってしまうのかと言えば私が雨女であったからだと気付いたのは、小学校の卒業旅行、中学校のオリエンテーション、修学旅行など様々な行事で悪天候に見舞われたにも関わらず、私が風邪で欠席した校外学習では見事太陽が顔を出したことによる。もちろん雨女などと迷信めいたことを盲信する気は毛頭ないのだけれど、それ以来友達にも冗談交じりに揶揄されることが何度かあったため、自分でも心のどこかに留めておくようになってしまっていた。
霧に阻まれながらも山を登りやっとの思いで辿りついた旅館は両親が新婚旅行で泊まったそれに違いなかった。歴史を感じる木造の旅館。しかしながら古さを感じることはなく、仰々しくも思った。大きな提灯を飾った立派な編笠門から旅館までは長く切石敷きに案内された一本道が続き、左右には草木に溢れた緑の庭園が広がっていた。降り注いだ雫が枝に滴り真珠の様に光る。凛とした冷たい森の空気が肌に刺さった。子供であったためその旅館の豪勢さに気付くことはなかったが、先日高校の友達と行った旅館に比べれば否が応でも、実に厳かで上品な旅館だったと思い知らされる。なにより佇まいが違う。
数時間による運転に着かれた父は旅館に到着して早々に転寝を始めた。母は早速温泉に行こうと私を誘ったが、私も長時間に移動で疲れ果てており、父の腕枕で眠ることを選択した。
どれほど経ったかは不明である。目が覚めれば外は相変わらず霧一面。すやすやと眠る父と、時計の音。時々廊下から聞こえる笑い声と足音。見渡したが母の姿はなく。温泉から帰ってきていなかったのだろうか、さすれば大して時間は経っていなかっただろう。
どうしようか。退屈は子供にとって最大の敵であった。たった数分が永遠のように感じられる。しばらく部屋の中を徘徊した後、目覚める気配のない父を置いて部屋を抜け出した。
子供にとって広く長い廊下に出くわす。短い足を小刻みに走らせると、足音が響いた。それが幾分、旅館の雰囲気にそぐわない気がして、ゆっくり足を緩めて行った。廊下を抜けると、先程私たちが抜けてきた大きな囲炉裏のある玄関が見えた。靴を履きかえようとしたが自分の靴がどこにあるかわからない。脱いだ後、仲居さんが片づけたのだろう。仕方がなしに、旅館のものであろうサンダルを拝借することにした。子供の足には大層大きく、歩くだけで飛んで行ってしまいそうだった。外は雨が降っていたが、生憎傘もない。行きは母の折り畳み傘に入れてもらっていた。幸いに雨は小降りになっている。これまた仕方がなしに、そのまま外に出た。どうせ、後で温泉に浸かるのだから。
切石敷から外れ、庭に駆けて行く。苔の生えた石。石灯籠。長く続く鶯垣。その年でもう五回目であったというのに、まるで初めて訪れる土地の様に芸術とも呼べる完成かれた庭を散策した。
「鯉だ!」
旅館から温泉のある建物に架かる渡り廊下の下に石で作られた池があった。その場でしゃがみ込み池を覗いた。水面に映る自分の顔が雨でつくられる無数の波紋で弾けていく。時々赤と黒の鯉が体をゆったりうねらせて泳いでいくのが見える。
「(食べるかなあ)」
足元の砂利を拾って池に落とす。雨で作られる波紋よりも大きなしぶきができた。鯉は私が転がした石に見向きもしない。哀しい哉、砂利は深く沈んでいった。石の行く末を見守るついでに池の深さが気になって、地に手を付いてより深く池を覗きこむ体勢をとった。池に映る私の顔が大きくなった。
その時だ。
私の後ろに突然、ヌッと別の顔が池の中に浮かんだ。揺れる水面からはっきりとは見えないが、人の顔だということは瞬時に理解することが出来たし、その顔がジッと物言わぬ瞳でこちらを眺めていた。心臓がとまった。
お、ば、け。
頭の中で浮かぶ三文字に顔面蒼白。山奥の古い旅館というシチュエーション。疑う余地もない。体が金縛ったが、口だけはパクパクとまるで餌を請う鯉のように開閉する。悲鳴を出したかったのだが、恐怖で声が出ない。あ、あ、あ。
ぬるっ。池を囲む大きな石についていた手が雨で滑った。途端体勢が崩れ、池の中に吸い込まれそうになった。
「(あ)」
落ちる。反射的に目をぎゅっと瞑った。
するとどうだろう。体は重力に逆らい後ろに引っ張られた。同時に肩に痛みが走る。勢いよく体は反転しながら、池ではなく地面に尻餅をついた。痛い。けれども、幼稚園の手摺から落ちた時に比べれば、大したものでもなかった。が、数日前よりグラついていた上の前歯が抜け、コロリと転がった。
はあはあと、走ったわけでもないのに息が上がった。心臓が恐ろしいくらい大きく跳ねていたからだろうか。

「水面に映った自身の顔に見惚れて溺れてしまった男の話を知っているか?」

雨の代わりに声が降った。そういえば、雨が滴る気配が先ほどからない。しかし雨は実際に降っている。水面は尚も揺れているのだ。ふと顔を上げると、古めかしい和傘が私の頭に掲げられていた。手がある。誰かいる。お化け? ゆっくりと視線を、私の後ろに立つ者に移していった。
「(わ)」
男の子、だ。
自分と同い年くらいである着物を着た男の子が、和傘をこちらに傾けながら私を見下ろしていた。彼はカチューシャで前髪を全部後ろに引っ込めていて(幾つか仕舞いきれていなかったのだろうか束になって垂れ下がっていたが)、真白に平坦な額を露わにしていた。顔が良く見える。吊り上った眉が特徴的だと思った。

「危ないではないか」

再度降る声。聞き慣れない喋り方に少しの戸惑いを覚えたが、今はそれどころではなかった。傘を持たない方の手が、私の前に差し出される。とれ、ということなのだろうか。しかしながら未だ金縛った体は硬直したままでありとてもその手を取ることなどできやしないし何よりこの少年が何者かがわからない以上安心して手を差し出すこともできるはずがない。触った瞬間、取り殺されてもしたら堪らない。だってお化けだ。

「もっともオレも悪いのだがな。うっかり水面に映ってしまったのだから。オレの顔に見惚れない女子がいるはずがない! 何しろ箱根幼稚園一の美形とはオレのことだからな!」

差し出した手が更に前に伸びて、今度は私の腕を掴んだ。強い力に引かれ、重い腰が上がる。たどたどしく立ち上がると、少年は後ろを覗き込み「尻が汚れているぞ」と言った。

「何故雨が降っているのに傘を差さない?」
「……ぁ」
「水も滴るいい女というわけか? まあオレには及ばないだろうが」

少年がワハハと口を大きく開けて笑った。
先ほどから、少年が言っていることが私の語彙力を越えた先にあり、いまいち噛み砕くことができない。

「濡れているではないか」

少年の親指が私の頬を拭う。ヒッと頭の中で声を上げて目を瞑った。体が震える。寒さからではない。お化けに取り殺されてしまうのではないかと怯えた。けれどもその指から伝うのは痛みでも呪いでもなんでもなく、柔らかい腹の感触である。ゆっくりと目を開けると、瞳に映った少年は呆れたように眉間に皺を寄せ「女子が体を冷やすものではないぞ」と説教めいた。

「こっちへこい」

頬を撫でていた指が私の手を取った。背を向けた少年が歩き出し、手を引かれた私もその後ろをついて行くことを余儀なくされた。
森のような庭を突き進む。鶯垣に当たると端っこにある扉を開け潜った。
鶯垣で隔たれた先にあったのは二階建ての日本家屋だ。砂利が敷き詰められた庭を二つの足音が落ちる。しばらく進むと縁側が姿を現す。
ここで待っていろ、と命令口調だがそれほど偉そうな印象を与えない言葉を残し、彼は家の中に入っていった。残された私と手渡された傘が砂利に影をつくる。影の色が傘の赤色だ。重い。肩の上でくるくる回そうにもなかなか回らない。こんな傘、初めて見た。

「ほら、持ってきたぞ」

音もなく帰ってきた少年が真白いタオルを差し出した。貸してくれるのだろうか。どうして?
ぼおっとタオルを眺めていると、少年が再度私の腕を引き、縁側に座らせた。

「世話が焼けるな、お前は」

後ろに膝立した少年が、私の頭にタオルを被せ両手でガシガシと音を立てて髪を拭き始める。わっ! と思わず驚いた声を出した。「なんだ、喋れるのではないか。口がきけないと思ったぞ」と弾んだ声が、リズムよく私の頭を揺らすその手と連動した。

「風呂でも入っていくか?」
「……い、いい」
「そうか、遠慮しなくてもよいのだぞ?」

ひょっこり。肩越しに顔を覗き込む少年の息が直にかかって、驚きから心臓がまた大きく跳ねることとなった。顔が、近い。

「お前……」
「えっ……」

ジッと少年の目が細くなって私を睨むので、たじろぎがちに後ろに手を付いた。

「歯がないな! 二本も!」
「えっ」

二本? 先ほど尻餅をついた拍子に抜けたことをこの時初めて知る。思わず手で口許を覆ったが時既に遅しとばかりに少年はワハハと笑い声をあげてお腹を擦った。

「間抜けだな、美しくない!」

ワ、ハ、ハ。
雨音に合わせた蛙の合唱の如し。けれども私にとっては不協和音以外の何物でもなく嘲笑は耳にも感情にも心地が悪い。

「……か」
「か?」
「カエル!」

げろ。
どこからかした蛙の鳴き声を合図に駈け出した。
恥ずかしい! 初めて覚えた羞恥心に等しかった。顔を熱くさせ雨の中で頬を冷ますと、先程少年に雫を吸い取られた髪がまた滴りだす。何故こんな気持ちにさせられないといけないのだろうか。さっさと帰ろう、そうしよう。

「待て!」

鶯垣に差し掛かったところでまたも腕を掴まれる。何度も掴まれた腕は痛みを覚え鈍く感覚を刺激した。振り向くと先ほどの少年が不思議そうな顔をした。

「忘れているぞ」

そうして赤い和傘を差し出す。

「……私のじゃない」
「あげるよ。また濡れてしまうだろう?」
「え、でも、悪いし……」
「じゃあ貸すよ。晴れたら返せばよい」

私の掌を握った少年の指が一本一本を撫ぜるように開かせる。その仕草を見送ると、ゆったりとした動作で傘を握らされた。

「またな」

唇で弧を美しい描いた少年は柔らかい笑みを落とした後、くるりと背中を向けて雨の中を帰って行った。

「(お化け……)」

お化けにしては穏やかな笑みであった。触れた手も暖かく、駈け出せる足もあった。
禍々しいと世間的に定義づけられている「お化け」とは程遠い彼は一体、誰だったのだろう。


その日の夜。母に「優しい子供のお化けって知ってる?」と尋ねたところ「座敷童子じゃない?」と教えられた。古い家に住みつき、見た人間には幸福をもたらすと言う。
そうか、座敷童子。
親子三人川の字になった夜更け。ふかふかの布団から眺めた天井に少年の顔を描いた。暖かい。
目を閉じて、夢の世界に旅立った。



「おい」

夢と現実の隙間から暗闇が話しかける。ぺちぺち。同時に頬が音を鳴らした。朧気な意識の中を鯉のようにゆらりと体をうねらせて泳ぎ抵抗を見せるが音は鳴りやまず再び暗闇が話かけるが、暗闇には元来口がないことを思い出し、それでは話しかけているのは暗闇の奥にいる姿なき人間なのではないかと次第に覚醒する意識により言葉なく理解する。うっとりと目を開くと、眼前に広がるのは人の顔だった。

「ひぃっ!」
「しっ!」

すかさず唇を手でおおわれる。心臓がうるさい。理解ができないまま布団を子供の小さな力で精一杯握った。

「オレだ」
「……っ!」

暗闇に目が慣れてきて現れたのは今日の少年だった。心臓が次第に落ち着きを取り戻してくる。
どうしてここにいるのだろうか。どうやってここに入ったのだろうか。どうしてここがわかったのだろうか。頭の中が疑問符で埋め尽くされる。

「な、なに、し」

未だによく寝ている両親を起こさぬよう顰めた声で尋ねれば「外に行こう」と笑う。

「外……?」
「ああ、もうすぐ朝日が昇るぞ」

スルリと伸びた手が軽々しく私を起こす。私自身も、腕力以外の何かに引き寄せられているように、自然と。

二人で部屋を抜け出した。廊下を、足音を立てないように進む。曲がり角に差し掛かると、少年は壁に貼りついて止まった。まるで忍者のようだ。曲がり角から顔を覗かせ、誰も来ないことを確認すると素早く玄関まで走って行く。

「皆寝てるよ」

周りを警戒する少年に話しかけると「起きとるよ。ここの朝は早いんだ」と振り返らずに言う。そう言われて初めて、玄関の更に先に続く廊下を見ると、一番奥が光って見える。確か、厨房の方だった。

「見つかっちゃいけないの?」

座敷童だから?

「ああ、旅館のほうには遊びにくるなと言いつけられている」

誰に?
尋ねる前に「さあ、サンダルを履け」と、まるで自分の家であるかのように鮮やかにサンダルを引っ張り出して私の足元に置く。
旅館を出、庭を突っ切り鶯垣の扉を潜って縁側のある家の裏に進んだ。緩やかな山道を登らされる。昨日から降っていた雨は止んでいたが乾いていなかった地面で足が汚れたし、未だ霧が視界を塞いでいた。頼りになるのは少年の背中のみ。朝露に草木が所々光って見える。少年のカチューシャも同じように光った。それを目印とばかりに見つめた。

「ほら、着いたぞ!」

見晴らしの良い地へ辿りついた少年が振り向いて満面の笑みを見せた。するとどうしたことだろうか、ここへ来てからずっとかかっていた霧が晴れ、少年の背中に光が射した。眩しいと反射的に目を細めた。柔らかくなった地面に足を取られ、思い切り手を付いて転ぶ。「何をしているんだ」と彼の両手が私を抱き起した。顔を上げると、少年は「見ろ、美しいだろう!」とまた目を細めて笑った。最後の二歩を登り遠くを眺める。朝日が山の隙間から顔を出すのが見えた。
眩しいのは笑顔だったか。少年の笑顔を焼き付けながら、神様みたい、と心臓の中で誰かが囁いた。輝かしい。爛々とした煌びやかなそれが、とても貴く思えた。

「ここはオレのお気に入りだからな! 連れてきた!」
「あ、ありが、と」
「うむ!」

満足気に頷く少年を瞳に映しながら、昨夜聞いた座敷童子の言い伝えを思い出す。

「(喜ばせようとしてくれたのかな)」

幸福をもたらすと。


その日私たち家族は一泊二日の旅行を終え帰宅することになった。見慣れない傘を見つけた母が仲居さんに傘を返そうとしたが「それ、旅館のではありませんね」とやんわり突き返されてしまう。どこから持ってきたのかと母より問い詰められ、借りたことを説明すると「返して来なさい」と持たされたが、その日少年に会うことはできなかった。仕方がなしに、車の下に隠しておいて、両親が荷物を乗せている隙に、車の中に押し込んだ。
来年返そう。
そう心の中で一人決め、自宅についた頃に母に見つかり叱られる。



それから毎年、冬の箱根に赴くと、内緒で少年と遊ぶようになった。内緒だったのは少年より「誰にも言ってはならんよ」と口止めされていたからである。座敷童子だからだろうか。そういえばこっちに来てはいけないと言いつけられていると言っていた気もしたが、深くは聞かず黙って頷いた。
少年は例えば庭だったり廊下だったりはたまた客室の傍に堂々と立つ木の枝からだったりと、旅館に着いたばかりの私を見つけ出しては人目のない時を狙って外に誘った。どうして私の来る日を知っているのだろうと不思議に思ったが、彼は座敷童子なのだからそのようなことは些事にすぎず。私は二つ返事で彼の元に駆けだすのだ。
時には二人で山を登り、旅館の鯉に餌をやる。彼の顔の美しさについてつらつらと長話をきかされる。(彼は相当なナルシストらしかった) 相も変わらず私が箱根へ足を運ぶと空は雨を落とし霧を散りばめたが少年が爛々とした笑みを零せば天気は機嫌を直し晴れ間を見せた。正に神の所業とさえ当時子供ながらに思ったのだが、今にして思えば彼は晴れ男だったのだろうか。晴れ男も雨女も迷信であり本人の思い込み以外に他ならないのだが、やはり座敷童子である少年はその天気すらも左右してしまう力で私に幸福をもたらしていたに違いない。

十四歳の冬。その日は旅館に着いても少年が私を呼びにくることはなかった。不思議に思った私は一人山の中を捜しに行くことになる。その日も雨が降っていた。彼に返す筈の傘は未だ私の家に置いてきぼりにあった。来年返そうと誓った五歳の冬。六歳になるころにはすっかり忘れ、七歳、八歳、九歳と歳を重ねていた。十歳になるころには今更返しても仕方がないという思いと、一年に一度しか会えない彼を傍に感じていたいという思いから、わざと忘れたふりをした。母に買ってもらった藍色の折り畳み傘を片手に鶯垣の向こうの小高い山へ一人足を踏み入れる。もしかしたら彼がお気に入りと言ったあの場所にいるのではないかと思ったのだ。一歩二歩、ぬかるんだ山道を歩く。白い靴が茶色に染まっていったが、そんなことを気にすることはなかった。それよりも、一年振りに会えるはずの彼に会えないことの方が問題であった。しとしと降り続ける雨が音を増す。彼は近くにいないのかもしれない。彼がいれば雨なんて止んでしまうのだから。
あ。
ぼんやりと考え事しながら登っていたのがいけなかったのかもしれない。ぬかるみにとられた足がずるりと後方に引きずられた。力を失くした体は地面に引き寄せられもう片方の足は膝を打ちつける。顎と股関節が痛い。受け身の体勢もとれないまま体は斜面を二三回転げまわった。悲鳴を上げる間もなく身体中は茶色に染まり口内には土の味が広がる。最悪だ。どよめいた空気が心臓を取り囲んだ。重たい体を起こし立ち上がろうとしたところ、転げまわった拍子に足を捻ったらしく、足首に激痛が走る。痛みにのたうち回って天を仰いだ。雨が顔を刺す。辺りを見回すと傘が無くなっていた。
どうしたものかと一人溜息を吐く。無性に自分が情けなくなって、薄い膜が穢れなき瞳を覆った。こんな汚れて帰ったらきっと母に怒られる。旅行中に怪我なんてして、何をしているのだろう。こんな山に、一人で。
「ひっ……」
雨じゃない雫が頬を伝って土だらけの袖で顔を拭った。ここで一人、夜になっても誰にも見つけられなかったらどうしよう。そうして一人寂しく朽ちていくのかもしれないなどと大袈裟な妄想を繰り広げ、しかしながら心細さからその誇大妄想は悲観を糧に更に膨れ上がっていく。誰でもいいので助けに来てください。この馬鹿な私を。
お父さん、お母さん、神様座敷童子様……。

「おい!」

叫び声にも似た声が雫を遮る。覆っていた両腕の隙間から空を見れば、雨の代わりにあの日と同じ赤色の和傘と覗き込む彼の姿が見えた。

「何をしているんだ、こんなところで!」

傘を肩にかけた彼は寝転んだ私を抱き起す。どうしてここにいるのだろう。

「姿が見えないから探してみれば、家の裏に傘が落ちていたので心配で見に来たのだ!」

ああ、傘。そんな下まで落ちていたの。ラッキーだった。

「痛いところはないか?」
「……あし」
「足か!」

そう言って彼が私から離れ足を見ようとした。
――ま。
無意識のうちに、彼の服を掴む。彼が再度私に振り向いた。
――待って。

驚いたように振り向いた彼の首に腕を回し、力一杯抱き着いた。

「こ、こわ」

こわかったあ。

思いのほか震えた声に、ああそうか私は怖かったんだと改めて実感して、涙が出た。
しゃくりあげて泣き出す私を、彼は抱きしめ返してくれた。それは子供をあやすなんてものじゃなくて、もっと、力一杯。もう私が転げ落ちないようにと、言わんばかりに。

「女子が怪我などするものではないぞ……」

オレが迎えに行くまで、待っていればよかったのだ。

いつも声を大にして話す彼が、ボソリと呟くのを最後に、意識が遠のいた。
暖かい。

その日は気が付いたら近くの病院にいた。目が覚めた私に母は、旅館の人が助けてくれたと教えた。
旅館の人。
彼はどこかに行ってしまったのだろうか。それとも、彼が旅館の人に私を預けたのだろうか。それは定かではなかったが、彼が私を探し出してくれたという事実が大事であった。母は本当に運が良かったとため息を吐いたけれど、私は知っている。きっと彼は座敷童だったから、幸福をもたらしてくれたのだわ。
軽く治療を受け、一晩旅館に泊まると、次の日すぐに帰ることになった。
その年、彼にはもう会えなかった。



次の年は珍しく箱根へ行きたくないとごねた。
というのも、旅行の前々日お煎餅を齧ったところ前歯を欠けさせた。(自分でも驚いたが……) 歯医者に行きたかったが生憎翌日は休館日で行けなかった。
初めて会った時、抜けた歯を見て彼が腹から大笑いしたことが脳裏を過る。また、事あるごとに自分がどれほど美しいかという話を聞かされているのだ。欠けた歯なんて見せられない。鏡で自分の顔を見る度に恥ずかしさに顔が赤くなった。
けれども既に予約済み。嫌なら残って歯医者に行きなさいと突き放されてしまっては、私も車に乗り込まざるを得なかった。一年に一度しか会えない彼に会いたかった。

「どうしてマスクをしているんだ」

十五歳の冬。彼は訝しげに小首を傾げる。
「風邪」とぶっきらぼうに述べると「風邪なのに旅行か! 何を考えている!」ともっともな言葉が返ってきた。

「……嘘」
「嘘か! ならばよかった! いや、何故嘘をつく!」
「いや、その……」
「何か隠しているのだろう」

細められた目が私を探る様に見る。何故、と問いかければ「目を合わせない」と返ってきた。
確かに目は合わせられなかった。彼を見ると顔が熱くなり手に汗が滲んだ。硬直する私に「俺に美しさに見惚れたか! 仕方がない、何しろ俺は森すら眠るスリーピングビューティー!」などといつものテンションで訳の分からないことを騒ぎ立てたがどうも苦笑いを零すだけで精一杯だった。
そうだ、私は彼に見惚れていたに違いない。
昨年彼に抱きしめられた感覚がフラッシュする。その度に心臓が大きく鳴った。

「なんだ、吐いたらどうだ。隠し事などいいことないぞ」
「……」

なあ、と彼の指が私の頬をさらった。マスクを取ろうとしたのだろうか、真偽のほどは定かではないが、反射的に私はその手を振り払った。嫌!という拒絶の言葉も添えて。

思わず払ってしまったことに一番驚いたのは私だ。
いつも楽しそうに笑っているはずの彼が目を丸くして黙っているのを見て、息が止まった。
どうして手を払ったのだろう。それは歯を見られたくないに他ならなかったが、振り払うほどだったか。転んだ私を抱きしめてくれたその手を、拒絶するほどだったか。
今まで感じたことのない感情が綯交ぜになって混乱させ判断が鈍る。
思わずその場から逃げるように去った。
彼に間抜けた歯を見られたくない一心から可愛くない態度をとった。それが酷く情けない。
次の日、私が帰る時間になっても彼は会いに来なかった。

来年になればまた会える。その時はいつも通りに話せるだろう。

そんな悠長なことを考えて、岐路に着いた。



次の年、高校生にあがった年、彼とは会えなかった。会いに来なかった。探しに行こうかとも思ったが、オレが迎えに行くまで待っていろと言った彼の言葉を信じて待った。けれども彼は会いに来なかった。
その次の年も彼は会いに来ず。一人庭の池を覗きこむだけで一日が過ぎた。水面には私の顔が映るばかりで初めて会った時のように彼が映ることはなかった。
どうして彼は会いに来ないのだろうか。
本当は、お化けだったのかもしれない。きっと、成仏してしまったんだわ。
ぼんやりそんなくだらないことを考えた。もう高校生ともなれば彼がお化けでも座敷童子でも神様でもない、手を伸ばせば抱きしめてくれる、手の届く男の子だということは気付いていたのに。
それとも、怒ってしまったのだろうか。最後の別れを思い出して、酷く後悔した。歯が欠けたくらいでくだらない。馬鹿馬鹿しい。そんな思いつめることなんてない。最悪、彼に笑われて、それで終わりだったのに。けれどもその時の私にはそれがとても重大なことのように思えた。物事の判断はその時ばかりでないと量れない。過ぎてしまえばなんてことないことも、当時は頭を占めることでもある。人はそうやって何度も過去を振り返っては笑い時に後悔する生き物なのだ。

高校三年生の夏、初めての彼氏ができた。同じクラスのサッカー部の男子だ。告白されて、まあ悪い気もしなかったので付き合った。けれども三か月で別れた。三の倍数の月は倦怠期が訪れやすいので気をつけろと友達に言われていたのに。でも私たちを遮ったのは倦怠期でもなんでもなく、私にキスをしようとした彼の頬をひっぱたいてしまったことからだった。別れる時、彼は「最初から俺のこと好きじゃなかったよね」と言った。ショックだった。そんなことない、と強く否定をすることができなかったことに、だ。
確かに私は、彼にキスされるのが嫌で頬を叩いた。頬に添えられた手から感じる温もりは、別の人間を彷彿とさせた。同時に、心臓を潰すような感覚に陥った。

私は箱根の彼のことが好きだったのだろうか。
今となっては確かめようがなかった。
ただ、彼がいないだけで、幸福がもたらされなくなったのは、事実に違いなかった。


何度でもここを訪れよう。初心を忘れないように。


彼氏と破局した夜、夢現に昔話に聞いた父の言葉を思い出す。どうして今こんなことを思い出したのか。

次の日曜日、始発の電車に飛び乗った。片手には赤の和傘を持って。何時間か電車に揺れ、時に乗り換えをし、やってきたのは箱根駅。そこからバスを乗り継いで、今年も訪れるであろう旅館へ足を運んだ。
予約しているわけではないので堂々と旅館に足を踏み入れることはできなかった。
旅館の裏手に回り、小高い山に登る。彼のお気に入りの場所へと。しとしと、雨が降り始める。さすがの雨女。自分に溜息を吐き、和傘をさした。
ぬかるみに気を付けて、やっとたどり着くはあの日朝日を見つめた場所。当たり前にも、彼はいなかった。
弾む息を整えながら、その場にお尻をつく。デニムのスカートが汚れてしまうだろうが、どうでもよかった。雨は降り続ける。傘が音を鳴らす。
遠くを見つめるが、瞳には何も返ってこない。彼が美しいと褒めた朝日も、見える景色も。雨による霧が邪魔をする。
雫が降るように、彼との思い出が次々と降っては落ち、この身に浸み渡って蘇った。彼の手をはねたこと、山で怪我した私を助けてくれたこと、旅館に来た私を屈託のない笑顔で見つけてくれること、自分の自慢話をすること、私の頭を拭いてくれた時のこと、池に落ちそうな私を助けてくれた時のこと、傘をくれた時のこと。一つ一つの「懐かしい」が、私を初心にかえしていく。
楽しかった。とても。幸せだった。たった数日にすぎない、彼との思い出が、何よりも。今ならわかる。

私、きっと彼が好きだった。

今思えば、彼は鶯垣で隔たれた家に住んでいたのだろう。きっと旅館の子供に違いない。こっちへ遊びに来てはけないと言いつけられていた、と言った。他でもない、親だろう。私の部屋は名簿でも見たのだろうか。私が来る日がわかったのも、そうだったのだろう。
少し頭を回せば簡単にわかることを、その時は考えもしなかった。ただただ座敷童子だからとか神様だからとか、きっと不思議な力が働いているからだとか、くだらない思考で済ませていた。こんな簡単なこと。

彼と私の関係がとてもあやふやで頼りないものにすぎなかったことも。
彼と簡単に会えなくなってしまうことも。
私の初恋が、紛れもない彼であったことも。
こんな簡単なこと、どうして気付かなかったのだろう。

彼のお気に入りの場所に彼がいないだけで、こんなに苦しくなるなんて。
会いたい、なんて、そんなちっぽけな願いすら届かないだなんて。
彼はお化けでも座敷童子でも神様でもないから、言葉にして届けないと私の想いは届かないのだ。けれども今の私にはそんな権利すらない。
どうして彼が会いに来てくれなくなったのかなんて、そんな簡単なこと、考えなくても分かる。きっと嫌いになったのだわ。私は醜いから。羞恥心なんてもので彼の手を払いのける程度に。彼は、美しいものが好きだから。
だから、私なんて。

傘をさしているのに頬を雫が伝った。



「誰だ」



声が降った。
ハッと後ろを振り向くと、いたのは紛れもない、彼だった。

何故、どうして、なんで。

驚いて、同じ言葉を声を出さずに繰り返すばかり。息をするのも忘れると、向こうも目を丸くして「何故いるんだ」と呟いた。


「しょ、初心に……」
「初心?」
「傘……」
「傘?」
「か、かえ、そうと」

たじたじに言葉を繋ぐと「今更ではないか?」と彼が笑った。

「なんだ、来るなら来ると言ってくれればよかったのに」

ハハハと口を大きく開けて笑う彼は昔と変わらず。二年会っていないとはいえ、たった十二度目の邂逅に懐かしさと新鮮さが入り混じった。

「かまわんよ、今日は雨だからな。晴れたらまた返せばいい」

そうして私に歩み寄ってくる。ふと「泣いてるのか?」と驚きに変わった声にハッとした。

「何故泣いている!」
「いや、あの」
「泣かされたのか?」
「ち、ちが」
「じゃあ」
「会いたかったの!」

あなたに。

あの日のように、彼の目が丸くなった。
互いに沈黙が走る。しとしと、雨音だけが響いた。

「……触れて」
「え」
「触れても、いいか?」

彼が一歩、また近寄って、私の頬に触れた。うん、と頷く代わりに彼を見つめると、瞬きの瞬間に彼が私を攫い、抱きしめた。それはそれはとても強く。

「な」
「可愛いな」
「か、かわい、くなんか」
「悪いところだな。もっと自信を持て。ホラ、もっと笑うがいい」

そう言って彼は私から離れると、唇で弧を描いた。しとしと。雨音が緩くなって、次第に晴れ間が見える。

「折角、歯が全部そろっているのだから」

彼が茶化すような笑いを漏らせば、光がさした。


幸せ。
ああきっと、座敷童が運んできてくれたのね。




高校あがってから会わなくなったのは寮に入ったからです。
(20131210)
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