口は災いの元と言ったのは誰だったのだろうか。
それはまさしくその通りで、私が貝だったら、こんなに自己嫌悪に浸って後悔することも、新開に気を遣わせることも、東堂を傷つけることもなかったのに。



「……隼人、部活始まるぞ」

笑わない東堂が、真っ直ぐな視線で新開を見る。私に目配せなど一切しない。東堂の態度に、言い訳をする勇気すらなかった。

「ああ、今行くさ」

軽く笑った新開が返事をすると「じゃ、またな。気にすんなよ」と私の肩を叩いた。「気にするな」とは、東堂が告白されていたかもしれないことなのか、陰口を東堂に聞かれたことなのか、一体どちらだろう。もしかしたら、どちらのことかもしれなかった。

ああ、うん。また明日ね。

無意識に呟いて手を振った。東堂の元へ歩いて行く新開を見送ると、東堂と目が合う。思わず口元が引き攣りながらもご機嫌取りに笑って見せたが、東堂は何も言わずに踵を返し、新開と共に部活に向かってしまった。


最悪だ。


その日は夕食も喉を通らず、部屋に籠ってひたすらベッドの中で蹲った。確か、初めて東堂と話しをした日も、こんなことをしていた気がする。全く進歩のない人間だと、一人自嘲した。

怒ってもらえた方がよかった。東堂は気に入らないことがあればはっきりと言う。失礼にも人に指をさして大声で異議を唱える。そういう、真っ直ぐな人なのだ。
そんな人に、何も言ってもらえなかった。
怒ってもらえたら謝ることもできたのに。怒ってすらもらえなかった。
呆れられてしまったのかもしれない。元々、私のこと、ずっと避けていたもの。それが今回のことで、本当の本当に、愛想を尽かしてしまったんだわ。

きっと東堂に嫌われた。
何より、東堂を傷つけた。それが一番苦しい。

不安な想いが涙になって、枕を濡らした。



次の日、目が覚めると窓の外から日光がさしてベッドを照らしていた。布団からのそりと抜け出して、気怠げに身体を起こす。目を擦りながら自分の服装に目をやると、私服を着たままだった。昨夜、泣き疲れて寝てしまったのだろう。ぼんやりと時計を眺めると、時刻は十時を示していた。今日は土曜日で学校は休みだ。ゆっくりお風呂にでも入ろうと、自分の部屋から廊下に出る。
皆遊びにでも行ったのだろうか、寮はいつもに比べるとずっと静かだった。


「(やっぱり謝ろ……)」

湯船につかりながら、昨日のことを思案する。
一晩経ったことで大分落ち着いたのか。少しの不安はあるけれど、何もしないよりずっといい。私を避けている理由も、思い切って聞いてみよう。
もしも私の想像している通り、私の気持ちがばれていて、そのせいで私を避けているのだとしたら。そうしたら、思い切って告白でもしてしまえばいい。それでフラれることになっても、自分の気持ちを隠すために思ってもいない陰口を言って東堂を傷つけるより、ずっといい。
それで東堂と今までのようにいられなくなったとしても、昨日のような想いをするくらいならずっといいの。

お風呂から上がり身支度を整えてから学校に向かった。
自転車部は土日もほとんど部活をしている。きっと、男子寮に行くより会えるだろう。

校舎からすこし外れた場所にある自転車部の部室は、他の部活のものよりずっと大きい。
自転車部は毎年インターハイで優勝するくらい強豪だから、要所要所で他部活よりも特別待遇されていた。

「(東堂いるかな)」

自転車部の部室が見えてきたところで緊張から手汗をかいてきた。一度立ち止まって頭の中で会話のシミュレーションをしてから、遠巻きに様子を窺ってみる。
部室の周辺には、マネージャーらしき女子が数人いてドリンクを作っていたり、記録をとっているのかボードに何か書き込んでいたりした。
部員は山でも走りに行っているのだろうか。
よくよく考えてみたら、部活中に訪ねたところで東堂と話せるわけない。真剣に部活に励んでいるのに、ただただ邪魔になるだけじゃないか。

「(出直そうかな……)」

自分の都合ばかりで嫌になる。まるで我儘な子供だ。
だから東堂にも嫌われてしまうんだ。

「や、夢子じゃないか」

キッ、とブレーキの甲高い音がして振り向くと、自転車部のユニフォームを着た新開がロードバイクから降りてこちらに近寄ってきた。

「休みの日に学校で何してんだ?忘れ物かい?」
「新開、走らなくていいの?」
「インターバルだよ」

そう言って腰のポケットに忍ばせていたパワーバーを齧る。

「あの、えと……東堂、に会いに、来たんだけど……今じゃ迷惑、だよね」
「尽八ならいないぜ」
「え?」
「今日はレースだからな」

新開がリスみたいにパワーバーで頬を膨らませる。

「レース?」
「そう。ヒルクライムレース」
「そう……」

そういえばそんなこと言っていた気がする。確か場所もこの近くの山だったはずだ。

なんだ、いないのか。
いないとわかった途端、緊張していた心臓が大人しくなる。

そういえば、今日の女子寮は静かだった。いつもうるさい東堂ファンクラブの女子たちがいなかったせいかもしれないなあなどとぼんやり考えていると「応援行かないのか?昼からだから、まだ間に合うぜ」とパワーバーを飲み込みながら言う新開の声が降った。

「え、私が……?」
「尽八、喜ぶと思うけどなあ」
「……喜ばないよ」

むしろ、私が応援なんて行って調子を崩されても困る。
実は東堂には内緒だけれど、何度かレースを見に行ったことがある。山を登っている時の東堂の楽しそうなこと。ファンクラブの女子や観客の声援を浴びる度に速くなる。目立つことが好きなのだろう。
気持ちよく坂を登る東堂の邪魔は、それこそしたくなかった。

「いつも言ってるけどなあ、尽八。センスの悪い夢子も一度くらい見に来ればオレのかっこよさも理解できるだろうに、って」
「……でも、昨日、私」
「だからこそ、行って応援してやれよ」


謝られるよりも、その方がずっと嬉しいだろ。


新開が指を向けて、バキューンと打つ動作をした。
東堂もそうだけれど、どうして自転車部は皆して人を指すのだろうか。と言っても、この二人くらいなのだけれど。
けれども、新開の言葉にはいつも、どこか勇気づけられてしまう。

「……うん、ありがとう。新開」
「ああ、気を付けてな」

そうして新開は再び自転車に跨って、私の傍を横切って行く。
新開の背中を見送ってから、私も校舎を出てレースの会場に向かった。



「げ、終わってる」

途中で電車を乗り間違えた挙句道に迷って一時間半も無駄に彷徨った。
やっとのことで会場に辿りついたけれど、時すでに遅し。会場では既に閉会式が始まっていた。
表彰台の前には大勢の観客が集まっており、人ごみの中に見慣れた東堂ファンクラブの女子たちも紛れていた。
閉会式の司会進行の女性が「それでは、表彰の方に移らせて頂きます」と鶯のような聞き心地の良い声を出す。つられる様に、慌てて表彰台の方へ走った。
表彰台端の階段から、三人の選手が壇上に上がってくる。その内の一人は、よく知っている奴だった。

「(あ、東堂……)」
「優勝は箱根学園、東堂尽八選手です」

女性らしい高い声が東堂の名前を呼ぶと、会場から拍手が巻き起こる。東堂の首にはメダルがかけられ、同時に東堂が手を広げて変なポーズをすると、より一層拍手が大きくなった。二位、三位の表彰もその場で行われると、三人に小さな花束が手渡される。二位の男子は表彰台に上っているにも関わらず仏頂面で、随分と目についた。何より緑色の襟足が少しだけ長い奇抜な髪をしているので目につかない筈がない。けれども一目でわかる。なるほどあれが巻ちゃんか。

「(東堂、今日は勝ったんだ……)」

勝敗は、今日で並んだのだろうか。

東堂は逐一勝敗を報告してきた。「お前は誘っても見に来ないからな」と言って。そうして巻ちゃんとやらの話をする東堂は、大分楽しそうだった。彼と知り合って初めの頃とは大違いだ。荒北とも、初めは仲が悪かったみたいだし、私とも。東堂は、第一印象が悪い人の方が、仲良くなるのかもしれないなあ。
ぼんやりと、隣に並んだ巻ちゃんに話しかける東堂を人ごみの中で見上げながら、昔のことを思い出した。

入学式で、東堂の背中を眺めていた時のこと。
東堂は、いつだって華やかな人だ。人ごみに紛れることもなく、誰よりも目立っている。私はいつまで経っても、それをその他大勢の中から見上げて憧れるばかりだ。
隣の席になる前の頃と今のこの状況は、なにも変わらない。どんなに仲良くなって友達になっても、それは変わらないことなのだ。片想いをしている限り。
私はその他大勢の中から、一方的に東堂を眺めるだけのちっぽけな存在と、思い知らされる。

「(避けられて、嫌われて、フラれたら……)」


きっと東堂は、本当に手の届かない人になってしまうんだろうなあ。


そんなことを考えたら、また泣きそうになった。
昨日から泣いてばかりで嫌になる。
一度手の甲で思い切り目を擦ってから俯いた。

「(トイレでも行ってこよう……)」

もうレースは終わってしまったし。どうせこの後の東堂はファンクラブの女子に捕まって、あの巻ちゃんとかいう人と積もる話でもするのだろう。
それが全部終わって、帰る前、少しだけでも話せたらいい。

表彰式は途中だったが、人ごみを抜け出して、壇上を離れてトイレに向かおうとした。華やいだ雰囲気に背を向けて、集団を離れる。

しばらく会場をうろつくと、表彰式の声が随分遠くなった。同時にやっとトイレらしきものを見つけ、そちらに足を向ける。その時だった。

「夢子!」

名前を呼ばれて、心臓が跳ねあがった。驚いて目を見開く。
ゆっくりと振り向けば、メダルをぶら下げて手に花を持ったままの東堂が駆け寄ってきていた。

「え、とうど」
「まさか夢子が来てるなんて思わなかったな。来るなら来ると言えばよかったものを! どういう風の吹き回しかは知らんが、夢子がレースに来るなんて、初めてじゃないか?」

表彰式で見た笑顔のまま、東堂は高揚したように捲し立てるので、思わず間抜けにも口をあんぐりと開けた。
昨日、あんなことがあったなんて、全く感じさせない。それともレースの後で、昨日のことなど忘れてしまったのだろうか。

だって、私を見る東堂が、それはそれは嬉しそうに笑うから。

「東堂……表彰式は?」
「もうとっくに終わったよ。表彰台からお前がいるのが見えたから、追いかけてきた。この美形を祝わずして帰ろうとするとは、どういう了見だ」
「え」

東堂、私がいること気付いていたの?
あんな人の中から、私のこと見つけてくれたの?

まさかそんなこと、思いもしなかった。
思わず顔が熱くなる。
先ほどまでの罪悪感はどこへ行ってしまったのだろうか。申し訳なくも嬉しくなってしまう。

「で、どうだった?さすがの美的センスのお前も、この東堂尽八のレースを見た後ではかっこいいと認めざるを得ないだろう?」
「や、あの、ごめん、レース、間に合わなくて」
「なんだと? 全くもったいない奴だな」
「あはは……ごめん……」

ごめん。

苦笑いが更に引き攣り、乾いた笑いが漏れた。
一度謝ると、昨日のことを思い出す。
そうだ、謝らなければならない。東堂に酷いことを言ったこと。

「夢子?」

緊張から俯いて、一度手汗をスカートで拭った。
東堂が不思議そうに首を傾げる。
窺うように視線をあげ「東堂、あの、昨日は、ごめん」と絞り出すような声で言った。

「昨日?」
「あの、東堂のこと、うるさいとか、いてもいなくても変わらないとか……」
「なんだ、そんなことか」
「え」

怒ってないの?
思わず問いかけると、東堂は「お前に美形を見る目がないのは元々知っている」と今更何を言っているんだとでも言うように、真っ直ぐ私を見た。

「今更だろう」
「え、で、でも、昨日怒ってた……」
「あれは隼人にだ」
「し、新開……?」

何故新開がそこで怒られなければならないのだろうか。
東堂の言っている意味が理解できずに眉を顰めると「お前の頭、撫でてただろう」と言う。

「あ、頭……?」
「単に面白くなかったのだ」
「え……?」

ますます意味が分からない。
新開が私の頭を撫でていたからといって、何故東堂が面白くないのだろうか。
大体、最近の東堂は私を触らないように避けているくせに、言っていることとやっていることが矛盾している。
頭に疑問符を浮かべていると「それはそうと」と東堂が得意気な顔をして話題を変えた。

「指輪、直ったぞ」
「え、指輪?」
「お前のおもちゃの指輪だ」

そう言われて、昨日東堂に預けた花型のゴム製指輪を思い出す。まさか直るだなんて思わなかった。あんなおもちゃが。
疑うように東堂を見ると、なんだその目はとでも言うように、東堂も眉を吊り上げた。

「なんだ信用してないな。まあいい。ちょっと目を瞑って手を出して見ろ」
「え? なんで」
「いいからいいから」

東堂が早くしろと指をさすので、渋々両手の甲を見せるように手を出す。
不安げにゆっくりと目を閉じると「実はな、指輪を直すにはまじないが必要なのだ」と言った。

「おまじない?」
「そうだ。指輪が直る呪文があるから、オレの後に復唱しろよ」
「……わかった」

何も見えなくなった視界から、東堂の声が聞こえる。
それが、少しだけ私を安心させた。

「東堂は美形……東堂は美形……」
「なにそれ」
「いいから復唱するんだな」
「と、とうどうはびけい……とうどうはびけい……」

戸惑いながら恥ずかしげに呟くと、右手の薬指に何かが触れた。
指輪だろうか。
頭の端でそんなことを考えていると「もういいぞ」との東堂の言葉を合図に、ゆっくりと目を開ける。

「え」

右手の薬指にあったものは、指輪ではなかった。
茎が輪っか状に結ばれ、指輪のような形になった小さな白い花だった。

「花……?」

ふと東堂を見れば、先程表彰式でもらっていた花束の中に、同じ花があるのが見えた。

「陽の光を浴びて綺麗だろ? まるで光っているみたいだ」

東堂が微笑んだ。

「お前は白がよく似合うな」

風が吹いた。山頂は風が強い。東堂のカチューシャでとめられた髪の毛先が揺れる。一年生の頃より、心なしか伸びた。
思わず目を細める。東堂を、見ていられなかった。


泣きそうになってしまったから。


「東堂……」
「なんだ?」
「なんで、最近、私のこと、避けるの?」
「……」


こんなに優しくしてくれるのに。どうして避けるの?

私、東堂が触れてくれるの、ずっと喜んでた。他の女子よりも、特別扱いしてもらってるみたいで。優越感があったの。性格悪いことばっかり考えてた。恋心なんて持ってないフリして、東堂の傍にいた。好きだったから。
東堂は、純粋に友達として接してくれていたのに。私ばっかり、下心を持っていたの。

こんなに卑怯者なのに、どうして優しくしてくれるの?


「……下心が」
「……?」
「オレに下心があるから……そんな気持ちでお前に気安く触れん」

下心?
それは私が持っていたものだ。
東堂も持っているのだろうか。
それは、どういう……。

俯き加減の東堂を見つめると、不意に顔を上げて、今度は真っ直ぐ私を見た。
思わず心臓がドキリと音を立て、身体中が強張る。
東堂の、いつも真っ直ぐで真摯な視線が、今日はやけに熱っぽい。
もうすぐ夏がやってくるからだろうか。
私の頬も、陽に照らされてずっと熱くなっていた。

「……お前は、美形を見る目がないから」
「……え」
「他の奴にとられてしまっては困る」

東堂は、感情を隠さない。
時に表情で、時に態度で、時に言葉でそれを伝える。いつも自信に満ち溢れているから、隠す必要がないのだ。恋心を隠した、情けない私みたいに。

今は、東堂の瞳が感情を語る。その目、好き。

私の自意識が過剰でなければ。

心臓が速くて苦しい。走った後みたい。手に汗をかく。頬が熱い。


東堂から、一瞬も目が離せなくなった。


「その染めた頬が嘘でないなら、オレと付き合ってくれ!」


いつも指をさす東堂の左手が私に差し出される。

なにそれ、そんなの初耳よ。つい最近まで、私のこと、男友達だって思ってたくせに……。東堂って、いつも、突然なんだから。そういうところ、嫌いじゃ、ないけど。


「わ……」
「なんだ」
「わ、私で、いいのでしょうか……」
「お前以外にいるか」

真剣な表情をした東堂が、するりと花の咲いた私の指先を握った。
いつもの気安く肩を叩くときとは違う。
もっと大切に、慈しむように、柔らかく触れた。

「綺麗だな」

その言葉になんのためらいもなく、丸い涙が一粒落ちる。
恥ずかしかったから、指先で東堂の手を握り返した。


私の、汚いと思っていた下心。
綺麗だって言ってくれるの、東堂ぐらいだよ。


「東堂……」
「ん?」
「ゆ、優勝おめでとう……」
「ワハハ」


後で新開にメールしておこう。
心配かけてごめんなさいって。


また喧嘩することも、不安になることもあるかもしれないけど。
東堂の、真っ直ぐとした美しい姿勢があれば、きっと大丈夫と思う。



(20130406)
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