これのつづきです。



指輪の電池が切れてしまった。
右手にはめたゴム製の花型指輪はもう輝きを見せることはなく、ただただ大人しく私の指にそっと添えられているだけである。駄菓子屋で購入した高々百円程度のおもちゃでは数日もっただけでも充分に違いなかったが、役目を終えたソレはまるで死んでしまったかのようで、どこか寂しかった。電池を変えられるような構造ではない。きっともう、二度と光ることはないのだろう。


「どうしたんだ、それ」

いつものように学食での昼食を終え食器を返却口に返すと、同じように食器を持ってきた東堂が不思議そうに首を傾げた。東堂の視線を追えば、私の右手。質問の意図に気付いて、気落ちした溜息を一つ零しつつ右手の甲を宙にかざして味気ない五本の質素な指を眺めた。
先日と同じ問いかけだったけれど、私の気持ちは天と地だ。

「電池切れちゃったんだあ」

そう言いながら、ブレザーのポケットに無造作に仕舞っていた指輪を取り出す。
東堂の目の前でスイッチを二三度押し、光らない様を見せた。

「なんだ。だったら電池を変えればいいだろ」
「むーりだよ。駄菓子屋の指輪にそんなことできるわけないでしょ。使い捨てだよ、使い捨て」
「あんなに気に入っていたのにか」

返却口から学食の出口に向かうために生徒の間を縫って歩いていた足を止め、後ろをついていた東堂に振り返る。東堂の眉は、怪訝そうに顰められていた。前髪を後ろにぴっちりとひっつめているから、表情がよく見える。正直者の東堂があまりに真っ直ぐ私を見るので、なんとなく居心地が悪かった。

「しょうがないじゃん。百円のおもちゃにそこまで執着ないし。欲しかったらまた買うからいいよ」

東堂にそう、あしらうような口調になってしまいながら言って、先に出口で待っていた新開たちに合流した。「お待たせ」と少ない言葉をかけると、返事もそこそこに三人は教室へと歩き出す。その後ろを東堂とついて歩いた。

――しょうがないじゃん。百円のおもちゃにそこまで執着ないし。

そう東堂に言い放ったのは紛れもなく自分自身だったが、初めてあの指輪を手に入れた時の高揚感も愛着も、きっともう味わえないと、なんとなく察していた。幾度となく買い直したところで、それが全く別物には変わりないし、なにより興醒めするに違いない。

だから内心、二度と買うことはないだろうと、そう思っていた。

「いかんな、お前は諦めが早い。どれ貸してみろ。オレが見てやる」

お節介な東堂が、指輪を渡せと掌をズイと広げて差し出した。
諦めが早いとは言うが、電池が切れている以上どうしようもないことには変わりないし、東堂が諦めないところで電池が回復するわけでもない。天から三物も与えられたと普段から豪語するさすがの東堂にも電力までは与えられているわけではないし、それは人間の及ぶ限界を超えている。「山神」とは東堂の通り名のようなものであるが、東堂はれっきとした人間であった。

「見たってしょうがないよ」
「見てみないとわからんだろ」
「わーかるよ」
「いいから貸してみろ」

手の中に閉じ込めてしまった指輪を指差して東堂が「よこせ」と言う。
「やあだよ」とふざけ半分で拒否をし、身を捩って東堂から逃げようとすると、今度は東堂の指先が私を引き止めるように追いかけた。まるで鬼ごっこのようなそれが楽しくて、ついクスクスと笑いながら、廊下を数歩前に跳ねて、伸びる東堂の手から逃げ回る。
荒北の「イチャイチャしてんなヨ」という台詞が聞こえた瞬間、遂に東堂の指が私の髪を弾いて軽く肩を掴んだ。まるでそれを待ち侘びていたかのように、引き寄せられる力にひどく従順になって、軽いステップで東堂に振り返る。
そうして「しょうがないなあ」と笑って指輪を渡すつもりだった。
が。

「あっ」

振り返りざま。目が合った東堂は、どうしたのだろう、驚いたように目を丸くさせていた。
なにを驚いているのだろうか。予想していた表情との差異に、思わず同じように目を見開いてみせると、東堂は僅かに触れていた指先を弾くような動作で飛び退けさせてから、顰め顔で目を逸らした。

ああ、またこれ。

思い当たる東堂の行動に、口角をあげていた唇をきゅっと結んだ。最近よく見る東堂の仕草に、楽しかった気持ちは一辺した。
それから東堂は一度大きく眉を顰めて「すまん」と言葉少なく言った。

なにが「すまん」?
東堂の言葉の意味は、私には大きすぎる。

「……はい、東堂」
「あ……ああ」

指輪を握った拳を差し出すと、東堂が手のひらを広げた。
拳を開き、掌には決して触れないように上から落として彼の手に転がすと、受け取った東堂は落とさないようにしっかりと握りしめた。
物は大切に扱えと普段ならば怒るであろう東堂が、珍しく何も言わなかった。


最近、こういうことが少なくない。


私に触れようとした手を途中でおろしてしまったり、触れ合う距離で私の隣を歩かなくなった。以前ならば新開や福富、荒北を扱うのと同様の気軽さで私に触れてくれたというのに。
初めの内は私の思い過ごしかとも思ったのだが、日に日にあからさまになるその動きから察するに、どうやらそうでもないらしいと眉間の皺を増やした。

でも何故?
いつも通り昼食に誘ってくれるし、変わりなく話してくれる。箸の持ち方がなっていない時と同じように、私の指に指輪がないこともいの一番に気付いて気にかけてくれたのに。どうして、触れることだけ避けるようになってしまったのだろうか。
東堂は気に入らないことがあったらすぐに教えてくれるから、黙って嫌いになるようなことはしないと思う。だから、嫌われている、ということではない、と思うのだけれど……。

結局、指輪は東堂に預けたまま皆と別れて教室に戻る。
席についてから、それとなく隣の席の新開に尋ねてみた。

「最近、東堂に避けられてる気がするんだけど」
「そうか? けどおめさん、さっきだって仲良さそうにしてたじゃないか」

新開はいつも通りの笑みで言った。

「そうなんだけど、あまり、触らなくなった」
「女子だからなあ。遠慮でも覚えたんじゃないのか?」

机の中から次の授業の教科書を取り出す新開は間延びした笑いをする。まるで私の深刻なんて杞憂だとでも言うようだ。私の内に秘めた恋心なんて知らない新開にとっては取るに足らない話だったろうが、私にとってはこの上なく重大な事態に違いない。
軽く笑ってまともに取り合ってくれない新開に、小さな溜息を漏らさずにはいられなかった。

第一、女子だと思っているならば東堂は最初から私に触れないだろう。
それは私が小さな幸せを噛みしめるのと同時に劣等感に浸る理由でもある。


そもそも私と東堂が気安い仲になったのは、一年生の時、隣の席になったのがきっかけではあったのだが、実際は入学式まで遡る。東堂は知らない話なのだけれど。
入学式。皺のないぱりぱりの制服に袖を通した新入生が、縦横に整然と並び式典に臨んだあの日。高揚感と緊張感に包まれ行われたはずの入学式も、長時間に及ぶ校長先生のお言葉とやらに、初めは伸びていた生徒たちの背骨は優雅な曲線を見せ始め、顔を俯かせては欠伸を噛み殺すような雑然たる空気が蔓延った。斯言う私もその一人であった。初めこそ厳かな雰囲気に促されて正しくあった姿勢が、次第に折れていく。いつの間にか集中力もなくなり、校長先生のお言葉も右から左に流れ始めた。遂には、人から伝染すると言われている欠伸の気配がして、必死に噛み殺そうとした。
気を逸らそうと、舞台から視線を逸らし、新入生の頭を集中して眺めた。後ろ姿からでは何もわからないに違いなかったのだが、これから一年同じクラスになる生徒の頭を端から丁寧に眺めた。若干男子の方が多いな、なんて考えていると、不意にその人を見つけて、思わず高揚した。
怠慢に姿勢を崩し始める生徒の中で、一人だけ、凛と伸びた背筋を微動だにさせない人がいた。あまりに真っ直ぐ伸びているから、新品の制服が、より綺麗だった。
その完璧なまでに美しく厳かとさえ形容し得るその姿勢はどの生徒よりも目立っており、まるで彼の周りだけ輝いているように見えるので、私の目はおかしくなってしまったようだった。
彼の荘厳たる姿勢に諭されて、そっと自身の姿勢を正した。
式典後、新入生は教室に誘導されると、担任による簡単なホームルームが行われた。担任の話もそこそこに、配られた座席表に熱心に目を通して彼の席を照らし合わせる。
彼の名前は、東堂尽八と言うらしい。
「(東堂尽八くん)」
とうどうじんぱちくん。いいなあ、東堂くん。
できることならば友達になりたいなあと、実際友達以上の感情を抱きながら、そんな淡い想いにひっそりと花を咲かせていた。

しかしながら東堂が私と友達になるだなんて到底烏滸がましいことであるかの如く、彼は瞬く間に同学年の人気者になってしまった。対象はほとんど女子だったが、自己主張の激しい性格と手厚いファンサービスのおかげか、たちまちファンクラブなんていうものまでできた。まるでアイドルのそれである。常に彼の周りには人垣ができ、容易に近づくことも出来なければ気安く話しかけるなんて到底できるはずなかった。
「(私が一番に、東堂くんを見つけたのに)」
内心怨めしくファンクラブの女子を眺めたが、一番だろうが二番だろうが彼女たちにももちろん東堂にも関係はないし、また無意味である。行動を起こさないものが何を言っても、負け犬の遠吠えに他ならない。けれども、あれほどアイドル化してしまった存在に話しかけたところで、彼は私のことを一人のクラスメイトとして見てくれるのだろうか。そんな懸念が、私を尻込みさせた。
「(私は、東堂くんに見てもらいたい)」
入学式で、彼の後姿から目が離せなくなった、私のように。彼にも、大多数の女子じゃなくて、一人の人として、私を見てほしかった。
ファンではなく、友達に。できるなら、友達よりも、もっと。

そんな私にラッキーと呼ぶべき出来事が降る。いつかに行われた席替えで、隣の席になったのだ。
「しばらくの間、隣の席だ。よろしく頼むね」
初めて視線を交わした東堂はそう言って穏やかに笑ったが、正直なところ、私は随分と緊張していた。まさか、憧れの東堂と話せる日がくるなんて思いもしなかったし、入学式からずっと見つめていた彼が隣にいることが、どうしたって心臓を忙しなくさせた。
「えっ、あ、う、うん」
気の利いたことでも言えればよかったのに。だって、近くで見ると、ますます輝いて見えるから。しどろもどろになってしまう返事をしながら、自分を呪った。
「ワハハどうした女子よ! オレの美しさに恐れおののいてしまったか? 無理もない。オレは箱学一の美形、東堂尽八だからな!」
東堂はお得意の高笑い交えていたが、私はと言うと、突然図星をつかれ、実のところ心底動揺してしまっていた。加えて素直でない性格が災いして、反射的に「は、はあ? そんなわけないじゃん! 東堂くん、ちょっと自意識過剰」と、売り言葉に買い言葉のようなものが口から飛び出していた。言い終えてから、顔を青くさせた。
当然東堂は「はあ?」と眉を顰めるので、私は気まずくて顔を伏せるしかなくなった。
「そんな筈ないだろう! このオレに見惚れない女子がいるか!」
「ほ、他の人がどうかは知らないけど、世界中の女が同じ感性持ってるわけないじゃん」
今更後になど引けるはずもなく、また思ってもいない言葉が飛び出す。心底自分に呆れながらも、そのままくだらない口喧嘩を繰り返し、その日は寮に帰ってすぐにベッドに潜り、自己嫌悪の中で蹲った。
次の日、学校へ登校すると先に登校していたらしい東堂が胸の前で腕を組み、やはり凛とした姿勢で席についていた。探り探り「おはよう」と声をかけると、東堂は上目づかいでこちらに視線を送り「昨日あれから考えたのだが」と重々しい口調で言った。
「お前、視力はいくつだ?」
「はあ……?」
「もしかすると、目が悪いんじゃないか?」
そう言う東堂の目は一点の曇りもなく、まじまじと私の瞳を覗き込むので、思わず頬が熱くなるのを感じた。
「目は、普通、だけど……」
「ムウ、そうか。そうでなければやはり美的感覚に問題があるな。いやな、うちの部活に荒北という男が入部したのだがな、これがなんとも美的感覚が欠乏した可哀想な男なのだ」
はあ。こちらの間抜けな相槌なんて耳に入っていないのだろうか、東堂はとくとくと話を続ける。
「お前、荒北と同じ匂いがする」
荒北って誰だよ。
声に出さずにツッコんでから、そういえば古めかしいリーゼントをした見るからに素行の悪そうな生徒がいたことを思い出す。まさか東堂の口からその名前が出るとは思わなかったので、一瞬合致がしなかった。
というか待て。
「荒北って、男だよね?」
「そう言っているだろう」
「え、男と同じ?」
思わず聞き返してしまう程にはショックだった。
少なからず、一目見た時から東堂には淡い恋心のようなものを抱いていた。それが隣の席になってようやく報われる兆しが見えてきたというのに、男と同じに扱われてしまうだなんて。東堂は「ああ、そうだな」と自身でも納得したように頷いた。
「お前、女子というよりは男に近い」
そう、お得意の指をさすポーズで私をさすから、指を払って「それやめてって言ったじゃん」と不機嫌に眉間を寄せた。
「まあ、なに。これからお前も美的感覚を学んでいくと良い。好きなだけオレのこと見ていいぞ」
フッと得意気に笑った東堂が、至極自然な動作で私の肩に手を置いた。
その時私がどれだけ緊張したか、東堂は知らないだろう。
「しばらくは隣の席だからな」
肩に置いた手を二三度浮かせて叩く。
横目で遠慮がちに東堂を眺めながら「どうも……」と呟くと、東堂は満足そうに笑ったのだった。

それから私と東堂は随分と気の置けない仲になっていった。
まるで男友達のように名前を呼び気安く触れる。
初めはそれが嬉しかった。ずっと望んでいたことだ。

けれどもしばらくしてある事実に気付く。
東堂はファンクラブの女子の名前を呼ばない。ましてや触ることなど決してない。
東堂に女友達はいないのだ。
常に一定の距離を保ち節度ある関係であろうとする。まるでアイドルとファンのそれだ。もしかすると、期待を持たせない東堂なりの優しさなのかもしれなかった。

東堂は、女子は女子として扱う。
東堂は、私を女子として見ていない。

それから次第に、東堂との関係は劣等感の象徴になっていった。
名前を呼び気安く触れる行為そのものが、東堂が私を男友達として扱い、恋愛対象として見ていない証明に他ならなかったのだ。

先のない恋愛ほど、苦しいものもはずがない。早々に想いを伝え、この関係を突っぱねることもできただろう。女子として見てほしいと言えば、あれで東堂は誠実だから、きっとそれなりの対応をしてくれたに違いない。もしかしたら、今頃恋愛対象として見てくれていたかもしれない。
けれどもそれをしなかったのは自分の意思だ。このぬるま湯のような関係を断ち切る勇気はなく、恋心を隠したまま男友達として接することを選んだ。

恥ずかしい話、東堂に触れられるのは、どうしても嬉しかった。

しかしながら今、東堂は私を避ける。
理由は知らない。
思い過ごしだと言われればそれまでだろうが、いかに東堂にとって何気ない行動で新開にとって些事であっても、私にとってそれは一大事に違いなかった。


触れてもらえないのならば、私は一体、東堂のなんなのだろうか。




帰りのショートホームルームが終わり、クラスメイトが各々の放課後を過ごすため教室を出て行く。私も鞄に荷物を詰めて、予定もないので真っ直ぐ寮に帰ろうとしたところ。颯爽と部活に向かったはずの新開が廊下の窓から外を眺めていたのが目についた。

「新開、何してんの?」

徐に近づくと、新開はゆっくり顔を上げ「ああ、夢子か」と爽やかに笑った。

「なんでもないさ。それより夢子、靴箱行くんだろ? 一緒に行こうぜ」
「……うん?」

窓から離れた新開は鞄を肩にかけ直すと、靴箱に向かって廊下を歩き出す。
一瞬その後ろをついて行こうとしたけれど、新開のその行動になんとなくだが少ない違和感を覚え、半歩前に出した足をぎこちなく止めた。あまりにも自然すぎる。
思わず顔を顰めてその場に立ったままでいると、新開が振り向いて「どうした?」と尋ねた。

「新開……」
「なんだ?」
「何か隠してる?」
「ハハハ」

隠してる。
新開は隠し事は上手いけれど、嘘を吐けない男だった。

確信すると同時に進行方向を新開から窓に切り変えて駆け寄る。
一見、窓から見える景色にはなんの変わりもなく、三階からの眺めは絶景に違いなかったが、目敏い新開のことである。何もないはずがない、と視線を四方八方に動かしてみれば、見逃してしまいがちな真下に、見覚えのある頭があった。思わず窓枠に手をかけ、身を乗り出す。

「東堂……何してんの?」
「さあ……怒られてるんじゃないか?」

戻ってきた新開が私の隣に立って同じように外を見る。

「怒られてる……ねえ」

とてもそういう雰囲気には見えないけど。

目を細めて真下にある二つの頭を眺める。
下にいるのは東堂だけではなかった。東堂の他にもう一人。女子の制服を身に纏った人がいる。
私の邪推でなければ、こんな場面一つしか意味を持たない。
告白だ。

「まあ断るだろ。心配しなさんな」
「なんで私がなにを心配するの」

思った以上に拗ねた声になった。新開は「それもそうだなあ」と曖昧に笑った。

「ほれ、もう行こうぜ。あまり見るのも二人に失礼だろ」
「……うん」

新開に促されて、名残惜しくも窓から離れる。
並んで歩き、二人で靴箱に向かいながら適当な話をするが、なかなか頭に入ってこない。
思考を支配するのは、先程の情景ばかりだった。

確かに新開の言う通り、陰に隠れて眺めるのは失礼に違いなかったが、どうしても事の顛末は気になってしまう。

もしも、東堂に彼女ができてしまったら、私はどうするのだろう。
このまま男友達として、東堂の幸せを祝福しなければならないのだろうか。もちろん、男友達ならばそうすべきだろう。
けれど、到底できるとも思えなかった。

「(だって私は、東堂が好き、だし)」

不意に、その思考に酷い嫌悪感を抱いた。
だって、そうだ、これって、卑怯じゃないだろうか?

ぬるま湯の関係を断ち切れず、男友達として付き合うことを選択したのは紛れもなく自分自身だ。そうした以上、東堂に対する恋心は、抱いてはいけない感情じゃないのか?
だって、東堂はどちらかにしかしない。
男友達と女子を一色単にしない。恋愛対象に成り得る子には、節度を守り不躾に触れたりしない。
東堂は、一線を引いて守っている。ファンクラブの子たちだって、それに準じている。
その線を踏み荒らしているのは、私だけだ。恋心なんて持っていない振りをして、男友達という地位を利用して、いい想いをしようとする。
それって、すごく、失礼じゃないか。

「(もしかして)」

東堂が、私に触れない理由は、そこにあるのかもしれない。
卑怯な私の気持ちに気付いて、距離をとっているのかもしれなかった。
先日、東堂を避けるようなことをしてしまった。東堂が「可愛い」とか変なこと言うから。けれどもそれが、東堂に私の恋心を悟らせてしまったのかもしれない。

東堂は、私に気を遣っているのだろうか。期待させないようにと。

「(もしくは……)」


もしくはこんな卑怯者の私、汚くて触れたくないの、かも。


ここ数日の疑念が一瞬にして払拭されたみたいに、合点がいった。
それと同時に、心臓の周りに真っ黒い靄が巻き付いて鉛のように気持ちを重くさせる。
不安で、心臓がバクバクと打った。身体中が濁るみたいで、怖くなって口元を手で覆う。


だって、東堂は、いつも真っ直ぐ、綺麗な人だから。だから。


「(東堂に、私、きらわれ……)」

「夢子?」


ハッとした。
瞬きをすると、新開が私の顔を覗き込んでいた。
いつの間にか靴箱に着いていたらしい。茫然と立ち尽くす私に、新開が首を傾げた。

「やっぱり心配か?」

眉を下げた新開が、ブレザーのポケットからパワーバーを取り出して「食う?」と尋ねる。新開は、誰かの元気がない時、すぐにパワーバーを差し出す。新開特有の励ましは、まるでパンの顔をもったアニメのヒーローみたいだった。

「いい……」

ゆっくりと首を横に振った。
子供じゃあるまいし。食べ物をもらったくらいで、泣いた烏が簡単に笑うものか。
そう心中で悪態を吐くが、実際本心ではなかった。
本当は、受け取って新開の優しさに触れれば、泣いてしまいそうだと思ったのだ。そうしたら何があったと聞かれずにはいられないだろう。
理由を聞かれるのは困る。こんな汚い私、新開に知られて嫌われてしまうのは、嫌だと思った。
このぬるま湯は、東堂のためだけではない。今となっては新開も荒北も福富も大事な友達で、嫌われるのは、ものすごく怖いことだと思った。

俯いていると新開が私の頭を撫でた。同い年ではあったが、幾分子供扱いされているような気分になる。
見上げれば、新開は穏やかな顔をした。

「尽八に彼女ができるの、そんなに嫌か?」

そうして不意に問われた質問の意味に、身体がギクリと硬直する。
冷や汗が背中を伝った。心臓が速くなる。

新開、私の気持ち、知ってる?
私の、下心。

「ど、どういう意味……」
「だって、仲良いだろ、おめさんたち」
「あ、う、うん……」

新開の回答に、少しだけ安堵する。どうやらバレては、いないみたい。
しかし察しのいい新開のことだ。悟られてしまうのは時間の問題だろう。
そう思えば、すぐに新たな不安に駆られて、自然と口が開いた。

「別に、東堂に彼女ができても、関係ないし」
「そうか?」
「だって、別に東堂なんて、いてもいなくてもそんな変わらないし。むしろ、うるさいのがいないほうが、落ち着くっていうか、だから」
「あ、夢子……」
「え?」

捲し立てるように言い訳をした。
新開に東堂への恋心を悟られるのが怖かったからだ。

自分の行為が実に愚かであったのか理解するのは、引き攣った顔の新開の視線の先を辿ってからだった。
私越しに遠くを見る新開。
ゆっくりと後ろに振り向いて、その先を見れば。

「あ」

いつもの得意気な笑みなどない、ただ驚いたように瞳を大きくさせた東堂がこちらを見て茫然と立ち尽くしていた。

先程自分の口から出た言い訳を、一つ一つ思い出す。
次第に顔が青ざめていくのがわかった。
どうも私は、思ってもいないことを言って後悔するのが特技らしい。


初めて東堂と会話したときよりも、これはずっと最悪だ。






思ったより長くなったので…(20140309)
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