※悲恋っぽいかも?
私、好きな人ができちゃったみたい。
遠くに聞こえる、ボールの跳ねる音。下校する生徒たちの笑い声。空を割る飛行機の音鳴。そのすべてが同時に止んだ一瞬間、二人きりの教室も同じく森閑に染まる。
日誌に今日の時間割をガリガリと書き綴りながら徐にそう告げると、前の席で行儀悪くも横向きに腰掛け漫画を読んでいたもう一人の日直、新開が顔をあげて「へえ、そりゃあいいことだ」と祝福でもするかのように笑った。
「いいことかしら?」
日誌の上で走るペンは、ちっとも速度を緩めない。
呟くように問いかけると「いいことさ」と、新開は漫画に視線を戻した。
あまり、彼が漫画を読んでいるところなんて見たことがなかったけれど、誰かに借りたのだろうか。飄々としている彼が、何かに、それこそ自転車以外のことに、夢中になるのは、珍しいと思った。
盗み見るように新開に視線を向けた後、再度日誌に視線を落とす。
誰を好きになったのか、聞かないところが新開らしい。
「人を好きになるんだから、いいことに決まってる」
新開の手が一枚、ページを捲る。
久しぶりの紙が捲れる音に、読むのが随分遅い人だ、とぼんやり思った。
「それじゃあ、もしも好きになった人に他に相手がいたとしたら、それでも人を好きになることは、いいことと言えるのかしら?」
時間割を書き終えて、一時間目から内容と感想を記入していく。
一時間目から体育で憂鬱だったけど、球技だから結構楽しかったです。
「浮気なのか?」
ドっ、と窓の外からタイミング良く、女子の笑い声が湧いた。
二人きりの教室にはやけに響いてうるさいはずだったのに、それすらもどこか遠い国で起こった出来事のように虚ろって聞こえた。
それよりも、新開がページを捲る音の方が、気になった。
「そうかも」
「似合わないなあ」
「似合わないかなあ」
結構、私魔性の女みたいじゃないかしら?
フっと口元を緩めて尋ねると「そうかもなあ」と、呟くような新開の相槌が聞こえる。たぶん、どうでもいいのだろうなあ。
「魔性って、どういう感じなんだ?」
新開が、漫画から顔を上げるのが気配でわかった。
どんな顔をして問いかけているのだろう。気になったけれど、頑なに視線は日誌に置いて、二時間目の内容を書き込んだ。
二時間目数学、大人になったら今日習った公式は使うのかなあ。想像もつかないから、早く大人になってしまいたい。
「女豹、とか」
「豹かあ」
「豹だよ」
「ウサギはどうだ?」
「なにが?」
「夢山、ウサギ似合いそうだ」
ウサギが似合いそうとは、一体どういう意味なのだろうか。
新開は、時々返答に困ることを言う。測り兼ねる。真意が読み取れない。いつも笑っているその表情は、本心を語らないのだ。
「新開は」
「ん?」
「彼女、つくらないの?」
問いかけたのは紛れもなく自分自身だったが、核心めいた質問に、ペン先が僅かに震えていたのが文字になってわかった。
三時間目国語、源氏物語みたいな恋愛は私には耐えられないと思ったから、昔の人は忍耐強くて尊敬します。
「つくろうと思ってつくるものじゃないだろ」
新開が、ハハと笑い交じりに言った。
「そうかなあ」
「夢山みたいに、好きな奴ができて初めて恋人が欲しいと思うのさ」
随分大人びた言い方をすると思った。
新開とは三年間同じクラスだけれど、二年の春を境に、ずっと大人びた雰囲気になった。時々、影を背負っているように見えた。以前の爽やかさに微かに加わったアンニュイさが女子の心臓を弄んでいることに、当の本人はまるで興味がないようだ。
四時間目家庭科、新開が味見をしすぎて、班員の配分が少なくなった。班員の女子は、新開に甘い。
「新開なら、よりどりみどりだと思ったのに」
「好きじゃないと付き合えないさ。当然だが。それに、そんなことしたら拗ねるだろう。彼女が」
新開が言う彼女とは、十中八九自転車のことに違いないだろうと、瞬きの瞬間に理解する。
自転車を出されたら、どんな美貌でどんな利発さでどんな聖人君子でも、叶うはずがなかった。
「ふうん。部活があるから付き合えないって言って告白断るの、本当なんだ」
「ヤキモチ妬きだからなあ。他の子とデートなんてしたら、それこそ嫌われちまうだろ」
新開は軽く笑った。ちょっと楽しそう。
少し前に、自転車は毎日乗らないといけないんだと新開が言っていたことを思い出す。彼女に割く時間もないのだろうか。自転車って、案外過酷だ。
自分の瞬きが多くなるのがわかった。
「おめさんだって、そうだろう?」
突然、話が戻ってきて、理解が一瞬追いつかなかない。
何が?とでも言うように首を傾げると「好きじゃないと、付き合えないだろう?」と補足された。
そこでようやく、日誌の上を一心不乱に走っていたペンが止まる。
一呼吸置いてから、視線をあげた。
新開が、穏やかに私を見ていた。
「……場合によるかな」
「へえ。場合ってなんだ?」
「好きな人に振り向いてもらえなかったりしたら、別の人に逃げるかもしれない」
新開の穏やかな垂れ目が、少しだけ細くなった。
「それでも、新開は、人を好きになることを、いいことだって、言える?」
走ったわけでもないのに、新開と視線を合わせるだけで呼吸が荒くなった気がした。
それとも、新開を責めているのかもしれなかった。
どうして新開を責めるのか。責められる理由など、新開は何一つ持っていないに違いないのに。
新開は持っていた漫画を閉じた。少年漫画の背表紙が見える。有名なバトル漫画だけれど、どうも新開には似合わない気がした。
「嫌いになるよりは、ずっといいさ」
そう、言い切ってしまえる新開は、きっと本心なのだろう。
「なんだそれは、綺麗事の理想論じゃないか」と吐き捨ててしまえるようなことでも、新開の口から出た音ならば、それは真理とさえ思えた。新開の言葉は、同世代のそれよりずっと重たいものに感じた。
「……新開、もう部活行っていいよ。日直の仕事って言っても、私一人でできる量だし」
にこやかに、しかしながら追い払う意図で新開を促すと、彼は「いや、最後までいるさ」と首を振る。
こんな時に、優しくなんてしなくていいのに。
「拗ねちゃうよ、彼女」
自嘲気味に笑みを零して見せると、新開は「日直は仕事だから、仕方がない」と言った。
「浮気者だ」
「ハハ、ひどいなあ」
「だってそうでしょ。適当ばっか言って」
「本心だよ」
「なにが」
そうして問いかけると、新開は曖昧な笑みを見せた。
その表情が、いやに目に焼き付く。
そして。
「こういう時間しか、一緒にいられないだろ」
一瞬、心臓が驚いて静寂が身体を金縛った。
対照的に心臓がどんどんうるさくなって、まるで自分の身体が心臓に食べられる感覚に陥って、怖くなった。
新開の言葉の意味を飲み込むと、ほんの少し、汗をかいた。
「……なにそれ」
らしくない。声が震えた。
新開の口元は、やはり新開らしく笑みを持っていた。
「彼女、つくらないのかって聞いたな」
「……うん」
「つくらないさ。自転車漬けの生活だし、彼女に割く時間、ないんだ」
「……そう」
「でも」
「なに?」
「好きな子は、つくろうと思わなくてもできちまう」
汗をかいた指先に、握ったペンが滑った。
矛盾している。好きな子ができたら彼女が欲しいと思うようになると言ったのは新開なのに。それは、浮気になってしまうからだろうか。新開は、私には複雑だから、手に負えない。
「……」
「でもこれはオレの我儘だからなあ」
「わがまま……?」
「付き合えないけど」
付き合えないけど、好きでいてほしいって、都合がいいだろ。だから、別の人に逃げられても、見送るしかしないさ。
キィン。飛行機が空を割る音が耳鳴りみたいに響いた。
それから一呼吸すると、まるで新開の言葉は聞かなかったかのように、弾く様にペンを走らせて、日誌を書くのに集中した。
新開も、それ以上何かを言うことはなかった。
きっとこれは、知らない方が「いいこと」だ。
日誌を書き終え、戸締りを済ませると、鞄を持って職員室に向かう。昇降口まで行くと「じゃあこのまま部活行くな」と新開が手を振った。
「うん、部活がんばってね」
「ああ、ありがとさん」
ひらりとブレザーを翻して校舎を出て行こうとする新開を見送る。
鮮やかな赤に近い茶髪が、光に反射してとても綺麗だった。
「新開!」
思わず呼び止めると、新開が振り向く。
遠くなった新開が、それでも笑っているのがわかって、胸が締め付けられた。
「……なんでもない」
新開は見慣れた笑みを浮かべると、再び歩き出す。
小さくなる新開の背中を見送ってから、職員室に歩き出した。
この浮気は、きっと悲しいに違いないのに。
それでも新開は「いいこと」だと言うのだろうか。私が他の人に逃げても。
私も新開も、この恋が「いいことだった」だと思える日が早くきてしまえ。
20140313修正(20140306)