(もしも願いが叶うなら、あの日の自分を叱るより、これからの幸福の約束より、大切なことがあるのです)




笑った顔は変わっていなかった。
血色が悪いのはそのまま。趣味の悪いオレンジのダウンジャケットを羽織りながらも、口からは白い息が漏れた。
「傘、忘れて来ちゃったんだ。急に降りだすんだもの」
肩に軽く積もった粉雪を払いながらヒロトは笑う。10年前と同じ、偽物の笑みがそこにあった。
わたしが傘を差し出すと、彼は「君が濡れてしまうからいい」と受け取ろうとしなかった。今更わたしなんかにそんな恰好をつけたって何も変わらないぞ。いいんだ、君の身体は君だけのものじゃないんだ。軽口を叩くくせにやたら強情なところも相変わらず。譲歩の結果、二人でわたしの傘に入ることになったが、彼の肩には相変わらず雪が積もり続ける。それを見るだけで、何故だか胸がやけるような痛みでいっぱいになった。痛みの触手は伸びて、身体全体を駆け巡る。わたしは必死に気づかないふりをする。しかし我ながら随分演技が上手になったものだ。こんなに胸の内は熱い思いで焦がれているというのに、顔を崩すことは滅多になくなった。慣れとは恐ろしい。こうしてわたしは大人になることで人間の大切な感情をひとつひとつ忘れていくのだろうか。それはとても悲しいことだが、歳をとることと同じで、仕方ないことに思えた。



わたし達は町の外れの小さなカフェに入った。先日オープンしたばかりの個人経営の店である。この天候のせいもあってか、客はわたしとヒロト以外にいないようだった。冷えた身体を暖めようと、ミルクココアをふたつ頼んだ。店に入って暖をとってもヒロトの肩は濡れ、とても寒そうに見えた。
「すまない、待ち合わせ場所を誤ったな。寒かったろう」
「大丈夫、君に会えるのを楽しみにしていたから寒さなんか気にならなかったさ。それに俺、雪の日って好きなんだ」
彼の口癖である、歯が痒くなるような台詞は、もう聞き飽きた。普通の女子なら黄色い声をあげて騒ぐのだろうが、わたしには一度たりとも効果が現れたことはない。それよりも気になったのは後者の言葉だ。
「…どうして」
「視界が狭い。まるで違う世界に来ちゃったみたいじゃないか。一面真っ白で、まるで音がしない」
「まあ、わからなくはないな」
「ここではないどこかへ。笑っちゃうよね。でも、行けたらいいのにね」

そこでは、円堂守とお前は愛し合ってるのか、とは言えなかった。
ありもしない世界で、ヒロトは唯一無二の相手に想いを告げる。想いが繋がる。それでいいのか。こいつはずっとそれを、くだらない夢をみて生きていくのか。
哀れで仕方がなかった。
こんな生き方しか知らない、ヒロトが、世界で一番可哀想だった。

「円堂守は雷門夏未と結婚した」
「うん」
「お前の待ってる日はもう一生来ない」
「うん」
「それでもお前は生きていくのか、このまま。奴に何もかも縛られたまま」
「…玲名は、そんなことを言うために俺を呼び出したの?」
からん、からん。
ヒロトの細い骨ばった指が銀のマドラーをかき混ぜる。無音だった。窓の外では雪がしんしんと白の世界を広げている。わたしとヒロト、世界から取り残されたみたいだ。たった二人。たった二人なのに、こんなにも遠い。
ほんのり赤色をした睫毛が、伏せられる。俯いたその顔から、表情は読み取れなかった。
「俺はね、彼と共に生きる未来なんか望んでなんかいないんだよ、玲名。それに縛られてなんかいないよ。彼を想うことで沢山の幸福をもらっている。それはきっと、心臓がとまる瞬間まで変わらないんだ。こんな人生がおくれるのはきっと基山ヒロトだけだ。それを誇りに思うよ」
「…………嘘だ」
「嘘じゃない」
「嘘だ」
わたしはどうしても泣きそうになってしまった。ヒロトの為に涙を流すことが、どんなに彼にとって残酷なことであることか。他人に哀れまれるまでになってしまった恋心を、まだ大事に抱えていくその姿を。わたしは知っている。その辛さを、淋しさを、身を持って知っている。

聞こえるか、ヒロト。わたしは、お前を愛していたんだ。

他人の妻となり、新たな命をこの身に宿した今でも、恋焦がれてたまらない。お前の空洞を埋められるのがわたしだったら、と何度もあの日を繰り返す。わたしを抱けないと泣いて謝った彼を、わたしは抱きしめることしか出来なかった。寄せた肩は折れそうに柔く、こんなにもちっぽけな人間が心臓が潰れるほどの恋をしているのだと思うと、愛しくて仕方なかった。そして同時に、自分の小さな恋は一生叶うことがないのだと悟る。だから捨てた。

「なんで君が泣くの。君は幸せになったんだから、笑っていなきゃ勿体無いよ」
「煩い……目の前で女が泣いてるというのに肩ひとつ貸せないお前なんか嫌いだ」
「随分手厳しいなあ、流石に人妻を抱き寄せる訳にはいかないよ。それに、そんなことをしたら玲名は怒るんだろう?」
「ああ、殺す。地獄の果てまでつきまわして、刺してやる」
「ハハ、なかなか魅力的な最期だ。そうなれたら、幸せかもしれない」
幼い恋と処女を捨てて、わたしは幸せになったのだ。失った未来はもう、宇宙の塵となったか。僅かに残った微熱にさえ触れられないわたしには、知るよしもない。



ヒロトとは、そのまま何処へも寄らず、喫茶店で別れた。
雪はまだ降り続けていたが、幾分か小降りになったようだ。道路にはすっかり雪が積もっており、ヒロトの言う通り、白い道が永遠と続いているように思えた。
赤ん坊が生まれたら、会いにいかせてね、と喫茶店のマスターに借りた傘を広げながらヒロトはまるで独り言のようにつぶやいた。それがあまりにも空気に紛れた小さな声だったので、わたしには彼にそんな気はこれっぽっちもないことが分かってしまった。
きっとヒロトはもうわたしの前に現れない。これっきりだろう。彼がわたしの呼び出しに応じるのも、二人きりで声を交わすのも。まるで最初から居なかったかのように、姿をくらますのだ。
「じゃあ、ね。身体に気を付けて」
「ヒロト」
「ん?」
「………風邪ひくなよ」
離れがたいのに、何も言えなくなってしまった。思うように言葉が出てこない。自分の性格の不器用さを呪った。
「有難う。玲名も」
ヒロトの目が、やさしく細められる。微笑っていた。時間が止まったかのようだった。瞬きの間に、今までの後悔や円堂守への羨望、おひさま園での幼い頃の思い出、家で待っている夫やお腹の中の赤ん坊のこと、そして基山ヒロトを愛しいと思う気持ちの全てが、溢れては消えて、溢れて消えていった。

(嗚呼…このひとのどうしようもなく寂しい笑顔がわたしはとてもすきだった)

ヒロトの背中が雪の世界へと融けていくのを、わたしはずっと眺めていた。ゆらゆらと揺れながら彼は彼方へきえてゆく。何処へいくのだろうか。そこでは円堂守はヒロトに笑いかけてくれるだろうか。
今のわたしに分かることなど何もない。しかし願わずにはいられなかった。

願わくば、彼の想いが、この先ほんの少しでもいいから報われる日が来ますように。そして彼が、幸福で涙するその瞬間に、世界が終わればいい。

ねえ神様、わたしの願いはそれだけです。



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