※基山が瞳子の子を殺して、それを偶然見てしまった南雲のはなし






殺すつもりはなかったんだ。

少年の口から滑り出す言葉は味付けを忘れたスープのように薄っぺらく、真実味がなかった。意味を為さない言葉の欠片が、南雲の耳を突き抜けて行く。
少年は俯きながら気だるげにその手で顔を覆っていた。細い骨ばった指の間から漏れる表情には、失意も、絶望も、興奮も、みえない。ただそこにあるのは年頃の少年とは思えない妙な色気である。まるで此方を誘惑するようにのらりくらりと身体を寄せつけ、耳元で悪魔の言葉をささやく。

ね、捨てちゃおう。
今ならバレないよ。

南雲は自分の脇が徐々に湿っていくのを感じた。心臓が早鐘の如く鼓動を刻み、脳内に浸透する。手を掴まれた一瞬で、少年の向こうに横たわる赤ん坊が息をしていないのを忘れてしまうくらい。
そうだ、最初は只の羨望だったんだ。少年は赤く染まった唇を動かし呟く。
羨ましかったんだよ。この子がおれに持ってないものを当たり前のように持っていることが。長い間とらわれ続けた血が、この子に流れている。誰よりもあの人に尽くしたおれには流れていない。こんな不公平なことってあるのかな。
それも、この子ったらそれがまるで当たり前であるように騒がしく泣いて、喚いて、父さんを困らせる。姉さんを悩ませる。あまりにも煩いんでね、ちょっとの間その口を塞いでやったんだ。そしたら息をしてないんだもの、びっくりしたよ。赤ん坊って柔いんだね。

背筋が凍りつくように寒いのは、夕方の風のせいじゃない。夏休みの最後の日、太陽が遠くの山へと下っても、じわじわと自身を炙る熱気は決して幻では無かった。ならこの冷たさは何なのか。少年の、瞳の奥の揺らぐことのない色が移ったのだろうか。…いや、これは危険信号だ。自分の心が、身体が、行ってはいけないと叫んでいる。ジワジワジワ。庭でしきりに鳴く蝉が命の終りを告げている。"そっち側"は恐らく人間としての資格も決まりも無い、白濁した世界なんだろう。そう、生きているのを肉欲でしか確かめられないような。その中心に、少年が立っていた。南雲に向かって手招きしていた。
「おいで」

「なんで」
「なんで殺したんだよ」
「え?」
「お前だってこいつのこと、可愛がっていたじゃないか」
「それは」
「これを知ったら瞳子だって、泣くにきまってる」
「そうだね…姉さん、泣くだろうね。父さんはおれを憎むし、円堂くんは軽蔑するだろうなあ。そしておれは本当に独りぼっちになるんだ」
寂しいなあ、きみが一緒に来てくれるなら心強いんだけど。
そんな心の声が聴こえてくる。少年は死ぬつもりなのだ。南雲が「嫌だ」の三文字を口から溢せば、その戸棚に閉まってある手芸鋏で迷いなく自身の心臓を貫くだろう。
独りで生きていけるほどコイツは強くもないし、馬鹿ではない。そう、これは少年の、基山ヒロトにとって最期の賭けなのだ。

唇に唇が被せられた。突然の感触に南雲は困惑する。
キスなら何度か交わしたことがあるが、こんな酸素の無い闇の中をもがくようなキスは初めてだった。何故だろう、吐き気がする。
「…まっ……」
制止の言葉も吐息ごと飲み込まれた。絡み合う舌が、熱くて熱くて溶けて液状になる。そのうち、この熱で互いの身体も溶け合って、最後には心臓だけ残るんじゃないか。この和室の畳の上に心臓が二つコロリと転がっているのは、さぞや変な光景だろう。
でも、いいな。そんな終わりもアリかもしれない。

「…いいよ。お前に全部やるよ」
やっと唇が離れて、そう言うと基山ヒロトは泣き出しそうになりながら、微笑った。

遠くで蝉が鳴いている。遠くで、遥か彼方で。もう彼らにはなにも聞こえない。



8月31日、夏の空蝉。

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