さらさら さらさら



台所からするこの音は、まもるくんが魔法の粉を飲むときの音です。
最近は朝になるとこの音が聞こえてきて、わたしの目が覚めます。閉ざされたカーテンから差し込む朝の光と、この砂音とでわたしは朝がやってきたことを自覚するのです。
家の朝は静かです。まもるくんはこの春から遠くの職場に転勤になった為に朝はやく家を出ます。朝ごはんは昨日のうちにつくっておいてあるので、わたしは朝は有り難く眠らせてもらっています。早起きをしようとするとまもるくんはお医者さまに言われた「身体を休ませたほうがいい」「無理をしてはいけない」の言葉を引き出してきます。そう言われてしまうとわたしも何も言い返せません。だからわたしがまもるくんと朝顔をあわせるのは、まもるくんが家を出る直前。まもるくんが魔法の粉を飲んでいる時間なのです。


さらさら さらさら


魔法の粉とは、2年ほど前からまもるくんが健康の為に飲み始めた健康剤です。まもるくんはこの粉を、台所の戸棚に瓶に詰めて保管しています。わたしがその棚からお皿を取ろうとする度にまもるくんは慌てて手伝ってくれます。聞くと、既に購入先の会社は倒産したらしく、今ある分が最後なのだそうです。つまりこれは彼にとって、とても大事な物なのです。
まもるくんはこの魔法の粉を、瓶からスプーンで掬い、マグカップに入れた牛乳に混ぜて飲みます。マグカップはわたし達が結婚する際に友人がプレゼントしてくれたお揃いの柄のものです。オレンジと薄紫のマグカップにプリントされた小さなハートが可愛らしくて気に入っています。


さらさら さらさら


砂が流れ落ちる音を聞きながら、わたしはゆっくりと起き上がります。お腹の命に負担をかけないように、ゆっくり、ゆっくりと。最近は動くことも多くなってきました。早くお腹の中から出たいのでしょう。この子が生まれたらまもるくんのようにサッカーが大好きな子になる気がします。お医者さまの言ってらっしゃったように男の子だと尚更嬉しいです。この子のことが発覚してから、家には玩具が増えました。まもるくんが、仕事帰りにどこからか買ってくるのです。まだ男の子だと決まった訳ではないのに小さなサッカーボールも買ってきました。ビニール製の、やわらかい性質のものです。子供服もあつこさんやお父さんがやたらプレゼントしてくれるので、箪笥には大量のベビーウェアがしまってあります。みんなこの子の命を祝福してくれてるのね、わたしはとても嬉しいです。
寝室を後にして、一階へ移動すると穏やかな光の差し込む台所にはYシャツ姿のまもるくんが立っていました。(最近、まもるくんは職場にジャージでなくスーツを着ていくようになりました。)
まもるくんは粉の入った大瓶を大事そうに抱えて、キスをしました。わたしの知るまもるくんの大きな手が、瓶をゆっくりと撫でます。いとおしそうに、まるでそれがひとつの命であるように、

「まもるくん、それ、基山くんでしょう」

口から滑り出すその言葉は、まるで以前から用意されていたように。

「基山くんを、基山くんの命を、飲んでいるんでしょう」









わたしたちが結婚する約二年ほど前に、基山ヒロトくんは亡くなりました。
彼は重い病を抱えていました。
只でさえ透き通るように白いその素肌は、まるで血が通ってないかと思うほどに色褪せて、病気が進行すると共に彼の持つ生気を吸いとっているようでした。
病気が発覚した時にはもう既に手遅れで、基山くんは半ば強制的に病院の病室に送られました。宇宙人であった星空の下の男の子が、薬品と消毒液のにおいしかしない箱のなかに放り込まれ、閉じ込められてしまったのです。こんな残酷なことってあるでしょうか。

それでもまもるくんは、何度も、何度も、基山くんに会いに病室へ向かいました。手には必ず花や果物などの手土産を持って。床に伏せていることしか出来ない基山くんにたくさん話を聞かせてあげるのです。サッカーのこと。イナズマジャパンだったみんなのこと。職場でのこと。その他沢山のこと。もう一生その足でサッカーをすることはないであろう基山くんにそんな話をするのは普通なら酷なことかもしれませんが、基山くんはそんなまもるくんを見て静かに微笑んでいました。その笑顔は弱々しく、しかし幸せそうに見えました。
お見舞いに行ったその夜、まもるくんはお風呂場でひとり涙を流します。基山くんのことを助けてあげられないのが悔しくて、基山くんの命がもう先短いことが哀しくてどうしようもないのです。
まもるくんが自分の為に泣いてくれたのを基山くんが知ったらとても幸せに思うでしょう。そしてそれを知らない基山くんはとても不幸だなあ、とわたしは思いました。

基山くんが亡くなって次の朝、まもるくんはわたしを連れて海に出掛けました。
季節は冬の始まりで、海辺には人っ子ひとりいません。緩やかに浜辺に押し寄せるさざ波の音だけが、喪服を着たわたしとまもるくんを包みました。優しさを知らない冷たい風が、駆け抜けていきます。
まもるくんは一言も発することなく、わたしの手を繋ぎました。頭の中で描いた理想とはまた違う形でしたが、わたしはすぐにその手を握り返します。まもるくんは左手でわたしとかたく手を繋ぎ、右手で基山くんの遺骨を抱え、涙を流していたのです。
なんて器用なひとなんでしょう。
でもその日を境に、わたしとまもるくんは友人以上の関係になり、二年後に結婚式をあげるのことになるのです。



『それ、基山くんでしょう』
『基山くんの骨をのんでいるんでしょう』
本当にそう言えたならどんなに良いことか。
何度頭の中で繰り返されたかは…100を過ぎてからは数えるのをやめたのでわかりません。でもわたしはそのことを言いません。本当のことを告げなければまもるくんは良い夫でいてくれて、この子にとって良い父になってくれるのです。

まもるくんが、魔法の粉と称して彼の遺骨を飲んでいることはとっくのとうに気づいていました。実を言うとわたしはこのことが嬉しくありません。まもるくんがもう何年も前に亡くなった彼に未だ縛りつけられてるように感じてならないのです。
もういない彼の面影を、残された骨に見ているのです。これでは、まるで、

「あ、 おはようふゆっぺ、起きたのか」
「おはよう、まもるくん」
まもるくんが台所に出てきたわたしを見て微笑みました。基山くんが入った瓶を棚に戻し、このお腹のせいで動きのづらいわたしの手を取ってくれます。たったそれだけのことなのにに、どこか優越感をおぼえました。
「おはよう。体調は?起きてて大丈夫か?」
「うん、今日は気分がいいの」
この子も朝から元気なのよ、とお腹を撫でれば、それに答えるかのように命の鼓動が聞こえてきます。ドクドク、ドクドクと小さな心臓が動く度に、わたしはまもるくんとわたしの命がここに存在することを実感するのです。
この心音を聞こうと、まもるくんは少しだけ屈んで耳をあてました。
「聞こえる…こないだよりおおきくなってる」
「やっぱり?そうじゃないかとおもっていたの」
「会えるの、たのしみだなあ………なあ、冬花、考えてたんだけど」
ドクドク、ドクドク。心臓の音がします。
「もし男の子だったら、名前」
ドクドク、ドクドク、ドクドク。

「ヒロトにしないか」

ドクドク……さらさら。
命の音が、忌まわしい砂音に変わっていきます。まもるくんは幸せそうに静かに微笑んでいました。あの日病室で見た、基山くんと同じあの顔でした。

嗚呼、これではまるで呪いではありませんか。
神様、わたしはこの人の為に彼を生まなければいけないのですか。
今はひたすらに押し寄せる吐き気が、只の悪阻であることを、願うばかりです。




本当だよ。死ぬのはこわくないんだ。きみがこの手を掴んでてくれるからね。きみの体温を感じながら死ねるなんてまたとない幸福だ。それに、俺は自分の人生に充分満足してるよ。きみに出会えた。きみと手を繋いで、愛しあって、一緒に歩んだ。ねえ、とても幸せだ。「好きだ」って言ってくれたこと、一生忘れないよ。涙が出るくらい嬉しかった。…泣かないでよ。でもきみの泣き顔は本当に綺麗だね、まもる。ねえ、お願いがあるんだ。たったひとつだけ。これが叶えられたら俺たちはずっと一緒だよ。これからも、ずっと、ずっとね。きみにだけしか叶えられない俺の願い、きいてくれる?俺の命が尽きて、骨だけになったら、きみに、



哀しき屍. 

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