1.
「円堂くんに、お願いがあるんだ」

夜遅く部屋を訪ねてきたヒロトは、ガチガチと歯を鳴らしていた。心なしか顔色もいつもに増して青い気がする。薄手のパジャマにジャージを羽織っただけの姿は、見ているこっちが寒くなった。

「どうしたんだよ、こんな時間に……うわっ」

慌ててヒロトの手を引いて部屋の中にひきいれたが、その手のあまりの冷たさに小さな悲鳴があがってしまう。冷えきった指先は氷のように冷たかった。

「ご、ごめんね。あの、実は」

部屋の暖房が、壊れてしまって。
ヒロトは綺麗に整えられた眉を下げ、しどろもどろになりながらも告げた。
最近、ライオコット島にも寒波が近付いているようで、ここのところ寒い日が続いていた。夜…特に真夜中は氷点下になることもあるらしい。連日の練習も容赦なく吹き付ける寒風に皆ぶるぶると震えながら耐え抜いたところだ。
古株さんが言うにはこれも地球温暖化による異常気象のひとつらしい。本来なら大会中にこんな気温が下がることはまずないというが、どこまで本当かはわからない。なにしろ初めて行なわる大会である。
この気温の変化にあたってFFI運営委員会からは体調管理を怠らないよう注意が呼び掛けられた。選手が体調を崩しでもしたら試合結果にも関わることになる為だ。
つまり、選手にとって部屋の暖房が壊れるということはとても大きな死活問題なのだ。

「そっかあ、困ったなあ…もう古株さんは寝ちゃっただろうし」
「ふ、布団の中に入っちゃえば大丈夫かなって思ったんだけどどうしても寒くって…」
「無理はすんなよ!風邪引くわけにはいかないんだしさ。いいよ、一緒に寝ようぜ」
「えっ」
「この部屋で、一緒に寝ればいいじゃん。そうすればあったかいだろ?」





2.
ホットミルクの入ったマグカップからは白い湯気が出ていた。それを持っているだけでもかじかんだ手が暖まる気がした。ヒロトはぼんやりと円堂がマグカップに固形型のハチミツを入れるのを眺めている。黄金色をしたそれは"ぽちゃん"と小さな音を立ててミルクの海へ落ちた。
何故だろう。ここは日本から遠く離れた異国のライオコット島の筈なのに、おひさま園に、家に帰ってきた気がする。

「昼ごはんの牛乳余ってて良かった。母ちゃんがさ、夜眠れない時はよくこれ作ってくれたんだ。暖まるから飲んでみろよ」
「ありがとうね。…でもまだちょっと熱そうだなあ」
「あれ?もしかしてヒロトって猫舌?…ちょっと貸して」

円堂はヒロトからマグカップを受けとると、口元に近付けて息を吹き掛け始めた。
(う、わあ)
大好きな円堂が、自分の為だけに湯冷まししているのを見て、ヒロトの心臓は大きく高鳴る。ましてや、その息が自分の飲み物にかかっているのだから、尚更。

「ほらっ これで飲めるだろ」
「…ありがとう」

少しだけぬるくなったミルクを受け取り、おずおずとすする。円堂が冷ましてくれたそれはちょうど人肌の温度で、あたたかさとじんわりと広がるハチミツの甘みに、体の芯がなんだかほっこりした。

「おいしい…」
「ならよかった」
「なんか、今日の円堂くん、おかあさんみたいだね」
「おかあさん?」

実際ヒロトは実の母の記憶を断片的に、うっすらとしか思い出せない。おひさま園にくる前には、自分にもあの、テレビに出てくるような"おかあさん"がいたなんて、なんだか信じられなかった。
ヒロトの言葉に、円堂の只でさえ大きい、つぶらな瞳をさらに大きくした。そして暫く頭を抱えて考え込んだあと、にんまりと満面の笑みを浮かべた。ヒロトの大好きな、あのあたたかい笑顔だ。

「おかあさん!いいな!俺、ヒロトのおかあさん!」

おかあさんと言われたのが相当嬉しかったのだろう、円堂はにこにこにしながら、ミルクをすするヒロトに近付いてきた。
何をする気だろう、と若干身体を緊張させるヒロトの赤頭を、

「いいこ、いいこ。ヒロトはいいこだな〜」

円堂は、その大きな手で撫でたのだった。
なにも考えずに手を動かしている為に髪はグチャグチャ。ドライヤー後の頭はボサボサ。
なんて乱暴な愛撫の仕方。
それでも彼のやさしい気持ちが手のひらから伝わってくるような気がして、ヒロトはじんわりと込み上げてくる涙を堪えなければならなかった。
彼は、ずるい。





3.
「ヒロト、おいで」

すっかり"おかあさんごっこ"が気に入ったのだろう。円堂はまるで赤子に接するようにヒロトをあまやかした。
ヒロトが一言でも「嫌だ」と言えばすぐにでもやめてくれるのだろうが、なまじヒロト自身もこのごっこあそびに気恥ずかしさはあるものの、心地よさを感じているので何も言えなくなるのだった。
誘われるようにして布団の中に入ると、隣の円堂のぬくもりを直に感じて自然と顔が熱くなった。
(無理もないよ、好きなひとと1つの布団で寝るんだもの)

「…ひゃっ!」
「ヒロトの足つめたいなあ、もしかしてまだ寒いか?」
「え、えっと俺冷え性だか ら…、あの、ええええんどうくん」
「冷え性?だからこんなつめたいんだな〜」
「あの、なぜ足を絡めるのでしょうか…?」
「こうしたほうがあったかいだろ!ほら!人間ホッカイロ!」

容赦なく密着してくる足に、手に、胸に、心臓が潰れそうだ。それもこんなに大きく脈打っているのだからもう聞こえてるかもしれない。聞こえてるに違いない。
全く、これで天然なのだからたちが悪い。

「ヒロト、心臓の音すごいな〜」
(嗚呼、ほら)
(どうしようはずかしい)
「ごっごめん、五月蝿いよね」
「いや、おれも同じだからさ」
「…えっ」

急いで円堂のほうに振り向くと手で視界を遮られた。次いで唇のところにあたたかい感触。ほんの一瞬のことだった。あまりの急な出来事にヒロトの思考は停止する。

「へへっ、これ、おやすみのキスな!」

"おかあさん"はそんなところにはキスしないよ の一言は、胸がいっぱいで(もうなにがなにやらで)とてもじゃないけど言えなかった。




おかあさんごっこ
(きみの愛からぼくがうまれた)

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