「やべ、バイトの時間だ!じゃね!また明日っ」
「あ、そうだったんだ。頑張ってね!」
「ありがとー!」
今日も無事一日が終了して今は放課後。
麻美はお休みだったけど奈那子や沙都子も用事があるらしく早々に帰っていって、ふと気がつくと教室の後ろでヘッドホンをつけて自分の世界に入ってらっしゃる結衣がいて。この子に関してはよくあることで、邪魔しちゃいけないと思って帰ろうとしたところ呼び止められたのだ。
そこから結衣が好きなロックバンドの話が始まり、この曲が良いとかライブだとこれが最高だとか言いながらされるがままに私はヘッドホンを装着したり外したり。さすがロックバンド…名前すらもう忘れちゃったけど…確かにカッコいいとは思うけど…み、耳が痛い。
そんなこんなでしばらく喋ってたけど、突然ハッとバイトのことを思い出したらしく結衣は風のように去って行った。
そう、あの子は忙しい子なのだ。
ライブのためにバイトを掛け持ちしてて深夜のシフトも結構入ってるらしく寝不足だってよく言ってる。時々知り合いのバーのお手伝いもしてるようで、昨日飲まされて二日酔いが…とか言ってることもあってそれは聞こえないフリを貫いてるけど。まんまロックに生きてるなぁ…と私はこっそり思ってる。サムイから口には出さないけど。
特進クラスということを忘れそうになるくらい私の友達は個性的だと改めて思う。
それぞれ多趣味だし、日頃勉強してる素振りは無いのに成績は良い。急遽入学することになった私はこの学校の偏差値とか詳しく知らない訳だけど初めの学力テストなんかもみんな特に困ってる様子は無かった。隠れて努力してるのかもしれないけど、というよりは。
要領のいい子たちだなぁ…と素直に尊敬するのだ。いや本当に。
うーん、バイトか。
よく考えたら周りみんなやってるもんなぁ。
この生活に慣れた訳ではないけど気晴らしに良いかもしれない。いや、やるからにはもちろん真面目に働くけど他に没頭することがあれば余計なことを考えなくて済むから。
家にいるとどうしてもなるべく部屋から出ないようにしちゃうし、邪魔にならないようにって考えちゃうし。お馴染みの中川さんや上村さんはそんな私を気に掛けてくれてるからそれはとっても有り難いけど。その時間が減ればあの方々の苦労も減るんじゃないか…って思うと、その方が気が楽ではある。
最近は上村さんたちと並ぶ(と勝手に解釈してる)古田さんや村井さん、そして急に物腰柔らかくなった列記とした私の叔父である藤木さん…吾郎叔父さんって呼べって言われてるけど。そんな方々も時々声を掛けてくれるようになった。藤木さんの変化は、私も薄々感じてた組織内の揉め事に関係してるみたい。その領域には入り込めないから何とも言えないけど、優しくなったことは確かで私は密かにホッとしてる。煙たがられてる気がして余計に怖くて当時はまともに話せなかったからな…
実際は私の意志を無視して一家に取り込むなんて可哀想だと反対してくれてたんだって岡野さん(上村さんの組の方)から聞いたけど…本当のことは分からないにしろそれがちょっと嬉しかったのも事実。
…でもやっぱり。
ふと家のこと考えると、普通じゃないよね。当たり前だけど。いや良くしてくれてるから文句は言えない。でも…ははは。
未 だ に 実 感 が な さ 過 ぎ て 他 人 事 の よ う で あ る 。(笑えないけど笑えてくる)
あ、ちょうどコンビニの前に求人誌。
一応持って帰ってみようかな。それか散歩がてら近所のお店回って募集してるところ探してみるっていう手もあるか。
まぁいいか、とりあえず…
「おい」
一冊拝借しておこうっと。
「おい、そこのオンナ」
とりあえずちょっと暗くなってきたし今日は帰って…
「聞いてんのか」
………………………。
ドクンと。心臓が嫌な音を立てた。
「あんた黒咲だろ。その制服も…間違いねーな」
ゾワッと全身に鳥肌が立ったのが分かる。
途端に、震えが止まらない。
手に取ったばかりの薄っぺらい求人誌を思わずギュッと胸元で抱くようにして何とかそれを抑えようとする。冷たい威圧感と突き刺すような鋭い視線。
…まったく、おかしな体になっちゃったものだ。
振り返らずとも声だけで、分かる。
今まで出会ったこの手の人たちとはまるで違う。散々怖い思いをしてきたつもりだったけど少し誤解してたみたいだ。
分かってしまったのだ。
この人は私に対して敵意がある、と。
「シカトは感心しねーな」
「…………っ」
背中にひしひしと伝わってくる静かではあるが濃密な殺気。振り返るべきかそうでないか。違う、どう考えたって逃げなきゃいけない場面だ。なのに怖くて足が動かない。ドクドクと大きく波打つ自分の心臓の音が全身に伝わってくる。手のひらの汗も尋常じゃない。
なんで、どうして、私が、なんで、目をつけられる、心当たりなんか、ない、どうして、黒咲だから何なの、どうして…どうして…っ!?
あまりのパニックで涙が溢れてくる。
何か策を考えようとしても単語しか出てこなくて全く役に立たない。もはや声すら出ないところまできてる。
逃げ…なきゃ。
逃げなきゃ…!
動け足!お願いだから動いてよ…!!
「おい」
「………っ!」
終わりだ、と思った。
後ろから乱暴に肩を掴まれた私は、力なく振り返らざるを得なかった。震えてもたついた足のせいでバランスを崩しかける。肩を掴んだまま私が倒れるのを一瞬で防ぐ目の前の人物。ギリッと痛む右肩。それは当然優しさでもなんでもない、ただ用が済んでいないから無駄な時間を省いただけに過ぎない。
「あんまりイラつかせると損するのはあんただぜ」
大きな背。白髪。冷徹で感情のない瞳。
そこに揺らめいてるのはただ、殺意のみ。
もうどうしようもないと諦めてるはずなのに恐怖は隠し切れない。震えは止まらないし、涙は頬を伝う。
「藤代…藤代拓海を知ってるか」
…ああ、私のアホ。
自分が嘘をつけない性分であることがこれ程憎いと思ったことはない。私が思わず一瞬目を見開いてしまったことで、きっとこの人はそれをイエスだと捉えただろう。
「…し、知りません…」
やっとのことで絞り出した言葉はあまりにも無意味な訴えだった。精一杯横に振った首も何もかも。それを表すかのように、この人は口の端を吊り上げて面白がるようにワザトらしいため息をつく。
「嘘はいけねーよ」
「…っ、う、嘘なんかじゃ…」
尚も肩を掴まれたまま。逃げられる可能性を失った私はほんの僅かな望みにかけてシラを切ろうとする。ほとんど無意味だって分かってるけど、でも、ある意味では嘘じゃない。
藤代くんは、知らない人。
もう二度と関わらない人。
私は彼のことなんて知らない…っ
「あんたには悪いが」
「……………………」
ああ、もうダメ…か。
「ヤツに伝えといてくれ」
ふと。突き放すように肩から手が離れて。
やっと解放されたなんて呑気な思考には至らなくて。フラついた足が勝手に二、三歩後ろによろめいて。
ゴッ…!
頬だったか。目の辺りだったか。
顔のどこかに味わったことのない重く鋭い痛みが走って。強い衝撃に気を失いかけて。
今度こそ私はコンクリートに後ろから倒れ込んだ。
「これは戦線布告だ、とな」
見下ろす男の人の目を、私は知らない。
鋭く闇に包まれたような情けのない目を私は知らない。
知りたくなかった。
一睨みくらいきかせてやればいいのに、と自分の中の強がりすら情けなくてそれを掻き消す。私にはそれが精一杯だった。
男の人がそこを立ち去るまで顔を上げることができなかった。
そのうちに歩き出したらしき足音が遠のいていく。静かに去っていくー…
涙と違和感で視界が歪んで、頬を伝うそれが妙に染みた。痛い。めちゃくちゃ痛い。ぼやけたコンクリートを薄目で見つめながら、殴られたのは目元か…ひどい顔してるんだろうな…と心の中で自分を嘲笑う。冷静ぶるくらいしか平常心を取り戻す術が無かったのだ。
熱を帯びた目元がジンジンして痛い。
痛いなぁ、もう…
力が入らない。だけどここは狭い道にしろ人目につく。いつまでも倒れたままでいる訳にはいかない。何とか上半身を起こしたところで擦れたらしい左肘の遅れてきた痛みを知る。あーあ…カーディガンに穴開いちゃってる。
「今日はアレや、……の店に顔出しとくれぇ言われとるから夜は頼むで」
「はい、承知です」
聞き覚えのある声に思わず振り返る。
すると大道路の手前の歩道に二人の男の人が見えた。それは予想した通りの人物だった。
古田さんと三塚さん…。
大して距離は遠くない。今一目散に走り寄ればすぐに追いつけるだろう。この顔を見たらきっと心配してくれる。知らない男の人に殴られて怖い思いをした、と泣きついても文句一つ言わずに相手をしてくれる。それが例え私の立場を利用した上で受ける優しさだとしても。
…それが出来たら、楽なのに。
古田さんたちだと目で確認した瞬間、私は勢いよく目を逸らした。うまく力が入らない足を無理やり動かして立ち上がる。そのまま二人とは反対方向に向かってヨロヨロと歩き出した。腕に掛けてた通学カバンがズシリと妙に重たく感じる。
角を通り過ぎる二人の笑い声が背中に聞こえて、何だかふとつられたように力なく笑ってしまった。自分の不甲斐なさと意味のない意地に。
余計な気を揉ませたくない。
…迷惑を、かけたくない。
いや、そんな良いものじゃないな。というよりは面倒な顔をされたり煩わしい思いをさせたり。そういうのが嫌なんだ。見たくないし感じたくもない。ある意味ではこれも保身だ。
まぁだからってこんな時に強がるなんて自分でも心どうかしてるとは思う、思うけど。
見えてくる一つ先の角を曲がろうとしてる高校生くらいの女の子たちが楽しそうに笑ってる。もちろん傷一つない綺麗な顔で、キラキラしてて。…どうしてだろうな。
ーどうして私は、ああなれないのかな。
こんな姿…情けなくて誰にも見せられない。
色んな感情がごちゃ混ぜになって、訳も分からず涙は勝手に溢れ出てくる。
だけど私には何もないんだ。
ピンチを救ってくれるヒーローも、泣きつくことができる胸も、慰めてくれる温かい手も。
私には勿体無いってことは、分かってる。
現実なんてそんなもの。
正義感のある素敵な人が颯爽と現れて助けてくれるなんて出来すぎた展開、似合わないって分かってる。
その上、頼りたいのに頼れない。可愛げのなさだけはいっちょ前に持ち合わせてる。
それにしても痛いなぁ…。
本当は頼りたいし今は少しだけ甘えたい。
誰かの胸に泣きついて怖かったって言いたい。
そんな本音は心の奥に閉まって、今どうすべきかを悲しいくらい現実的に考えてしまう。そうだ。自分は自分で守らないとって、今朝そう実感したばかりじゃないか。
ーそれが、私なんだもの。
このまま真っ直ぐ帰るのは気が引ける。
とりあえずどこかで時間を潰して、それから…
それから…
…ハハ、私ったら何やってるんだろ。
痛いよりも怖いよりも、なんか、虚しい。
憧れの王子様は現れない。
(その王子が不良さんだったら困るけど)
(望むくらい許してよ)
(現実はそう上手くいかない、そんなの知ってる)
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