ニューお試し部屋 | ナノ


一匹目




私と一松くんが出会ったのは、月の綺麗な夜のことだった。





「よしよし、ミカンちゃんはもうすぐ退院できそうだね」

入院動物の体調をチェック・餌やり・掃除・消耗品の在庫の確認という当直の仕事を一通り終えた。何度もしていることなのでもう慣れたけれど、やっぱり仕事の後にまだ家に帰ることができないというのは精神的に辛い。
特に私のような家と外で性格が違うような人間にとって、家に帰れないというのはかなりストレスだった。家に帰って冷えたビールを飲むのが楽しみなのだ。それができないのは何度も言うが本当に辛い。

(今日を乗り越えれば大丈夫。今日を乗り越えれば大丈夫)

目を瞑って手を握りしめ、噛みしめるように心の中で唱える。すると、病院で飼育している猫のニーが足元にすり寄ってきた。

「お前はいつも辛いときに来てくれるなぁ。ニーは優しい子だ」

喉の下を撫でてやると、気持ちよさそうに目をつむる。この猫はいつもこうだ。家に帰れない、辛いと一人なのをいいことに私が呻いていると、こうして甘えてきてくれる。事故で足を悪くしてしまったので、歩きにくいはずなのに必死に歩いている姿を見ていると、私も頑張らねばと気持ちを切り替えることができる。

「いい子いい子、ニーは本当にいい子だねぇ」

しばらくニーと戯れていると、何やら外が騒がしかった。当直室は病院の裏にある路地に直に行けるようになっているので、外で何かあればすぐにわかるようになっている。もっとも、人通りの少ない道なので騒がしいことなんて今まで一度もなかったのだけれど。

(まさか、この前院長が言ってた奴……?)

この近くで小動物の死体が見つかることが増えた。そのことで少し前に院長が珍しく怒っていた。
理由もなく自分よりも弱い存在の命を奪うなんて愚かなことだ。いや、理由があったとしても許されることではない。
そう言っていた。私としてもかなり腹が立った事案だ。

あの路地には野良猫が何匹か住み着いている。まさかと思った瞬間に体は動いていた。
もしものことを考えてホウキを握って外につながる扉をそろりと開けた。

「だ、誰かいるんですか!」

近所迷惑にならない程度に声を出した。道に出て周囲を見回すと、月明かりに照らされて奥の方で人が倒れているのが見えた。

「大丈夫ですか?!」

走って近寄ると、一人の男性が倒れていた。全身ボロボロのその人は、頬にナイフで切られたような傷があり、そこから血が流れていた。血の気の失せた顔は歪められ、苦しげに呻いている。

「早く救急車を呼ばないと!」

胸ポケットに入れておいた携帯を取り出して119番を押そうとした時、服の裾を引っ張られる感覚があった。見ると、意識がないと思っていた彼だった。

「意識があるんですね! よかった」
「…………で」
「何ですか?!」

小さい声で何かを言われた。聞き取れなかったので耳を彼の口元に近づける。

「きゅーきゅうしゃ、よばな……で」
「は?」
「かね、ない……」

それだけ言い残して、彼は再び意識を失った。

ひどい怪我をしているのにお金の心配をしたこの男性こそが、松野一松くんだった。