02
約束してしまった日。仕事は19時に終わる予定だったはずが、実際仕事が終わったのは20時だった。やべえ。そのことに気付いたのは撮影が終わり荷物を置いている楽屋に戻ってきてからで、長時間触れられなかった携帯を開いて目を疑った。
収録中は時計を見る暇なんてなく、時間が押しているのかどうかすらわからなくなって時間の感覚がなくなってしまう。仕事に集中していたことを表すのだが今日ばかりは仕事をやり終えたという気持ちも浮かばずに訪れるのは昨日と同じ、焦りだ。朝は約束のことに対してどうしようという気持ちはまだ残っていたのだが、それも一日の折り返しになれば仕事に打ち明けてすっかり忘れていた。しかし、終わってからこれが再び押し寄せてくる。悲しいことに、以前よりもずっと増した焦りである。
「約束の時間から一時間も経過してりゃ、相手も察して帰ってるだろ」
「今日は1月下旬ほどの寒さだそうですよ」
トラの言葉にはまぁそれもそうかもしれないけど、と思いつつも手早く荷物をまとめて出た外の世界は、ミナの言葉通り最近の気温よりもぐっと低く白い息が漏れていた。
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「−−最悪だ」
「ねぇ、まだ焦ってんの?」
「焦るだろ! タイミングが最悪だ……」
「これ、会うなってやつなんじゃないの。神様からのお告げってやつ」
なるべく早歩きで駅のホームに走るも、あろうことか帰宅路線で人身事故が起こったらしい。つまり電車が止まっていた。帰宅ラッシュはとうに過ぎたが残業や遊びを終えた人らが流れ込む駅は電車が止まったことにより混雑もしている。これ、電車が動き出しても満員で乗れないやつだ。もはやいつ最寄りの駅に辿り着けるのかすらわからない。
「もういないかもしれねぇけど、行くだけ行くしかないだろ。ハル、おまえはもう帰っていいぜ」
「は!? なんで!?」
「だって夜も遅いし」
「まだ20時半じゃん。それに今日は泊めてくれるって言ったじゃんか!」
「いやそうなんだけどさ」
俺と彼女の様子を見ると言いだしたハルだったが、予定よりも遅れてしまい約束の話がまだ残っているのかわからない状況下は、俺の我儘に付き合わせてしまっているようなもんだ。気を利かせてハルに告げるが、ハルは不満げに顔を歪めた。ああこいつ、俺の家に泊まることを楽しみにしていたんだな。可愛い奴め。着替えを入れているのかいつもより膨れ上がっているリュックサックに目を向けニヤついてしまえば、ハルからは「気持ち悪いんだけど」なんて声が聞こえてきた。
やっと電車に乗れて最寄り駅に着いた頃には21時半を回っていた。正直な話、約束の時間から2時間以上も過ぎているわけだし、夜も遅いし、今日に限ってめちゃくちゃ寒い。見ず知らずのたった数分会って話ただけの人間との約束なんだから、諦めて帰っているだろう。そんな気がした。俺だって半分諦めていた。もし居なかったとしたら、無視してしまったという罪悪感に包まれるし彼女のことを可哀想だと思ってしまうけど、こんなに待たせてこの寒さ、待っていられても困ってしまう。どっちに転がっても良くない結末が待っているんだろうけど、今日の約束のことを引き摺って眠れない夜を過ごすくらいならば、この目で確かめたかった。
「−−あんた!」
「えっ」
「なぁ、おいあんた、なんでここにいるんだよ!?」
「あ、昨日の……」
……だが彼女は、約束された場所で待っていた。
半分諦めている気持ちを抱きながら静まり返った広場に辿り着いて辺りを見渡せば、誰もいないと思っていた広場の隅っこのベンチに一人の女の人が座っている。誰もいないと思っていた静かな広場、だけどその人の姿を見た瞬間に、昨日の女の子であることはすぐに分かって「ほら、誰もいないじゃん。早く帰ろうよ」とぐずっているハルを置いて彼女の元に駆け寄った。
やはり、よかったまだ居てくれた、という気持ちもあれば、まだ居たのかという驚きも隠せない。こうなれば俺はこの会う約束をしてしまったことに何を求め何を思い悩んでいたのかと思うのだが、今はそんなことどうだっていい。
「悪い。仕事が押して、電車も人身事故で遅れてて、すげえ遅くなっちまった」
「いえ、いいんです! 私も、急に言ってしまったから……」
「なぁ、どんくらい待ってた?」
「えっと……3時間くらい、ですかね? 一応、19時前から来てて……」
「なんで帰らなかった!?」
「言いだしたの、私の方だったので」
俺の顔を見ながらすっと立ち上がった彼女は、昨日も思ったけど随分と小柄な体格をしていた。けど、昨日よりもずっと小さく見える。白い息を吐きながら、悴んだ手を昨日見たばかりの鞄に突っ込んで、小さなシリコンのがま口財布を取り出した。
「昨日、いくらでしたっけ」
「いい、いいって。待たせちまったし、礼も金も受け取れない」
「いえ……あ、本当は菓子折りとかを渡すつもりだったんですけど、買いに行ったら、何がいいのかわからなくて」
「あのさ、だから……って」
気付いてしまった。彼女、めちゃくちゃ震えてる。そりゃそうだろう、こんな急な寒さなんだから。昨日よりもやたら小さく見えてしまったのは、寒さで震えて縮こまっていたせいだ。
「そんなことよりさ、寒いだろ? なんか温かい飲み物買ってきてやるから」
「それならこのお金で!」
「いや金はいいんだって!」
これでもかというくらい財布を押し付けて金を渡そうとしてくる彼女の手を追い返すと、その拍子に彼女の指先に触れてしまった。触れてしまったということに驚いて手を引いてしまうが、それよりも驚いたのは、たった一瞬触れただけの指先が氷のように冷たかったことだ。おいおい、一体どんだけ寒い思いをしながらこんなところで待ってくれたんだ。昨日の出来事と重なり、今日だって彼女のことが可哀想で仕方ない。今日は俺のせいなんだけど。
「ここで待ってるのは……寒いよな。どこか暖かい場所に……そうだ、コンビニで暖まってろ。その間に俺が温かいもん買っといてやるから」
「お金はこれでお願いします!」
「だから金はいいんだって!!」
意地でも自分の金で払ってもらいたいらしい、ということは押し付けられた二度目の行為で察する。勢いに押されてそのがま口財布ごと受け取ってしまった。
振り返ると、ポケットに手を入れたまま寒さで震えているハルの姿が広場の端々に植えられた木の間から見えてしまった。そうだハルがいた。俺は今、寒がっている二人を抱えているんだ。
「ハル! さみーだろ、なんか買ってやるから、何がいい?」
「ココア! っていうか、いつまでかかんの!? 部屋の鍵ちょうだいよ!」
「あ、そっか……じゃあ、ココア買って帰るから、先に帰って待ってろ」
「本当に渡してくるなよ!」
「渡せって言ったのはおまえだろ!?」
もはや何が正解で何が不正解なのかわかんねぇ。わかることと言ったら、今ここでハルが言うように大人しく鍵を差し出すことは不正解だったらしい。この段階で明らか正解だと思っていた鍵を差し出す行為が不正解って、これ回避できる人間が存在するのか?
「……あ、お友達も一緒だったんですね。すみません……」
どうどう、と苛立っているハルを落ち着かせていると背後からそっと彼女が顔を覗かせた。ハルの存在に気が付くと頭を深々と下げながら二日目にして聞き慣れてしまった謝罪の言葉を口にする。監視しているらしいハルに直に会わせることになってしまった。それはそれでいいんだけどさ、なんてことを思っていると、ハルは「別に!」と彼女にちょっと素っ気ない態度を取って歩き出してしまった。歩き出した先にはコンビニがある。
「−−これも買って」
「なぁハル。おまえ、これ全部食うのか?」
「うん」
さっきまで不機嫌だったように思うハルは、コンビニに入るなり店内をうろつき出して、こっちに来たかと思えばデザート類が積まれた籠を押し付けてきた。シュークリーム、ロールケーキ、生チョコクレープ、どら焼き、宇治抹茶プリン、ぜんざい……。ただのお菓子類ではなく全部このコンビニ系列限定のスイーツだ。値段もそこそこする。全部食べんのか、これ。マジで?
「……あんたは?」
「え」
「他になんか欲しいもんはあるか? ついでに買ってやるぜ」
「いえ、私はこれだけで」
彼女もまたハルと同じように一人で店内を歩いていたが、俺とハルが一緒にいるのを見て近付いてきた。最初は彼女に着いて歩いていたが、途中からあんまり着いて歩くのも……と思ったから別々の行動をしていたわけだけど。これだけで、と言った彼女の手にはがま口財布とほっとレモンが握られてあって、温かい飲み物で指先を暖めているようにも見える。
「あの、これ、これで買ってください!」
「あんたまだ言ってんのか……」
受け取ってしまっていたがま口財布は今は彼女の手元にある。店に来るまでの間、さらっと押し返したからなんだけど、彼女はそれを鞄に仕舞うこともなく持ち歩いたまま、レジに向かったところでまたそれを押し付けてきた。それを手で払って、籠をカウンターに置けば会計が始まる。
「……え、あっ」
と、彼女が突然声を上げた。不意に漏れた驚きの声、とでも言ったらいいのかもしれない。うん?と視線を向けると、彼女の視線はレジの画面に映り込む金額に向いていて、そこそこの値段がするデザートがレジに通されていくと金額がどんどん加算されていく。彼女はそれを見て驚いているようだった。
「……す、すみません……」
「だからいいんだって。これもついでに買うよ」
「え!?」
「すんません、これだけテープで」
「あのっ……」
彼女の手のひらに包み込まれていたほっとレモンを取り上げて、店員に渡すとテープが貼られて返ってきたが、それを受け取って彼女に渡す時、彼女はがま口財布の口を開けて小銭を取り出そうとしていた。商品の合計金額を見ていた時の様子からして、彼女はそんなに金は持っていなかったんだろう。支払わせるような真似をしなくて良かったと思いながら、それでも小銭を手にした彼女の仕草を見てそっと手を差し出した。その意図を理解したのか彼女は躊躇わずに俺の手のひらに500円玉を置く。ちょっと貰いすぎな気もするが、これでお互いが納得するならそれ以上のことは何も言わない。
「今日は、ありがとうございました」
律儀なのかわからないけど、店を出てから、何もしていない俺に彼女は礼を言い出した。一体何にお礼されてるんだ、俺は。スタジオの収録とかでも何度も言われている「ありがとうございました」の言葉はもう聞き慣れたし、それと違って彼女が俺個人に対する「ありがとうございました」も聞き慣れたしむしろ聞き飽きてきた。感謝されるのは、嬉しいんだけど。
「昨日も本当に助かりました」
頭を深々と下げてくる彼女は、仕事をしている間もそう見ることがないくらい頭を下げていて、当初抱いていたそんなに気にするなという言葉ももう出てこなかった。「だから、そういうのはもういいんだって」だが俺が発するのはそれしかなく、頭を上げた彼女にそれ以外の言葉を向けることができなかった。
「あの、また会えますか?」
「え?」
「私、この近くの学校に通ってて、ここにはよく来てるんです。また、会えたらいいな、って……」
「あ、あー……俺もこの近くに住んでるし、まぁ、またそのうち会えるかもな……いてっ」
バカ、と俺の後ろで会話を聞いていたハルが容赦なく俺の脹脛を蹴り上げた。もう会えないかもしれないということを口約束したことに対してではなく、この辺りに住んでいると口にしてしまったことにハルが蹴りを入れたということは言い終えてから気付いた。
「あの、そちらの方も、お時間いただいてすみませんでした」
そんなこと彼女は気付くはずもなく、これまた律儀に背後にいるハルにご挨拶をする。
「悪ィ、こいつ、人見知りなんだ!」
ハルは無視してたけど。無視は駄目だって。可哀想だろ。彼女を困惑させないように身を乗り出してフォローをするが、彼女は特に気に留めているわけでもないようだったので安心した。そしてもう一礼、お辞儀をすれば「ありがとうございました」とまた言われてしまった。
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「あいつ、オレたちのこと気付いてなくなかった?」
「だから言っただろ。おまえらが考えすぎなだけなんだって」
自宅に戻ると、寒いと言いながら買ってきたデザートをテーブルの上に並べて床に座り込んだハルが口を開いた。昨日はバレたんじゃないかと思っていたが、もしかしたら気付いていないんじゃないか、というのはなんとなくだが俺も感じたことだ。ハルと向かい合わせに座るように腰を下ろして、エアコンのリモコンに手を這わせて電源のスイッチを入れると、ハルがシュークリームのビニールを強引に開けた。
「レッフェスにも出て、JIMAで新人賞もとって、ブラホワにも出たオレたちなのに!?」
「え、は? おまえ何に怒って……」
「ありえないんだけど!」
豪快にシュークリームに噛み付いたハルは、生地からクリームが飛び出ていることを気に止めず三口でそれを平らげてた。