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 お兄ちゃんが死んでしまったのは、もう二年も前のことだ。仕事中に、高層ビルから転落するという事故に遭った。「行ってくるな」「いってらっしゃい」を最後に交わしたあの日から、私はずっと一人で生き続けている。

「−−さっきご挨拶してくれた人が、お兄ちゃんに似てるって言った人だよ」

 話しかけても返事なんて聞こえてくるはずもないのに、私が今日あったことを写真の中から動いてくれなくなったお兄ちゃんに語りかけるのは、お兄ちゃんの存在をいつまでも残しておきたいから。
 嘘。本当は、嬉しいことや嫌なことを口にすれば心の中が落ち着くから。お兄ちゃんが言っていた。嬉しいことも辛いことも隠さずに口に出せって。そうすれば自分の気持ちも落ち着くし、嬉しいことは一緒に喜んでもらえるし嫌なこともお兄ちゃんが頑張って励ましてやるからって。喜んでくれる人や励ましてくれる人は、もういないんだけれど。

 と、思っていた私に、最近になってちょっとだけ変化が起きていた。

 始まりは今年の2月の終わり頃、ひとりの男の人に出会ったことがきっかけだ。黒いマスクをして帽子を被っていたから顔は良くわからなかったけれど、初めて会った時に真っ先にお兄ちゃんに報告してしまったくらい、彼の双眸は私の記憶の中にあるお兄ちゃんのものとそっくりだった。
 最初こそは、二年前に突然いなくなってしまったお兄ちゃんが目の前に現れたという錯覚を起こして、勢い余って彼ともう一度会いたいと願いってお礼を口実に会う約束をしてしまっていた。あの勢い、彼はとても驚いていたけれど、私も内心とても驚いていた。

「今日ね、お兄ちゃんに似ている人を見つけたんだよ」

 家に帰ってお兄ちゃんに報告。「お財布を忘れて困ってる私を助けてくれたんだ。こんな私にも優しくしてくれる人なんているんだね」嬉しいと思ったことだったから、今日のことを思い返してお兄ちゃんに告げていた。「勝手に約束してきちゃったけど、来てくれるかな」と不安もぶつけてしまった。当たり前だけど、誰の言葉も返ってはこなかった。

 あの約束の日は、三時間も待ってしまったけれど本当は諦めていた。

 3月に近付くたび気温は少しずつ暖かくなっていて、梅の花は満開。あの日の朝や日中はとても暖かかった。それのせいで真冬の時期よりもずっと薄着で約束した時間より30分早めに待っていて、でもその時間から急に寒さが増してきた。指先が凍るほど冷たかった。だけど、帰ることはしなかった。何故かって、まず一つは突然約束してしまったから。彼は19時に仕事が終わると言っていたけれど、もしかしたらこの辺に住んでいる人じゃなくて、移動に時間が掛かるかもしれないと思って、一時間は大人しく待っていた。待ち始めてから二時間が過ぎた頃から、来てくれない可能性がずっと強くなる。それでも20時までは待とうと思った。待つことには慣れていたし苦痛ではなかった。
 けれど、彼は現れない。21時近くになれば広場を歩いていた人の数も減っていき、いつの間にか人がいなくなった。私しかいない。……私も、帰ろう。そう思ったけれど、芯まで冷えてしまった身体のせいで腰を上げることができなかった。
 あと10分だけ待とう。あと10分……それを繰り返していくとあっという間に時間が過ぎていって、時刻は21時半を過ぎていた。悴んでしまった身体を必死に動かそうにも動かせず、私、このまま凍死してしまうんじゃないか−−と縁起でもないことを考えていた、ら。

「−−あんた!」
「えっ」
「なぁ、おいあんた、なんでここにいるんだよ!?」
「あ、昨日の……」

 ……約束していた彼が目の前に現れた。
 勝手に待っていた私を見て怒っている彼は、私が知っているお兄ちゃんだった。「お前、なんでまだ起きてんだよ、早く寝ろ!」「仕事が終わんなくて遅くなった!」「俺が遅いことに文句言うな。勝手に待ってるお前が悪い!」って、帰りが遅いお兄ちゃんを待っているといつも怒っていたから。勝手に待ってる私が悪いんだけどね。
 でも、彼はお兄ちゃんとは全く違う性格をしていた。仕事が押して、電車も遅れてて間に合わなかったと必死に訴えかけてくれる姿はまるで別人。お兄ちゃんは、意地でも謝りたくない性格をしている人だったから全然違う。だけど、それでも、私に優しくしてくれた人に変わりない。

 最初こそは、お兄ちゃんに似ているなと思いながら、お兄ちゃんの面影を追いながら、それを照らし合わせるように彼を見つけては何度も目の前に立った。自分からこうも積極的に行くなんて今までしたことがない。そのくらい、何故か彼に惹かれていた。優しくて、いい人だと心の中で勝手に決めつけてしまえば、頑張って話し掛ける勇気はいくらでも湧いてきた。
 彼を見つければ私は話し掛けに行ったけれど、人と話すことが苦手だからどんな会話をしたらいいのかわからなくて、彼の前では口を噤んでばかりだった。話せることといったら初めて会った時のお礼くらい。私にはそれ以外の言葉を見つけられなくて、彼はそこを突いてきた。「変わってる」「変なやつ」そんなことを思われていたらどうしよう。怖くなって、何を話したのかも覚えていないまま彼から逃げようと思った。
 けど、やっぱりどうしても聞きたいことがあった。彼の名前だ。

 狗丸トウマと名乗った彼を、それからまたすぐに見つけてしまった。コンビニでいつものお菓子と飲み物を買ってふと顔を上げると彼がいた。本を読んでいるようで、それが彼であるとわかると私は話し掛ける。けど、やっぱり話すことが思い浮かばない。話すことが思い浮かばないけれど、彼に何か一つ言いたいことと言ったら、また会えるかどうかということだ。けど、また会えますか、なんて何回も言えるはずもない。遠回しに仲良くなりたいと告げてしまったけれど、言ってすぐに後悔した。気持ち悪いやつだと思われたら……と、私は慌てるように逃げた。

「俺、少しだけ時間あるんだ。だからなんだ。仲良くなりたいって言うなら、ちょっと喋ろう」

 逃げたはずだけど、まさか彼の方から声を掛けてきてくれるとは思わなかった。店の外で彼に声を掛けられて、彼は私が言ったことを受け入れてくれようとしていることに気付いた。

 私は自分から話せるようなことはあまりないけれど、絵を描くことは物心が付く頃からずっと好きだった。みんなは広い敷地で遊びまわっているのに、私は運動が苦手だったからいつも日陰に座り込んで絵を描いていた。目の前に広がる景色を書いて、描いて、絵描いていくうちに、いつの間にか周りの人たちが褒めてくれるほど上手になっていた。絵を描けば周りにいる誰かは「うまいね!」って褒めてくれていたけど、小学生の頃から絵のコンクールに自分の作品を出すと、賞を貰って、知らない人ですら私を褒めてくれていた。褒められるということを一番してもらいたい人にしてもらえなかったから、私はとにかく誰かに褒められることが嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
 だから、トウマさんが私の絵を見たときに真っ先に「うまいな」と言ってくれたことがとても嬉しかった。

 私は絵を描くことが好きだから、絵について話すのは好きだ。自分のことを話せないけれど、“絵を描くことが好きな私のこと”を知ってほしくて、彼に大学に通って絵を描いていることを告げた。見たいと言われた時は嬉しくて、見た時に感想を貰ったことも嬉しかった。絵のことになれば夢中になって話せるけれど、絵以外のことを私は知らない。
 わからないことばかりで、そのくせ話し下手で、たいして面白くもない私。でもそんな話ですら、トウマさんは笑ってくれていた。

 あの日の帰り際にトウマさんに昨日描いたばかりの絵を渡してしまったのは、私なりのお礼のつもりだった。私の絵を褒めてくれてありがとう、私とお話ししてくれてありがとうって。昔は誰かに絵をあげることが好きだったけれど、もうあげられる人もいないから。



「トウマさんって全然、お兄ちゃんに似てなかった。だけど、すごくいい人で……。私のことを、友達って言ってくれたんだけど……」

 トウマさんが帰った後に、私は初めてお兄ちゃんに会わせたトウマさんのことを紹介するように彼のことを話していた。最初こそは、お兄ちゃん似ていると勝手に思い込んで、お兄ちゃんに似ているところを彼と照らし合わせようと思って彼と話していたけれど、最近はそんなことを考えなくなった。こんな私と話をしてくれて、一緒に居てくれて、遊びにまで連れて行ってくれたことがただただ嬉しい。私は何も知らない世界で生きていたから、彼がどこかへ連れて行ってくれて、そこでいろんなことを教えてもらうことは新鮮だった。

 トウマさんとの関係性に、私は名前が付けられないでいた。そもそも人との関わりに名前を付けることなんて、もうないと思っていた。だけどトウマさんはそれに名前を付けてくれていた。友達なんだって。

「……でもきっと、私のことを知ったら、今までみたいに仲良くはしてくれないと思う」

 友達だと言ってもらえて嬉しかったけれど、そう思ってしまう確信はあった。

 私には、人には言えない秘密がある。絶対に言えないわけじゃないけれど、人が離れていったり、今までどおりに見てもらえない話だから、言わないようにしているだけの秘密なんだけれど。
 それを話してしまったら、いくらお人好しで優しいトウマさんでも、きっと今までと同じように過ごしてはくれないだろう。私の方が年上だったとか、私は大学四年生で就職先も大学の助手に決まっているっていう話をした時に、まるで私を今までとは違った人を扱うような態度をされてしまったから。あんな感じの、私のことを知って態度を変えてしまう人は昔からたくさん見てきた。仲が良かった友達だと思っていた人ですら私から離れて行ってしまったから。

 お兄ちゃんにそれを伝えた後、私は心の中でため息を吐いてしまった。トウマさんですら、きっとそうなってしまうと思った話。ずっと心の中だけに留めておこうとしている話。
 でも、本当は。できるだけ自分のことを話したくない私が、お兄ちゃんのことを話してしまったから、トウマさんに少しでも打ち明けようとしていた私がいてしまったんだ。友達だと言ってもらえる前から、知ってもらいたいなって思っていた。でも結局、話したらどうなるかを考えて、よくないことばかりが頭の中に思い浮かんでしまうと、打ち明けたいという気持ちがなくなる。でもそれは完全に無くなっているわけじゃない。打ち明けたい気持ちと、打ち明けたくない気持ちが心の中で衝突し合っている。どうしてこんなふうに、おかしな感情が渦巻いているんだろう。

「それでも私は、もう少しだけ一緒にいたいな」

 こんなことをお兄ちゃんに告げたって、誰の言葉も返ってくるはずないんだけれど。正直な気持ちを話せば、打ち明けるとか打ち明けないとか、そういう考えをなくして思うことといえば、もう少しだけトウマさんと一緒にいたいと思っていること。この気持ちはきっと、誰かに傍にいてもらいたいという、寂しさから訪れた感情のはずだ。


















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