13

 大学のことは全然わからないが、美大には当たり前のように画材屋が備えられているようだった。なまえが慣れたように足を進めた本館の中にある画材屋は、俺が知っている絵の具とかクレヨンとか画用紙とか、それ以上のものが一式揃ってとにかく充実してる。中もめっちゃ入り組んでる。ここに来れば困るものなさそう。絵の具とか色の種類がめちゃくちゃ多いし、小学校から高校まで使っていた色の種類って本当にちょっとしたもんなんだな。白か黒を混ぜれば色の調整できるだろと思うほど中間色が細かく並べられた絵の具を見て思ったが、素人がごちゃごちゃ言えるはずもない。
 初めて見る豊富な美術用具を物色している間になまえは買い物を済ませてきますと言って奥の方に入ってしまったが、しばらくするとそっちの方からガタンガタンと木の板を必死に動かしている音が聞こえてきた。え?と思って聞こえてくる方に顔を覗かせると、なまえが想像以上にでかすぎる板を奥の方から引き摺っていた。パネル……パネルって、あれ!?

「おま、おまえ、それ、一人で持ってくんのかよ!」
「はい、大丈夫です、慣れてるので」
「慣れてるわりには見てんのが不安だ……」

 あれはキャンバスの裏っ側に付いてる木の板だ。本当に慣れてんのか。大丈夫なのか? めちゃくちゃ重たそうだしふらついてるし、いつそれごと倒れないかヒヤヒヤする。そしてこのやけに入り組んでるようにも見える店の中を彼女の姿を見て理解した。奥からでかいキャンバスとかをそのまま店の外に出せる通路になってる。美大生、こんなでかいものを普通に買うんだな……。

「外に持ってけばいいんだろ? 俺が持ってってやるから」
「重いですよ」
「見りゃわかる。……重っ!」
「あの、大丈夫ですか?」
「舐めんな、これくらい余裕だ」

 背の低いなまえが持ってたからやたらでかく見えていたが、実際かなりでかい。160くらいあるんじゃねえのかこれ。重さもそこそこある。そこそこっていうか、5キロはあるだろこれ。ほとんどが木の重さだと思うが、こいつはよくこれ奥から取ってこれたよな……。
 パネルを店の外に出して少し待っていると会計を終えたなまえが戻ってきた。「本当に大丈夫なんでしょうか……」って、なんで俺がそんなに心配されてるんだ。

「一緒に持ちます」
「いい! 一人で持てるから」
「落とされたら困るので……」
「そ……そうだけどさ。あー、端っこ持ってろ!」
「わかりました」

 長方形型のパネルの向きを変えると、表面が汚れないようにと布を被された。そうだよな、これに絵を……そのまま描くのかは知らねえけど。必要なんだもんな。落として汚れたら大変だもんな……。なまえに後ろの端っこを持たせて、一列に並んで大きなパネルをなまえの家まで持って帰った。



「ここまでで大丈夫です」
「一階か?」
「いえ、二階の角部屋で」
「重いだろ、上まで持っててやるよ」
「このアパートすごく古くて、階段危ないですよ」
「どうせあんたも登るだろ」
「それもそうなんですけど……」

 なまえに案内されながら辿り着いたアパートは20分ほど歩いた場所だった。俺が住んでるマンションよりももっと歩いたくらい。駅前やマンションが立ち並ぶエリアから少し離れた古びた民家が並んでいる住宅街の一角。お世辞にも外装はとても綺麗なものとは言えず、言っちゃ悪いが年寄りが生活しているような二階建ての木造アパートだ。ボロい。古いせいか一階のほとんどの部屋が空き部屋で、ポスト口には緑色のビニールテープが貼られている。こんなところで暮らしてんのか。つか、俺がいなかったら、こいつはここまで運んで来てたのか。
 ここまででいい、と言われたのはアパートの敷地に入ってからだったが、世話焼きのせいでそんな言葉に甘えることもできなかった。慣れているんだろうけど、もしかしたら古くて危ないらしい階段が落ちたらどうすんだよ……なんて不安が湧き上がってきた。俺が持つ。落ちたらそん時はそん時だ。

「すみません、玄関狭いんですけど……」

 しかしこのご時世、落ちそうな可能性のある階段をそのままにしているわけもないだろう。ミシミシと嫌な音が足元から聞こえてきてゾッとしたが二人がかりでなんとかパネルを二階の廊下にあげた。それで、これを奥の部屋に持ってくんだよな。玄関に入るのかこれ? と念のため彼女に訪ねたが「角度を付ければ入ります」と手馴れた言葉が返ってきた。だが「その角度見つけるまで時間掛かっちゃうんですけど」と頼りない一言が付いてきたので部屋に押し込むところまでやってやる。

 なまえの部屋にお邪魔するという思考はパネルを押し込める作業のあまりうっかり忘れていたが、パネルを丸々押し込んだ後に線香の匂いが鼻を突いた。それを嗅いで人の部屋に入ってしまったということ、なまえの部屋であることを思い出して急に緊張が走る。

 部屋の中は真っ暗だが外の光が入り込み部屋の中が見えた。入ってすぐ左手にはキッチンがある、玄関の真横。畳が二畳丸々収まるくらいキッチンはそこそこ広かったが、正面には和室が一つ。元は襖か何かがあったのかもしれないがそれは取り外されてて、五畳くらいか?狭そう。人様の家をじろじろと見てるわけにもいかないが、とても女の子が住んでいるような部屋に見えないくらい古い。床、なんか染みできてるし。
 足元に目をやると、なんかビニールが敷かれてある。青いビニールだ。雨漏りすんのか、この部屋。そのビニールは壁まで続いているようで目を這わせると、天井まで貼り付けられてあった。ガムテープで固定されてるらしい。

「は……?」

 ……あれ。な、なんだこれ。薄暗い部屋に映し出された青いビニール、なんか、なんかある。なんか液体がかかってる。いやまさか。恐る恐る周囲を見渡して、床に敷かれたビニールに目を向けた。なんだこれ。よく見ると、乾いた血のような赤黒い液体が飛び散った形跡があって、もう一度壁に目を向けると、そこには人が座り込んでいたくらいの痕が残ってる。その周りには血飛沫…………え!?

「ああ、それ、気にしないでください」
「はっ!?」

 部屋の奥にパネルを引き摺り持っていったなまえが電気も灯さずに戻ってきた。困ったように笑っている。俺の右斜め前には壁に謎の痕跡。なんだ、なんだよ、めっちゃ怖ぇんだけど!

「な、なあ、おまえ、ここでなにやった……?」
「スパッタリングしてたんです。あ、それは絵の具零しちゃって」
「あ、え、絵の具か! 吃驚した……」

 ……人殺したんだと思った……。

「……スパッタリングってなんだ?」
「インクを飛び散らせることです。飛沫みたいなのが描けて。でも、途中でインクごと撒いちゃったんですよね」
「へぇ……」

 やべえ、マジで人殺したんだと思った。ビビったことだから二度言う。縁起でもないことを思ってしまった。でもこんなんビビるだろ。前もって言ってくれ、部屋で絵描いてるんだって。いや、家で絵描いてるっつってたけどさ……。

「つーか、この匂い、線香か? 仏壇があんのか?」
「あ……はい。お兄ちゃんの……」

 と言って、なまえは畳が敷かれた部屋に戻って行く。カチャン、と電気の紐を引っ張る音が聞こえたら眩しい灯りが灯った。そしてはっきり見えるのは正面の部屋のまた正面。仏壇ではないが、古びた横長のテーブルの上にお香やらが置いてあって、写真が一つ。あれは兄貴の写真か。

「線香あげてってもいいか?」
「……、はい」
「お邪魔します」

 彼女は一瞬渋ってるようにも見えたが承諾を得たので靴を脱いで部屋に上がった。できるだけ床に落ちている染みやら何やらを踏まないように。入りながら少し見てしまったが、壁際に見たことのない絵の具が散乱していた。

 初めて、なまえの知る人間をこの目で見た。写真越しだけど、笑っている兄貴の姿は人当たりのよさそうな顔をしていた。彼女がこうして兄貴の遺影を部屋に飾って線香を立ててるくらいだから兄貴のことが好きだったんだろう。この兄貴もまた彼女を溺愛していたんだろうな。
 線香を立てて手を合わせる。最近、妹さんと仲良くなった者です。この間は俺の不手際で怪我をさせてしまって、そのまま帰らせてしまってすみませんでした。……兄貴に告げられるのはこれくらいだろう。

「……初めてトウマさんを見たときに」
「え、俺?」
「……お兄ちゃんに似てるなって思ったんです」

 手を下ろすと隣に座り込んでいたなまえが、じっと兄貴の写真を見つめてながら口を開いて、言い終えると俺の方を見て笑っていた。
 正直、驚いた。俺が兄貴に似てるって?どこがとか、そういうことを訊ねたかったが別のところに意識が傾いた。

 初めて会った時、俺はお人好しに、代わりになまえが買おうとしたものを支払った。下を向いたまま一向に顔を上げなかった彼女は俺を見てなかった。顔を上げたのはいつだったか。店を出て、礼をされた時。その時、初めて彼女は俺を見たし、俺だって彼女の顔をまともに見た。ずっと下を向いていた子だったから、顔を上げた時のことは印象に残ってる。そしてあの時、なまえは俺を見るなり態度を変えて近寄ってきた。後退りするほど俺はその積極さに驚いていたが、あれは、兄に似ている人間が目の前にいたから必死だったんだとようやく理解する。俺が当初思っていた、ファンだったからとか、全然そういうんじゃない。こいつは……。

「……、なまえの兄貴はどんなやつだった?」
「明るい人でした。みんなのことも可愛がってて……」
「みんな?」
「えっ……あ、いや……えっと、子供たちが好きで」
「保育士だったのか?」
「そ、う、ですね」

 それに気付かされた途端、俺って、今までこいつのことをどんなふうに捉えてて、今までどんな目で見てきたのかって、自分のことなのに全然わからなくなった。
 それから兄貴のことについてやたら嬉しそうに幸せそうに話しだしたなまえ。彼女を見て思ったことは、そんなに大好きだった兄貴を亡くして寂しかっただろ。可哀想な子だな−−と、さっき彼女の口から兄の死を切り出された時に感じていた感情が不思議なくらい湧き上がってはこなかった。

 こいつ、俺のことを自分の兄貴みたいだって思いながら俺に接していたのか。なんかすんげえ複雑な気分……そればっかりだった。


















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