10

「初めまして。狗丸さんがいつもお世話になっています」
「え、っあ……」
「おいミナおまえっ、なんでこのタイミングで混ざってくんだよ!?」
「様子を見に来ました。ああ、お邪魔でしたか」

 突然隣に座って来たのはハルでもトラでもなく一番割り込んでくる可能性の低かったミナで、呆気に取られながらも頭の隅では早くどっか行け、なんて言葉が浮かび上がっているが、これがトラだったらまだしもミナだと言葉に出し難い。首を振ってミナを退かそうとするが、ミナは少しだけ軽蔑するような眼差しで俺を見た。ヤベ、心の声が筒抜けだったか?

「す、すみません、わ、私っ」

 だが、ガラッと音を立てて椅子を引いて席を立ち上がったのはなまえだった。

「トウマさん、すみません、あのっ、私、か、か、帰ります!」
「ちょ、ちょっと待て!」
「今日はありがとうございました!」
「あ、お、おい!?」

 待てと大声を上げたが彼女には届かなかったのか、鞄を鷲掴んで一瞬躓き掛けながらも慌てるように席を離れていってしまったなまえの行動にすら呆気に取られ、たった一分あまりの出来事だというのに衝撃が強過ぎて身動きさえ取れなかった。

「……ああ、行ってしまいました」
「行ってしまいました、じゃない。なんでミナが入ってくるんだよ! そんなキャラじゃねぇだろ、なんで入ってきた!?」
「追いかけないんですか?」
「え!?」
「逃げ出されてしまったのは想定外でした。ですが、追いかけないでそのままっていうのは……女性なら尚更ですよね」
「おまえが邪魔で出られないんだよ!」

 ここは壁際の席なんだよ。ミナが退かなきゃ通れるはずもない。なまえを追いかけようと椅子を引いて立ち上がれば、ミナも立ち上がる。あの眼差しはそのままに、今にも溜息を吐きたそうな表情を浮かべたままで。だけど本当にマジで何考えてたんだこいつは!?

「なに考えてんだよ! 止めろよ!」
「会計は任せろ」
「うっわ、怖……」
「狗丸さん。これ、持って行ってください」

 振り返って背後の席を見ればドン引きした表情をしているハルの姿と呆れ返っているトラの姿が隣り合っていた。これはミナの独断だったのか?この二人は何に引いてる、何に呆れてるんだ。どうしてミナを止めなかった?
 邪魔しに来たミナに押し付けられるように手渡されたのは絆創膏で、それを握り締めてなまえを追いかけた。



「−−なまえ、なまえ、待てって!」

 逃げる奴って異様に足が速かったりするんだよな。もうあんなところにいる−−と水族館を出た先で真っ直ぐに走っているなまえの姿を視界に留めて思う余裕はあったけど。それに思った以上に走る速度は遅くてすぐに捕まえることができた。至近距離で手首を掴むと、その反動でなまえの身体が跳ね返ってきた。

「はぁっ……な、なんでおまえ、逃げんだよ。ミナ……あ、いや、俺が悪かったけどさ、なにも逃げることはないだろ!?」
「す、すみません、私、あ、お、お金ですよね、これっ」
「金はいい! っ、逃げるなって! なんだおまえ、驚かしちまったのは悪いけど、逃げることないだろ!」
「すみません、私、トウマさんのことなにも知らなくて!」
「……え!?」

 やっと振り返ってくれた彼女は肩を上下に揺らして謝りながら頭を下げた。……あ、ああ、そうか。ミナが来たんだもんな。子役として昔から活動して世間に知られている棗巳波が目の前に現れたんだ。そりゃ、驚くよな。知り合いだったっていうのは……あ、いい機会だ。そうだ、これをついでに話そう、俺のことを……。

「か、彼女さんがいるの、知らなくて、すみません!」
「え??」
「すみません、図々しく、一緒に水族館なんて、本当に本当に」
「待て、落ち着け、誤解だ!」
「誤解……」
「そうだ。あいつは彼女とかそういうのじゃ……」

 ……あ、あれ? 棗巳波にも気付いてなかった? つか、そもそも女じゃねえし。どんな勘違いしてんだよこいつは!

「じゃあ、きっと、トウマさんのことが……」
「−−−ŹOOĻがいたって!」
「−−−え、どこ!?」

 「あっちだって!」「水族館らしいよ!」「本当!?行かなきゃ!」「え?芸能人!?」途端、彼女の話を遮るように耳に流れ込んできた声は、ŹOOĻがいたって話だった。さっきまでいた場所がピンポイントに誰かが話し出せばみるみるうちに周囲の人間に広まっていく。前を歩いていた人たちですら、後ろを振り返ってこっちの方に顔を向けた。これはやべえ。

「ちょ、ちょっと来い!」
「え、あっ……」

 こんなことろでバレるわけにはいかない。なまえの腕を持ち直して、二人して水族館から遠く離れた場所に逃げ出した。
 かといって、どこに逃げたらいいのかわかんねぇけど。こんな場所に来ることも滅多にないから土地勘だってない。どこまで逃げたらいいのかわからないが、人が掃けた道に出ると、足の動きを緩めて、人通りが無さそうな車一台が通れそうな道になまえを押し込んだ。

「はあっ……久しぶりに走った……」
「っ……」
「……大丈夫か?」

 いきなり走り出してしまったせいで心臓がバクバクと音を鳴らして煩い。それでもなるべく彼女に負担を掛けさせないように走ってはいた。突然走り出して悪かったな、と振り返ると、なまえの様子がおかしかった。息を整えるどころか、座り込むように蹲っている。え……?や、やべえ、どうしよう。しゃがみ込んでなまえを覗き込むが、なまえははっとしたように顔を上げて、分かり易すぎる作り笑みを向けてきた。

「いえ、大丈夫、です。久しぶりに走ったので……」
「……あんた、もしかして」

 なまえの両手は、両方の足首の裏側を抑えていた。……靴擦れしてたのか。気付かなかった。いつからだ。

「切れて血が出てる……ごめんな、痛かったよな。いつからだ?」
「え、あ……今」
「嘘吐くな」
「すみません、履き慣れてなくて……」

 今、と言われて何も気付いてなかったら俺はそれを信じ込んでいたと思う。だけどミナがあれを渡してきたってことは、もっと前からだっただろ。水を汲みに行って戻ってきた時に躓いてたけど、あれは痛かったせいか。……そういえば、イルカショーが始まる時に足元を気にしていた。あれ。もしかしてあん時から……?ヤベェ、すげえ可哀想なことをしちまった。つーか俺、絆創膏どこにやったっけ。ズボンのポケットに手を突っ込むと、ぐしゃぐしゃになっているそれがあった。

「ほらこれ」
「わ、悪いです、そんな……」
「いいって。気付かなくてごめんな」
「いえ、いいんです。あの、それよりも、さっきの方を」
「あいつはいい」
「それは、可哀想です」
「他に友達が一緒にいるんだ。気にすんな」
「でも!」

 と、身を乗り出されたかと思えば急に立ち上がられる。ガツン、とサンダルの踵が蹴られた音が届いたけど、足、痛くねえのかよ。

「でも、トウマさんのこと、好きな方かもしれないし」
「だから、誤解してるって」
「そんなこと、わからないじゃないですか」
「わかる。あいつは男だ」
「えっ!?」
「人の話を最後まで聞け! はぁ、ったく……。俺は彼女もいないし好きな奴もいない。あんたが心配するようなことは何もない」

 いつまでこいつはミナを女だと勘違いを続けるんだ。確かに髪は長いし、女に見えないこともないかもしんないけど。自分の身を潔白しながら、立ち上がって、なまえと向き合った。下を向いて俺を見下ろしていたなまえは俺を追うように顔を上げる。やっぱ、足が痛いのかどこか苦痛そうだ。

「今日はもう帰ろう。……家まで送ってくよ」

 これ以上彼女に辛い思いをさせるわけにはいかない。歩けるか、と訊ねると彼女は屈んで、靴擦れの原因になっていたストラップを外した。手渡した絆創膏を貼り終えた時「大丈夫です」と言って、家路に着いた。



 なまえの家族構成は知らないが、兄と二人で暮らしているんだと彼女は言っていた。直接家まで送ってやるべきなのかは、言い出したくせに帰り道を歩いている途中にちょっと迷った。だって、付き合っているわけでもない女の子を家まで送るだなんて、そんなことまでしてもいいんだろうか。もしかしたら兄貴にも会うかもしれないし……。
 だけど、靴擦れしていることに気付かなくてそれを悪化させ、怪我みたいなことさせといて、このまま家に返すのもな……。かといって、連れ回してすみませんなんてどんな立場で言えばいいんだ。男友達ならまだしも女の子だし。いくらなんでも20歳になって、なんの前触れもなく突然身内の人間に会いに行くなんてノリももう通じないだろ。

「なぁ、なまえの兄貴って、歳いくつだ?」
「えっ」
「……いや、兄貴がいるなら、その、挨拶した方がいいかなと思って」
「え……あ、兄に、ですか……?」

 帰り道はまさにトボトボ、という言葉が当て嵌まるくらいしんみりとしていた。ぐるぐる家まで送るべきなのかを考えて、念のために訊ねる。もしかしたら俺と同い年かもしれないし、俺よりも年上かもしれない。恐面の兄貴が出てきて罵声を浴びせられたらどうしよう。八乙女楽みたいなやつ。「なに人の妹怪我させてんだよ。土下座して謝れ」とかあいつは言いそう。そんなよくない不安が過ってくる。

「お兄ちゃんは…………」

 ああ、なまえって、兄貴のことをお兄ちゃんって呼んでんだ。可愛いな。俺にも妹がいたら呼ばれてみてぇ。そんなことを思ったが、なまえはその先の言葉を発さなかった。下を向き始めて、何か迷っているような、そんな感じだ。

「あー……、あ。つか、なまえって、今いくつだ?」
「えっ?」
「ほら、歳ってまだ聞いてなかっただろ」
「22です」
「……え? −−え!?」

 まぁいきなり兄貴に会う気満々で話をされても困るよな。となまえの様子を見て悟って話題を変えようと必死に繋げた言葉は彼女の歳だ。聞いて驚いた。ずっと年下かと思っていたら22歳!? 年上!? や、やっべえ……。

「……マ、マジで? 俺より年上だし、俺、普通に年下だと思ってタメ口きいてた……! す、すんません……」
「え……いえ、それは別に、気にしてませんけど」
「いや俺が気にする……」

 なまえの兄貴、俺より年上確定だし。いやまぁ兄貴の歳なんて関係ないんだけどさ。やべえ、つーかマジで年上なのかこい……この人は。

「トウマさん、私より年下なんですか?」
「あ、ああ……俺は、20歳で。2個下だな……」
「あ、でも私、4月生まれなんです」
「じゃあ1つ上か……俺は11月生まれだから」

 とはいえ、年上であることに変わりはないんだけど。

「私、トウマさんは年上なんだと思っていました」
「あー、そっか。俺も年下だと思い込んでたし、まぁ、なんだ……歳は、関係ないよな……」
「……」
「……あー。22ってことは、大学四年?」
「そうです。今年卒業で」
「へぇ。就活頑張れよ!」
「就職先はもう決まってて……」
「え、そうなのか!? 早いな、東京か?」
「はい。大学の助手になることが決まってて」
「だ、大学の助手……? もしかして、なまえってすげぇ奴だったりすんのか?」
「え? すごくは、ないですけど……教授が優しい人で。声を掛けてもらって」
「そうなんか……あ、悪ィ、呼び捨てって、直した方がいいか? なまえさん、とか」
「えっ……、……いえ。あの……」

 今まで知らなかったみょうじなまえという人間の情報が一気に押し寄せてくる。年下だと思い込んでたらまさかの年上。大学四年で就職決まってて、就職先は大学の助手。すげえやつじゃん。すげえ奴だった。めちゃくちゃ失礼なことを言ってしまえば侮ってた……すごいんだな。
 ……そういえば前に大学の食堂でなまえのことを待っていたら、見ず知らずの女子が『日本画のみょうじさん』の話をしていたよな。その人のを見ようとしてるって……。あれ、やっぱりこいつのことだったのか?やっぱすごい奴なんじゃ……。そう考えると、いくら今まで知っている彼女だとしてもそんなに馴れ馴れしく話してるわけにはいかないよな。たとえばこれがハルが実は年上でしたとか、陸が実は年上でした、とかだったら今まで通りにやっていけんだけど。住む世界が違う上、思っていたよりすごい人なんだよこの人は。
 ということを会話の中の僅か数秒で考えていると、急に態度が変わってしまった俺を見た彼女は口を開いた。

「……私のことを知ったら、やっぱり、態度を変えてしまうんですよね」
「え?」
「あ……すみません……」
「いや、変えない変えない! なんか、想像してたよりもあんたがすごい奴で、そんなあんたに今までみたいに接していいもんか悩んじまったんだよ」
「どうしてですか?」
「どうしてって……あー、なんて言えばいいんだ……。そうだ。もしも親しくしてる奴が実は芸能人だったりしたら、あんただってビビるだろ?」
「芸能人?」
「テレビに出てる奴。人気がある俳優とか芸人とか、みんな知ってる奴とかさ……」
「……人気があってみんなが知っている人なら、みんなに愛されてて、離れていく人はきっといないですよね……」
「……は? 何言ってんだ?」

 どこか意味深に呟かれた彼女の言葉にちょっと時が止まったような気がした。人気があればそりゃ誰かに愛されるだろう、今の俺たちみたいに。だが、愛され飽きて離れられることもあるだろう、昔の俺みたいに。こんなこと、なまえはきっと知らないんだろうけどさ。そういう確信っていうのはどこにもない。つか、なんでそんな話になった? そういう話だったか?

「……すみません、あの、ここで大丈夫です」
「え? や、家まで送ってやるよ。怪我させちまったし、あんたのことだからちゃんと帰れるか心配だしな」
「でも」
「あ、いや。送ってほしくないならそう言ってくれりゃいいんだけど」

 なまえが急に足を止めた。そして言われる。ここはきっとなまえが住んでいる家とは関係ない場所だろうということは彼女の態度を見てればわかる。急にビビって態度を変えた俺が事の発端なのかもしんないけど、なまえの態度も変わってないか? 怒ってんのか? やっべ、どうしよ。女の子の機嫌の治し方ってわかんねえ……。

「悪ィ、俺、なんか気に障ること言っちまったか?」
「いえ……あの、……私」
「うん?」
「……本当は、一人暮らしなんです……」
「は?」
「……すみません、私、トウマさんに嘘を吐きました。兄もいません」
「えっ……は!? な、なんでそんな嘘吐いた!?」

 えっ、俺、なんか嘘を吐かせるようなことしたっけ!? しつこくて、とか?いやいや、それでも嘘を吐く必要ってあんのか?なんか警戒されてたりして?会話が会話になってなかったし……。は?

「だから、すみません。今日はもう大丈夫です。 今日はありがとうございました! さようなら!」
「ちょ、ちょっと待っ……」

 ……行ってしまった。
 足、痛いんじゃないのか。もう治ったのか?そんなまさか。だけど逃げていく奴は逃げ足が早い。通りの角を曲がっていくのを見届けてしまい、少しだけ呆然と立ち尽くした後に追いかけた先、既になまえの姿はなかった。


















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