09

「こんにちは、狗丸さん。今日の空は雲一つなく冴え渡っている、素晴らしいデート日和ですね」
「なんでこんな時間からおまえらが揃ってんだよ!」

 チケット売り場でトラに貰った無料券を入場券に引き換えてもらっていた時、そろっと隣に人が近付いてきて耳元でそう囁いてきたのはミナだった。一瞬見ただけじゃあ誰かわかんないような変装をバッチリ決めている。マスクと眼鏡と帽子。芸能人のお決まりアイテム。俺と丸被りだ。そして吃驚してミナを見た時、チケット売り場から離れたところで待機しているトラとハルの姿も同時に見えてしまった。

「朦朧とした気持ちも、この朝の青々とした新鮮な空気を吸うと、ほんとうに元気になって来る」
「なんだよ急に。詩人か?」
「放浪記の一文です」
「ああ、そうかよ……」
「そんなことよりも。お連れ様のお姿が見当たりませんが?」
「無料開放されてる水槽に夢中なんだよ」

 と、つい視線で指差してしまいそうになったのを必死に抑える。お連れ様の姿を教えたら教えたで何をされるかわかんないし。つか、なんで居るんだよ。他の水族館に行ってこい。空飛ぶペンギンとか見てろよ。わざわざ俺たちのことを待っていたかのように待機してんじゃねえ。

「ねぇ早く行こうよ。イルカショー始まんない?」
「11時からみたいだ。それまで何を見る?」
「他に何がいんの?」
「サメ。エイ。クラゲ。カメ」
「あ、エイ見たい」

 ……そしてこっちに来るな。

「トウマじゃん。なんでいんの?」
「よう、トウマ。奇遇だな」

 そして偶然会ったような感じで俺に話しかけるな!

「絶対邪魔してくるなよ。いいか、わかったか?」
「邪魔されたくないのか」
「別に邪魔なんてしないし。興味ないし」
「私たちは私たちで楽しんでいますので、狗丸さんもどうぞ楽しんで」
「……はぁ。ったく……」

 分かりづらいがこいつらは本当に楽しもうとしてるみたいだ。まぁハルがやたらわくわくしているようだからそのうちどっか行ってくれるだろ。



「わぁ、すごい……魚がいっぱい……」
「物珍しそうに見てんな。初めてか?」
「はい。水族館は、初めて来ました……」

 悪ィ待たせた、と無料開放されている水槽をずっと眺めていたなまえに声を掛けた。ゲートを通れば、どこにでもいるような魚、熱帯魚、川魚……に真っ先に興味を示して、物珍しそうに水槽を眺め始める。サメやエイみたいな、水族館じゃないと見れない珍しい海の生き物よりも先に、どこにでもいるような魚を子供のようにまじまじと、そしてじっくり眺めている。

 一つの水槽を眺めるのにだいたい5分以上。ここに入ってから結構時間は経っていると思うんだが、なまえがこのエリアから出る気配は一向にない。これ、全部見終えた頃には日も落ちてしまうんじゃないか。そんなことを考えてしまうくらい、彼女が興味を示して見ている時間は長かった。女の子って、もっとこう、海の生き物が好きなイメージがあったんだけど……。そろそろ飽きてきた。俺は魚よりもむしろペンギンとかイルカを見たい。そう、イルカショーとか。
 イルカショーといえば、そういえば11時からイルカショーがあるって言ってたな。そのおかげか、三人の姿がいつの間にか見当たらなくなっていた。それはそれで安心する。でもイルカショーは俺だって見たい……。

「今、イルカショーやってんだってよ」
「イルカショー?」
「イルカがショーやってんだ。楽しそうだろ?」
「聞いたことはあります」

 イルカショーも知らないのかこいつは。箱入り娘か?テレビを見せてもらえない環境で過ごしてきた奴は何人か見てきたけど、それよりもちょっとレベルが高い。本当に変わってる奴だよな。だけど、俺が見せたり教えたものに対して嬉しそうにしている姿を見せてもらえるんだから、それはそれでよかった。
 次のイルカショーは何時から始まるんだろうか。まだ11時が過ぎたところだが、半分飽きていたせいもあって腹が空いてきた。なまえ、と呼びかけようとするものの彼女の視線は再び水槽に向いている。話を持ちかけ出したが、無理にでも誘うことはちょっと気が引けてしまった。
 ……ああ、椅子が置いてある。なんか疲れてきたし、そこで座ってなまえが飽きるのを待とう。

 座りながらなまえの後ろ姿を追いかける。小さな子供を抱えた夫婦に混じって場所を譲らないあいつの姿はすごく子供っぽくて、まるで初めて妹を連れてきた兄ちゃんの気分にすらなれた。水族館に来て、魚を眺めているよりも彼女の姿を追いかけて眺めている方がずっと楽しいように思える。兄弟がいない一人っ子だから、こういうのなんか憧れてた。ハルを連れて来たことだってなかったし。
 そう思いながら目で追っていたなまえはまた新しい水槽をじっと眺めて、たまに水槽に入っている魚の説明文と写真に目を這わせながら、表記されたその魚を探すように視線だけじゃなく頭を動かしてまで食い入るように見つめていた。

「なまえって、テレビとか見たりしないのか?」
「うち、テレビなくて」
「あ、そうなんか……。一人暮らしか?」
「え……あ、えっと……兄が、いて……」
「ああ、兄ちゃんと暮らしてんのか」

 あのエリアの水槽を全部眺め終えた彼女は、やっと満足したのか振り返って「トウマさん!」と近付いてきた。ちょうどイルカショーの午後の一回目のショーが始まる時間だった。混んでいるかはわからないが、丁度いいから今から行って席に座っておこう。そして無事に席に座れた時に、時間までの間に彼女のことを少しでも知ろうと思って訊ねていた。
 テレビがないと聞いて珍しいと思ったが、一人暮らしならそんなこともあるだろう……と思ったものの、彼女は兄がいるって言ってた。この会話の流れで返された言葉をそのまま受け入れるとなまえは兄貴と二人暮らしをしているんだろう。それでテレビ無いってなかなか珍しいよな。
 そしてテレビがないってことでなんか腑に落ちた。俺のことを知らないことが。テレビが無けりゃ、芸能界のことだってわかんないよな。

「……どうした?」
「あ、いえ……」

 ふと、彼女の姿が視界から消えた。消えるはずはないんだけど。座っている体制から更に屈んで何かをしていた。こいつ、小さいからすぐに視界からいなくなっちまう。さっきだって、水槽を移動する姿をちゃんと目で追っていなかったら、下手をすると他の人に埋もれて姿が見えなくなるくらい背が低いんだ。今日は、踵のあるサンダルを履いているようだから埋もれても頭の先っぽくらいは見えてたけど。

「トウマさんは……一人で暮らしているんですか?」
「お、俺?」
「あ……なんか、すみません……」
「いや別に。あんたがそうやって会話繋げてくんの珍しいと思って驚いちまった。俺は一人暮らし」
「そうなんですか……」
「ああ」
「……」
「……」

 あ、言ったそばからこれだ。俺が気にかけてやると、慌てたように顔を上げて質問してきたことには軽く驚いた。しかしその会話を終えてすぐに、ステージの先から元気な女の人の声が響き渡る。直後、水面でイルカが大ジャンプ。騒ぎ出す観客。ショーが始まった。すかさずイルカが大ジャンプすると、観客席の二列目くらいまで水飛沫が飛んでいく。後ろの方だったから俺たちは濡れることもなかったが、最前列をよく見れば見覚えのある三人の後ろ姿が見えた。



 久しぶりに見たイルカショーは、まるでアイドルのステージを客席から見ているような気分だった。人のコンサートになんて滅多に行かなかったが、ŹOOĻになって他のグループと交流を深めるようになってからはIDOLiSH7やRe:valeのコンサートライブに関係者として呼ばれることが何度かあった。何か芸をするたびに客席からは大きな声が漏れていて、あんなふうに子供にも喜ばれて、あのイルカはさぞ気持ちよく泳いでいたことだろう。
 ……アイドルっていえば、俺はいつなまえに自分のことを話せばいいんだろうか。話す必要はないのかもしれないが、質問するのは俺ばかりで、彼女のことを聞いてばかりで悪いな、とも思う。けど、話したらこいつはどんな反応を見せるんだろう……。

「腹が減った……」
「今何時ですか……あ、もう14時に……す、すみません。夢中になってて、お昼ご飯のこと忘れていました」
「いやいい。売店の横にレストランあっただろ。そこで飯食おうぜ」
「あっ、お金は、私が払います!」
「それは大丈夫だ。気にすんな」
「いえでも、この間もお金出してもらったので」
「こないだも今日も俺が誘っただろ」

 やっと自分の要望を吐き出せたのはイルカショーが終わって、凄かったですと感動の声を上げていたなまえを見たときだ。キリがいいし、飯を食おう。そうすればなまえは頷いてくれたが、こんなところでがま口のシリコン財布を取り出してきた。こんなところでやめろって……。

「……なんだよ……」
「楽しそうでなによりだな」
「トウマ、聞いて。イルカショー、朝のもさっきのも最前列だった!」
「見てたよ。濡れてんじゃねぇか、風邪引くなよ」

 気付かなかったが、レストランに向かってメニューの料理サンプルを眺めて、ここにしようと決めたところで店に入ると、後ろから一緒に入ってきた客に突然声を掛けられた。なまえに前を歩かせといてよかった。後ろを振り向くこともなくこちらに全然気付いてない。声を掛けてきたのは言わずもがなこの三人組だ。

「いつ飯食うのかと思って」

 一体どこから俺たちのことを見ていたのかわかんないが、こいつらもまだ飯を食っていなかったらしい。「早くあっちに行け」そう言って追い払ったが、店員に通された席はこいつらの真後ろの席だった。なんでだよ。

「わぁ、イカスミパスタがある。大好きなんです」
「薄々感じていたんだが、巳波は麺類が好きなのか」
「イカスミってなに? 黒いの?」
「イカスミはそのまま、イカ墨がソースに使われているんですよ」
「ふぅん……巳波、それ食べんの? オレも同じのにする」
「では、イカスミパスタ、三つで」
「待て待て、俺はまだ何も言ってない。黒くなるのは勘弁しろ。俺は海鮮丼にする」
「え、水族館に来て海鮮丼食べんの!? 魚、かわいそう」
「せっかく水族館に来たんですから、もう少し珍しいものを食べません? 新鮮で、きっと美味しいですよ」
「それは海鮮丼も同じだろう。イカスミなんてどこでも食べられる。それにイカスミパスタもイカを殺してるんだよ」

 ……っていう会話も丸聞こえだ。なんか楽しそうだな。俺もイカスミパスタ食べたくなってきた……。

「決まったか?」
「シーフードドリアにします」
「わかった。じゃあ店員呼ぶぞ」
「−−あ、オレが押したい」
「−−あらあら。ふふふ。どうぞ」
「−−やった! ……」
「…………おまえ、押すか?」
「えっ、は、はい……」

 タイミング良く背後から聞こえてきたボタンを押したがるハルの声のせいで、うっかりなまえに言ってしまった。彼女は一瞬困惑したようにボタンを押してくれたけど。何様だと思われてしまっただろうか。



「……あ、お水持ってきますね」
「あ? あ、ああ。サンキューな」

 飯を食い終えると、グラスに入った水を飲み干してしまった俺に気付いたなまえは席を立って、さっとグラスを手に取った。ちゃんと見てんのか、偉いな。女子力。俺は全然気付かなかった。
 セルフサービスで、セルフコーナーに歩いて行ったなまえの後ろ姿を見て、スマホに目を這わせた。次は何を見るか。最初のエリアで時間を潰していたせいで、他のエリアは全然見れてない。深海魚とか見たいな。ああでも、なまえはイルカショーがあったスタジアムに向かっている途中に、通り掛ったペンギンとアザラシに興味を示していたっけ。

「お待たせしました……あ、っ」
「サンキューな。大丈夫か?」
「あ、はい。すみません、躓いちゃって……」

 グラスに入った水が溢れることはなかったが、ガコンという音と共にテーブルが揺れた。テーブルの脚に足を引っ掛けてバランスを崩したんだろう。勢い余って着席したなまえは苦笑いを浮かべてグラスに口を付けた。

「次は何を見に行く?」
「えっと……」
「まぁ、歩いて見たいもんがあったら見ればいっか。行くか」
「あっ、は、はい」

 水を一気に飲み干して席を立ち上がろうとした。視線を宙に浮かせて考え始めさせてしまっても、すぐに行き先は出て来ないだろうということはわかっていた。それなら適当に歩いて、さっきみたいに夢中になれるものを探してくれたらいい。

 ……あれ、ひょっとしてこいつ、疲れてんの?
 どこか重そうに腰を上げようとするのが目に付いて、席を立ち上がろうとするのと同時に大丈夫かと声を掛けようと思ったら、空いている隣の席にさっと誰かが腰を掛けた。肩がぶつかって、驚きのあまり尻餅をつくようにまた椅子に座り込んでしまう、誰だ?

「狗丸さん、こんにちは。お隣失礼してもよろしいでしょうか?」
「ミ、ミナ!? ばっ、な、なんでおまえここで!?」

 今まで水族館を満喫しながらそっと俺たちのことを眺めていたらしいのに、この状況でいきなり俺たちの間に割り込んで来るような奴、あの三人しかいない。誰だ、と思ったらそれはミナだった。なんでミナ!? もしかしたらどっかで割り込まれる可能性も無くはないとは思っていたが、よりによって一番可能性が薄かったミナだ。なんでおまえがここで……!?


















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