アパートに戻って、会う約束をしたっきり本当に仕事をしているのか返信したメッセージに既読が付かないまま了さんから返事は暫くなく、彼からの返事を待っていたのだがやっと連絡をしてきた了さんの第一声は「名前の手料理が食べたいな」だった。

「今日は、モモと何して遊んでいたの?」
「ずっと、首都高を走りながら話をしてました」
「仲が良いんだねぇ」
「……あの、了さん」
「なんだい?」

 確実に部屋に上がり込まれる内容であり躊躇っていたのだが、外食にしようと提案すれば奢られることも目に見えていたので、昨日イタリアンをご馳走になったわけだし……という思いで手料理を振舞うか外食に行くかを天秤にかけた結果、私は了さんへ手料理を振る舞うことを決めた。

 了さんは会いたがりの性格をしているのかもしれないということは、昨日も会ったというのに2日続けて会いたいとまで言われたので薄々察する。さっそく倦怠期を発動させ嫌だということもできずにこうして了さんを部屋にあげて彼のために台所に立ち料理をしているのだが、了さんは部屋で待っていることもせずに私の周りをうろうろしていた。たまにスキンシップを入れてくるのだが、了さんの言葉に対して素直に今日のことを話したところで私は、はっとしたように彼に訊ねてしまった。

「嫌ですか?」
「なにが?」
「こう、他の男の子と遊んでいるのは」
「別に平気だけど、モモなら特に安心だね」

 あまりにも積極的に好意を寄せられていたことはわかりきっている、だけどこの人は嫉妬深いとかそういうのはあるのだろうか。彼との共通の友達であり、何度か3人でディナーをした間柄ということもあって私は平然と口にしてしまったのだが、いくら友達とて自分の知らないところで男女が2人だけで遊んでいることは気に障ることだったのかもしれないと多少なりの気遣いが生まれてしまった私は訊ねたのだ。
 けれど、了さんは平気だという。百くんなら特に安心だと言われて、私はほっと息をなでおろした。と思ったら、了さんは後ろから私のことを抱き締める。

「……あの、了さん」
「今度はどうしたの?」
「こういうことされてしまうと、包丁が握れないんですが……」
「握らなくていいよ、ねぇ、僕に構ってよ」
「私の手料理が食べたいって言い出したの、了さんですよ」

 平気だとか、安心だとか言いながら本心はきっと面白いものではないのだろうということはこんなことをされて感じ取った。彼本人が手料理を食べたいと言い出したので私は振舞おうとしているのだがこういうふうに抱き締められてしまっては包丁すら握れない。

「了さん、駄目ですよ」
「わかってるよ。 さ、料理を続けて」
「なら離れてくださ、い、……っ」
「ほら、手を動かして。 お腹が空いてるんだ」

 髪の毛をかきあげられたかと思いきや後ろから首筋に顔を埋められ、熱い体温とざらついた感触につい短い声を出してしまった。了さんはその姿を見るなり笑いながらお腹が空いたと言い出すのだが、一体どの口が言っているのだ。

 このまま流されて昨夜のようなことになってしまったら……と思えばいくらでも抵抗したいと思ったのだが、彼の行為はやはり一つ一つが優しく、頭を撫でられることも背中を撫でられることも心地よいとさえ感じてしまえばその思考は頭の隅に移動した。振り返りはしなかったが、私の肩に顎を置いた了さんの重みを感じるとおもむろにそちらへ顔を向けてスキンシップを求めようとした。
 だけど、唇があと数センチというところまで近づいた瞬間、バタンと大きな音がして部屋が揺れた。隣の人が帰ってきたのだ、安い賃貸のアパートはこんな音すら響く。私はそれに我を取り戻してさっと前を向いて慌てたように手元を見るのだが、この羞恥はどこへ向けたらいいのやら。

「もう、了さん! あ、そうだ、首にキスマーク付けましたよね!?」
「付けてって言ったのは名前だよ」
「えっ……、も、もう! あっち行っててください!」
「ああ、名前、押さないで。 わかった、わかった、おとなしくしているよ」

 Re:valeの百は神様だ!と思った時と同じように隣人が神様だと思った。流されてしまったどの口が言うのだと自分でも思うのだが、危なかった、本当に流されてしまうところだったというところが本心。そしてはっと我に返った瞬間に思い出した今日の出来事を、彼に噛み付いて反発した。台所をふらふらしていた了さんを無理矢理洋室に押し込んで怒ってみせると彼は降参してくれたように大人しく絨毯に座り込んでくれたし、べッドに肘を置いて寛ぎ始めてくれたのでよしとしよう。了さんが大人しくなったことを見計らうと、私はまな板と包丁と食材と向き合った。



 私の両親は昔から共働きで夜の遅い時間に帰ってくる。それでも19時とか20時とか、今思えば普通の残業時間を終えての帰宅時間なのでそうも遅くないのかもしれないが、21時就寝だった当時小学生の私にとっては随分と遅い時間に思えたものだ。他の家庭はみんなそれくらいの時間には夕飯を済ませて家族団欒を過ごしていたのだろう、それがなかった私は、遅くまで仕事を頑張ってくれている両親のために小学生の頃から自炊を始めるようになっていた。
 そのため誰かに料理を振る舞うことは苦ではないし、食べてもらった感想を心待ちにするほど純粋な気持ちを抱えているわけではない。私の中で誰かに手料理を振舞って食べてもらうことは、生活の一つとしてなんら変わりのないことだ。それは初めて手料理を振る舞う了さんに対してもそうだった。

「カレーライスを作るんだと思ってた」
「そこまで手は抜かないです」
「じゃあ、味付けは、ブランド物の調味料かな?」
「全部、1から味付けしたんですけど……」
「わあ、意外だ! てっきり、手抜き料理を振舞われるんだと思ってた」

 これは一体どのタイミングで喜んでいいのか悲しんでいいのか不貞腐れていいのかわからない。料理ができない女だと思われていたのか彼の言葉はおそらく小馬鹿にしているものだろうけど、彼の言葉を履き替えればブランド物の調味料並みに味がいいということなのだろうか。ただ単に彼の意地の悪い部分を見せられているだけなのかもしれない。
 じゃがいも、にんじん、たまねぎ、牛肉といった確かに材料を準備している最中にはカレーライスを作るかもしれないという食材が詰まっており、けれどプラスだいこんやネギを詰め込めばその姿が変化し煮物ができあがった。添え物には漬けていたきゅうりのお漬物と、お味噌汁は余った食材のじゃがいもとわかめを入れてみた。

「名前は、料理をすることが慣れてるんだねぇ。 どうして?」
「どうしてって、慣れてるんです。昔から、両親の代わりに私がご飯を作っていたので」
「家庭的だね!」
「了さんは、自炊とかするんですか?」
「するよ。 だけど、誰かに振る舞う方が多いかもしれないね」
「今度は、了さんの作ったご飯が食べたいです」
「いいよ、遊びにおいで。 名前の好きなものなら、なんでも作ってあげる」

 とても失礼なことかもしれないが了さんが自炊することは意外のように思えてしまった。お金のある人は他所に行っていいものばかりを食べているのだろうという偏見があったのだが、自炊をしていると聞いて了さんの手料理を食べてみたいと思った。狐のように鋭い目元を釣り上げて弧を描いた唇を目にして私は頷いた。思えば誰かに作ってもらった料理を食べることはあまりないことだから、了さんの一言は素直に嬉しいものに感じられた。



 食事を終えて食器の後片付けをしようとしてくれていた了さんの手を止めて部屋の中で待っているようにと言ったはずなのだが「私がやるので大丈夫です」と口にして大人しくしてくれていた了さんは待つことができないのか、私にちょっかいを出してきたのは20時を回った頃だった。やろうとしたことを止められて部屋で待っていてと言えば聞き分けの良い了さんはそれに従ってくれたのだが、待つことに飽きたらすぐに席を立ち上がる、まるで子供のようだった。

「了さん、今日はもう、帰ったほうがいいんじゃないですか」
「名前は、僕のことが嫌い?」
「嫌いではないです」
「じゃあ、好き?」
「言うことを聞いてくれなくて、待てができない人は、好きじゃないです」
「酷いなぁ。 だから僕がやってあげようと思ったのに」

 了さんに対して好きなのかがまだわからない状態の中でそのようなことを訊ねられる会話にあやふやに答えた。答えている間にも了さんはやたら身体を密着させてくる。流しに立って食器を洗おうとしていた私の腰を優しく抱えだしてわざとらしく首筋に顔を埋めてきた。

「了さん、本当に、ここは駄目なんですって! 嫌いになりますよ!?」
「へぇーー。 好きでもない男の愛撫で、こんなに感じちゃうんだ?」
「そういうこと、言わないでください、っ」

 首筋にかかる吐息に、昨夜覚えてしまった彼の手付きを急激に思い出してしまって言葉が詰まりそうになった。静かに背後から抱き寄せられて首筋にかかっていただけの吐息が少しずつ近付いてきてすぐに唇が触れた。わかりやすくもビクリと肩を跳ね上げてしまった私は手の力が抜けて食器を落としてしまう前にそれを離し、泡立てていたスポンジを置いて泡が付いた手を洗い流す。

「ここでしちゃう?」
「駄目ですから!」

 蛇口を捻って水を止めた、洗い物は中途半端だが流石にこれ以上のことは耐えられなかった。

「あの……怒りますよ?」
「名前は、愛されることは嫌い?」
「嫌いではないですけど、限度っていうのがありますよね」
「僕は君が好きだから、抱きたいって思う男心があるんだけど」
「そんなこと言われて、嫌だって言える女はそうそう居ないですよ」
「最高の口説き文句だとは思わない?」
「……食器、洗い終えるまで待っててください」
「待てないなぁ」

 うざったらしいと言ってしまったら悪けれど、そのような言動の合間にさりげなくもはっきりと好意を乗せて与えてくれる了さんに悪い気はしなかった。与えられた台詞のせいかその気になってしまった私は大人しく彼の言うことに従ってしまう。腰を引かれて狭い洋室に誘われて吸い込まれるようにベッドに腰を着いてしまえば、身体の上にはすぐに重みがのし掛かってきた。

 せめて電気だけでも消してください。どうせ拒絶されるだろうなと思いながら私のことを押し倒してきた了さんに告げると、了さんは意外にもあっさりと部屋の明かりを落としてくれた。だけど台所の明かりを消し忘れていたようで、少し離れた場所から明るい光が漏れている。

「了さん、キスマークは、絶対に駄目ですからね」
「見えないところにならいい?」
「見えないところって、どこですか」
「こことか?」

 見事に盛られ器用に片腕で身体をまさぐられていると了さんは私よりもずっと大きい手の平で胸を鷲掴み、伸びた人差し指を胸上へ突き立てた。人差し指と薬指の間に胸の突起物が当たって思わぬ反応を見せてしまい慌てて口を押さえる。

「あーあ、名前、隣に人がいるだろう? 声、聞こえちゃってるんじゃない? 喘ぎ声も、このベッドの音も、丸聞こえかもしれないね」

 了さんの指先の愛撫だけにはもう限界だった時に、いやらしくも囁かれた台詞は私の身体を反応させてしまった。隣人が帰っていることは知っていたが考えてみればベッドはそちら側の壁際に置いてある。必死に口を押さえるものの彼はそれが楽しいのか笑っているのだが、それはこのような状況でも熱を帯びてしまっている身体を知っているからだ。私はこんなにもだらしなく感じやすい女だっただろうか。行為が本番まで進んでいく中でとめどなく溢れる快感を必死に受け入れながらも、余裕の残っている意識の先でそのようなことを考えた。過去の私はそうだったかと思い返すものの何も思い出せないのだが。

「名前、可愛くおねだりしてみせてよ」
「も、早く終わらせて、早く帰って、ください」
「あっはは! 可愛げがないなぁ。それなら、もっと楽しんじゃおうかな?」
「う、嘘、嘘なので! 早く終わらせてください!」
「早く終わってっていうのは変わらないんだね」

 彼のことは嫌いではないのだがあまりにも意地が悪く積極すぎる態度に、今日百くんに言われて思った、彼は優しい人であると思った言葉が白紙に変わりそうになる。それなのに私は快感にどんどん溺れていく。了さんが与えてくれる快感に溺れていけばいくほど、それは不思議と幸福を招き忘れている思い出せない彼の存在がかき消されるほどに目の前の男の姿しか見えなくなってしまうのだ。それよりもただ一つ今思うことは、隣人は神様などではなかった。




 毎度毎度あんなふうに感情を押し付けられ、有無を言わさず勢い任せに抱いてくる了さんと付き合っていると頭が痛くなる。とはいえそれを全て受け入れてしまっているのは他でもない私であり、苛立ちや不満は意思の疎通ができず拗ねた私がふと思ってしまうことなのだが、機嫌が直ってから見る了さんの背中はそんな気持ちが薄れていくほど愛おしい。人に愛されることを教えてくれる彼に対して私の気持ちは少しずつ揺れ動いていく、このまま彼のことを本当に好きになっていって、思い出せない過去に蓋をしたままずっと傍にいてくれる彼だけを想っていくことは果たして正解の道なのだろうか−−そのようなことを了さんが帰っていった後に寝付く前、薄暗い天井をぼんやりと眺めながら思ったことだ。

 了さんのことを少しずつ好きになっていっているような気がする、一緒に過ごす時間は楽しいと思えるようになったし、やたら密着されたり盛られることももう慣れてしまった、慣れとは恐ろしいものだが嫌悪を抱くほど本当に嫌な気持ちにさせられたことはなかった。いつの間にか頭痛を忘れた、彼の傍にいることは安心する。

 まるで坂から転がり落ちるように落ちた彼を想う気持ちだったが、それを自覚し始めてすぐだった、忘れた何かを掘り返すように訪れたこのきっかけに私は頭が痛くなる。

「名前先輩、あれ、月雲社長ですよぉ」
「……そうだね」

 うちの事務所で唯一看板タレントとして働いてくれるミュージシャンが主題歌を担当した映画が国際映画祭に出展され賞を獲ったことで、祝いの席が用意された。各国の有名な映画監督や女優が揃う場所で、主題歌を担当したミュージシャンを抱えている私の事務所はほぼ強制的に参加させられた祝いの席だ。ここには、先日から話題になっている後輩の姿もあるし、社長である父の姿だって、身内関係者として呼ばれた母の姿もある。それこそ名の知れていない事務所であるにしても、このように話題になっているせいで何をせずとも短い声を掛けられ挨拶を交わされることは、まるでお偉いさんになったような気分で嬉しかった。そのような中、偉大なパーティーともあってここにはツクモプロダクションの社長である了さんも参加していたそうで、彼の存在に気付いたのは、後輩の一声だった。

 私は今日お呼ばれしている身ではあったが、了さんとはそのような会話を一言もしていなかったこともあり、彼の姿を見て真っ先に思ったことは「いたんだ」ということくらい。立場のある彼とプライベートで同等な立場になったせいか、そういうふうに「いたんだ」と思えるほど彼の存在はまるでそのまま近しい人を見つけたかのような気分だった。

「かっこいいですよねぇ。 あたし、ああいう人タイプなんですよねー」
「声でも掛けてきたらいいんじゃない?」
「やだな、先輩。 あの人、社長ですよ? ツクモプロの社長。 あたしなんかが声掛けられるわけないじゃないですか!」
「後藤さんって、そこはちゃんとしてるんだね」
「当たり前ですよー、気に障って首が飛んだら嫌ですもん」

 さっそく男好きだと界隈で噂されている後輩は了さんに興味を示したのだが、根は仕事真面目な彼女はそのあたりは気を付けているらしい。声を掛けてきたらいいんじゃないと言ったのは私なのだが、どうしてそのような言葉が零れ落ちてしまったのかわからない。仕事の関係上ご挨拶をしておいでと言いたかったのか、彼には私という恋人が居るのだから声を掛けたところで見向きもされないだろうと傲慢なことを考えてしまったのか、しかし後者のことはそれを思えるほど余裕があったわけではなかったので、後輩の言葉にちょっとだけほっとした。

「あ、あれ、見てくださいよ。 いいなぁー、あたしだって、いいお家に生まれて芸能人やってたりしたら、簡単に声掛けられるのに」

 この会場ではそれなりに上の立場であるらしい私は受付で貰った赤い薔薇の花を胸元のポケットに差し込んでいるのだが、それに気付いた参加者が「今夜は、おめでとうございます」と擦れ違い様に挨拶をしてくれる。それを返してをしている中でも後輩は「あたしなんかが声を掛けられない」と言っていたものの目ではその姿を追っていたようで、また再び声を掛けてきた。私の肩を突いて、見てくださいよと言われたことで私はそちらに目を向けるのだが、その先では見たことのない女の人が了さんに声をかけている。立ち振る舞いもよく、隣には見慣れた大物女優がいて圧巻される光景だった。

「あ、広報部の高橋さんだ! 先輩、ご挨拶に行きましょうよぉ」
「私、さっき挨拶してきたよ」
「そうなんですかぁ? ラッキー! じゃ、あたし一人で行っちゃおっと」

 了さんが若い女性に笑顔を振りまきつつ見慣れた大物女優と共に談笑を始めている姿を遠目に見ていた。雲の上の人間である了さんよりも、後輩は視界に入り込んだうちの事務所の広報部で働く男性の方に気が向いたのか私の身体を突いてくるのだが、それを拒むと後輩はやたらご機嫌な様子で私から離れていった。すると丁度よく「あっ! 名前だ!」と声を掛けられた。百くんだった。どうやら百くんも岡崎事務所がこのパーティーに招待されていたらしく、挨拶回りの一人行動の末に私を見つけて声を掛けてくれたらしい。

「ねぇ、百くん。 あの人って、誰?」
「あーあれ、丹波ユリアさん。女優の丹波広子さんの娘さん!」

 本当は何でもないようにしていたけど実は気になっていた、名前の知らない彼女の存在。さり気なく百くんに声を掛けてみせれば彼は彼女のことを知っていたようで遠目に紹介してくれる。傍に立っていた大物女優があの丹波広子さんであることは知っていたが、その隣にいる若い女性は彼女の娘さんだという。確か丹波広子さんはカナダ人の男性と結婚していたはずだ、女優として活躍するほど美しい母とカナダ人の父の間に生まれたハーフの実娘は綺麗で美しい風貌をしていて、その美しさは目を惹いた。

「……名前、大丈夫?」

 だけどその姿を見続けていたら、鳥肌が立つような身震いを覚えた。同時に一緒に視界に映り込んでいる了さんの姿をセットで見てしまったら、訪れるその感覚は嫌悪に近い何かだった。そんな様子にいち早く気づいてくれたのは百くんで、唐突に顔を覗き込んできた百くんは不安と不思議混じりの表情を浮かべている。

「大丈夫、急に気分が悪くなって……」
「じゃ、外の空気でも吸いにいこっか!」

 自分自身意味のわからない感情と、それによる精神的な何かにやられてしまった私は言葉を零すのだが、百くんは私の腕を引っ張って道行く先を指差した。その言葉に私は乗って頷くものの、頭の鈍痛に襲われてつい頭を抱えてしまった。

「大丈夫?」
「うん、平気」

 ここ最近はほとんど感じられなかった謎の頭の痛みを再びぶり返してしまい、百くんに誘われるがまま公開されているバルコニーの方角へと向かっていった。早く外の綺麗な空気を吸いたい。そう思っていると、百くんがバルコニーへ繋がる扉に手をかけた瞬間に少し離れた場所から百くんを呼び止める声が聞こえてきて2人同時にそちらへ視線を向ける。

「あ、ユキ!」
「ミスター下岡さんがご挨拶したいから連れてこいって、凛太朗が言ってる」
「このタイミングで!? あ、や、じゃ、ちょっとだけ。名前、待ってて! すぐ戻るから!」
「平気だよ、ゆっくりしててよ」

 彼を呼び止めたのは百くんの相方を務めるRe:valeの千くんで、私は軽い会釈をした。百くんとは仲良くしているものの、星影側の千くんとは仕事がらみで顔を合わせることは滅多にないし、顔を合わせるのはこのようなパーティーくらいでしかないため顔見知り程度の関係だ。そんな千くんはミスター下岡さんが呼んでいると百くんに言った。百くんにとって下岡さんは、それなりの立場にいる人ではあるがそれ以前に百くんが昔からお世話になっている人なのだから、挨拶したいとまで言われてそれを拒絶することなどできない。ここまで来たなら私一人でもう大丈夫だ、私よりもそちらを優先してくれと百くんの背中を押して彼を千くんに預けた。

 暗がりではあるが喫煙所が備えられているバルコニーには数人の人が寛いでいる。顔を見たことのない人がほとんどであったが私が外に出るなり「この度はおめでとうございます」と本日何度目かもわからぬご挨拶を交えられ会釈をし、社交辞令の会話をする気分にもなれなかったため離れた場所で手すりに肘をついた。するとまた声をかけられるのだ。

「名前ーー、やっと見つけたよー!」
「……了さん」

 私に声をかけてきたのは正直、私が今一番会いたくない人だった。バルコニーに向かった私をすぐに見つけて呼びかけてくれたらしい了さんは「あっ、月雲社長ではありませんか!」と驚き混じりの声を上げる周りの目も気にせず私に近付いてくるのだが、私はその姿に思わず後退りをしてしまった。

「どうして、連絡してくれなかったの? 寂しかったよ!」

 このような会場の中で携帯などを頻繁にチェックしている暇もなかったのだが、どうやら了さんは私に連絡をくれていたのかはたまたそれを心待ちにしていたのか、了さんはそのことに触れてから、あろうことか周りの視線に釘付けになっているというのに私にスキンシップをとってこようとした。彼に近寄られるだけでまた後退りをしてしまうのだが、バルコニーの柵に身動きを封じられてしまった私はそれ以上の引けをとれない。彼の腕が、私に伸びてくる。

「−−さ、 触らないで!」

 少しだけ指先が触れただけなのに急激な嫌悪を抱いて、私は声を上げてその手を振り払ってしまった、これには正直自分でも少し焦った。こんなふうに声をあげてまで彼を拒絶してしまったということは無意識といえど、いや無意識だったからこそ即座に我に返って焦りを引き起こした。それが起こり、間を開けてから了さんの溜息のような音が耳に入って私は咄嗟に頭を下げた。

「す、すみません。 人が見てるので、ここでそういうのは少し……」

 それから一瞬の判断でフォローするように了さんへ声をかける。勝手に1人で苛立っているのは私の方で、それを何も知らない了さんへぶつけることは失礼なことだろう。それでもこの状態でこれ以上了さんの顔を見ていたくなくて、もう一度すみませんと謝って顔も見ずに逃げるように彼の元から離れた。

「ねぇ、名前。 ひょっとして、怒ってる?」
「別に、怒ってはいないです」

 彼と共に歩いていれば周りから刺さる視線は痛いものにしか感じられないのだが、今回ばかりはそれ以上の視線をバルコニーから会場へ戻る短時間に感じてしまった。あの月雲社長に無礼な態度を取っている人間がいるということはひそひそ声までも私の耳に流れ込んできたのだ。

「ついてこないで下さい、本当に怒りますよ」
「どうして?」
「場所をわきまえてほしいんです」

 あの痛い視線を浴びる空間と彼から逃げる一心でバルコニーを後にしたわけだが、了さんは私の後ろにぴったり張り付いて追いかけてくるのだ。痺れを切らしはっきりそう告げると了さんは足を止めた。このような場所ともあり、ここに来ていることを知ったあの時から既に貼り付けていた笑みを浮かべたまま私を見ていた表情は一転して、不機嫌そうな顔を見せる。

「……ああ。 あ、っそう! じゃ、好きにしてればいいさ」
「何も、そんな言い方しなくたって……」

 言い出しっぺは私の方なのかもしれないが、素直に諦めてくれるのかと思いきやまるで突き放されるような言葉を彼の口からぶつけられて私は思わず言葉を濁した。悲しみとも怒りともつかない激情が押し寄せてくるのだが、同時に寂しさだって生まれた。

 −−私のことが好きだって言ってたくせに。

 胸の中に秘めていた感情が言葉となって心に響いた。私は彼に嫉妬していたのだ、いくら社交辞令であれど見知らぬ女性に笑顔を振り向く姿が面白くなかった。それは仕方のないことであり自己中心的な感情を抱いていることはわかっていたのだが、そのことを口にすることなどできず、好きにしていればいいと私を置き去りに会場に戻っていく彼の後ろ姿を見つめながら孤独に打ち付けられていた。頭が痛い、思わぬ焦燥で呼吸が荒くなる。だけどこんな私の姿など、突き放されてしまった彼には気付かれない。







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