……頭が痛い。

 それは昨夜起こった出来事のせいだ。朝、狭いシングルベッドの上ですやすや寝息を立てていた了さんの姿がはっきり視界に映り込めばあれは夢でもなんでもなく現実であったことに頭の痛さが襲いかかってきたのだが、それはやってしまったという感情から訪れる痛みだったわけで、そのせいか一日の仕事の始まりは億劫であった。

「やっほー、名前! お盛んだなー」
「……なんの話?」

 そのような中でも仕事を進め、他の部署へ書類を運ぼうと廊下を歩いていた中で不意に声を掛けられた、百くんだった。

 彼はかなり社交的な性格をしており縦にも横にも広い関係を築いている人で、営業よろしくといった様子でたまにうちの事務所にも顔を出していた。あのRe:valeの百であることとそれを抜きに彼の人柄あってこそ、更には社長である父が百くんを好いているため人の事務所であろうと自由に出入りできる特別優遇を受けている彼は毎度のように手土産を持参してくれているのだが、今日もそれを腕にぶら下げながら遊びにきたらしい。大体が社長である私の父へのコンタクトで、仕事の話だったり、それよりもほとんどが休日にゴルフに誘う私情事を持ち出すことが多いのだが今回もそれなのだろう。

 そんな百くんは私に声をかけるなりおかしな発言をした。何を言われているのか意味がわからなかったが、少なからず心当たりはあるため内心焦りそうになってしまった。しかし、気付かれないように普段通りに振舞ってみせると百くんは「ここ、ここ」と自分の首筋を指差した。これまた意味がわからず首を傾げ、私も自分の首筋を摩るのだがよくわからない、そんな私の様子を見た百くんは一言。

「キスマーク付いてるよ」
「え、……っは!?」
「やだなーー、名前。 そういう話あんなら、モモちゃんに教えてよ!」
「ちょっと待って、嘘でしょ!?」

 思わず両手で首筋を隠すように触ってしまえば、バサバサっと音を立てて手にしていた数枚の書類が床に散らばった。大事な書類であるとはいえ自分の身の方が大事なので、代わりに拾いはじめてくれた百くんを見るなり落ちた紙を放って近くにある手洗い場へ駆け込んだ。

 百くんに示された場所を鏡で確認すると、赤い跡がくっきり残されていた。昨夜はお風呂にも入れずそのまま寝てしまって朝風呂を済ませてきたのだが、目覚ましも掛けられないまま体内時計にセットされていたいつもと同時刻に自然と目を覚まし慌てたように風呂場に直行して支度を済ませていたこともあり、このような場所をいちいち確認することもしなかった。そもそも、こんな場所を確認する必要が普段はないわけで、通常通りでいた私は大打撃を食らったように頭が痛くなった。

 そしてよく思い返せ、今朝の出来事を。朝礼前にデスクに座ってノートやペンを鞄から取り出していた時に、隣の席の新入社員の後輩に「名前先輩、あのぉ……」と声を掛けられていた。どうかした?と反応したのだが、彼女は一つ笑って「なんでもないですぅ」なんて語尾を伸ばしたおかしな反応をされたことを。きっと彼女はこれのことが言いたかったのだろう、他の人が気付いているかわからないがスキッパーのブラウスでは誤魔化しも効かないので頭を抱えた。

「どうしよう、頭が痛くなってきた……」
「また体調不良? 名前、よく体調崩すよね」
「そうだっけ? って、そうじゃなくて。 はぁ、今日はもう帰ろうかな」

 手洗場から出ると百くんが紙袋を片手に私が落としてきた書類を抱えた状態で壁に背中を預けていた。私が書類を落としっぱなしにしたのだから待っているのも当たり前であるが、私は溜息しか零れない。もちろん、痕を隠すために片手は首筋から外せない。

「半日、最高じゃん! 帰んならオレと飯食いに行こうよ」
「百くん、今日仕事は?」
「オレ、昨日今日って2連休なんだよね」
「2連休あるなら、わざわざこんなところに来ないでどこかに遊びに行けばいいのに」
「昨日は遊びに行ったよ。 だけど、今日はユキが仕事だからさ、オレだけ遊びに出掛けるのもなんだかなーって思って」

 つまり、今日の彼は暇つぶしにここに訪れたということか。

「今日は苗字パパいるんでしょ。 今度の休日、ゴルフ誘おうと思ったんだけど、ついでに名前の午後休の話も掛け持っちゃう!」

 そしてやっぱり彼は私の父をゴルフに誘うために来たというわけだ。父は百くんのことを大層お気に入りのようだから、そのような話を持ち掛ければころっと許しを得てしまう気がするのだが、それはそれで都合が良いのかもしれないと思って私は百くんにそれをお願いしておいた。

「−−ごめん、私、今日はもう上がるから」
「名前先輩、カレシとデートですかぁ?」
「違うけど! 今日のことは何も見なかったことにしておいて。わからないことがあったら、田中さんに聞いてくれればいいから」
「はーい。 てゆうかあたし、本当に先輩にカレシいるのびっくりしちゃいました」

 事務所に戻って見えないように片手で首筋を隠して、荷物を纏めながら隣に座っている後輩に声を掛けた。今年入社した彼女の教育担当を任され隣の席に座ってもらっていたのだが、案の定彼女は今朝のことに気付いていたようで小悪魔な笑みを浮かべながら楽しそうに笑っていた。本当に彼氏がいたことにびっくりしたと、彼女は言った。

「……どういうこと?」
「だって先輩、カレシの写真全然見せてくれなかったじゃないですかぁ」
「……そうだっけ?」
「そうですよぉ、本当にいるのか疑ってたんですー」

 やばい、何も記憶にない。思い出せない彼のことは姿だけでなく他人に話したことすら覚えていないようで、彼の存在自体がぽっかり穴が空いているように空白だ。彼女には彼の存在の話をしていたそうだが、彼氏の写真を見せろと言われて私が頑なに断っていたらしい、どうしてかその理由はわからないのだがそのせいで妄想を疑われていたようだった。そうなると私も見せない理由が何も思い浮かばないので同じように妄想を話していたのだろうかと思ってしまうのだが、百くんははっきりとそれは違うことだと教えてくれたので妄想ではないはずだ。じゃあ、なんで写真すら見せなかったのだろう。

「あ、でもあれです、なんか有名人と付き合ってて、見せられない人なのかな? って思ってたりもしてました。 見せてくださいよぉ」
「ごめんね、本当にないんだ。 データ無くなっちゃって」
「ええーー」

 嘘は吐いていない、本当に私の携帯の中には彼の痕跡が何も残されていないのだから。それに彼女は履き違えているが私の恋人は了さんに変わり、昨日の今日で彼の写真すら携帯に残っていないので本当に見せられなかった。

 彼女の言葉が頭に引っかかった。仕事にはとても真面目な子だけど、男の人が好きで、いつだって猫なで声を上げている小悪魔系女子の彼女の言葉が、綺麗な音声付きで頭の中に反響している。



 スカーフというものをこの世に広めてくれた人には本当に頭が上がらない、そんな感謝の気持ちを込めながら会社を出て颯爽と駆け込んだアクセサリーショップで購入したスカーフを首に巻いたのだが、一つのファッションともあり側から見ても何の違和感もないだろう。ほら見ろ、道行く人の中にも首元にスカーフを巻いて歩いている人がたくさんいる、深読みしなければ何も気にすることはない。

「了さん、どう?」
「……なにが?」
「またまたー、隠さないでよ! 了さんとなんかあったんでしょ」
「……了さんに何か聞いたの?」
「なんも聞いてないけど、ニコちゃんマークのスタンプが1時間置きに送られてきてたから」
「なにそれ、って、うわっ……」

 百くんが社長に掛け持ってくれた甲斐あって私は午後休という形で会社を出たのだが、百くんの車に乗り込むまで携帯を見ることをすっかり忘れていた。了さんからのスタンプというところでふと携帯の存在を思い出したように鞄から取り出してロック画面を開くのだが、了さんからの通知がずらっと並んでいて百くんが隣にいるというのに声をあげてしまった。
 連絡先のメッセージでのやり取りはいつの間にかラビチャに移動したようで『月雲了さんがスタンプを送信しました』のラビチャ通知が画面いっぱいに広がっている。ラビチャのトーク画面を開けば月雲了からの通知が10件を優に超えていて私は顔を引き攣らせてしまった。

「了さんからすごく狂気を感じるんだけど」
「そんくらい好きってことだよ。 でも、根は良い人だし、優しい人でしょ」
「優しくは……」

 ない、とは言い切れない。私の意思を聞かず自分の感情をごり押ししてくる困った人ではあるが、優しくないわけではないことは昨日からの一連の流れでわかってはいた。そもそも過去を思い返したところであの積極的な態度に嫌気をさす部分はあったけど性格が悪いとは言えない、自分の感情を抑えきれず純粋なまま私を押してきているのだろう、嫌だと言って聞き入れてもらえなかったがそこに意地の悪さがあったとは到底思えなかった。

「報告すると、私、了さんの好意を受け入れたんだけど……」
「へー、それで、盛られたんだ。 ヒューヒュー! モモちゃんそういう話、大好き!」
「むっつりスケベは大概にしてよ」

 男子高校生かよ、というくらい百くんはこの話にはノリノリであった。長いこと友人関係を続けていたせいで腹を割った話をするような仲であるが、周りからしてみると優しくてお利口で信頼の厚いRe:valeの百と言われている実際の彼の本性は何処にでもいる普通の男の子だった。

「『今日は何時に仕事が終わるの?』、だって」
「なんて返事したの?」
「お疲れ様ってスタンプ送ったの」

 10件を優に超えた了さんから送られてきたスタンプはどれもこれも種類が違うのだが、全てが有料でもなく友達追加で簡単に手に入るタイプのスタンプだったので若干引いてしまった。私がスタンプを送信してから速攻で既読が付いてすぐに返信してくる辺り、彼は常に携帯を握り締めているのだろうけど果たして本当に社長らしい仕事をしているのだろうか、なんて疑問を抱く。

「……百くんってさ」
「ん?」
「私の付き合ってた人のこと、知ってるんだよね」
「うん、知ってるよ」

 これからどこに昼飯を食べに行こうか、それともファストフードをドライブスルーしてこのままドライブにでも行こうか、なんて話をしながら百くんの運転する車に揺られながら了さんの相手をしているとふと、頭に引っ掛かっていたことを口にした。

「どうして、詳しいこと教えてくれないの?」
「だって、名前、別れたがってたし」
「だから、教える必要がないってこと?」
「そんな感じ」

 さっきまでのハイテンションはどこへ行ったのやら、運転に集中しているのか真っ直ぐ前を向きながら運転している彼はこちらを見てもくれないまま淡々と返事をしていた。薄らと気付いた、百くんはこの話が好きではないのかもしれないということに。

 それならばこれ以上のご質問はまた改めて、百くんが話してくれそうな機嫌の良い時に聞いてしまおう、という考えはこの大きな問題に直面していない昨日までの私だ。今の私は違う、このような思い出せない問題と頭に引っ掛かりを覚えているせいで大人しくこの話を止める気にはなれなかった。

「それって、おかしくない?」
「なにが?」
「だって、いくら私が覚えてなくたって、少しくらい教えてくれてもよくない?」

 喧嘩腰だっただろうかと、必死でいた私でも少し焦った。だけど一番の解決方法であるその話を何も教えてくれない百くんに対して不信感を抱いてしまいながら、私は彼の言葉が聞きたいので喧嘩が起こるかもしれないという不安を混ぜてでも食いついてしまった。
 百くんははぁーーっと長い溜息を吐きながら窓枠に肘を置いて、少し考え事をした後に口を開いた。

「名前はさ、誰かに教えてもらうことと自分で思い出すこと、どっちが大事だと思う?」
「……どっちも」
「それはなし! じゃ、言い方を変えるよ。自分の記憶を頼りに少しずつその人のことを思い出すのと、誰かにデタラメを混じったことを教えられるの、どっちがいい?」
「……なにそれ」
「名前、なんも覚えてないから、誰かがああだったよ、こうだったよって言われたら、全部鵜呑みにしちゃうでしょ。それが、本当に身に覚えのないことですら信じちゃうでしょ」
「そりゃそうだよ。 嘘やデタラメを教えられるって、意味わからないし……」

 百くんの言っている意味が本当に理解できなかった。デタラメってなんだ、どうしてそんな嘘混じりのことを教える必要が存在するのだ。百くんと話していたことで野放しになっていた携帯の画面は真っ暗で、ホームボタンを押してロックを解除すると了さんのトーク画面と、送信しようとしていた書き掛けの文字が目に入った。

「だから、誰かの言葉を頼ってそうだったのかもしれないって思うより、ちょっとずつ思い出して、そういえばそうだったって思った方が、自分の身のためだよ」

 おそらく彼なりに宥めるように告げてくれた言葉なのかもしれないが、私にとってはまるで脅しのような口振りにさえ聞こえてしまった。頑張って自分で思い出せとはっきり告げられている、自力で過去を思い出すことが可能であることなのか私にはわからないのに、突き放すようなことを平然と告げた百くんの心境が理解できない。

 『今日は仕事を終えて、今は百くんと一緒にいます』了さんに送ろうとしていたその文章を送信しようとした手が止まった、疑心暗鬼に陥った私は彼に対して百くんと一緒にいることを告げることは絶対にいけないことのように思えてしまって、私は開いていたラビチャの画面を閉じた。

「百くんさ、なんか隠してるでしょ。 一番大事なこと」
「それって、女の勘ってやつ? そういうの、怖いなって思うよ」

 ここにいないはずの女の子の声が、頭の中で反響している。どうして私は彼女に写真を見せなかったの、見せられなかったんだ? ……まさかね。

「私の付き合ってた人って、百くんじゃ……ないよね?」

 と、私は百くんに訊ねた。異性の中では誰よりも仲が良く、長い付き合いをしていて腹を割った話だってできる百くんを、頭に反響する後輩の言葉一つでもしかしてと思った私は確認するようにその言葉を吐き出したのだが。

「−−オレ!? なんでオレ!?」

 と、酷く驚いた百くんは一歩間違えれば交通事故を起こしてしまうのではないかというくらいのリアクションを見せてくれたので、私は欠伸が感染するのと同じように驚いた。交通事故は一度経験してしまっているので冗談でもそのようなことを思いたくはなかったのだが、手っ取り早く百くんの様子を表現するならばこの状況ではそれしか思い浮かばなかった。
 
「あ、いや、ごめんなさい。 なんか、そんな気がして……」
「なんでそんな気がしたの!?」
「私、さっき後輩と話してて、私、その子に恋人だった人の写真見せなかったみたいで……もしかしたら有名人とか、顔を見せられない人なのかなって思ってたって言われて、百くんの何かを隠している素振りとリンクしたっていうか、なんていうか、あ、疑心暗鬼ってやつ!」

 やたらと慌てふためく百くんが理由を訊ねてきたので私は正直にさっきあった出来事を口にした。言いながら自分でも閃いたように疑心暗鬼に陥っていたことを口にしたのだが、百くんはその言葉を聞くなりまたはぁーーっと大きな溜息を吐いた。

「あー、後藤ちゃんか……」
「百くん、知ってたっけ?」
「知ってるっていうか、あんまよくない噂は聞くよね。 苗字パパにも悪い子じゃないんだけど、気をつけなよって言われてたし」
「え、何を気をつけるの?」
「根っからの男好きで、既婚者でも誰これ構わず声かけにいっちゃう子だからって」

 後藤ちゃんというのは言わずもがなさっきから私が思い浮かべている後輩のことだが、界隈ではある意味で有名な子らしい。そんな噂を耳にしたことがあったのかなかったのか、それすらよく覚えていないのだが百くんの話の内容に少し納得している自分がいた。
 確かに彼女は仕事に対しては真面目な子だけど、男の人が好きな子だった。それは私も知っている、薄々勘付くとか見てわかるというよりは、職場の飲み会やお呼ばれしたパーティーでやたら好みの男性を目にすると積極的にアプローチしている姿を直接目で見てしまっていたのでその手の噂が流れていることは否定できなかった。

「どうして私、その子に写真を見せなかったんだと思う?」
「とられたくなかったんじゃないの」
「別れたがってたのに?」
「うーん……オレ、その話は初耳だから、なんともいえないや」

 どうやら私はこの話を百くんにはしていなかったそうだ。それならばこれ以上のことを訊ね続けるのは迷惑なことだろう、自分の記憶は自分で取り戻せと言いたげな百くんと一度険悪なムードになってしまったせいで今回は潔くこの手の話を止めることにした。

「結局、ご飯はどうするんだっけ?」
「なんも決めてない!」
「じゃ、適当にコンビニ寄って何か食べながらどこか遊びに行こうよ」
「オッケー」

 百くんと過ごす時間は平凡なものだった。どこかへご飯を食べに行こうと会社を終えたというのに、結局はファストフードのドライブスルーでもなく私が提案した通りのコンビニに寄り、サンドウィッチとカフェラテを買ってそれを食しながら百くんとドライブをした。場所は首都高、永遠と同じ場所をぐるぐる周回していたのだがそれだけの事は退屈なものとも思わなかった。どこか喫茶店で話し込むよりも都心から東京の景色を眺めながらドライブをしながら話しているのは楽しく、百くんはドライブを好む人だからいつまでも機嫌が良さそうだった。

『今日は仕事を終えて、今は百くんと一緒にいます』

 それは既読スルーにしてしまったままの了さんから返事を寄越せという催促スタンプらしいものが送られてくるまで返事をすることを忘れていたことにも気付かないほどで、私は慌てながら正直に了さんにその文章を送っていた。『何時に帰るの?』『僕も名前と一緒にいたいんだけどね』とどこぞのオヤジだという相変わらず文章とスタンプ連発の了さんはどうやら会いたがりの性格をしているらしく、隣に座っている百くんが「会っときなよ」と言い出せば、特に予定も何もない私は家に帰る予定の時間とそれ以降なら会えますという返事を送っておいた。そうすればすぐに返事が返ってきて、私は今日も了さんと会うことになった。

「名前、今日はキツイこと言っちゃってごめんね」

 アパートの近くまで送ってもらい車から出ようとした時に百くんは言った。他にも何か言いたげな様子だったけど今日の彼はどこかしおらしく感じてしまって、私は何も言わず「今日はありがとう」それだけを返した。







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