あんなに言い寄られていたり何度か食事をとるような仲だったというのに、私の連絡先に了さんの名前はなかった。

 おそらく了さんの言動に引いていた私があえて連絡先の交換をしていなかっただけなのかもしれないが、その辺もはっきりしないため過去の記憶を一部失っている私は、最近のことまで覚えていないのではないかと不安が過ぎる。だけど、それを考えると頭が痛い。だから私は必要以上のことを考えることも、思い出すこともしないようにしようと心に決めた。

「名前! 君に、とても会いたかったんだ!」
「え!? りょ、了さん、ちょっと、あの、困ります!」

 昨夜百くんと話し合いをしたこともあり家に帰ったのは深夜、自分の身を削ってでも百くんと話のしたかった私は寝不足のまま仕事をしていたのだが「苗字くん、お客様だよ」と呼ばれ事務所から出た先には了さんの姿があり、出だしでこの発言だ。
 あのツクモプロダクションの社長がここに訪れるというだけで社内には緊張が走るというのに、私を名指しで呼び出しいきなりこのような接待を受けては周りの目がとにかく痛かった。相手が社長ともあり課長職の人が了さんを連れて来てくれたのだが、了さんの態度を見るなり私と了さんを交互に見て驚いた顔をしていたし、慌てて事務所のドアを閉めたところ閉め際に事務所内で仕事をしていた数名の社員が目を見開きながら私を見てたことは気のせいだったと思いたい。

「昨日の返事を聞きに来たんだ」
「いえ、その話は! 今日は定時で上がるので、それからにしてもらえませんか!?」
「……せっかく、ここまで来たのに?」
「それもそうなんですけど!」
「……苗字くん、私は失礼した方がいいね?」
「いいよ、いいよ。 君は邪魔だから、どっか行ってて」

 そう言われた課長は営業部ならではの営業スマイルを見せ「では、失礼します」と大人しく了さんを連れ歩いてきた廊下を戻っていくのだが、了さんにとっては目下の相手なのかもしれないがうちの課長相手になんたる態度を取って追い払ってしまうのだと冷や汗が流れ出た。対応していた相手が相手にしろ、この先の社内関係が危ぶまれる。
 了さんはそんなことを微塵も考えていないのか、課長がいなくなった後も最初から彼はここにはいなかったといった様子で私に声をかけ続けた。昨日の返事は、とそればっかりだ。

「その話はとても前向きに考えさせていただいているので、どうか、ここでそんなことを訊ねることだけは!」
「わあ、嬉しいな! 前向きに考えてくれてるんだね!」
「はい、でもちょっと、あの、このままでは考え直させていただく可能性も」
「それは困るなぁ」
「ですよね? なので、私の仕事が終わるまで待っていてもらえませんか」
「いいよ、いつになる?」
「18時には、はい」
「待ち合わせは、どこにしようか?」
「ええと、そこまでは……あ! 連絡先、渡しておきますので」
「名刺はいらないよ、もうたくさん持ってるからね。 あ、そうだ! じゃあ、ここで交換しようよ!」
「今、ここでですか!? わ、わかりました、携帯持ってくるので」

 名刺を差し出そうにもそれを拒まれ、閃いたように携帯を取り出した了さんに驚きつつも、私が連絡先を教えて返事を待つよりも直接交換した方が手っ取り早いのも確かだ。こんな場面を誰かに見られでもしたら何か言われることは分かりきっていることなので、できるだけバレないように静かにドアを開け少しの隙間から事務所内に戻った。

 事務所内に戻れば案の定視線が身体中に刺さった。遠いデスクで座りあった2人がひそひそと私を見ながら会話をしている姿が視界に一瞬写り込んだのだが気のせいだと思うことにし、私は自分のデスクへと足を運んだ。「先輩、誰だったんですかぁ?」と隣の席の後輩に声を掛けられたのだが一つ苦笑いを零す。デスクに置きっ放しの携帯をさっと取り上げポケットにしまい込みそのまま部屋から出るものの、誰かに向けられる視線は目に入らなくともはっきりと感じ取れてしまった。

「了さん、仕事が終わったら私の方から連絡しますので」

 いいですか、絶対にそちらから連絡はしてこないで下さいね、と遠回しに告げてみせれば、私が連絡するということが嬉しかったのか了さんはさっきまでの積極的すぎる態度はどこへ行ったのやら、満足げに撤退していってくれた。去り際に「名前の大好きな、イタリア料理のお店を予約しておいてあげるよ!」と言われたのだが、今日の夜は了さんとディナーの予定が入ったらしい。百くん……といつも間に挟まってくれている彼の姿を脳裏に過ぎらせるのだが、きっと今日の了さんは誘うことを絶対に許さないのだろうなと少しでも思ってしまえば、私は彼も誘って下さいなんてことを口に出せるはずもなかった。



 百くんは私に記憶を失くしたのだから無理に思い出す必要もないのではないかと言っていたのだが、それはあくまで第三者の考えであり、当人の私はそれだけはうまく飲み込めずにいた。了さんとのことは、百くんにも前向きに考えてみると言っておいたのだが、本当は忘れてしまった彼のことを思い出したいという気持ちも強く、だけどそれを彼に告げることができなかった。

 百くんの中では私と恋人のことなど終わったことにしか過ぎないのだろう。だけど、はっきり別れていたのか別れていないままなのか、そこは良くわかっていないのでこれは浮気の部類に入るのだろうかと思ってしまった。
 浮気といえば、百くんは私曰く交際相手は浮気の耐えない人だったと話していたような気がする。それで過去の私が悩み続け別れたいと言っていたのならば、無理に思い出す必要もないのかもしれない。そんな気持ちが私の中で揺れ動いた。

「名前、待っていたよ!」
「了さん、すみません、電車が混んでいて少し遅れてしまいました」
「言ってくれれば、迎えにいったのに」
「いえ、距離がありますので」

 連絡先を交換した時に「私の方から連絡しますので」と言っておいてよかったと思った。仕事が終わりまず最初に電話をかけるべきか悩んだのだが、連絡先のメッセージから『今、仕事が終わりました。』という一言を伝えた。そうすればすぐに返信がきたものの、そこからは『どこで待ち合わせしようか?』『今どこにいるの?』『何してるの?』の連発で挙句、電話が掛かってきたのだ。こうなることを予測した上であのような発言をしていたのだが、仕事中にこのような連絡が立て続けに送られる事態は免れたことにほっとしつつ、帰宅ラッシュということもあり満員電車に揺られながら尚も止まらない彼からの通知と画面に表示される着信画面にため息をついた。

「今日は、あの商業施設内のレストランを予約しておいたよ」
「あ、ありがとうございます」

 てっきり了さんのあの積極すぎる態度から、すぐに「昨日の返事は?」と訊ねられるかもしれないという心構えをしていたのだが、了さんはそれを訊くこともなく、これから訪れる商業ビルを視線で指して歩き出してしまった。内心驚きつつも彼の背を追いかけ、いつもならこの場所に百くんの姿があるのだが、今日は彼の姿はない。このように了さんと2人きりで街を出歩くことはなかったし、私の記憶に間違いがなければそもそも男の人と2人きりで歩くことも随分と久しぶりな気がして緊張が走る。

 了さんが連れてきてくれたイタリア料理店は大きな窓が店内一面に張り巡らされ、東京湾と東京の夜景を一望できる15階の高層レストランだった。時刻は18時をとっくに回り、真っ暗な空の下でギラギラと光を灯す景色は見ているだけであっという間に時間が過ぎていってしまうほど壮大なもので私は感動していた。

「名前は、夜景が好きなんだね」
「はい。 こういうのは、ずっと眺めていられます。懐かしいなと思いながら、見ているとあっという間に時間が過ぎていって」
「へぇ、懐かしいんだ」
「了さんにはありませんか? 夜景を見たり、田舎の風景を写真で見たりしていると、心に染み渡るような、そういうのが」
「わかるよ、ノスタルジックってやつでしょう。 僕には、そういうのが理解できないんだけどね」

 普段であれば百くんが彼の横に座り他愛のない話をしてくれているのだが、彼のいない今の時間はやけに静かなものに感じられる。このような店の雰囲気のせいもあるが、了さんと2人きりの時間はなかなか緊張が抜けきれない。
 そのような中で視線をチラチラ外へと向けてしまうのだが、窓際に座っている了さんの目にはスープを啜りながら景色が気になってやまない私の姿がはっきり映り込んでいるのだろう。このような景色が好きなのは女子特有のものなのか、了さんは全く気にも留めていない様子でスプーンとフォークで主菜のパスタを器用に巻いていた。

 流石、大きな事務所を持つ家で育った御曹司だなと了さんの手元に視線を向けながら思ったのだが、景色を嗜んでいた私に了さんはにこやかに笑って口を開いた。

「食事を終えたら、外を歩こうか」



 私はお酒が飲めない人間になった。ワインに合うコース料理を口に運んだところでそれを飲みたいとも思えず、それどころかコース料理に付いた食前酒すら喉を通すことができなかった。ノンアルコールですら気が引け、子供のようにオレンジジュースばかり飲んでしまった。

 了さんは私がイタリア料理が好きということを知り、このような場所に連れてきてあのようなコース料理を頼んでくれたのだろうけど、全てを嗜むことができずに食事を終えてしまったのは心苦しい気もする。けれど素敵な景色を眺められたし、出された料理はどれもこれも美味しいものだったので私は満足していた。
 それを伝えてみせれば了さんは「それは良かった」と言ってくれたのだが、彼はお酒をよく好む人なのだろう、アルコールを一滴も飲めない私とは正反対に了さんはワインを飲んでいた。

「海に映る夜景って、綺麗だと思いませんか」

 食事の最中に了さんが言った通り、食事を終えれば商業ビルから出て真下にある海沿いの遊歩道を歩き「潮風が気持ちいいね」と言った了さんの言葉に足を止め、セーフティフェンスに手をかけながら東京湾に映る夜景の姿をも眺めていた。ただの夜景は東京で過ごしていて見慣れている景色だが、高い場所から見ていた景色もこのように海に反射している景色は頻繁に見られるものではないので心打たれた。それと同時に懐かしさが込み上げる。

「昔、こういう景色をどこかに見に行った記憶があって」
「へぇ、どこに?」
「覚えてないですけど、誰かが連れて行ってくれて、感動した記憶が」
「誰かって?」
「それもわからない、曖昧な記憶で……子供の頃に、両親に連れて行ってもらった場所かなって思うんですけど」

 ……嘘をついた。本当は、大人になって誰かに連れて行ってもらった場所だ。おそらくそれは思い出せない恋人だったのだろう、それが頭に過ると咄嗟に嘘が溢れてしまった。このような高いビルが立ち並んだ夜景ではなく、もっと大きなものがごちゃごちゃしていてとても明るい景色に感動をした記憶が微かに頭に残されているのだが、そのことはこれ以上了さんには伝えられなかった。

「忘れてしまった彼に連れて行ってもらった場所だったりしてね」
「え、いや……」
「あはは、冗談だよ」

 隠そうとしていたことを、了さんは意地らしく告げる。冗談だよと言っていたが本心はどうなのだろう、一体どのような神経をしていればそのようなことを口にできるのか不思議なのだがそこには触れなかった。

「−−了さん、あの」
「なんだい?」
「私、付き合っている人がいるかもしれないんです」
「ああ、思い出せない彼のことか」

 フェンスを握り締めていた私の隣で、フェンスに背中を預けて凭れかかった了さんはつまらなそうに口にした。彼の好意を知り、その話を前向きに考えていると言っていたのにこんなことを言われてしまってはそのような態度を取られるのも無理はないが、これはあくまで前座でありどうしても聞いてもらいたい話だったので、了さんのその態度に目を背けて話を繋げた。

「でも、本当に付き合っているのかわからなくて。だけど、もし、まだ付き合っている人がいるとしたら、了さんの気持ちを受け入れてしまうことは浮気の類に入るのかなとか、そういうことを考えたりもしていて」
「名前にとって、浮気の境界線って何?」
「え、それは……」
「名前は、彼のことを思い出せないんだろう? それなら、仕方がない。それは浮気じゃないよ」

 浮気の境界線などはっきりとした定義はわからないのだが、私はこのことに対し後ろめたさを感じている、そうなれば前向きに考えているとしてもやはり間違っているのではないかと少しでも思ってしまえばこの先のことを躊躇うのだが、了さんは私の背中を押すようにそのような言葉を投げかけた。

「こんなことを言ったら、私のことを酷い女だって思うでしょうけど、これだけは言わせてください。 もし、私がこの先その人のことを思い出して、その人が目の前に現れたら−−私はきっと、了さんではなく彼を選ぶと思います」

 自分でもよく分からない状況の中でこのような決断を下し、最低なことを言ってしまっていることは自覚している。彼のことを思い出せなかったを理由に、たとえ彼が私の目の前に現れこの現状を目にしてしまった時はごめんなさいで済まされないこともわかっているのだが、いつまでも待ち望んでいることも許されないような気がして、私は前に進んでしまおうという決意をした。

 了さんの好意はしっかりと受け止めたかった、彼のことは嫌いではないのだ。だけど過剰なまでに私を好いてくれている了さんに対し、私の正直な気持ちを容認した上で付き合っていくことが最低条件で、このような私に失望して離れていかれるかもしれないと思ったのだが。

「いいよ、名前。 きっと、そんな日は来ないけどね」

 了さんは自信げに口元に弧を描いた。きっとそんな日は来ない、それを言い切った了さんの言葉は私が彼を思い出すことか、彼が目の前に現れてくれることか、最終的に彼を選ぶ選択のことを指しているのかが分からず、その言葉を聞き返そうと口を開こうとした。

「ねぇ、名前。 僕からも、君に条件があるんだ」
「……私にもですか?」
「そうだよー」

 けれど、遮られるように先に口を開かれる。了さんの好意に付き合ってあげるという高飛車な態度は決してないのだが、条件があると切り出されて思わず「私にもですか」なんて本音が溢れてしまった。このような私の態度を気に留めず彼は「なに、簡単なことだよ」とスラックスのポケットに手を入れて横柄な態度を見せてきたので私は大人しくはいと返事をした。

「僕の前では、洗いざらい、感情をむき出しにしてほしいんだ」
「どういうことですか?」
「要するに、正直で、素直な子でいてねってこと」
「は、はあ……」

 それってつまり、隠し事も何もせずに全ての感情を晒しだせということなのだろうけど、当たり前のようなことを言われているような気がして、私は困惑気味に頷いた。そうすれば了さんは嬉しそうに笑って、ポケットに忍ばせていた手を取り出して何故か私の方へ両手を向ける。何をしようとするのだ、この男は。

「ねぇ、名前! 抱きしめてもいい?」
「え!?」
「いいでしょう、いいよね?」

 今まで至って真面目に真剣な話をしていたこの空気をぶち破るように了さんは両腕を広げたまま大声を上げて私の目の前に立った。さっきまで大人しくしてくれていたと思っていたのに、まるで豹変したように私の返事を聞かず勝手に身体を抱き締めてくる。長いこと男の人に抱きしめられた記憶がないので急激な緊張が身体中を駆け巡り、どこに向けたらいいのかわからない腕は宙に浮いた。

「あ、あああの、りょ、了さん、ちょっと! あっ、わ、私、今日はそろそろ、明日も仕事があるので!」
「ええ、そうなの? 送っていってあげるよ」

 私の条件を受け入れた瞬間に私と了さんの関係は恋人へと変化したわけだが、このようないきなりの態度に対し、恥ずかしいという羞恥よりも付き纏われていたあの引いた感覚を思い出した私は逃げるように了さんの身体を引き離した。



「了さん、これだけは約束してもらいたいんですけど」
「なぁに?」
「絶対、何もしないって約束してください」
「いいよ」

 私は了さんの好意を受け取った身だ。ある意味親切混じりの好意を拒む権利がなくなったわけで、彼が私のことを家まで送っていってあげると言いだした言葉に一応お言葉に甘えながら電車を乗り継いで私の住むアパートに送られていたのだが、アパートの前に到着したところで了さんは言った、家にあがりたいと。
 やたら手を繋ぎたがり電車でも密着され続け、了さんの重すぎる好意を交際開始の1時間弱で痛いくらい感じていたのだが、そのようなことを言われてしまえば流石に恋人になった人であろうとも抵抗心をむき出しにしてしまうのは仕方のないことだろう。

 なおも変わらない了さんの積極的すぎる態度に駄目ですと言うこともできず、半ば折れた形で冒頭の約束事を提示して了さんのことを家にあげてしまった。1Kで8帖のそこそこ広い洋室の中は、ちょうど昨夜に身の回りの整理をしていたため綺麗な部屋であったのが救いであるが、了さんは部屋に上がるなりふんふんと物色するように動き回るので、突然の来客ともあり私はソワソワしてしまう。何かおかしなものが部屋の中にあるわけでない、新しい恋人となった了さんが不快に思うような、思い出せない彼の痕跡が残っていなかったことも昨夜のうちに確認済みだ。

「……何か飲みますか?」
「何があるの?」
「コーヒーとか、紅茶とか、お茶もありますけど」
「コーヒーでいいかな」

 台所に立って、お茶や紅茶などのティーバッグが纏められた籠を漁りながら気を効かせるように了さんに問うたが、コーヒーが飲みたいと言われたのでそれを戻してキャビネットを開けた。私はコーヒーをほとんど飲まないため挽き豆ではなくお湯で溶かすタイプのコーヒーバッグのコーヒーしかないのだが、マグカップを用意してケトルを沸かし始めたところ、背後に人の気配を感じて動きを止めてしまった。

「な、なんですか……」
「まだかなって思って」
「まだ1分くらいしか経ってないですよ」

 後ろを振り返ればそこに了さんの姿があることは分かっているのだが、急かすような言い草に慌てるようにコーヒーバッグの袋の口を開けていれば後ろを振り返る暇などなかった。やたら密着度の高い了さんともあって、今は身体が触れる距離にいなくともとても近くに寄られているような錯覚に陥る、そのため私は二重に焦りを抱いてしまってうまく袋が破れなかった。

「あの了さん……、うわっ!?」
「どうしたの。 ああ、開けてほしいんだ?」
「ち、近っ、いえ、向こうで座って待っていてください!」

 人の気配がいつまでも消えず、さらには見られている視線を痛いくらい感じてしまって呆れてしまった私はついに後ろを振り返るのだが、振り返った瞬間に了さんは一歩近づいてきたのか目の前に彼の身体があった。180センチほどある高身長は見上げなければその顔を伺うことができないのだが、あまりの近さに私の首は90度上を向いてしまった、そのくらい近い。まるで壁が立ったかのように照明の明かりすら遮断され、驚くと同時にある意味での恐怖を抱いた。
 思わず後ずさりをしてしまいそうになるのだが、後ろには流し台があるためそれが許されずガンッと大きな音を立ててしまった、その音が頭に響くなり指先の力が緩んで床にコーヒーバッグの包みを落とした。

「−−名前」
「えっ、え!? い、嫌です!」
「ええ、なんで?」
「何もしない約束でしたよね!?」
「手を出さないとは言ってないよ」

 手を出すつもりなのか、この男は。すかさずコーヒーバッグの包を拾い上げようとしたところ二の腕を掴まれてそれを阻止されてしまった。続けてこんなに近くに寄られ低い声で名前を呼ばれでもしたら、この人が何を考えて何をしようとしているのかなんて簡単に伝わってくる。私の逃げ道を阻むように了さんがワークトップに空いた片手を掛けてしまえば、前後左右どこの方向からでも私は逃げられなくなってしまった。完全に了さんの手の中に抑え込まれる形となり、眉を顰め口を尖らせた。

「了さん、酔ってますよね? 飲みすぎたんじゃありませんか」
「そうだね、酔ってるのかもね」
「了さん、それならもうお帰りになった方が、んっ……」

 必死に帰宅を促していたつもりだったがそのまま唇が塞がれた、1度、2度と軽いキスをされ、驚いて腕を動かし逃げようとシンクの端を掴むのだが、その腕すら了さんの腕によって阻止されてしまった。腕を掴まれた瞬間に一瞬開いてしまった唇を割って、今度は了さんの舌が入り込んできた。強引で乱暴そうに見えて、それなのに優しく舌を弄ばれてしまえばその空気に飲み込まれてしまいそうになるのだが、ケトルがぽこぽこと沸騰の音を鳴らし始めた音が耳に入れば、現実に引き戻されて顔を逸らし了さんの唇から逃れた。

「お、お湯、湧くので」
「後ででいいよ」
「冷めちゃう、ので」
「また沸かせばいいだろう」

 了さんは頑なにその道を譲る気は無いらしい、カチッとケトルの電源が落ちた音が耳に入るやいなや今度は顎を固定されてまた口づけが落とされた。少しずつ口づけが深くなっていって、あの優しい動きはどこへ行ったのやら、まるで自分を見ろと言わんばかりの先ほどよりも激しい動きで咥内を弄ばれて呼吸が乱れた。息をする間もなく、荒れかけた呼吸の中で思わず了さんの高そうなスーツの袖を掴んでしまい、そうすれば唇が離れていってくれるのだが、はぁっと呼吸を一つ整えた瞬間、彼の唇が今度は首筋を伝った。

「了さんっ、スーツ、皺、ついちゃうので」
「脱げば問題ないよ。 ここでする?」
「ここは駄目ですよ!?」

 了さんは楽しげに笑ってみせた、じゃあ何処でするのと問われてしまえばする場所なんて一つしかない。嫌だと言っても彼は聞き入れてはくれないのだろう、完全に女として見られている眼差しにまた折れたように了さんの胸元へ額を当てた。

 そこに行き着くまでの間に逃げ道ははっきりと存在していたはずなのに、その気にさせられてしまった本能に逆らうことができず、再び戻ってはいけない部屋に了さんを連れて行ってしまった。
 1Kという狭い間取りのアパート、8帖の狭い部屋に置いてあるベッドへ腰を下ろしてしまうと、一目散にスーツのジャケットをベッドに脱ぎ捨て、ネクタイを緩めて第一ボタンを開け襟元を寛げた了さんに毛布の上に押し倒され、そんな彼に身を預けてしまったら事から逃れることなどもう許されない。何度も口づけを落とされて、身体中を愛撫される。羞恥に耐え切れず目を瞑り反射的に嫌だと口にしてしまうと、了さんは私の目元を手のひらで覆った。

「そんなに嫌なら、好きだった男でも思い出していなよ。 ま、思い出せないだろうけどね」

 大きな天井ライトを背に受けた了さんはいじらしく笑ってそのようなことを言った。正直この場に及んで忘れている彼のことなど1ミリも思い出せず、私の身体を弄んでいるのは紛れもなく了さんで、このような状態で他の男のことを考える余地などなかった。

 昔アウトレットで購入した安いベッドのスプリングは煩いくらい音を立てる、慣らされた場所からは耳を塞ぎたくなるような水音が増して、嬌声は止まってくれない。いつしか外された了さんの腕は優しく私の身体を撫で上げるのだが、羞恥に耐え切れず自らの腕で顔を覆った。あんなふうに好きだった男を思い出しておけと言いながら、行為の最中はずっと私の名前を優しく呼び続ける了さんが何故だかひどく愛おしく感じられて、私は全てを受け入れてしまった。







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