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『−−百くん、助けてくれ! 名前がまた救急車で搬送されてしまって……!』
「えっ!? 今度はなにがあったの!?」

 それは昨日の夕方のことだった。楽屋に戻って収録の合間にまったく触れられていなかったスマホの画面には苗字パパからの着信が数十件にも及んでいた。携帯に記された名前とその着信件数を見てちょっと嫌な予感がしたけれど、先に着替えを済ませようと衣装ルームに入って行ったユキに気付かれないように小さな溜息をひとつ零して電話をかけ直すとワンコールで苗字パパが出る。「ごめんごめん、仕事中で出られなかった!」まず最初に電話に出られなかったことを謝ると、その声は悲鳴に近い苗字パパの声にかき消された。そして、その先から告げられた言葉に思わずスマホを落としてしまいそうになった。

 そりゃ、誰かが救急車で搬送されたと言う連絡には、驚いたり不安だったりが当たり前のように積み重なってしまうけれど、名前ならそれは尚更だ。今日会ったばかりだったし、体調悪そうにしていたし。それに彼女は以前事故に遭って、まだ完治していない障害を抱えてしまっている状態だ。おまけに第一声が「助けてくれ」という悲鳴混じりの声だったから、心臓がどくどくと音を鳴らしていた。

『また了くんを怒らせてしまって……急に怒り出してしまうし、ど、どうしたら……』
「……ちょっと待って。名前の話だよね?」
『そうなんだよ。名前が仕事を早退した先で倒れてしまったようで! 真っ先に了くんに連絡をしたんだけれど……』
「あのさ、苗字パパ。了さん怒らせて焦ってるのはわかるけど、まず第一に名前の心配するでしょ!?」

 しかし電話先の苗字パパは、名前の心配っていうよりは、了さんを怒らせたことへの心配をしていた。この人の「助けてくれ」という言葉は了さんを怒らせたことへの焦りでしかなく、心の中で大きな溜息を落とした。この父親も父親だけどさ、いやいや、了さん。この状況でなんで苗字パパに怒ってんの? オレが収録で電話に出られない間に何かあったのかな−−と思うけど、それよりも名前の心配が先だ。苗字パパ曰く名前は体調不良で倒れて病院に搬送されてしまったそうで、オレが仕事をしている合間に治療は終わって、今はぐっすり眠っているってことを聞いた。
 だけどそれもたった一瞬の出来事だ。相変わらず自分のことばかりな苗字パパに、結局は何故か怒っている了さんへの仲介を持ちかけられてしまって、流石のオレも呆れ返りそうになる。何を言っても、でもでもだっての繰り返しで言い訳をしてくる苗字パパに対して、これ以上は何を言っても無駄だと考えてしまえば「了さんのことはなんとかしとくから」と、それだけを伝えて電話を切った。

「名前さん、何かあったの?」
「あ、ユキ。 名前、身体壊して入院しちゃったんだって。悪いけどオレ、先に出て病院に様子見に行ってくるよ」
「それだけ?」
「え?」
「めっちゃ怒ってたよ」
「怒ってた? 誰が? ……オレ!?」
「うん。まだ頭に生えた角が隠せてないよ。 モモはまた、彼女とその周りの人間に振り回されているのか」

 電話を終えて真っ先に出てきたのはまた小さな溜息だったけど、背後から着替えていると思っていたユキに声を掛けられて、軽く心臓が跳ね上がった。振り返るとまだ衣装を身に付けたままの姿で立っていて、頭に角が生えているジェスチャーでそれを伝えてくれている。

「別に振り回されては……ないって否定はできないけど。なんとかなると思うから、大丈夫だよ」

 ふぅん、そう。と、ユキは頭の上に向けていた腕を下ろしながら、呆れているのか不満がっているのか無関心でいてくれているのか、どれともわからない表情でオレを見つめていた。
 名前はオレと付き合いが長いから、ユキも彼女とは何度か顔を合わせている。だけど事務所関係だとか、ユキって人付き合いが得意なタイプではないから、会ったのはまだ数えきれる程度で共通の友人と呼べるほどでもない。ユキは名前のことを悪い人だと思ってはいないみたいだけど、振り回されている、という認識は抱いているようだ。まぁそれは、溜息を落としたり頭を抱えたり、悩んでいて上の空の状態を過去に作ってしまったオレの責任ではあるんだけど。

「この間、名前さんのことを下岡ちゃんに訊かれたんだ」
「下岡ちゃんに? 名前のことを? なんでまた?」

 振り回されているのかどうなのかと言っていたユキは、それ以上のことを告げてこず真新しい話を持ち出してきた。長いこと世話になっている、ミスター下岡こと下岡ちゃんの話だ。

「いつだったか、彼女と月雲が婚約するって話が流れていたそうだけど、結局あれはどうなったのかなって」
「え!? そんな話があったの!?」
「あったっぽい」
「それで?」
「僕は何も知らないし、モモからも何も聞かされてないよって言っといた。 そんな話になってたの?」
「掠ってはいるけど、そういう話は特には……。 他にもなんか訊かれた?」
「もっと他に訊かれたことがあったような気がするけど、覚えてない」
「覚えといてよ!」
「だって僕、知らないし。モモが教えてもくれなかったこと、どうして僕が聞かなきゃいけないんだ」
「ぎゃ、逆ギレしないでよ! ほら、そういう話ってさ、デリケートな問題だったりするだろ? オレがユキに喋っちゃって、ユキまで巻き込まれたら大変だよ。あの周辺、割れる寸前の膨れ上がった風船状態だったからね」
「僕が息を吹き込んで破裂させるとでも?」
「いや、勝手に爆発する。 ユキが吹き飛んで怪我でもしちゃったら、オレは我を忘れて金属バットで全員ぶっ叩いちゃうよ」
「怖いな……」
「だろ?」

 その手の話は揉めてる状態で、公にもされていなければそもそも不確定の話だった。単に了さんと名前の二人だけのいざこざだと思っていたけど、だからこそ、下岡ちゃんがそんな話を知っているらしいことには驚いた。どこからそんな噂が流れているのかまではわからない。だけど、下岡ちゃん伝に聞いた話にユキは不服なようだった。何度も言ってしまうけど、そういう話はとてもデリケートな問題だ。誰かに話すような真似ができるはずもない。
 ユキから聞いた下岡ちゃんの話は気になった。どこからそんな話が漏れているのかと考え込みそうになるものの、現状はそもそもそれどころの話じゃないんだから、いくらユキに訊ねられてもオレが答えられる内容でもない。それに今優先すべきことは、病院にいる名前だ。


「もしもーし! 了さん、こんばんはー!」

 ユキはあれ以上のことを訊ねてくることはなく、オレはユキよりも先に楽屋を出て、テレビ局の地下駐車場に待機しているタクシーに乗り込むと真っ先に連絡先から了さんの名前を見つけ出して電話をかけた。長いコールの後にプツリと途絶えた音を耳に取り入れると、了さんの声を待たずに陽気に声をあげる。

『やぁ、モモ、ご機嫌よう。 どうかした?』
「どうかした、じゃないでしょー。オレがなんで連絡したのかくらいわかってるよね」

 オレの声とは打って変わって落ち着いた声色を発する了さんは、苗字パパに聞かされていた怒っている、というのとは違っていた。いつになく穏やか。穏やかで、何もなかったかのような振る舞いだった。苗字パパが名前の話を持ち出して怒らせたって言ってたんだから、了さんはオレが電話した内容を既に知っているはずだ。名前が倒れて入院してるってこと。

『さぁ、何も心当たりがないなぁ』

 ……知っているけどしらを切ろうとしてるってことは、そう返してきた了さんの声色で察した。わかりやすくも声のトーンを一つ下げて、呆れたような口振りだったし、それを告げる手前に小さな溜息を零した音をオレは聞き逃さない。

「名前が倒れて入院しちゃったんだって」
『ああ、その話か……』
「オレ、今から病院に向かうから。了さんも一緒に行くよね?」

 了さんは飽きっぽくてちょっと面倒くさがりなところもあるけど、嫌な話題を持ち出されてもさっそく電話を切るような真似をするような人間ではない。これ、了さんの良いところだ。名前と揉めていた時だって、なんだかんだ彼女の面倒を見ていたし、現に今も電話は繋がれたままだ。なるべくオレも了さんの機嫌を拗らせることもないように、へらへらと笑いを混ぜ合わせながらはっきりそれを問えば、電話先の了さんは背伸びをするように息を吸い込んで、呼吸と共に言葉を吐き出した。「僕は行かないよ、モモ」って。

『疲れているんだ。商談で忙しくってね。またにしてくれない?』
「仕事で疲れてるんじゃ、しょうがないね。じゃあ、明日は?」
『明日も忙しいかなぁ。僕の可愛がっているŹOOĻが、近々大きな仕事をするんだ!』

 正直な話、半年前のオレはいくら二人の仲が悪かったって100%見舞いに来てくれると思っていたから、それを覆してきた前科があるお陰で、今回も行かないと言い出す可能性は、名前には悪いけど無くはなかった。五分五分とは考えたくないけど、四割くらいの確率で行かないって言い出すだろうな、とは思った。いや、本当は四割も行くって信じていた部分もあったかもしれないけど。
 仕事を理由にされてしまえば、無理矢理にでも引っ張り出すこともできない。実際、今テレビに引っ張りだこのŹOOĻを見ていたら、あの子たちを取り纏めている了さんだって忙しいことはわかる。その理由には嘘は混じってはいないんだろう。

「了さん、あのさ。 行く気はあんの?」

 だけど、了さんの中に、行く気があるのかないのか。 一番の問題はそこで、電話越しに仕事のことでも考えているのか浮き足立った了さんの声に耳を傾けながらオレは訊ねる。了さんは電話の向こうで「あはは!」と明るい笑い声を一つ上げて、呆れ返っているようにオレに告げてきた。

『−−ないよ』

 きっぱりと、はっきりと、そもそも行く気がないことを答えてきた。 こうなることは二度目だ。半年前に名前が事故に遭って救急車で病院に搬送された時、了さんは同じことを言っていた。そして了さんは本当に来てくれなくて、名前は記憶を忘れた。
 名前は了さんのことを完全に思い出したわけじゃないけど、それでもあの子は了さんの傍に居てくれてるのに。あの時と同じように、こんなことになる直前に喧嘩をしてしまったってオレは聞いてたんだけど。あの時とまるで同じように、また同じ過ちを繰り返すのかって、腑が煮えくり返そうになった、だけど。

『あの時と同じように、彼女が目を覚ました時、また警察を呼ばれたりでもしたら大変だからね!』

 ……だけど、了さんが電話を切る直前に発した言葉は、了さんの本心以外の何物でもない。

 了さんのことがわからなくて名前が騒ぎ立てた夜の話は、事故が起こったあの時同様に忘れられることができない話だ。いや、元はそれが全ての発端となった出来事なんだ。
 了さんは名前が自分のことだけを忘れたことを知った時、悲しんでいるというよりは不満そうにしていた記憶がある。苛立ちを隠そうともしないで八つ当たりをしてきたり、名前への嫌がらせも考えていたほどだ。でも、本当は悲しかったのかもしれない。決して口に出さなかっただけで。
 自衛の意味も込められているかのような発言に、そうまで言われてしまったら、オレはやっぱり無理に引っ張り出すこともできるはずがなかった。




「了さん、仕事で来れないんだって」

 オレはまた名前に嘘を吐いてしまった。
 昨日は目を覚まさないままでいた名前の現状を改めて了さんに伝えた夜、やっぱり次の日も行く気がないらしい了さんのことはひとまず後回しにしておいて、きっと翌日には目を覚ましてくれるはずの名前の心配だけをしていようと考えていた。でも、それだけを続けられなかった。
 名前に向かって、どうしてあの時のような嘘をまた吐いてしまったのかと問われれば、オレ以外の誰かを探すように辺りを見渡した名前の姿が、どこか可哀想に思えてしまったからだ。

 半年前のオレは、二人の関係がこれ以上悪化しないようにと気を遣って彼女に嘘を吐いてしまってたけど、今回はそんな理由じゃない。気を遣ったつもりは、たぶんない。単純に、彼女を見て悲しいなどと思ってしまった同情心の方が強かった。昨日は倒れる直前まで了さんについてどこか思い詰めているようだったし、いくら喧嘩をしたとはいえ、今の名前が了さんのことを好きでいるというのはわかりきっていたんだから。

「……あはは。もう、呆れられて来てくれないだけなんじゃないの」

 咄嗟に吐いてしまった嘘には、当たり前のように罪悪感が生じていた。言った矢先に何か悪いことが起こってしまいそうだと、心臓のあたりに違和感を覚えた。そしてそれは、こめかみに指を這わせながら、自虐するかのように溜息交じりの言葉を告げてきた名前の姿を見てしまったらなおさら強く襲いかかる。でもその裏側で、目を覚ました彼女の記憶の中には、ちゃんと了さんの記憶があることに安堵していた。

 「百くん」と名前を呼んできた名前との間には、どこか居心地の悪いような空気が少しだけ流れていた。視線の先に捉えた見舞い品の数々に手を這わせて、とあるメモ紙を手にとっていた彼女はそれに目を這わせる。それは、オレと同じくらい名前の見舞いに来たかったはずの彼女の後輩からのメッセージだった。

「−−百さぁん! なんでかあたしも出禁食らっちゃったみたいで、これ先輩に渡して下さぁい……」

 ぐったりした様子で病院のロビーで佇んでいた後藤ちゃんはオレを見つけるなり駆け寄ってきて、困り果てて半泣きの状態だった。これを渡してくれ、言いながら差し出してきたのは一通のメモ紙。自分が面会できないと知って、手持ちの紙に慌てながら書いたものかもしれない。意味がわからなかったけど、彼女もまた苗字パパと同様に名前との面会を禁じられたようだ。その理由はどうであれ、これは絶対に了さんの仕業である。
 そんな経緯があって代わりに届けた後輩からのメモ紙に目を這わせながらぐしゃりと握りしめた名前は、顔を上げて、首を傾げて、困ったように笑った。

「もうそんな嘘、吐かなくてもいいよ」

 その言葉を聞いた瞬間、驚かずにはいられなかった。薄っすらと取り戻しつつある名前自身の記憶の中に、あの時の記憶すら取り戻しかけていることを知る。けど、そんなことよりも……なんでそんなこと知ってんの。覚えてるんじゃなくて、知っている。仕事が忙しくて見舞いに来れないと彼女に伝えたけど、あの時の了さんは、本当は来る気が無くて来なかった。そのことを、どうしてあの時の名前が知っていたんだ。

 それを考えた瞬間、もしかしたら名前は本当のことを知ったショックで記憶を失くしたんじゃないかと思った。そうすると、オレは今回もまた嘘を吐いてしまったということに激しい焦燥を感じる。今、目が覚めた名前の中にはちゃんと了さんの記憶が存在しているんだ、また忘れ去られてしまわないように、必死に言葉を繋いだ。



 もう来てくれないんだと思ってた−−ほっとしたように泣きながら呟いていた名前を見たせいか、病室を出た後のオレはしばらく放心していた。
 病室の脇の壁に凭れ掛かりながら、了さんになんて言って説得しようか、そればかりを考える。簡単に名前はあんたのことをちゃんと覚えているから会いに行ってくれと告げればいいのに、説得仕切れる言い分をたくさん頭に浮かばせた。何を伝えるのが手っ取り早いのか、それすらの判断もできていないらしい。そんなことになるほど、あんな名前を見たオレは、了さんと会わせることに必死だった。
 一度深呼吸をして、よし、とスマホを握りしめながら足を動かした。どうか了さんが来てくれますように。そして病院のロビーに辿り着いて、連絡先の真上に表示されている『月雲了』の名前に電話を掛けた。

「了さん、こんにちはー! 今どこにいんの、何してんの?」
『やぁモモ。今日の君はどこの世界軸のモモなんだろう。昨日の話を覚えていないの?』
「覚えてる、覚えてるよ。だけどさ、どうしても一つだけ言いたいことがあって。 名前に会いに行ってやってほしいんだよ」
『ああ、全然覚えていないみたいだ。 僕は今、仕事中なんだけど……あ、もしかして! トップアイドルともあろうRe:valeの百が、仕事を投げ出してプライベートを優先させろって言いたいのかな。危篤の家族が待ってるわけでもあるまいし、笑わせるね』

 大丈夫だ、怒るな、怯むな、落ち着けオレ。頼み事をするとまず最初に雪崩のように勢いよく了さんの言葉が流れてくるけど、大人しくそれを聞き流すんだ。鬱陶しいと思われてるのかどこか機嫌が悪そうに感じる了さんは、やはりまだ名前の元に行く気はないらしい。とうとう電話をガチャ切りされてしまう前に、言わなきゃならないことを伝えなくては。

「了さん、あんた、半年前のこと覚えてるだろ。名前が事故って入院した時、了さん行かないって言って本当に来なかったじゃんか。あの時オレ、名前に言ったんだ。本当は来る気がないってことを隠して、了さんは仕事が忙しいから来れないんだって、嘘吐いちゃって。 さっきオレが会った名前はその時のことを思い出してて、知ってて。もしかしたら、それのせいで記憶を失くしたのかもしれない。名前、ずっと了さんのこと待ってたんだよ。今も待ってる。だから会いに行ってほしいんだ」

 頼むよ了さん、と、命乞いとも呼べる声色でそれごと発した。別に今すぐじゃなくたっていいから、近いうちでいいから、もう一回彼女が了さんのことを忘れてしまう前に会いに行ってくれと、消えてなくならないいくつもの理由を切りそろえてゆっくり口を開いた。

『モモ、君はどこか勘違いしているね。 彼女は僕のことなんてたいして好きでもなかったし、僕の傍に居てくれたのは家族を守るためでしかなかったんだよ。そんな僕が、あんな目に遭っても目の前に現れなくて、憤りで、怒り狂った拍子に脳みその血管が切れたのかもしれない。よくあるだろう、気が付いたら人に危害を加えていて、その瞬間は覚えていないってこと。記憶が失くなったのは、きっと、それのせいかもしれないね』

 いつもだったら、うんわかったと承諾してくれる了さんが、何故か今回は違った。遮るように出された話は名前の記憶が無くなった原因の話だけど、そんな言葉が了さんの口から出てくるだなんて思いもしなかった。名前のことだからそんなことはないだろう、何を言っているんだ。そりゃ、機嫌が悪く怒っている時の方が多くなっていたような気もするけど、怒り狂ってプッツンしたとは考えられない。

「考えすぎだよ。名前はそんな子じゃないって」
『どうだろうね。猫を被るのが上手な子だったんだ』
「それを見破られなかったのは了さんらしくないんじゃない? けど、もし本当にそうだったとしたら、あんなふうには泣けないよ」

 あんなふうにほっとしたように息を吐いて泣いていた名前の姿が忘れられない。よかった、と心の中で何度も何度も呟いていたと思う。だって、あの姿は、バンさんがいなくなって、ユキさんに歌をやめないでほしいと願い続けてそれが叶った瞬間、ユキさんの目の前で豁然して救われたあの時のオレみたいだったんだ。

「さっきの名前、了さんが来てくれようとしていたってことを知った時、泣いてたんだよ。嬉しいけど、それよりもずっと、ほっとしたように泣いてて。あんたのことを利用したくて傍に居たんだとしたらあんなふうには泣かない。だから、顔見せるだけでいいからさ」

 言い終えると、あんなにムキになってあることないことを言い返してきた了さんからの言葉はなかった。代わりにため息が聞こえてくる、なんてこともない。なんでこの人、会いに行くことにこんなに躊躇ってるんだ。
 ロビーの椅子に座って項垂れながら了さんの言葉を待っていると、電話の奥から微かに了さんの名前を呼ぶ女の人の声が聞こえてきた。

『……ああ、どうも。 ……悪いね、モモ。僕は今から商談があるんだ。後で連絡する』

 プツリ、電話が切れた。急遽切ったって感じの対応だったから本当に仕事中だったか、本当に商談直前だったんだろうか。真っ暗になったスマホの画面を見ながら了さんにしては珍しい対応だったなと考える。だけど、電話の向こう側では「了くん」と商談とは不釣合いな、どこか聞き覚えのある声の掛け方をしていた女性の声が聞こえていた。
 とりあえず、話は終わったんだ。前向きに考えてくれることを祈るしかない。



『明日、名前に会いに行くよ。』

 それから数時間後に了さんからラビチャが届いた。どうやら行く気になってくれたらしく、オレは胸を撫で下ろすレベルでほっとした。ひとまず名前と了さんを会わせることはひと段落だ。どうかこれで二人の関係も平和的な解決ができますように……そう思った刹那、スマホがピコンと音を鳴らした。

『百くん、助けて。どうしよう!』

 画面を覗けば、苗字名前からのラビチャの通知。その一文だけが送られてきた。見慣れてしまったような……というか、昨日聞いた苗字パパの声が頭の中で反響していた。さすが親子、この文面から二人の同時に合わさった声が聞こえてくる。めちゃくちゃ嫌な予感がする。

「もしもし、名前? オレ今めっちゃ酔ってる。飲み会の前に一人一次会しちゃってさー」
『ねぇ、百くん、大変! どうしよう!』
「……うん、なに?」

 既読を付けてしまってはもう遅かった。名前との会話はラビチャだと長くなりそうだし、文面から伝わるこの慌てようはとても文字だけのやり取りだけでは受け止め切れないような気がして、咄嗟の判断で彼女に電話を掛けた。まず最初に、酔ってはいないけど面倒臭そうな気がしたから酔ってるなんて言ってしまったけど、やっぱりパニクってる名前はオレの声も聞かずに慌てたように叫び声を上げていた。

『さっきお母さんがお見舞いに来てくれたんだけど、お母さん、お父さんと離婚するって言い出してて!』
「……え?」







第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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