13


 目が覚めると真っ白な天井が目について、自分が誰で今どこで何をしているのかを一瞬考えてしまった。自分を確認するように私は苗字名前であることを頭の中で言い聞かせるのだが、……はて、私はどうしてこのような見慣れない場所にいるのだろうか。

「……あっ、名前! 目、覚めたんだ!」

 私が全てを理解する前に先に声が降りかかってきた、と同時に見慣れた顔が私の顔を覗き込む。

「……百くん?」
「名前、丸一日も寝てたんだよ! もう起きないのかと思ってたから、安心した……」

 なんだかいろんな事がデジャヴのように感じるのだが、一つだけわかることと言えばどうやら私は丸一日眠りに就いていたらしいということだ。辺りを見渡すようにぐるりと首を動かすと、ベッドの脇に添えられているテレビが小さな音を鳴らしていた。私が寝ている間、傍にいてくれた百くんは私の目が覚めるのを待ちながらテレビを見ていたらしいが、画面の左上に大きく記された現在時刻の下に小さく日付が付いているのが目に入る。本当に丸一日が経っていた。

 私が倒れた原因は、疲労と寝不足によるものだ。身体が弱いわけではないが、慣れないことをしてしまったせいで体調を崩し、それに重なり熱を出してしまったらしい。おまけに倒れた時に軽く頭を打ったらしく、そのせいで意識が無かったそうなのだが命に別状はないと言われていたそうなので死ぬ心配はなかったそうだ。時間はかかったがお医者さんが言った通り普通に目覚めた私に百くんはほっとしたような顔を見せてくれただけだった。別に泣いて喜んで欲しいというわけではないのだが、そのどうともなさそうな状況にむしろ私が安堵した。

「痛っ……え、なに……」
「あっ! 勝手に動いちゃ駄目だよ! 名前、階段から落ちた時に足も捻挫したみたいで!」
「え……!?」

 身体を起こした時に足首に走った痛みを理解する前に百くんの口から全てを告げられた。私が最後に覚えていることは、とてつもなく気分の悪い中で後輩と話していたドーム前の光景。私はそこで気を失い階段から落ち、その拍子に足を捻挫して倒れた時に頭を打った。私が覚えている範囲では、道路へ続く道が見えていたからそこまで高くない位置から落ちたのだと思う。前に起きた事故の時のように頭を包帯でぐるぐる巻きにされているわけでもなく、ひどい痛みもなかったのだから。
 痛みを感じる足になるべく負担をかけないよう身体を起こし周りを見渡せば、ただ気を失うように眠っていただけだというのに個室に閉じ込められているようだった。実際、ここは個室だったのだが。病室の傍にはお見舞いに訪れてくれていた人たちが置いて行ってくれたのか数々の果物や飲み物が置かれている。中には千羽鶴を折ってくれた人もいるようで、そこまで酷くはない状況だったように思うが、誰が誰のものかはわからないが心優しい人たちの気持ちが伝わってきてつい微笑んでしまった。

「……なんか、ごめんね」

 何を期待していたわけではないが、それらを見てまた周囲を見渡してしまった。病院には百くん以外の姿が見えず、何かを訊ねたいが喉の奥にそれが引っ掛かり上手く言葉にできずつい俯いてしまう。誤魔化すように苦笑いを浮かべ、再度顔を上げた時に謝罪の言葉を一つ。またこのような状況で彼に心配を掛けさせてしまった。
 こうなることは、2度目だったからだ。

「了さん、仕事で来れないんだって」

 何か言いたかったが言葉が出てこない。これといった意識はしていなかったが、無意識に私は何かを探していた。それらの理由を自分で探し出す前に全てを見透かしたような百くんが先に口を開いてくれた。ズシリ、重たい痛みが身体に伸し掛かって身体が硬直し強張る。体内外に溜まった痛みを拭い落とすように、私は深呼吸を交えて息を吐いた。

「……あはは。もう、呆れられて来てくれないだけなんじゃないの」

 頭の痛みなど覚えていなかったはずなのに、自虐を一つ見せれば今度は頭の奥底が重たい音を立てて痛みを招いた。本当はあの言葉を耳にした瞬間、ヒュッと喉の奥が音を立てて息が詰まるような思いをしていた。その言葉は、来てくれたとか来てくれなかったとか、そういうはっきりとした明確な意味を告げられる以上に一番耳にしたくない言葉だったような気がしたからだ。

 私は、この感覚をはっきりと覚えてしまっていた。まさにデジャヴ。というよりも、それを体感していた記憶が一気に蘇り、近くに置かれていた見舞い品を手に取った時に顔を出した「早く元気になってください!」という女の子らしい丸字が書かれた後輩からのメモ紙を掴む指先が強張って、やっと動いた指先で紙をくしゃりと握りしめてしまっていた。

「……百くん」

 ちょっとだけ溜息が混ざってしまった。これはデジャヴでも何でもなく過去の私が経験していたことそのものだ。昔、という程でもないが数ヶ月前に私はこれをはっきりと経験していたのである。これは現実なのか、はたまたまだ夢の中を見続けているようなのかもわからない。数ヶ月前、事故に遭った直後にまるっきり同じ経験をしていたから。その先にあった出来事は、何かの衝撃で急に蘇ってくる。

「もうそんな嘘、吐かなくてもいいよ」

 −−名前、ごめんね。 了さん、仕事が忙しくて来れないみたいなんだ。早く元気になってねって言ってたよ!

 自分が吐き出した言葉に、過去に受けた言葉がはっきりと脳裏に蘇ってしまった。その言葉が心臓に突き刺さり、震える声で絞り出せば百くんはまるで宝石のような輝きを目にした時のように大きな瞳を揺れ動かした。






 目が覚めると見覚えのない真っ白な天井の下に私はいたのだ。頭が痛くて呼吸が苦しいが、意識を取り戻していた。私が瞼を上げたことに気付くと誰かが(ぼんやりとしていてよく聞こえながったが、きっと母だ)震えた声で私に何かを囁きかけていたことを思い出す。

「名前、目が覚めたのか! お前、3日も眠っていたんだぞ!」
「ああ、よかった……!」

 やっと焦点が合った視線の先にいたのは両親の姿だった。事故に遭って、3日も目を覚まさなかったんだぞという懸命な父の声に、私は必死に今の状態を理解しようとする。事故の影響からか頭の痛みは酷いものだったが、この痛みが引き金となって、私は大学の同級生と居酒屋でお酒を飲んでいた帰り道に横断歩道を渡っていたら車に撥ねられたことを蘇らさせた。あの瞬間や衝撃のおぞましい恐怖が身体を伝って全てを思い出させてくれるのだが、それよりも自分が生きていることに安堵した。
 母が泣いている姿なんて初めて見た、父が涙を抑えている姿だって初めて見た。心配掛けてしまってごめんなさい、それを声に出したいが上手く喉を伝って言葉が出てこなかった。

「−−お前、了くんに一体何をしたんだ!?」

 私が必死に言葉を上げようとしている中で、涙を抑えていたはず父が血相を変え、焦り狂ったように私に訴えかけてきた。……了さん?が、どうかしたのかと突然出てきた彼の名前に恋人の姿が脳裏に蘇るのだが、それは母の大声で遮断された。

「ちょっと、やめなさいよ! せっかく目を覚ましてくれたのに!!」

 目の前で両親が揉めはじめる。私は父にどのような意味でそう言われたのか、目の前で両親が何を言い合っているのか、まだはっきりとしない頭の中では理解できなかったのだがここで私は思ったことは一つだけだった。また何かをしでかした私のせいで、両親が喧嘩しているということ。
 2人の喧嘩の発端となるのはいつも私だったから、私は意味も理解できずに言い慣れた「ごめんなさい」を吐き出す気でいた。しかし、この状態は尚も変わらなく唇が上手く動いてくれないし声すら発せなかった。
 まだぼんやりとしているのだが、目が冴えてはいるし頭もはっきりしている。それなのに、言い合いの声を傍で聞いていたら急激な睡魔が襲いかかってきたように瞼が重くなってしまった。


「……あっ、名前!? 起きた!? やっほー、モモちゃんだよ!」

 一度目を覚ました時は時間帯もわからなかったが人工光に照らされた病室を思い出せばきっと夜遅い時間だったのかもしれない。2度目に目を覚ました今は、病室に入る太陽光が照明代わりに病室を明るく照らしていた。そして、2度目に目を覚ました時、傍らには両親ではなく百くんの姿があった。

「オレのこと、わかる!?」
「……う、ん」

 にこにこ笑いながら己を指差した彼の表情はおちゃらけているようにも捉えられたが、とても不安げで心配そうな表情は隠しきれてはいなかった。彼のことだからこのような状況でも明るく振舞ってくれようとしているのだろう。
 今、目の前にいるのは友人の百くんだ。それにそっと頷けば彼は「よかったー!」と万歳をして喜びを見せてくれた。「名前、全然起きてくれなかったから……起きてくれても、もしかしたら記憶喪失になっちゃってんじゃない!?って、心配しちゃったよ!」と、大袈裟すぎることまで口にしていた。

 身体はまるで重石が乗ったように重く動かないのだが、一度目を覚ました時と違って息苦しさはない。少し時間が経てば声を出すことも落ち着けるようになった。
 あれからすぐに百くんが看護婦さんを呼んでくれて、軽い検査をされ、頭の痛みは完全に引いていないが看護婦さんの言葉に大人しく受け答えをしていれば「容態は良い方に向かっていますね」と言われた。そして点滴を変えられながら、大きな事故だったけれど強打した頭と脳には異常はないし、奇跡的にも身体の骨を折ることもなかったことを告げられる。看護婦さんどころか担当医に何度も言われてしまったほど、私はとてつもない奇跡を起こしてしまったそうだ。

「今日は安静にしておいてね。いきなり動くと、身体が驚いちゃうから」

 身体の自由の利かなさは長いこと寝ていたせいで筋肉が衰えてしまっているからだ。ひとまず目覚めた身体を少しでも慣らす程度に今日は安静にしておけとベッドの上での生活を余儀なくされた。
 ベッドの角度を変えて身体を起き上がらせてもらい、ほぼ無理矢理座らせられている状態になった私の視界には天井しか見えていなかった病室全体が見渡せた。百くんが私を元気付けようと必死に話しかけてくれている合間に、何度病室の中を視線で見渡したことだろう。

「……百くん」
「ん? なに?」
「……、了さんは?」

 見渡していたことには理由がある、彼の姿や面影をずっと探していたのだ。自分の身体のことも気がかりだったが、それ以上に、ここに居ない彼の存在を気にしていた。私がそれを訊ねると百くんは「あー……」っと声を発する。

「名前、ごめんね。 了さん、仕事が忙しくて来れないみたいなんだ。早く元気になってねって言ってたよ!」

 そ、っか……と心の中で溜息を落としてしまった。了さん、来てくれないんだ。がっかりしてしまったし寂しいと思った。しかし、仕事が忙しくここに来られないことは仕方のないことだ。昔から海外まで足を運んでいるほど幅広い範囲での仕事をしていてそれなりの重役をこなしている人なのだからそう簡単に仕事を投げ出すこともできず、日本に帰ってくること事態が厳しい状態なのだろう。それに彼は、今月に仕事を退職する身のため仕事納めでもあるのだ。仕方のないことばかりが募り理解しようとしたが、それでも、彼はそのような状況でも私の元へ来てくれようとしてくれていたことや、元気になってくれと言ってくれていることを聞かされた。

 よかった、嫌われていなかった。

 人伝に彼の優しさを受け取ればそれはそれは嬉しくて、了さんとまた顔を合わせた時には今までのことを謝ろうという意識が芽生えた。ずっと秘めていた彼に対するどす黒い感情は、彼からの想いやりのお陰で何もかもを伝えられる気がしていた。頭を打ち付けた拍子に、我に返ってお利口なまでの私が顔を覗かせてくれたのかもしれないが、私はただただそのことが嬉しかったのだ。彼がまだ私を好きでいてくれているということが。

「うん、ありがとう」

 頭の痛みがまだ残っていて、「頭が痛い」とこの恥じらいの感情を隠す思いで百くんに口にしていた。



「名前、退院が決まったそうだよ!」

 しばらくベッドの上から動けない状態が続いていたせいで身体が上手く動かせず、元通りに歩けるようになるまでは数日掛かってしまったが容態は安定していた。退院予定日は週末に決まり、仕事の復帰もすぐにではないが見えていた。

 了さんからの連絡はなかった。何故かと言えば、私が事故の時に携帯を壊してしまったせいで連絡手段がなかったからでもあるのだが、百くん曰く「まだ仕事が忙しいみたい……」と言い辛そうに口にしていて、仕事が落ち着かない状態ならば無理に連絡を取ることもできないと考え結局彼の声を聞くこともしていなかった。携帯が壊れてしまっていることにはとっくに気付いていたが、だからこそ退院したらまず携帯電話を買いに行かなければいけない。バックアップをしたのがいつだったかは覚えていないが、真っ新になった新しい携帯でも、必要最低限の人間の連絡先だけでも入れておくようにしておこう。そう退院した後のことを考えられるようになりながらも過ごしていた日、父に言われた。

「名前。退院したら、すぐに了くんのところに謝りに行くんだよ」

 退院の日程を聞き退院してからの職場復帰のことも父と話していたのだが、父はこのことを一番話したかったんだと言いたげに声を張り上げてそのようなことを告げてきた。話が飛躍することも珍しくない父の発言に一瞬困惑しそうになるも、父の言っている意味は心配を掛けさせてしまったからだと、それだけだと思っていた。
 しかし私の思いとは一転して、父は私に言ったのだ。

「お前、また了くんを怒らせたそうじゃないか……了くんに、見舞いになんて行かないって言われたんだぞ」
「……え?」

 ……父は何を言っているのだ? そればかりが私の頭の中に浮かんでいた。だって百くんは、仕事が忙しいがために来れないのだとそう言っていたのだ。行かないなどと言っているはずがない。それは父の被害妄想か何かではないかと疑う程だった。

「挙句の果てに着信拒否までされてしまった! 百くんが必死に連絡を取ってくれているんだけど、こっちには顔を見せたくないって言ってるらしくて……」

 これは父の被害妄想だと願っていたはずなのだが、父の言葉から紛れ出た百くんの名前に一瞬で頭が真っ白になってしまった。絶望。たったその一言が、私の今の状態を表している。

 ……了さんは、私がこんな目に遭っても、私の元に来てはくれない。おまけに会いたくないと拒絶されていることも知ってしまい、絶望なんてそんな簡単に言葉にできないほどとてつもない感情を抱いた。
 父の言葉が嘘であるなど、この場に及んで微塵も思うことはなかった。父はいつも自分勝手な性格をしていることは重々承知している。自分の欲に忠実すぎる男がこんな馬鹿げた嘘を付くなど考えられなかった。同時に、百くんに言われた言葉を思い出す。

 −−「名前、ごめんね。 了さん、仕事が忙しくて来れないみたいなんだ。早く元気になってねって言ってたよ!」

 百くんが言ってくれた言葉は私に気を遣ってくれた彼の言葉にしか過ぎないのだ。彼は良い子だ、私のことをよく考えてくれる優しい人なのだ。対して父は自己中心的な生き方をしている人間だから、父が私に向けて言った言葉こそが本物だ。
 私は百くんに嘘を吐かせてしまっていた。……了さんがここに来てくれるはずもないのに、私は期待を孕んでしまっていた。

「……うん、わかった」

 この数日の間、ずっと信じ込んでいたのに。本当は彼に完全に嫌われてしまっていたことに絶望を抱いて、涙さえも込み上がってはこなかった。シーツを握りしめながら父の言葉に静かに頷いてみせたが、こうさせてしまったのは全て自分の今までの行いのせいだ。心当たりなんていくつもある。私の必死の訴えが彼の耳には届いてくれず引き離されてしまった現実に、とにかく絶望して、全てを忘れ去りたいと思ってしまった。
 本当は涙が込み上げて来ているはずなのに。今すぐ泣いてしまいたかったのに。身体は動かないくせに、体内では熱い熱が暴れまわっている。やがてその熱が行き着いた先は目頭ではなく頭の芯で、ひどく頭が痛かった。
 次に眠って目が覚めた時、全てを忘れ去ってしまえたらいいのに。そんなことを願って、私は夜を迎えていた。






 あれは過ぎたことのせいか今更になって涙となって熱い熱が吐き出された。ぼたぼたと出したことのない涙の塊がシーツに染みを作っていくことに自分が一番驚いているはずなのに、それを眺めているだけで声を上げることができなかった。
 友人に嘘を吐かせたことや好きだった彼に拒絶されていた現実が私が記憶を失った全ての発端だったことに気付けば、少しずつそれを受け入れていく覚悟を要入るのだが全てを一気に受け入れることなどできやしなかった。

「嘘じゃないよ。仕事で忙しくて……ほら、了さんがデビューさせたŹOOĻって、まだマネージャーいないだろ? あの子たちの仕事は全部了さんが受け持ってんだけど、でかいイベントの出演が決まってて、その打ち合わせで駆り出されてんだ」

 目が覚めている私にとってこれが夢なのか現実なのかもわからないが、百くんの「ŹOOĻ」というワードからそれは現実のことであることを知る。これは現実であり今現在起こっていることであるが、彼から口にされる言葉は嘘なのか本当のことなのかすらわからなかった。ああ、また百くんは私に嘘を吐いてくれているのかもしれない。それでも、捨てきれない私は彼の言葉を鵜呑みにし、肩の荷が降りるような安堵を覚えてしまった。

「そっか。来てくれようと、してくれたんだ……」

 顔をくしゃくしゃにしながら泣き出しそうな顔をする間も無く、その言葉だけでまた真新しい涙の粒がまたぽたぽたと溢れ落ちた。

「もう来てくれないんだと思ってた」

 私はずっと彼のことが好きだから、彼をずっと待ち望んでいた。もう私のことを好きでもなんでもなくなってしまった彼が、こんな目に遭った私を見放してしまったのではないかという不安が募るが百くんの一言で救われていた。これは2度目だ。嘘なのかどうかすらわからないのに"来てくれようとした"了さんの意思に私は無意識に涙を流していたのだ。たとえ嘘かもしれないと思ったところで、そんなふうに簡単に心を持ち直してしまえるほど私は月雲了という男を好いていた。ここにいない彼の、私に対する優しげな思いに期待を乗せて少しでも彼のことを想ってしまえば、私は、あの時のことを、少しずつ思い出して……。



「……あら? おはよう名前。目が覚めたのね」
「……、あっ……お母さん? 来てたんだ……」
「ええ。ついさっきね。着替えを持ってきたの」

 仕事はないが今日は後輩と飲み会の約束があるのだと言っていた百くんは病室から出づらそうに私に口にしていたが、私のことはいいからと苦笑いを落とせば「また明日、仕事が終わったら来るね」と告げてくれ、面会を後にしてくれていた。彼が帰った後の私は再び毛布に包まりすぐに眠りに落ちていたようだが、丸一日寝ていたとはいえ、身体はまだ十分に回復はできていないようだった。
 眠りに就いている間、夢のか幻想なのか過去の記憶なのかもわからない光景が頭の中いっぱいに広がっていて混沌としていた。単なる夢の話なのかもしれないが、見ていたものをはっきりとそうであるとは言い切れなかった。人が死ぬ間際に走馬灯を見るのと同じように、記憶が流れ出てくる。そして浅い眠りがさらに浅くなり自然と持ち上がった瞼の先では、私が意識を取り戻したことに気付いた母が穏やかな口調で私に語りかけていた。

「仕事中に外で倒れたって聞いて。私も仕事が忙しくて、すぐに来てあげられなくてごめんなさいね」
「大丈夫。心配掛けてごめんなさい。ありがとう」

 母と会うのは久しぶりだった。私は一人暮らしをしているし、父とは会社で毎日のように顔を合わせるが、他所に働きに出ており忙しいコンサルタントの仕事をしている母は仕事用に別のマンションを借りて生活していて、実家に戻ったところでも顔を合わせることはほとんどない。
 忙しい合間を縫い見舞いに来てくれた母の姿に驚きながらも笑顔を向けて上半身を起こすと、起きたばかりの時よりも身体が軽い気がした。足の痛みはまだ残っていたが、悲鳴を上げるほどのものではない。

「お父さんも心配してたけど、あの人はもういいわ。私が連絡しておくから」

 起きてからまた無意識に病室を見渡してしまった私の姿は、母に向かって一人で来たのかと聞きたげに見えたのだろうか。父も心配していたと気遣ってくれた言葉の後に出てきた「もういいわ」の母の口調には呆れたものが混ざり合っていた。両親は私が生まれる前から今までずっと寄り添っている関係ではあるが、夫婦関係はさほど良くはないのだ。

「……お父さんは、どんな心配してた?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「きっとまた了さんに迷惑掛けるとか、そういうことを言ってるんだろうなって思ったから」

 父の私の心配は、私の体調のことよりも私のせいで了さんを困らせてしまう心配の方が強いということには慣れてしまっている。少しの期待をしているわけでもないが念のために母に確認したのだが、やはり母は同意していた。

「本当に学習しない人なのよ。だけど今回ばかりはあの人が本当に了くんのことを怒らせたみたいで。あなたのお見舞いにすら来させてもらえないそうよ」
「え……?」

 そういえば、何かあれば真っ先に顔を出してくる父よりも先に母が姿を見せているのは珍しい話だ。居たら居たで面倒なことになるのは目に見えているので来ないんだ程度にしか思っていなかったが、どうやら父は見舞いには来させてもらえない状態にあるらしいということを母づてに聞いてしまった。
 私の記憶にある限り……とはいえ、昔のことなどほとんど思い出せていない状態なのだが、過去に父自身が了さんを怒らせたことはあっただろうか。了さんは私の父をそうよく思っていないことは薄らと感じていたことだが、二人の間には何があったのだろう。

 しかし、母の言葉に了さんは本当に私の近くにいてくれていることを知った。百くんの言葉をまた疑うわけではないし、馬鹿みたいに来てくれたんだと安堵していた私がいたのだが、母の言葉にひどくほっとした。

「そういえば、名前が了くんのことを思い出してくれてまた付き合い始めたってお父さんが喜んでいたけれど、本当に思い出したのね」
「まだはっきりとは思い出せていないけど、付き合ってたこととかは……」
「そう。ならよかった。 またしばらくは、了くんに迷惑を掛けないようにしなくちゃね」

 ……迷惑。まさか母の口からもそのような言葉が出てくるとは思わなかった。母の言うその言葉の意味は、一体どのようなものなのだろう。

「……私、今までどういう迷惑を了さんに掛けてた?」
「いろいろあったけれど……頭はもう痛くないの?」
「最近は……あんまりないかな。今少しだけ痛いのも、頭ぶっちゃったからだと思うし。ねぇ、お母さん、教えて。私のこと」
「自分の子供に、自分のことを教えてほしいと言われる日が来るだなんて思わなかった」
「ご、ごめんなさい……」
「謝ることはないわ。 そうね。私がとても困ったことと言ったら、あなたは事故に遭う前にお父さんのことで迷惑を掛けてて。これからはお父さんのことなんてもう考えなくてもいいからね」

 母が指すのはまだ思い出せない事故に遭う前の私のことだ。とても揉めていた時期のことであるのはわかってはいるし、母をも困らせていたほど私は了さんに対してとてつもない迷惑を掛けていたのだろう。けれどその肝心な内容が思い出せない。頭の奥に鈍痛が走り始めるが、私のことを全て知ってくれていそうな母を目の前にして、聞き出す他なかった。

「……事故に遭う前の、私の話が知りたい」
「覚えていないなら、無理に思い出す必要もないわ。お父さんのことを気にかけてくれるのは親として嬉しいことだけど、好きな人とは自分の気持ちでちゃんと向き合ってほしいということだけは覚えていて」
「百くんも言い辛そうにしていて教えてくれなかったの。その時期のこと……一番思い出さなきゃいけないのに。思い出さないと私、また同じことを繰り返してしまいそうだし……」
「……それもそうね?」

 母も百くんと同様に、私が過去のことを思い出すことも知ることも避けさせようとしているのか具体的な話は落とさずに私に忠告させるようなことを口にしていた。しかし母は百くんと違い、同じ過ちを繰り返さないためにもと口にすればその手は無かったと言いたげに視線を宙に這わせる。「わかった。話すけれど、これ以上あなたが思い込む必要はないからね」何を言われても傷つかないようにと母は切り出す。思い出せない、私のことだ。

「お父さんが早く二人に結婚してほしいって言うから、あなたはお父さんと一緒に了くんにそれをせがんでいたのよ」

 母の口から話された私の話は、あの時了さんに言われた言葉と同様のものだった。「だから、そういう面ではもう迷惑を掛けちゃいけないわよ」苦笑というよりは困ったような表情を浮かべられ、母から聞かされる話を飲み込もうとした。
 記憶を失う前の私は、父のために、彼に結婚することをせがんでいた。それは現実にあった出来事で嘘偽りのない話だ。私は彼が社長になると決まり、権力すら手に入れたいと思っていた父のために……。

「……それは違うのに」

 −−違う。違うのだ。
 母から聞かされた話を飲み込んだ後に出てきた言葉と感情はそれだった。肝心な部分を何一つと思い出せていないというのに、その部分だけはきっぱりと否定ができた。母も了さんも同じようなことを言っているが、本当はそうじゃなかった。周りの人間が口にし教えてくれる言葉は端から見ればそう思われることだったのかもしれないが、そうではないのだ。もっと他に何か理由があった、誰にも言えずに私が一人で抱え込んでいたものが存在している。それは何だ。思い出さなくてはいけないのに。

「名前、どうしたの。大丈夫?」

 しかし、思い出そうとしても頭の中は真っ白に染まっている。それでも思い出さなくてはと思い必死に思い返そうとした真っ白な世界の先から訪れたものは、頭に響くズキズキとした鈍痛だった。この頭の痛さは、最近感じていなかった忘れてしまった彼を思い出せないでいた私に降り掛かっていたあの脳の奥から伝わってくる痛みと同じものだ。
 頭を押さえてしまった私を見た母が、私の名前を呼びながら側に寄る。肩と背中をさすられ落ち着かされるのだが、私が母に向かって言えることと言ったら、理由もわからないのにそれは違うのだという言葉だけだった。







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