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 百くんと初めて知り合ったのは23歳の頃。どこかは覚えていないが、とある芸能事務所が入っているビル内で出会った。初めて訪れた場所で右も左もわからず道に迷ったところをたまたま目の前を通りがかった百くんに訊ねたのが始まりだ。

「ごめんなさいっ、オレも初めて来た場所で!」

 と、お互いに道に迷い誰かに訊ねようとしていたことろだったらしい。その場で意気投合するようにお互いに笑い合って散策のようにビルの中を動き回った。人見知りをすることもなくお喋り好きな彼とはすぐに話も盛り上がり、迷いに迷った先で無事に目的地に辿り着いたところで別れ際に名前を名乗られ連絡先を渡され、そこから定期的に連絡を取り合うようになっては2人で遊ぶような仲になっていた。

「名前、こないだ会った月雲了って人のこと覚えてる?」
「え? うん、覚えてるけど」

 それを訊ねられたのは突然だったが、月雲了さんのことは覚えていた。先日、百くんに誘われて着いて行ったテレビ局が主催する業界のパーティーで、親しくしている友人なのだとその人と鉢合わせした百くんに紹介されていたからだ。
 あのような場所にいた人だから業界関係者だということはすぐわかり、素性は知らないが高級そうなスーツや目に入ったギラギラの腕時計を見て重役な立場の人なのだろうと思ったが、百くんは彼と親しくしていたのでその立場はどのようなものなのかは分からなかった。しかし、話の中で彼を紹介するように百くんは言った。「了さんは、月雲社長の弟なんだよ」と。ツクモプロダクションの社長の親族など私にとっては雲の上の存在だ、立場がまるで正反対な私にとってそれは衝撃過ぎる内容であり、唐突な緊張が走る余り上手く言葉を繋ぐことはできなかった。わかり易く言うのなら日本人だというのに片言で話していたくらいだ。「彼女は、外国人か何か? ハロー!」と陽気に話し出す了さんはペラペラと英語を喋って話しかけてくれるのだが、英語など基礎的な単語や文脈しか知らない私は混乱を招くあまり恥ずかしさで倒れてしまいそうだった。

「まさか、日本人だよ。オレじゃないんだから、そういうノリは通じないって」

 百くんはそう言って彼との話に割り込んでくれたのだがそれはフォローだったのだろうか。百くんの言葉にケラケラ笑いながら「知ってるよ」と告げていた月雲了という男は、百くんに紹介されたこともあって私の目にはやけに好印象に映った。

「それで、彼女は誰? モモが女連れなんて珍しいねぇ、恋人? 紹介してよ」
「恋人じゃないけど、お連れさんだよ。今日のモモちゃんはジェントルマンだからね。エスコートしてやってんだ」
「へえぇ。 エスコートしているわりには、ただうろついてるだけのように見えたけどね。僕には紹介してくれないの?」

 しかし、いくら良い印象を抱いた相手とて、私のような庶民が彼のような人と親しくしてもいいような人間ではない。そこで初めて了さんと会話をしたが動機はおさまらないままだった。百くんはタレントとして活躍しており業界関係者であり、百くんは彼と対等な立場でなくとも何気無しに接せられる力を持っているのだが、ほぼ無名の芸能事務所の事務員として働く私にとっては到底親しくできるような人間ではなかった。

「月雲さんがどうかしたの?」
「今日の夜さ、了さんにご飯誘われちゃって。だから、名前も一緒に食お!」
「えっ、どうして私も!?」
「だって、先に約束してただろ? それに名前、スパゲッティー食べたいって言ってたし……了さん、そういう店に行こうとしてるみたいだから」
「私の約束なんていいから、2人で行ってきなよ。だいたい、私があの人の前に居ていい人間だと思う?」
「名前はオレの友達だろ? それに元々約束してたじゃん! あの了さんがいいよって言ってくれてたし、つか、もう3人で行く流れになってるよ」
「どうして私のいないところでそうやって話進めちゃうかなぁ……」

 後日、百くんと夜ご飯を食べに行こうという約束をしていた日に了さんと再会することになってしまった。なってしまった、などと言ってしまったら申し訳ないことこの上ないのだが、怖気付いた私にとってはその言い方しかできなかった。強引な百くんは意地でも私を連れて行きたいらしく「美味いイタリアン料理が食えるよ!」とその後行くお店について話してくれて、それに押し負ける形で首を縦に振っていた。

「……ねぇ、百くん。私やっぱり、帰りたい」
「え? なんで?」
「私が来たかったお店じゃないし、こんなお金、私、払えないよ……」
「了さんが奢ってくれるって! ね、そうだよね、了さん?」

 そうだよとにこやかに同意してくれた了さんの言葉に血相が変わった。どうしてこうなったんだ。正直、今まで一般的なお店にしか行ったことのない私にとって、了さんが選んだというレストランは衝撃的だった。中に入って早々「まさか」と思ったが、一瞬で身体に緊張が走るほど高級レストランという名がぴったりな内装をしている。テレビや雑誌の世界でしか見たことのないレストラン。広い店内には、均等に距離を置く形でテーブルが並べられ、薄暗い照明に灯されたその場所は洒落ていた。私が知っているような空間が狭く見知らぬ人間がすぐ後ろに座っているような賑やかな場所でもない。
 席に通されて差し出されたメニューを見た時は目玉が飛び出る値段が記されてあって顔が青ざめた。セットで高くても1,500円の夜ご飯を想定していた私にとって、セットどころか単品でその価格の2倍はある。コース料理は記載を間違えているのではというくらい桁が一つ多い。
 初めて了さんに奢ってもらった食事は、感動というよりは地獄だった。気が重く、箸が進まない。味は確かに今まで食べたことがないほど美味しいものだったが、それを喜んで胃袋に放り投げられるほど都合の良い頭を持ち合わせてはいなかった。


 それから、了さんは会う度に私にちょっかいを出してくるようになった。
 立場はうんと上の人であるが快く見てもらえることは正直に嬉しいことではある。この関係を壊さないためにも、最初こそは一度食事の席を共にした間柄なのだからと社交辞令を混ぜ合わせながら接していたが、彼からのアプローチは少しずつ積極的なものに変わっていく。私は気に入られでもしているのだろうか、だがその意味がさっぱり理解できない。きっと私が彼の友人である百くんと親しい人間だったからかもしれないが、それでもこの人に面と向かって食事を誘われる理由が全く見当たらず、それなのに了さんは私が逃げるように「百くんも一緒なら……」と告げれば彼は笑顔で百くんを誘うことに承諾してくれていた。だから私たちは3人で食事に行くことが増え、了さんとの交流も日に日に増していた。

「私が自意識過剰なだけかもしれないけど、了さん、私に付き纏ってる気がするんだよね」
「面白いっつってたから、お気に入りなんじゃない?」
「面白い!? どこが!?」
「消極的なところ? あの人いじめっ子だからさぁ、嫌がるのを見て楽しんでるんだよ」
「なんて性格の悪い……」

 あのような人に付き纏われて恐縮しているだけの私のどこが面白いと言うのだ。と思ったが、いじめっ子体質で私が嫌がるのを好んで付き纏ってくるというのなら、なんと性格の悪い人なのだと思ってしまった。
 お金のある人間のことはよくわからない。自分の気持ちを持て余す都合の良い人間と見られているのかもしれないが、私にとっては荷が重いことだった。私が了さんに対する感情は、申し訳なさばかりが孕みどんどん右肩下がりに下落していく。



「いつもご馳走になってばかりで、すみません」

 そのような中で私が初めて了さんと2人だけで食事をしたのは、あろうことか百くんが約束の時間5分前になって「ごめん! 今日は行けなくなっちゃった!」とドタキャンをしてきたからだ。取り急ぎという形で送られてきた文面に嘘でしょう!?と何度も頭の中で訴えかけたが、既に了さんと落ち合ってしまってからではもう遅かった。このまま彼抜きで了さんと食事に行く流れになる。例えばこれが対して親しくもない知人程度の男だったならば簡単にお開きにできる流れだったが、今では彼は私の交友関係の中でも一際近しい人間であり、立場が上の人間であるともなれば言い訳などできるはずもなくこの流れは断ち切れなかった。

 了さんが連れて行ってくれるレストランはどこも高級な場所だった。全て彼の奢りであり、必死に支払いをする手は初期の頃から百くんに止められていた。ただ一般的な常識しか持ち合わせていない私にとって、上司との食事の知識など身につけられていなかった私はその行為は逆に失礼な行為に当たると聞き、今ではすっかり財布すら取り出せない。だけど、申し訳なさが尾を引く私は2人きりの食事の合間に彼に謝罪を述べた。

「私は、恩返しとか、何もできないので。こう、連れ回してもらってばかりで、申し訳ないというか……」
「食事を与えられて、不味いものでも美味しい!って笑顔を振り撒いているのが媚を売るってものだよ。真っ赤な舌を出しながらね。金で子分を買ったような気持ちになれて、すこぶる気持ちが良いんだ」
「生憎、私は媚を売るつもりはなくて……」

 彼の言葉にはいちいち棘があるように感じられる。嫌味ではないのだろうけど意地が悪い、以前言われた百くんの「面白がってるだけ」の発言がやたら私を蝕んだ。中身をよく知らない立場が上の彼が考えていることは良くわからない。だけど、こうも誘いに乗っかってしまうのは決して媚を売るなどというわけではない。
 ふぅん、と了さんは恐縮したままの私を嗜むように息を零した。2人きりのせいでその態度がより一層私の心臓をぎゅうぎゅうと縮ませてしまうのだが、彼は一転して、まともな言葉を私に与えることが多々あった。

「ま、いずれ君に大切にしたいって思う後輩ができたら、奢ってあげたらいいさ。君は僕に何も返せないけど、受けた気持ちを誰かに与えることくらいはできるでしょう」

 そんなこと、考えてもいなかった。彼がたまに口にする社会の常識や博学のお披露目は聞いていて為になることばかりだったが、同時に彼は私とは比べものにならないほどうんと優れて出来上がった人間であることを知る。年はたった2つ程しか変わらないはずなのに、世間を知り尽くしている彼は出来る男だ。悲しいほどに悪い部分が何も見当たらない。

 何も知らない無知な私に、列記とした大人の面を与えてくれるかのように口にする彼の言葉は全てが優しい言葉に思え、そのせいで身に染みていく。そうなれば彼に少しでも近付きたいという欲求を抱いてしまうのだが、私はその気持ちを自分で理解してしまいたくはなかった。
 何故ならば、私は彼と全く違う生き方をしている人間なのだ。私の生活基準よりもずっと上で生活し存在している人間だ。こんなにも自分が貧困な生活をしている現実を突き付けられるとは思わなかったが、私は彼のために何もできない程度の低い人間なのである。

「ありがとうございます」

 不器用ながらに、私がある程度の中で持ち合わせたパスタをスプーンとフォークで引き寄せていれば彼は私に告げた。「知ってる? こういう食事にスプーンを持ち寄せるのは、本場では子供がやることなんだって」話に聞いていたが彼は海外に出て仕事をしているほど仕事ができる男でもあった。


 あの時2人で食事をしてしまったことが、彼の行動に拍車を掛けてしまった。
 あのような人と2人で高級な場所で食事をするだなんて恐れ多いことこの上ない。断られたなら諦めてくれるだろうと思ったのだが、私の行動は彼の行動に拍車を掛けてしまったらしく、それからというものノイローゼになってしまいそうなほど彼に誘われることが多発した。だから私は百くんに相談したのだが、彼から返ってくる言葉は私をただ面白がっているということだけだった。

 食事に誘われて百くんの名前を上げれば、でもこの前はさぁと2人で食事をした時のことを持ち出される。あの時は百くんに急な予定が入りそのようなことになってしまったのだが、たった一度の時間を2人きりで過ごしてしまえば彼の思惑通りと言った、彼の理想のレールに上がってしまったというに等しい。
 2人きりではつまらなかったのかと思われてしまえば、彼の機嫌に障るかもしれないと思ってしまうため私は断る術を見つけることができなかった。裏口を合わせて百くんをさらっと呼ぼうとしたが、彼もまた私を面白がっているのか野放しにすることがよく増えた。仕事が忙しいなど絶対に嘘だ、だって今日も千くんと過ごしている日常がSNSやラビチャのタイムラインに広がっている。

 了さんは私が生きていた人生経験の中では簡単に想像できないほど、お金があるのだから贅沢な暮らしをしていたのだろう。私にとって自炊がいっぱいいっぱいであり、たまの贅沢はありきたりなファミリーレストランの食事くらいだ。急に彼に合わせようとする気持ちなど到底思い浮かぶこともできず、それは同時に自分が惨めであって仕方がない。

 しかしそれは逆に、了さんに少しでも諦めてもらう方法でもあった。彼の当たり前であるはずの豪華な食事の値を下げることくらいしか思いつかなかった。彼が少しでも私から手を引いてくれるように、彼が当たり前として過ごしていることよりもずっと低いことを提案し続けた。私にとっては当たり前であるが、彼からしてみたら底辺なフードコートを提案さえすれば諦めてくれるのではないかと思ったのは、私にとってはとても良い案だと思った。私と彼の生き様の違いを与えるのには十分すぎたのだ。

「名前は、こんな庶民的なものを好むのか」
「私にとっては、これが普通なんです」
「へぇ」

 フードコートやらファミレスやら、彼にとってはレベルが低いが私にとっては最大の贅沢な場所を提案する。が、しかし。私の考えとは裏腹に彼はその案に乗って、田舎の寂れたショッピングモールのフードコートですら、嫌な顔一つせずに引っ付いてきた。彼は私に合わせるようにその場所に着いてきてくれたり、連れていってくれる。提案したことを鵜呑みにし、もちろん割り勘でだ。だけど、身なりはお金持ちそのものだったから、やたら浮いていた。
 だが、彼が私を弄んでいるのだろうかという考えは、ここまで来れば次第に薄れていく。

「名前の我儘に付き合ってあげてるんだから、たまには僕の我儘にも付き合ってよ」

 何度2人で出歩いたかは覚えていないが、ある日彼にそう言われた。私は彼の我儘に付き合い、態度が大きくも毎度私がしたいことを提供していたのだが、彼は自分の我儘だって聞いてほしいと言い出した。
 そのようなことを言われると、私は彼に我儘を振り撒いていたのだと今更自覚し、いつしか彼を誠実で真面目な人であると知ってしまえば、彼の気持ちに従うことしかできなかった。たぶん、こうも強引に引き離せなかった時点で、私は彼を特別視してはいたと思う。

 考えが合わないと諦めてくれたらよかったのに……とは何度だって思ったことだ。次第に文句が多くなっていくが、彼は私の提案を拒むことはなかった。その態度からは、私自身と一緒に時間を過ごしたいという気持ちが嫌でも掬い取れてしまう。
 いつの日か立場が上である彼が私と同等の立場にある、ということを私生活の中で感じ取れてしまえば、次第と異性としての意識が芽生えてしまうのもそう時間は掛からなかった。そして、申し訳ないという気持ちが尾鰭を引くが彼の要望に応えたいとでも思ってしまった暁には、それを自覚するしかなかった。

「名前、どこか行きたい場所はないの?」
「それは何度も訊ねられた話ですが、特には……」
「豪華客船で船の旅とか、海外旅行に行きたいだとか、馬に乗りたいとかさぁ」
「了さん、私は」

 了さんの我儘に付き合う気はもちろんあったのだが、彼が提案してくる話は全てお金を必要とするものだった。

「私は、ドライブしたり、そこで綺麗な景色や夜景を見ている方がいいですね」
「へぇーー夜景か。 例えば、どんな? ソライロタワーのてっぺんから、静まりを知らない東京都内を一望したいとか?」
「山の展望台から見える景色や、工場夜景くらいでいいですよ」

 冗談で言ったつもりはないがそれは私の本望だった。お金を掛けずに見れるところ。わざわざお金をかけてまで展望台に登ったり、夜景を眺めながらお酒を飲むことなんてしなくていい。

「……わかった。じゃあ今度、工場夜景でも見に行こう! ギラギラした人工発光を目に焼き付けるんだ!」

 ロマンチックの欠片もない言葉を浴びせられるのだが、彼はなんだかんだ私を呼び寄せてそこへ連れていってくれた。



 その日は、初めて了さんと2人で遠出をした場所だった。遠出とはいえ、隣県の有名な工場夜景スポットだったけれど。

「すごい……」
「名前はさ、こんなものにも感動してしまうんだね」
「だって、凄いですよ」

 その日の私は、了さんの目には大層子供染みた姿に映っただろう。ギラギラ、ごちゃごちゃとしたオノマトペ以外の言葉が頭に思い浮かばない。天気が晴れわたる日が続き波も静かな水面に反射する光景は、おそらく私がずっと見たいと願っていたものだった。一つの憧れではあった。女の子だから、こういう光に満ち溢れた幻想的な光景を目にしたい気持ちはあるのだが、東京都の夜景では物足りない。その理想だった世界が広がっているのが、今だ。

「連れてきてくれて、ありがとうございます」

 なるべく失礼に当たらないよう今まで彼の目や顔を見て告げていた言葉を、ここに来て吐き出すことはできたが彼の表情など見ている余裕もなかった。こんなところまで連れてきてくれて、おまけにこんなにも静かな空気だ。観光スポットということもあり、周囲には大きなカメラを回している人たちが大勢いたが、言葉にすることもできないほど静まり返っている。
 これは私の理想だった。景色もそうだが好きな人と過ごす時間。ここで生活水準や立場を弁えていた感情が一切ないことに気付き、ただ純粋に彼との時間を共に過ごしている楽しみに気付いてしまったことは、今まで立場を気にしていた私にとっては大事件のように感じられた。

「満足した?」

 だけどこんなにも心が満たされ未知の感情を招いている私に対して、了さんはそのようなことはあまり気乗りしない人らしかった。ふぅん、そんなのでいいんだ、と呆れたように言葉を返した彼に今度こそは呆れられただろうかと思ったが、彼は私が隠しきれない興奮を抱いている姿を微笑ましいといった様子で見ていた。


 工場夜景という景色を独りよがりに満喫し車に乗り込んで息を吐いた時、時刻は20時を回っていた。家に帰るのは恐らく22時を回ってしまうだろう。とっくに成人した身であり門限などとうに無いが、明日は休みで、夜遅くに帰ることはいつ起きれるかもわからないという気持ちがあった。

「……了さん、あの?」

 早く帰りたいと思っているわけではないが車が発進することはなかった。特に会話もない。居心地が悪いわけではないが、静まり返りすぎた空気に居てもたってもいられずちらりと了さんの様子を伺い訊ねれば、彼はドアと座席の間に寄り掛かり私を見据えていた。その私を見据える瞳と目が合ってしまえば、ぞっとしたように急激な緊張が身体を包んだ。ドキドキと胸が高鳴るこれは、異性を感じた時に覚える感覚である。

「名前」

 と、この静かな空気の中で名前を呼ばれ身体を動かすことなどできない。俯いて逃げてしまうこともできたが、この空気も身体もそれを許してはくれなかった。静かにゆっくりと了さんの指先が伸びてくる。抵抗などする気も起きなかった。抵抗する理由を、彼を意識し、彼の前で女になってしまった私には見いだせない。
 唇が触れて、それが想像していたもの以上の仕草に変われば呼吸が苦しくなり縋るように彼の腕に指先を添えた。唇が離された後は何も呟くこともできず、外に聞こえるはずのない心臓の音がドクドクと響き渡る。

「……了さんは、私のことをどう思っているんですか?」

 なぜ私のような人間を、という気持ちが抜けきれなかった私は彼に訊ねた。好きだからという自分にとって都合のいい事を聞きたかったわけではなかったが、その理由を知りたかったのだ。

「名前は、僕のことをどう思っているの?」

 しかし、彼は私に訊ね返してきた。とても困る返答だった。

「いい人だとは、思っていますけど……」

 本当は好きだ。そう問われ、口に出せなかったが私はこのことに気付いてしまった。だが、好きだけど、彼にそれを告げることは許されなかった。何が、と言われたら単純に私自身が許さなかった。だって彼は立場が上の人間なのだから、私がそんなことを告げられる立場の人間ではないと思い込んでいたせいだ。ここまで来てそんな感情が渦巻いてしまうことに心底驚いたのだが、自分自身から沸き立つ感情の波からは逃げることなどできなかった。
 好きだからと、嘘でも冗談でもいいから一言でも私のことを救いあげる言葉を了さんがこの時に吐いてくれたら良かったのに。好きだと明確すぎる感情を彼に抱いていたが、彼の意志がわからない限り私はそれを吐き出せない。だって私は彼に釣り合う人間ではないし、一生掛けてもなれるはずもない。目の前にいる男は雲の上の存在なのだから、私自らが進んで感情を曝け出していいような人ではない。

「……っ、りょ、さん」

 それなのに、どうして彼はこんなにも私を期待させてしまう行為を続けてくれるのだ。何度もキスを落とされ、やがてそれが深いものに変わってしまえばこの空気からは逃げ出すこともできなかった。
 好きだなんて一言も口にしてくれないくせに、行為ばかりで示してくる。このような私のことを、もしかしたら好きなのかもしれないと勘違いしてしまいそうにもなる。


 やっと車が動き出したかと思えば、向かった先はホテルだった。だが、私が想像していたネオン街に存在するものとは違い、ビジネスホテルとも違う街中に存在する綺麗で清潔そうなホテル、おまけにスイートルーム。残念ながら、今日は帰宅することは許されなかった。

 こうなればこの先何が起こってしまうかなど、子供ではない私はこの場所に入った時点で理解できていた。断ることや逃げることはいくらでもできたはずなのに、それができなかったのは恐怖心のせいだと思いたかったが、それは嘘だ。できなかったのではなくしなかっただけ。
 彼の気持ちはわからないままで、私は弄ばれているだけなのかもしれない。付き合っているわけでもないのにキスを受け入れ、こんなことをしようとしているのだから都合の良い女と捉えられているのかもしれない。自分がひどく醜く虚しいと感じてしまうが、今彼の視界に写っているのは私ただ一人であり、確信なんてないくせに一度一線を超えてしまえば心のどこかは満たされると思っていた。本当は私の中に芽生えた感情に抑えが効かなかっただけなのだが、それを自分では認めてしまいたくはなかった。これ以上自分が惨めだと思いたくなかったからだ。

「了さん、ごめんなさい、わ、たし」

 覚悟はしていたしこの先起こりうることを想像もしていた。この身に感じたこともない柔らかなベッドの上に埋もれながら覚悟を決めていたというのに、キスを落とされ衣服を剥がされ事が進んでいくうちに緊張が限界に達し初めて彼の目の前で涙を流してしまった。泣くつもりなんてなかったのに、緊張と恐怖のせいで溢れてしまう涙を啜って拭いながら了さんの身体を押し返した。

「……名前、もしかして、初めて?」

 ギクリ、身体が反応した。いくら彼との関係が変わってしまうかもしれないと思ったところで、私のしていた覚悟はそれだけしかなかったのだ。性行為の経験など一切なく、流れてくる涙はそれに対する緊張と恐怖のせいだ。
 しかし経験がない事に素直に頷いた途端に、糸が切れたように涙が止め処なく流れ始める。面倒臭い、止めよう−−こんなことを言われる日がいつか来るかもしれないとは思っていた。この行為のことだけでなく今までのこと全てに対し、飽きて私のことを諦めてくれることをはじめの頃は望んでいたはずだったが、今はそんなことを望めなかった。口になんてできるはずもないのに離れていってほしくない。こんな窮地に立たされた上でそう引き離されることも嫌だ。

「あはは、そう。 大丈夫、優しく施してあげるよ」

 だが彼はそんなことを考えてはいなかった。施すなど性的な言葉を交えながら私に優しいキスと愛撫を与え、気付けば手のひらは彼の手のひらに抑え込まれ、いつしか指が絡まり繋がれた。



 初めては痛いと聞いてはいたが、確かに痛みはあったもの肉体的な痛みよりも精神的な痛みの方がずっと勝っていた。好きだと告げてしまいたい気持ちを精一杯押し込めながら抱かれた夜は、満たされるものは何もなくただただ辛く苦しいだけでしかなかった。了さんだって、私の名前を呼んでくれるばかりで好きの言葉一つも落としてはくれなかった。どうして私を抱いたのか、理由もわからないまま過ぎた夜はひとときの幸福も感じられぬまま寂しさだけが残っていたのだ。

「ねぇ名前、僕たち付き合ってみない?」
「……え?」

 了さんにそう言われたのは翌朝の別れ際だった。あの後のことは胸の苦しさばかりが残っていたせいか何を話していたのかさえ覚えていない。昨夜のことは本当にあったことなのだろうかと疑問を抱いてしまうほど、彼は今まで通りの態度で私に接してくれていたことだけは覚えている。

 付き合ってみないか、と言われたのは私が欲していたような言葉にも思えたが、そうではなかった。その言葉を聞いて戸惑いを隠せなかったからだ。この人はどのような意図でそのようなことを口にしたのだろう。いいと思うんだよねぇ−−とまで言ってくれるがその本心がわからない。

「……ごめんなさい」

 静かに頭を下げながらその言葉を拒んだ。「あ、そう」と了さんはつまらなそうに口を開いただけで、それ以上のことは何も言ってはこなかった。意外だった、どうしてかと理由を訊ねてくるものだと思っていたのに。

「その……了さんと付き合うことは、恐れ多いので」

 あまりの気まずい沈黙に何かを告げなければと思い、はっきり伝えてしてしまった言葉は半分は私の本心ではあった。彼の口から好きだと言ってもらえたのならば、私はそれを受け入れていたとは思う。私は了さんが好きで、彼もまた私のことを好きでいてくれるのならばこれを受け入れられないことはないだろう。なんて都合の良い考えをしているのだろう、面倒臭く自己中心的な女だと思われても仕方ないことだが、そのくらい彼との間には見えない壁が立ちはだかっていた。

「名前って、好きでもない男に処女を捧げられちゃうんだ?」

 処女かと図星を突かれた時と同じようにギクリと肩が跳ね上がる。そういうわけではないのだが、彼にはそう見えてしまうのも当然なのかもしれない。だが、その言い草は私の気を逆撫でした。

「了さんも、好きでもない女とあんなことできるじゃないですか」

 投げやりに吐き出してしまった言葉は撤回できるはずもなく、何かを言われる前に彼の前から姿を消してしまった。何故あのようなことを口走ってしまったのか。それはただの言い返しの言葉でしかなかったのだが、百くんはどんどん売れていく人気者となり仕事も増えていくため3人で会うこともなくなると、あのことを謝ることもできないままそれっきり了さんと会うことはなくなった。

 百くんにあの時のことを事細かに伝えることはできなかったが、どうしても聞いてもらいたかった。自分でもどうしたらいいのかわからない状況の中で、酷いことをし酷いことを告げてしまったことを都合良くも隠しながら彼に告げたのだが、何を言われたところで私は首を縦に振ることもできず、結局自分の気持ちを隠したままではこの感情が綺麗に消えてなくなることはない。


 唐突なお見合いの話が出てきた時は、彼への感情を殺すには十分な事案だった。もう二度と会えないかもしれないのに、いつまで経ってもこの気持ちは消えてはくれない。薄れていくどころか、今更申し訳なさや後悔が押し寄せてきて忘れられなくなってしまった。好きでもない男と結婚することは今までの私であればいくらでも拒絶できていたのかもしれないが、この時ばかりはこの感情から解放される唯一の方法として縋るしかなかった。
 目の前に現れた男は、お金があるらしいわりに見窄らしい印象が強かった。きっと了さんのように良い生活ばかりを送っているのだろうということはうちの借金を肩代わりしてくれる話で理解できていたのだが、どうしても忘れられない彼と比べてしまうのだ。口調も態度も大柄で、私を下に見ていることが丸わかりだ。あの人はあんなにも私と同等に接してくれていたのにと不満を零してしまいそうなほどだ。今更になってあの人の優しさに気付かされながら、いつまでも未練たらしい自分が大層おかしい、そもそも未練だなんてそんなことを思ってしまうほど私は彼を好きでいたことを自覚した。
 そして、この人の元に私は身を差し出すのだと決意したあの瞬間、私のことを嫌いになって諦めてくれたと思っていた月雲了という男が私たちの目の前に現れてくれたのだ。


 −−という過去の話を、私は夢の中で思い出していた。







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