10


 翌日。

 百くんに会いに行くためにアポ無しで岡崎事務所に訪れると、Re:valeのマネージャーである岡崎さんが対応してくれてすぐに百くんに会わせてくれた。「苗字さん、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」と私の姿を一目見ただけで心配されてしまうくらいに、私はたった一晩で窶れてしまったらしい。正直、あれから一切食欲は湧かなかったし一睡することもできなかった。
 私が来た時に岡崎さんが先に話を通してくれたのか、私の姿を見た百くんはビルの屋上に連れ出してくれた。ひんやり冷たい風が素肌を撫でて肌寒いのだが、淹れたてのコーヒーが入ったマグカップを渡されても一口も飲む気が起きなかった。水面に浮かんだ本当に顔色の悪い自分の顔を見つめながら私は彼に訊ねる。

「私って、どうして了さんと付き合い始めたんだと思う?」
「そりゃあ、好きだったからでしょ」
「……嘘だ」

 百くんは私たちのことをどう捉えて見ていたのか、未だわからない。彼は昔から私の相談相手であり了さんとも良く話すような仲だ。2人の間にあった何かを知っているはずだが、彼は何を知っていて、何を知らないでいままだったのだろう。

「名前は、好きでもない男と付き合えるような女の子だったの?」
「……私、お父さんの会社が倒産しかけた時に、会社の借金を肩代わりするために了さんと付き合ったんだって……そういう約束だったんだって。百くんはこの話、知ってたでしょ。もう嘘なんて吐かなくてもいいよ」

 百くんの言葉は生憎、私が覚えている了さんとの始まりのものとは異なるのだが、きっと百くんが私に対して一番隠したかったことはこの事なのだろう。私たちの本当の始まりは、私の家の借金を肩代わりする代わりに結ばれた間柄だ。私の気持ちが家族に向いていて、了さんを良いように使おうとしていたことを知っていて、だから私が恋人を思い出せないと初めて彼に訊ねた時に思い出す必要はないと言ってくれていたのだ。

「オレ、嘘は言ってないよ」

 瞬きを繰り返して、しゃがみこんでいる百くんの旋毛に視線を向けた。私と同じようにコーヒーの入ったマグカップを覗いている彼の表情が、私と同じように水面に反射している。

「了さんのこと黙ってたのは謝るよ。でもオレはさ、名前が本当にそう思っていたのかが知りたかったんだ」
「私が思っていたこと?」
「オレが知ってる名前は、了さんのことが好きだったよ。そういう約束ができる前から好きだった」

 了さんは、私があの約束があったから自分を好きになった素振りを見せていたのだと言っていた。だけど百くんは、その約束がある前から好きだったと口にする。双方の意見が割れていてどちらを信じたら良いのかはわからない。

「了さんのことが最初から好きだったなら、どうしてそんな形で話が転がったの。みんな、言ってることは本当なのかもしれないのに、ごちゃごちゃしてるから、何が本当のことなのかわからないんだよね」
「そうさせたのは名前だよ」
「え?」
「みんなが口にしていることは、全部本人たちが思っている事実だよ。誰も嘘なんか吐いてない。名前がそうさせちゃっただけ」
「え、わ、私が……?」

 全ての物事の矛先が私に向いてきて困惑する。私のせいであるとはどういうことだ。昨夜了さんに言われたことに傷心していた私にとって、全ての元凶が私であると指された途端に息切れを招いてしまいそうだし、自己嫌悪に陥ってしまいそうになる。全部私が悪いのか……と自分を責めてしまいそうになったが、ここに来て幸運にも何も覚えていないことに敢えて安堵した。もし覚えていたりしたのなら、おそらく記憶の中にある私自身を責め続け、自分で自分を押し潰してしまいそうだったから。

「でもまぁ、オレもあん時めちゃくちゃ焦ってたから、そうさせたのはオレだったし。名前ばっかりは責めてらんないんだけどね! にゃはは」
「そうさせたこと? 約束の話のこと?」
「うん。 それ、オレが言ったんだよ」
「……え?」

 百くんは私の性格を十分理解してくれているのだろうか、おかしな方向に思考を変える手前で彼は立ち上がってフォローじみた言葉を零していた。

「オレが、了さんに言ったんだよ。名前の家の会社が倒産しちゃいそうなんだって。あんた名前のことが好きなんだろ、助けてやれって」
「え……どうして、百くんがそういうこと言うの」

 するりと立ち上がった百くんを見上げる。了さんほど背は高くないが、私よりも背の高い彼は斜め上の方向から冷めかけたコーヒーを口に含みながら告げてきた。

「オレはあんたらが好き合ってんの知ってたから。だけど名前は、了さんのことが好きなくせに了さんの好意受け入れなくて……そうすることが、最善策だと思ったんだ。 覚えてないでしょ。名前のパパが倒産しかけて路頭に迷っていた時のことなんか」

 何も覚えていない。その関わりに百くんも紛れ込んでいたことは想定外のことで、覚えていないことにプラスされて余計に頭が追いつかないでいる。降り注いでくる彼からの言葉をかき集めまず理解したことは、私たちは元々好き合っていたが、百くんのぶっ飛んだ考えによってそのような関係に発展したということくらいか。元から何を仕出かすのかわからないこともあった彼であったが、私の家のためにそのような手段を使った彼こそ引く意味での怖い存在にも思えてしまった。

「了さんも名前のこと好きだったし、名前だって了さんのこと好きだったよ。これは嘘でもなんでもない。あん時も、了さんと仲違い起こして問題起こしてた名前も、お互いに思ってることはっきり口にしなかった状態が、今なんだよ。 オレだって、何回も名前に聞いたよ。なのに、好きなくせに肝心なことを言ってくれなくて……了さんだってそうだよ。なんでお互いが思ってる大事なこと、ちゃんと言い合えないんだよって。あん時ちゃんと言ってたら、こうにはならなかったのにって」
「百くんは、私たちのこと、何を知ってるの。どこまで知ってるの?」

 −−大人になるとさ、素直にごめんなさいも出来なくなっちゃうけど、そういうのはすごく大事なことだなって、オレ思うんだよ。
 彼が先日私に向けて告げた言葉が意味することは、それのことだったのか。肝心なことを口にできないでいたから、仲睦まじい関係から徐々に歯車が噛み合わなくなって、こんな結果を招いてしまっているのだ。

「頼みの綱は百くんしかいないんだよ。本当の私のことを知ってるのは、百くんしかいなくて……私、どうしたらいいの」
「名前がさ、今までのことちょっとずつ思い出して、思っていたこと全部ぶちまけんのが一番の解決策!」
「でも私、何も思い出せなくて……わかってるでしょ。思い出そうとすればするほど、私焦るから」
「大丈夫! 名前はちょっとずつ思い出せてるよ」

 また情緒が乱れて半泣き状態の私に対し、百くんは優しげな微笑みを私に向けてくれていた。焦んなくていいよ、焦る必要なんてない。宥めるような口調は子供に向けるようなものだったが、実際のところ彼の前にいた本当の私は、大層子供じみた女だったのかもしれない。

「ゆっくり思い出していこうよ。 いつか、ああそうだ、自分はこう思ってたんだって、思い出して了さんに伝えんの。 超ハッピーな結末を迎えられるでしょ!」
「了さんは聞く耳持ってくれないよ。私のこと恨んでる」
「……恨んではないでしょ」

 たぶん……と珍しく彼が弱々しく一言を繋げた。恨んではいないと思う、たぶん。あれはあの人の幼稚な部分ってだけだ。なんて、恨みと紙一重の感情を抱いているらしい了さんこそ、私以上に面倒くさい性格をしていたりするのだろうか。

「言っちゃなんだけど、名前が記憶失くした時、了さん喜んでたんだ。昔の名前に戻ったみたいだって」
「……え!?」
「だから了さんは、ずっと名前のこと好きでいるよ。今だってそうだよ」
「でも、それは」

 私は自分のことを考えるばかりでそこまで頭は回っていなかったのだが、私が記憶を失ってしまった時の了さんはどのような気持ちを抱いていたのだろうか。普通に考えたのなら付き合っていた恋人に忘れ去られてしまえば悲しみや憤りを感じるものだと思うのだが、百くんから告げられた言葉は想像もしていなかった言葉だった。

 了さんからぶつけられた言葉は、これ以上ないくらい彼を傷付けていたことを知ったのだが、あのような言葉を平然とぶつけてくる程ならば早く私のことなど忘れ去ってしまえばよかったのに。だけど、都合よく利用した挙句忘れた形を取った私を彼は追いかけ続けてくれていた。その心は恨みから来る復習じみたものだと思っていたが、彼は、私の姿を喜んでいたと言う。彼は、嫌悪な関係となる以前の私を好いてくれていたのだという事実は紛れもなく一番親しい百くんによって吐き出され、信憑性は高かった。

「元に戻った私は、またあの人のことを苦しめちゃうよ」

 だがおそらく、今の状況は昔の悪い状況を行ったり来たりしているのと同じようなものだ。遥か昔の私を好き、その姿を追い続けていてくれた彼に、全てを思い出してしまった私は絶対に同じ過ちを繰り返すと思っていた。困り果てたように口にしてしまえば、百くんは苦笑いを浮かべていた。

「それは違うでしょ」

 子供じみた言い訳を繰り返そうとする私に彼ははっきりと告げる。

「変わればいいよ、名前がさ。今の状態のまま、過去のこと全部思い出して。そしたらさ、未来人みたいに、どこで道を踏み間違えたのかもわかるじゃん!」
「……言ってる意味、全然わかんないよ」
「とにもかくにも、ゆっくり思い出していけばいいよ。焦んなくていいから」

 私たちの解決策はそれなのかもしれない。大丈夫だ。今の私は彼を説得させようという気持ちがはっきりと存在している。どうしてこんなにも彼に惹かれているのかはわからないのだが、少しずつ思い出し不器用ながらに彼に思いを伝えられる自信は、私にはあるのだ。……だけど。

「了さんのことは、どうしてたらいい?」

 あのような態度を取られてしまったのだ。私がいくら伝えようという気持ちがあったところで、私の話を聞いてくれる気配はないということは昨夜のことを思い返せばいくらでも湧き上がる。彼の心に言葉を届けるためにはどうしていたらいい。このようなことを考えている合間にも、彼は昨夜言った通りの手段を使おうとしているかもしれない。
 ここでやっと、昨夜彼に向けられた残酷な言葉を百くんに伝えた。こうなってしまえば、会社の経営加担から手を離すという話だ。それを聞いた百くんはギョッとしたような顔を見せ、視線を宙に向け険しい顔で顎を摩った。

「んんー。 了さんは有言実行の即行動タイプの人間だから、今苗字パパがめちゃくちゃ焦ってたりしてなかったら、もうちょっと放置してても大丈夫だと思うけど」
「そうかな……」
「きっとそうだよ。 今ごろ頭冷やしてくれてるんじゃないの。どっちにしろ、名前のこと離したくないからそんなこと言ってるだけだよ」

 もし万が一そんなことがあったら、しばらくはオレも引き止めておいてあげるから−−私を気遣う言葉を言ってくれた百くんに安堵した。
 昨夜は感情任せに私も一方的に言葉を吐き出してしまったが、今は彼と別れるという決断を下せていない状態だ。こうして百くんに相談してしまっているほど私は思い悩んではいる。了さんもそうであったらいいのだが、彼は今ごろ何をしているのだろうか。私に向けてきた彼の本心のことは仕方がなかったと思うことにするが、私のように感情任せに吐き出してきた言葉を改め直して先を考えていてほしいなと、都合よくも私は考えていた。

 どちらにせよ、父から焦った様子の態度は見られていない。ポケットに仕舞い込んでいた携帯を取り出しホームボタンを押すのだが、誰からも通知や着信も来てはいなかった。了さんのことで何かあれば、真っ先に私を問い詰めに来る父から何も言われていないのだから、彼はまだその手段を使っていないのだろう。

「ああ……そっか」
「ん?」
「あ、ううん。なんでもないよ」

 ……そういえば、そうだった。父は昔から、自分のことしか考えられないような都合の良い男だ。了さんの機嫌に何か悪いものを感じられると真っ先に私に訊ねてくるような性格をしていることを思い出す。そうすれば、頭の奥に小さな鈍痛が走った。
 少しずつ過去のことを思い出しているという自覚は、ここに来てようやく理解することができた。家族と仲が悪いわけではないが、父の一方的な態度に頭を悩ませていたり、していたような気がする。それ以上のことは、何も思い出せないのだが。

「私、もう行くね。話聞いてくれてありがとう」
「もう行くの? もうちょっと待ってたら、ユキお手製のサラダパスタ食べられるよ!」
「食欲なくて……それに、午後からは設営の仕事があるから」
「設営の仕事もしちゃってんだ」
「なんだかんだ了さんのお力があっても、仕事内容は下請け会社の雑用だよ。人が多いわりに、こんな仕事が回ってくるし、目立ったタレントさんも少ないし……」

 まぁ自虐のように吐き出したような話だった。このような愚痴は事務所で働くタレントたちに失礼なことだったが、今日のような仕事を受け持ってしまった私は溜息を混じらせながらつい吐き出してしまった。
 会社の実績に見合わず従業員が多いことは、目立ちたがり屋だったのかは知らないが鼻を高くしたいがために父が寄せ集められただけの人たちなのだろう。了さんがそんなことを言っていた。

 だが、それを告げながら私は考える。もし父が経営している事務所を了さんが手助けしているというのならば、どうして目立ったタレントが多く輩出されないのだろうか。事務所自体はツクモの支えがあるのかもしれないが、特別優遇されているわけでもなく、人は多いが名の知れ渡る気配すらない知名度の低い事務所のままなのである。かと言って、コネや伝で成り上がりにさせろは言いたくない話なのだが、このことが少し気に引っかかった。

 帰り際に「これ飲んどきなよ!」と百くんに栄養ドリンクと栄養補給のお菓子を手渡された。何も口にする気が起きないのだが、これくらいなら胃の中に入れてしまえそうな気がした。仕事の現場に行くまでの間、貰った栄養をチャージしている最中にいつまでも会社の経営についてのことを考えていたが、そんなことはまずいいと別の思考に切り替えた。
 次に会った時、了さんには何を話そうか。自分のことをどう伝えようか。きちんと向き合って話をする姿勢が私にはあるのだが、そもそも、会えることはあるのだろうか。あんなふうに感情を吐き出してしまって、もしかしたら本当に嫌われてしまったんじゃないだろうか。

「……っ」

 あの人に嫌われてしまったのではないか−−そう思うだけで、百くんに吐き出しすっきりし掛けていた心が、一気に崖から転がり落ちるように気分が沈んだ。彼に嫌われることこそが私が一番恐怖していたことのようにさえ思えて、仕事に行く気持ちが一気に失せてしまった。

 嫌いにならないで、と何度心の中で叫んでいたのかは覚えていない。彼に何か話す度に毎度のようにそのことを考えているほど、ああ、私はずっと前から彼に嫌われないようにと、彼の機嫌を伺っていた。そのくらい彼を好きでいるのだが、果たしてこの真意は何なのだろう。
 私の心の中にあった彼の機嫌を伺う行為は、父に言われた自分たちのためのご機嫌取りのものとは違う。ただ単に私自身が彼に嫌われることに怯えていただけだ。それ以外の、別の理由がはっきり存在しているはずなのに、その肝心なことを何も思い出せなかった。きっと、この理由を彼に伝えることが全ての解決に繋がるのかもしれないと、彼との関係以上にもっと大切な何かを思い出せないことに、酷い目眩を覚える。



 こんな状態で仕事に行きたくはなかったし、くじ引きでハズレくじを引いたのは不運なことだった。

「先輩、くじ運悪すぎじゃないですかぁ? 事務作業以外に設営の仕事はないですって……」
「私も、まさか後藤さんとペアになるとは思わなかった」

 今の時代はどこもかしこも人手が少なく、広いドームを借りた音楽フェスティバル番組の設営には、一部の所属される事務所の人間が駆り出される。音楽機材などは専属の人間がテキパキと準備をこなすが、舞台の装飾や観客席の設営はこの数日のためだけに募集される短期アルバイトと一緒に、小さな事務所から駆り出された私たちも作業をする。悪く言えば雑用でしかないのだが、良く言えば他の事務所の人間とコンタクトを取れてしまう場所でもある。それに女性陣は力仕事に回されず固定位置の椅子の印付けや椅子を並べるだけの簡単な作業のため、耐えるものは寒さくらいしかなかった。

「先輩、月雲社長と付き合ってるなら、お願いしたらいいじゃないですかぁ。良い仕事ばっかり回させるようにしてって。ってゆーか、あんな人と付き合ってるなら、転職しません? フツー。そーゆーお力あるんでしょ。ツクモプロって、めちゃくちゃお給料いいらしいですよぉ」
「仕事とプライベートは別物だから」
「ええー。 先輩、変わってますよねぇ。あたしだったら、楽したいですよ」

 与えられたブロックの位置を、メジャーで位置を測りながらマーキングをしている後輩との2人の時間は雑談だった。案の定、彼女は私が了さんと付き合っていることを知ってしまうと、話の内容は大半が了さんに関することだ。どうして私なんかが、と思われてしまうのではないかと思ったが、後輩はそのことを口にすることはなく自分の願望を打ち明け続けている。

「あたしなら、いっぱい自慢したいし。あたしの彼氏はお金持ちなんだって。欲しい物おねだりして買ってもらうしー、そんなカレシに釣り合うためにお洒落もしたいじゃないですかぁ。 先輩は、そーゆーのはないんですか?」
「ないよ。 後藤さん、あのね。私は、お金が欲しいから付き合ってるわけじゃないの」
「でも、お家を守ってくれてるんでしょ?」

 金持ちの彼氏がいるのなら自分はああしたいこうしたいを述べる彼女の思考と私の考えは合わない。それが普通なのではないかと意見を押し付けられているような気がして、つい溜息を吐き自分の正直な気持ちを告げるのだが、彼女から返ってきた言葉は皮肉めいていた。身体のどこかで何かがピキリと音を立て、絶句して言い返す言葉が出てこない。

「……私、先に帰るね」
「ええっ!? まだ作業半端なんですけどっ!?」

 途端、急激な嘔吐感が湧き上がってきてここに来て身体が悲鳴を上げ始めた。一睡もしておらず昼を過ぎても口にしたものは栄養補給のためのお菓子とドリンクだけ。過度な睡魔と空腹が一気に押し寄せてくると、仕事中だというのにこれ以上は手に付けることができなかった。

「……昨夜から一睡もしてなくて、何も食べてないから、身体が限界……」
「それ、早く言ってくださいよっ!?」

 なんでそんなこと先に言わなかったのかと、心配して焦ってくれているのか声を上げている後輩の声は間近にいるはずなのに耳に靄が掛かったように聞き取りづらかった。冬場であるが暖房が十分に行き届いていない場所は寒いはずなのに身体の芯から熱が込み上がってきて、熱い。

 予定されていた時間よりもかなり短い時間で切り上げてしまったが、全体的に作業ペースが早く作業は終盤に差し掛かっていたことが不幸中の幸いだった。だが、それ以上に私の顔色は悪かったようで、声を掛けた相手に逆に心配されてしまい帰りの許可を得る。

 「お先に失礼します」と周囲の人たちに告げてドームから出たが、外に出ても身体の熱が引くことはなく、けれど外の空気も肌を撫でる乾いた風はやけに寒かった。コンクリートの階段を手すりに掴まりながらゆっくりとした足取りで降りるのだが、体調を崩して熱を出してしまっているのではないかと体調の悪さを更に自覚してしまった。

「先輩ー! 他の人たちに、体調悪いんで先に帰りますって行ってきました!」
「後藤さんは仕事しててよかったのに」
「ええーっ、知らない人たちの中で仕事するの嫌ですよぉ。帰れるならあたしだって早く帰りたいし、先輩のことも心配だし」

 階段はあと3段くらいしかない。もう少しだと息を吐きながら足を伸ばそうとすれば、背後から後輩の声が聞こえてきて振り向く。はぁはぁと息を乱す彼女はここまで全力疾走だったのだろうか。私のことを心配してくれて「荷物持ちますよ!」と差し出された手にお言葉に甘えてしまって、手荷物を差し出した瞬間、身体がふらついて意識が途絶えた。







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