「先輩って、月雲社長と付き合ってますよね?」
「……え?」

 後輩にそれを言われたのは突然だった。本当に突然。昨日ランチをしていたばかりだというのに彼女は翌日になってそれを訊ねてきた。「付き合ってるんですか?」ではなく「付き合ってますよね?」と確信していることを確認するような問い詰めじみた口の効き方に、私はその訊ねられた言葉と重なって焦っていた。
 焦ってしまったことにはいくつか理由がある。一つは昨日までずっと彼女には黙って隠し通そうとしていたこと。一つは了さんとのことをほとんどのことを覚えていないまま、百くん以外の人に知られてしまったからだ。なんで黙っていたのかとか、どうして言ってくれなかったのかとか、そういうことまで問い詰められても自分でもよくわかっていない状況の中で信じてもらえるような言葉を口にする勇気がなかった。あとは、いつも語尾を伸ばして話しかけてくる彼女がそれを無しに訊ねてきたあたり、どこか怒っているようにも感じられた。

「誰から聞いたの?」
「社長です。苗字社長」
「え!?」

 どこかで了さんと二人で居るところを見られたとか、どこかで流れる噂が発端だと思っていた私は父から聞いたという言葉に驚きを隠せなかった。父と了さんのことについて話した覚えはないのだが、今思えば娘の恋人であり、相手が親会社の社長というのならそのことは知っていて当然なのかもしれない。そして今ならば、思い出せなかった恋人の話は両親に頼りさえすれば手っ取り早く思い出せたのかもしれないと思ったのだが、どうしてか私の中には家族を頼る方法というものが思い浮かばなかった。
 しかしそのような父は彼女に向かってはっきりと私たちが付き合っていることを告げたのだろう。嘘を吐く気持ちはなかったが誤魔化す気持ちはあった私は、そのことに対する肯定を匂わせながら逆に彼女に訊ねた。

「なんで黙ってたんですか?」
「いろいろあって……。 ねぇ、どうして社長とそんな話になったの?」
「昨日の夜、月雲社長が見えられたんですよねぇ。社長とお話ししてて。で、あたしもご挨拶しよーって思って、月雲社長に近付いたら、社長が割り込んできたんですよぉ。「月雲さんは、娘と真剣に交際してくれてる方だから」って。酷くありません? あたし、ただご挨拶しようとしてただけなのに……」

 怒っているようにも捉えられた後輩だったが、そうでもなかったようで、逆に私の質問で昨夜あったらしい出来事を思い出した彼女は肩を竦めて溜息を吐いていた。

「しかも知らなかったの、あたしだけだったみたいだし……みんな酷すぎですよぉ、先輩も!」
「え、え……? みんな知ってる……?」
「そうです! それ聞いてすぐみんなに喋ったら、え?そうだけど?みたいな態度取られちゃうし。 どうなってるんですか!?」
「私が聞きたいけど……え、みんな知ってるの!?」
「はぁあ!? だって、付き合い長いし、この会社も月雲社長が面倒見てくれてたから成り立ってるようなもんだって」
「……その話、もっと詳しく聞かせて。 どういうこと?」
「へっ? 先輩知ってるんじゃないんですか?」
「知ってるっていうか、私、何も覚えてなくて……」

 じくじく、頭の痛みと共に不快な感覚が押し寄せてくるのだが聞かないわけにはいかなかった。みんなが交際を知っている事実は私が気付いていなかったか覚えていないだけで、それ以上のことは何も分かっていない。了さんがいてくれたから会社が成り立っているとはどういうことか。普通に好き同士付き合っていたならまだしも、会社の経営が巻き込まれているというのだ。恋人という関係以外にも複雑な関係性が成り立っているというただの関係ではなさそうな話に、私は目眩を引き起こしてしまいそうだった。
 「何も覚えてないってどーゆーことですか?」と苦虫を噛みつぶす表情を見せて訊ねてくる後輩に、以前事故に遭ってそれ以前の記憶がほとんどないことを告げれば、後輩は肩を揺らつかせて動揺していた。私が事故に遭ったのは彼女が入社してすぐの頃で、事故に遭ったことは知っているが記憶を無くしていることは知らなかったようだ。そもそも、会社の人間の多くが私と了さんのことを知っているらしいのだが事故に遭って記憶を無くしていることも知れ渡っているのだろうか。私の知らないところで、私が想像もできなかったことが起こっている。

「カレシのことなんて、普通忘れます!?」
「私もそれは痛いくらい感じてるけど、忘れてるみたいなんだよね」
「ええー、変なの。 思い出せないんなら、社長に聞いた方が早くないですかぁ? 先輩、意地でも自分で思い出したいっ!って思ってる感じなんです?」
「そういうわけじゃないけど、家族に頼ることが私の頭の中にはなかったの」
「あたしだったら、真っ先に親に頼っちゃうけどなー」

 人差し指で顎のくぼみを突きながらそれを口にした後輩は真っ当なことを告げてくるのだが、本当に私の中では親を頼るという手段が思い浮かんでいなかった。どこか、親を頼りたくない理由でもあったのだろうか。真相は定かではないが、彼女の仕草に釣られるように私も顎のくぼみを指先でなぞった。

「で、あんな人とどうやって知り合ったんですか!?」

 終わったと思った話をまた掘り返されてしまうが、あやふやなことしか覚えていない私はあやふやな答えだけを返すと、彼女はつまらなそうに息を零した。



 了さんに事の真意を聞くのが先か、安直に親に事の真意を聞くのが先か。昨夜百くんに言われた「なんとも言えない」という言葉が気がかりだった私は漠然と了さんに訊ねたらおかしな……いや、悪い方向に話が転がってしまいそうだと女の勘で察し、手っ取り早く父に訊ねた。それに父は今日は社長室に籠りきりなので、最短ルートで話を聞ける方法だったのだ。

「お父さん。後藤さんに、私と了さんのこと話しましたよね」
「もちろんだよ! あの子は困った子だから、おかしな不祥事で了くんを不快な目に遭わせてしまったら大変だからね!」

 社長室に入るなりコーヒーを嗜んでいた父は「どうしたんだい名前!?」と驚いたように問いかけてきたのだが、私は単刀直入に後輩に告げたことを問い詰めた。しかし父はケロっとした様子で返事をする。そうするのが当然だろうと、彼女の男性に対するだらしなさに危険信号を発した父が回り込んで先に告げていたようだったが、私はいろんな意味が篭った溜息をわかりやすく零してしまった。

「あんまり余計なことは言ってほしくないんだけど……」
「了くんにこれ以上迷惑なんてかけられない! ……ああ、いや、名前を責めているわけじゃないんだけど、ほら、あまり苦労も掛けさせたくないだろう?」
「私が了さんのことを忘れたこととか?」
「名前!? そうだよそうだよ、思い出したのか!? ああ、いやぁ、よかった! 一時はどうなることかと思った!」

 百くんの言葉を疑ってはいなかったのだが、父の言葉ではっきりと確信した。やはり私は了さんと付き合っていたのだ。
 そして父はわかりやすく安堵を零し机に項垂れ「いやぁ、本当によかった!」と口にし続けている。了さんのお陰で経営が成り立っているのだということはまだ本当なのかどうなのかわからないのだが、もしそれが本当だとするならば、世話になっている親会社の社長に私がとんでもない迷惑を掛けたのだから父がそう安堵するのも無理はない気がした。だが、父の言動に喜ばしいとは到底思えなかった。父は昔から自分のことしか考えられない性格をしていたからだ。私が記憶を戻したというよりも、了さんに迷惑を掛けずに済むという気持ちが大きいというのが見え見えで、私は呆れ返ってしそうになっていたのだ。

「思い出したわけじゃないけど、付き合っていたってことだけは知ったの」
「ああ、なんだ、そうなのか……いや、でも、それでいいよ! 今は余計なことを考えなくていいから、名前は前と変わらずに傍に居てあげたらいいさ!」
「……余計なこと?」
「そうだよ! あまり了くんを困らせたり、怒らせるようなことは絶対にしちゃいけないよ。喧嘩ばかり引き起こして、別れたいだなんて決して口に出しちゃいけないし、振る舞いも、気持ちも了くんに釣り合うようでいてくれなくちゃあ」
「……お父さん、あの」

 昨日の昼にふと過ぎった誰かの声と言葉がここでリンクした、あれは父の言葉だったのか。了さんに釣り合うような女になれ、心配だ−−そう口にされたことが私の記憶の中にくっきりと残されている。了さんに迷惑は掛けないようにしろ、だけど彼と釣り合えるような女になれ……その言葉は了さんに対するご機嫌取りそのもののように思え、私の気持ちなど父は考えてもいない。それが不愉快極まりないと言ってしまったらいいのか、心の中でドロドロとしたものが渦巻いてえずきそうになってしまった。

「お父さんは、了さんのご機嫌を取っておきたいから、私に良い子にしてろって言いたいのね」
「当たり前だろう!? ツクモのお力があるから、この会社が成り立っているんだ」
「それってつまり、お父さんは私のことなんて何も考えてくれてないし、私と了さんのことだって……」
「名前、怒ってるのか? だって、そういう約束だったじゃないか、当たり前だろう?」
「……約束?」

 今の私にとって身に覚えも聞き覚えのないことが興奮した父の口からボロボロと吐き出される。はっきりとはしていないが了さんがこの会社を支えていることはほぼ確実だ。

 父にとって了さんは最大の権力者である。機嫌を取りながら大人しく彼の傍に居ろという言い方は、まるで私が了さんの権力のためだけに付き合っているというように捉えられ、私はそれが不愉快だと思っているのだ。私は会社のことに関しては何も知らないほど純粋に自ら好いて了さんと付き合っているのだから、父の思考とは正反対であるし考えてすらいない。正直、お金も権力も、私にとってはどうでも良いことなのだ。それに父の言い方はまるで政略結婚のように当人の気持ちを完全に無視している。

 おそらく、だから私は、記憶を失ったところで両親に頼ると言う手段を存在させなかったのかもしれない。過去に受けた仕打ちは混乱を招くよりも先に、憎たらしい感化をもたらす。頭の痛みは皆無だったが、それに変わって一気に気持ち悪さがこみ上げてきてつい手の平で口元を覆ってしまった。
 「約束」という聞きなれない言葉が耳に入り込んだ時にその手が離れたのだが、父から聞かされた了さんとのこの関係の真実は到底理解しがたいものだった。

「昔、会社が倒産の危機に陥った時、了くんが会社の借金を肩代わりしてくれる代わりに、名前を渡しますっていう話だっただろう!?」




 未だに誰の言っていることが正しくて、誰が言っていることがデタラメなのかがわからない。頭が痛くなる代わりに真実がわからなくてひどい目眩を起こしてしまいそうだ。
 私の身の回りでは何が巻き起こっているのだろう。少なからず、了さんが父の会社に関与しているのは事実だとは思う。昔、百くんがこの会社はツクモの伝があると言っていたからだ。それにツクモプロダクション側であるということは、入ってくる仕事の内容からでもわかる。だけど、どうして?私が会社の倒産の危機を免れるために了さんに売られたというのならば、こんな私が了さんに引き取られた理由は何なのだ。ただ単純に考えてみれば、記憶の中に存在している了さんの執着心からするに一方的に好かれて都合良くそうさせられただけなのかもしれないが、頭の中に何かが引っ掛かっている。

 最近になって忘れていた記憶が少しずつ戻ってきているような気がしていたが、この蟠りのせいで何も見えないし思い出せない。どうしよう、どうしていたらいいんだろう−−そう頭を悩ませていると、携帯が震えた。携帯を開くと「月雲了」という名前が表示されており、着信画面が表示されている。私が知りたい真実を一番に知っている彼には聞きたいことが山ほど存在しているのだが、この状況下で彼に会って聞くことが躊躇われた。

「……はい」
『やぁ、名前! 仕事は終わった? ディナーにでも行こうか?』

 私がこんなことになっていることを知る由もない彼の声は上機嫌だった。やたら機嫌の良さそうな彼は私を誘ってくれるのだが返答に困ってしまった。聞きたいことは山ほどあるし、知りたいことも、話したいことも山ほどある。けど、面と向かって話す勇気も聞く勇気も存在していなかった。彼の上機嫌な一言一言に反比例するように気分が沈んで行きそうになる。


 ほぼ貸切状態の高級レストランの中、記憶はないが過去があることを知ってから了さんと対面するのは初めてだった。おそらく写真の内容だけでも知ってしまった以上、まともに顔を合わせることもできなかったのだろうけど、それ以上に余計なことを会う前に知ってしまった私はますます顔を合わせることもできなくなった。

「今日は冴えないねぇ。 何かあった?」
「少し、いろいろと……父と、揉めてしまって」
「ふぅん。 どんな内容で?」
「会社の経営のことや、金銭面のことで……」

 直接聞くことができないのなら彼の腹を探るしかなかった。本当はそういうことを聞きたいわけではなかったが、冴えないと言われてしまい言い訳をするならばそれくらいしかない。何もないですと嘘を吐くこともできたが、そこは誤魔化す気にもなれなかった。他に何か関係のないことを言い訳にすることもできたが、自分の性格上聞き出されていくうちにボロが出ると思ってしまったし、実際そういう話があったのだから、余計なことを喋らなければこの状況を切り抜けることができると思った。何より、このようにさり気なく物事に触れて静かに彼に接触してしまった方がいいと思えた。安易な考えだと思うのだが、頭の傍らで、何を疑っているのだと善意な私が囁いた。疑うって、何をだ。私は彼の何を信用しきれていないというのだ。

「あ、そうだ。 昨日の夜、うちの事務所に来たって話を聞きました。後輩が挨拶しようとしていたみたいで。うちの父が、すみませんでした」
「ああ、そんなこともあったね! よく覚えていないんだけど、君の父親がしゃしゃり出てたことだけは覚えてるよ」
「……了さんは、私の父が嫌いですか?」
「名前は好き?」
「えっ……まぁ、親ですし……」

 ふぅん、と了さんはまた一声。その言動からするに彼は私の父をあまり好いてはいない様子だ。聞き返されたことに少し驚いてしまい語尾を小さくさせながら返した言葉の中には、好きという単語を乗せられず曖昧な返事を返してしまったのだが、彼はつまらなそうに背凭れに寄り掛かった。父の話題は彼の気に障るようなことだっただろうか。気まずい空気を察しながら話を変えようと口を開こうとするものの何を話したらいいのかわからない、だがこの空気をこの空気に似合わない声色で破ったのは了さんだった。「そんなことよりさ、名前!」と満面の笑みを浮かべて私に語りかける。

「そのうち、長期の休みをとって、どこか遊びに行っちゃおうよ。豪華客船で船の旅なんてどう?」
「え、ええっ……」
「知人に紹介されたんだけど、良い船を見つけたんだ。海中が見えるバーがあって、乾杯しながら泳いでいる天然のペンギンが見れるそうなんだ。名前が好きそうだなって思って」

 一体何を言われるのだろうと心臓が一瞬跳ね上がってしまった。しかしそんな私とは裏腹に彼は陽気に口を開いている。たまにはさぁと言いたげに零された話は夢にまで見たことなのかもしれないが、あまり乗り気にもなれず困惑した。
 拒むこともできずにこのような場所に連れて来られた中で、更に豪華なところに連れて行こうとしてくれている了さんに申し訳無さから訪れる困惑だと思いたかった。あまり私なんかにお金を掛けてほしくない、それが本心で、かと言って楽しげに話す彼の気持ちを考えれば首を横に振ることもできない。

「長期の休みは、取れるかわからなくて……」
「大丈夫だよ。僕が、君の父親に掛け持ってあげるから」

 やんわりとでも断ろうと思ったのだが彼はその手段を許さなかった。父のことだから彼にお願いされたら素直に私に連休を与えてくれることだろう。余計な一言を付け加えながら楽しんでおいでと見送られることが容易に想像できた。父のことを逆手に取った了さんにそれ以上他の言い訳をぶつけて断る気にもならず「考えてみます」と一言付け足してこの話題を止めにした。本当は彼とのこの先のことを考えたくなかったのだ。

「……了さん、あの、私、了さんに聞きたいことがあって」
「なぁに? 僕が答えられる範囲なら、なんでも答えてあげるよ」
「了さんは−−私が付き合っていた彼のことを、知っていますか?」
「さぁ、知らないな」

 いつまで経っても彼の前で全てを打ち明けることができなかった。腹を探ろうとしていたくせに、彼との先のことを考えるとその先は何も見えなくて途端に恐怖に包まれる。結局答えは何も見つからず、最終的に頼れることは、この判断は彼の意思に従わせるくらいだった。彼は何かを教えてくれるだろうかと思ったが、その期待は薄く、だが当人であるはずの彼は知らないと答えた。それは即答だった。

 彼は全てを隠し通そうとしている。何を考えているのかはわからないが、私たちの過去を無かったものにしようと考えているならば、私のこれから出す決断は一つだけだった。
 私は、これからは何も知らない振りをして、一生過去のことを思い出せないまま過ごしていくしかない。知ってしまったことすら知らないように振舞って、了さんの様子を伺いながら生きていく−−父が私に対して向けた言葉がそのまま身体に降り注いできて、一瞬で頭の中が真っ白になった。

「……嘘つき」

 何故その言葉を彼に向けてしまったのか。決して言ってはいけない言葉が頭の中が白く包まれた瞬間、後頭部に衝撃を受けたような弾みで零れ落ちてしまった。はっとして、後悔するにはもう遅い。すみません、なんでもありません。慌てるように開いたままの唇を無理矢理にでも動かしながら私は告げようとするのだが、自分の身体だというのに、動揺のせいで唇は小刻みに動くだけで何も吐き出せなかった。
 了さんが今の言葉を聞き流してさえくれたらよかったのに。私の言葉をはっきり耳に入れた彼との間には一瞬、時が止まった空気が流れた。そして私が一向に唇を動かせないままでいると、了さんがやっと口を開いてくれた。

「−−ああ、そう。 思い出しちゃったんだ」

 がっかりしたような、呆れたような口振りだった。了さんの反応は、まるで洗脳された人間が自我を取り戻していった瞬間を目の当たりにしたような言い方で、影を引いていた感情が明確になる。私って、本当は無理矢理彼の元に引き取られたのかもしれない。彼からの執着心に、私は恐怖を抱き始めていた。

 だけど、私は彼と一緒になりたいのだと願っていた。少なからず彼からの好意を受け入れてはいたはずだ。私たちは過去に一体何があったのだろう。知りたいことと知りたくない葛藤を抱いた私が頼れる人間は目の前にいて、それを一番知っているのは月雲了という男ただ一人しかいない。


 ほぼ貸切状態の広い店の中心で了さんは鼻歌を歌いながら背凭れに寄り掛かり、ワインの注がれた真っ赤なグラスを宙に掲げて見つめながら、どうしようかなぁ−−そんな心の声が伝わってくる。彼のことを好きであるはずなのに、過去の私が彼に恐怖心を抱いてでもいたのか、その姿すら怖ろしいものに思えてしまって身体が硬直するあまり何も口にすることができなかった。

「それで? 名前は、どうするの?」
「え……」
「思い出したんだろう。 僕から逃げる?」

 逃げる、とは? 何が真実なのかもわからないこのような状況下で、突然そのような不安を煽るようなことは言わないでほしい。過去の私は彼と結ばれることを望んでいたのだから逃げるなどという思考が存在しているはずはないのに。それなのに逃げるのかと問われてしまう意味が全くわからない。

「思い出したわけじゃないです。でも、それを知ってしまって……」
「へぇ、どうして? ああ、君の父親に何か吹き込まれたのか」
「写真を、見て……了さんの家にあった、私と了さんが写ってる写真を……」
「わお! あはは、人の部屋を漁ったのか! 十分な躾を受けていないんだね。可哀想に」
「すみません、でも、」

 勝手に見てしまったことは事実であるが漁ったつもりはない。自分の部屋のものを勝手に覗かれるなど誰でも良い気はしないものだ。了さんはご機嫌に振舞っているように見せるが、明らかに苛立っているし怒っているのだろうということは感じ取れる。でも、そうじゃない、ごめんなさい−−必死に謝ろうとしたが、それを彼に遮られた。

「−−名前はさぁ、ずるいんだよねぇ」

 突然飛び出た彼の針を含むような言葉に、内臓が萎縮するような感覚を抱いた。ただの針ではなく毒針のような言葉だった。
 私の知っている了さんは優しい人だった。強引な面もあるが私のことを好いてくれるのは確かで、私の一方的な感情を全て受け入れてくれるほど懐が広い。以前彼と喧嘩をしてしまった時に突き放されるような態度を取られてしまったが、こうもはっきりと私自身が責められることは初めてだった。ふつふつと嫌いにならないで、という感情が湧き上がってくる。

「君はさぁ、僕の善意や好意を逆手に取って、僕を期待させるだけさせておいて、結局僕を裏切るんだから」
「……どういうことですか。言ってる意味がわからないです」

 何もわかっていないのに彼は私に静かな苛立ちをぶつけてくる。何を言っているのか、何を言われているのか理解できずに混乱を招いて心拍数がとてつもない勢いで上がっていく。

「僕は名前のことが好きだったから、助けてあげたのに。そんなぁ悪いですぅーーなんて言いながら、少しずつ僕に気があるように振舞って、僕のことを期待させながら、結局、君は最終的に大好きなパパのことを選んだんだよ。 僕が社長になるって決まった頃に、君のパパは僕の権力がもっと欲しくなっちゃって、君に早く結婚しなさいって言い出したんだ。だから、君はそれをせがんできたんだよ。僕のことが好きだったからじゃなくて、大好きなパパのためにね!」

 了さんの口から告げられる真実に返す言葉が見つからなかった。彼から聞かされる言葉は紛れもない真実なのかもしれないが、私の中ではそれは違うと思い込んでいる。今の私は純粋に彼を好いているから、その権力から成り立つ家族の関係も全くの別物だと言いたくて仕方がない。

「……それは、本当のことですか」
「本当だよ」
「私が、そう言ったんですか?」

 あんなに近くにいてくれたはずの了さんが、今は分厚い壁を隔てているように遠い存在に思えてしまう。違う、違うのだと告げたい口からは、過去を覚えていない私が答え合わせをするような言葉しか吐き出せなくて、そのくせ了さんは私の言葉に何も返しはしなかった。

「結婚をせがんでいたことは、薄っすらですけど、覚えています。でも、その理由を私は知らなくて……本当に、家のために、そうしたいって、私、言ってたんですか?」

 今存在している私が、過去の私を邪魔だと言うように首を振って薙ぎ払いたいくらいだ。過去の私が何を言ったのかは知らないのだが、私はそんなことを微塵にも思っていないことをとにかく伝えたかった。だけど、状況に理解が追いつかず混乱ばかり招き起こしている私には震える声でそればかりを訴えかけることしかできなかった。

 それこそ、了さんが何かを言ってくれたらよかったのに。
 もし私が本当にそのようなことを口にして彼に訴え掛けていたとしたならば、今の私はそうでないと訴え続けて、こんな私を愛してくれと言わせて欲しかったのに。彼は、私の問いかけに硬直したように笑みを貼り付けて浮かべているだけで何も言ってはくれなかった。本当にそんなことを口にしていたのかという言葉に返答がないのなら、それが事実なのかすらどうかもわからない。

「……私、もう、了さんと一緒にはいられないです」

 何故はっきりと言ってくれないのか。本当なのかと問いかけた言葉から一向に答えを教えてくれない彼に、私は今までの罪悪感が積もり募ってしまった。苛立ちを隠せず本音紛いのものをぶつけてきた彼をこのような目に遭わせ苦しめているのは、紛れもない私なのだと自覚してしまった。私だって、彼を思えばこれ以上に苦しめたくはなかった。

「ああ……ああ、そう。いいよ。じゃあ、もうこの関係は終わりだね。 残念だなぁ……君のパパは、さぞ苦しむだろうね。鼻を高くしたいがために寄せ集められただけの、なんにも知らない下で働く連中も、これからは路頭に迷っちゃうかもね!」

 私が最終的に選んだ言葉に対する彼の態度は、脅しだった。私との縁が切れたら、私の家の縁とも切れるということだ。そんなことを言われてしまえば、父やその下で働く人々の今後の人生を握りしめているのは私自身で窮地に立たされる。呆気なく解放されると思ったものは、脅しによって私を押さえつけた。
 どうしてそのようなことを平然と口にできるのだと苛立ちが芽生え始める。初めて彼に対して、周囲による人間に対する嫉妬心以外に、彼張本人への苛立ちを招いてしまった。

「−−じゃあ、好きだなんて、愛してるだなんて、簡単に言わないでくださいよ」

 彼の心の中に存在していた強い苛立ちをぶつけられて、挙句に脅された。何も知らない私を責め立てて私の意思を聞いてくれない了さんに、そんな人だとは思わなかったと、がっかりして一気に彼に対する熱がここで冷めてさえくれたら良かったのに。
 それでもこの熱が一向に冷める気配はなく、なんでどうしてという感情が渦巻いて出た言葉がそれだ。私は、彼のことを心の底から好きでいるのに。

「私のことをそんなふうに思っていたなら、わざわざ記憶を失くした私に付き纏うようなことしないでよ、期待なんてさせないで」

 私のことを好きでいてくれたことは過去のことかもしれないが、始めからそんなふうに思って、簡単にそのような言葉を口にできるなら、最初から引き離してくれたら良かったのに。好きでもない女を、こうも自分に引き込もうとする理由は一体なんだ。彼から密かに伝わってくる強い執着心の正体は、恨み以外の何者でもない。







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