意識



 春原くんと遊びに行く約束をしたのは、冬休みに入る前だった。


 12月に入って期末テストも終わってしまえば、もうすぐ冬休みが始まる。毎日通わなければいけない学校に来なくていいってことは嬉しい。ずっと家にいれるし、友達とは一日中遊んでいられるし、だらだらと過ごしていられるんだから。

 だけど、冬休みの期間は学年が始まった頃に渡された一年を通した日程表よりも短かった。どうしてかというと、年明けには全国高等学校サッカー選手権大会が開催されるからだ。うちの学校のサッカー部は、全国大会への出場が決まっていた。
 都大会では準決勝も決勝戦も、生徒の応援は応援団や吹奏楽部は行くけど、他の人たちは自主的にといった形だった。でも、全国ともなれば全校生徒で応援に駆けつけるらしい。去年は都大会の決勝戦で、いつも全国を争っている私立高校に敗れてしまったそうだ。運動部の全国出場と全校生徒での応援って、卒業するまで無縁だと思っていた。今年は違っていた。おまけに、全国大会の出場選手の中にはクラスのメイトの春原百瀬という名前があった。

「春原、凄いよなー」
「どれくらい凄いの?」
「だって、全国だぜ? しかもスタメンだぜ?」
「……なにそれ」
「試合開始から出るヤツのこと! お前本当になにも知らないんだなー」
「洋太も大会で最初から出てたじゃん」
「バスケ部、3年少ないんだよ。 サッカー部って人数多いし、試合に出んのはほとんど3年だよ。1年や2年って補欠とか途中交代で出されたりすんだけど、春原は3年と同じメイン選手」
「他にも2年生いるじゃん」
「そいつと春原しかいないだろ? 柴岡は2年になってから試合出てるらしいけど」

 生徒用に配られたサッカーの大会のプリントの中には多くの3年生の名前が載っていた。試合にはじめから出場するチーム部員の名前、その中に春原百瀬(2年/DF)と柴岡純也(2年/FW)って名前とよくわからないポジションらしきものが載ってたんだけど、純也って、こないだ春原くんを呼んでた人だ。あの人もすごい選手だったのか。

「しかも春原、キャプテン最有力候補だってさ」
「へー」
「監督から命名されんだよ」
「ふーん」
「なぁ、お前、興味無いだろ」

 教室のスチーム暖房器に腰掛けて、プリントを見ながら洋太と話をしていたのは放課後だった。今日は雨が降っている。グラウンドはもちろん、第1体育館は点検作業が長引いていて使えないそうで、第2体育館はバレーボール部が大学生チームと練習試合をしていて、第3体育館は体育館を使いたい運動部がローテーションで使っているらしく、グダグダな状態の部活を切り上げた洋太と一緒に時間を潰していた。今日はそのせいもあって、教室に残っている人は多かった。

「つか、お前さー」
「んー?」

 2人で暖房機を陣取って、教室に残っていたあんまり話さない女子テニス部と居残り組の賑やかな声をBGMに洋太の声に耳を傾けた。私の視線は、いつまでもプリントから離れない。そこに記された名前を見つめながら、隣で足組みをした洋太を横目で見る。

「彼氏できた?」
「は? いや、できてないけど」
「ふーん……」
「え、なに?」
「あれは? 菅根くん。あいつとはどうなったの?」
「いつの話してんの。もうとっくに話してもないよ」
「え? そうなの?」
「そうだよ」

 いつの話をしているんだって思ったけど、まだ一ヶ月に満たない前のことだった。正直、あんまり思い出したくない話だったし、あれっきり顔も合わせていないから、私にはとっくの前の話である。そこまで話を広めるつもりはなかったから、いつメンにだけ「やっぱ無理。断っちゃった」っていう話をして、完全に納得してくれたかはわからないんだけど、そっから菅根トークはしなくなった。だからもう終わったことって思ってたのに、洋太に掘り返されてしまって胃が痛くなりそうだった。

「ねぇ、なんでそんなこと訊いたの?」
「俺と春原の間で密かな話題になってたから」
「え……どういうこと」
「あの2人、付き合っちゃうのかなー!? っていう、他人の恋バナトーク」

 洋太の言葉に、わかりやすく心臓が跳ね上がってしまって、掴んでいたプリントをくしゃりと音を立てて握り締めてしまった。「オレは、いいと思うけど……」っていう、春原くんが突然言い出した意味のわからなかった言葉を思い返して、私はハッとした。続けて、春原くんに「付き合おうとしてるのかもしれないって思ったら、邪魔しちゃいけないって思うでしょ」といきなり言われてしまった言葉が、そういうことだったのかって腑に落ちてしまった。

 きっと春原くんって、私が菅根くんと付き合おうとしているのかもしれないって勘違いをしているんだ。お前それ、自意識過剰すぎるだろって言われてしまうかもしれないけど、こうも上手く話が繋がってしまったら、やっぱり勘違いしないって方がおかしい。



 春原くんとは、一緒に帰ったあの日からも、いつも通りに接せられていた。おはようって挨拶を交わして、移動教室で近くにいたら声を掛け合うし、放課後だって変わらずに話をする。教室に忘れ物をしちゃったって言うこゆきに、忘れ物を届けるべく茶道室に寄った帰り道に、サッカー部が練習しているグラウンドを見に行って、春原くんの姿を見て手を振ってみたりと、普段とは何も変わらなかった。

「春原くん。 今日、部活終わったら暇?」
「え、うん。 どうかした?」
「ジュース奢ってあげようと思って」
「みょうじさんが? オレに? なんでまた?」
「全国出場のお祝い的な?」
「なにそれ。 別にいいよ、そんなの気にしなくて!」
「っていうのもあるんだけど、舞子、今日おばあちゃんのお見合いで早めに帰るんだって。私、帰ろうかなって思ったんだけど、春原くんが暇なら18時まで残ってようかなって思って」

 翌日の帰りのSHRが終わった後、朝から舞子に今日は遅くまでいられないという話を聞いていた。一緒に帰ろうかとも思ったけど、部活に行く準備を始めた春原くんの姿を見て、いつも通りに残っていようかを迷ってしまった。たぶん、つい最近までの私だったら迷わずに帰っていたのかもしれない。だけど、残ったら何かあるって期待を持ってしまった私は、選択肢を春原くんに委ねてしまった。春原くんがいつもみたいに教室に来てくれるなら、私はそれまで残っていよう。ジュースを奢るというのは本心ではあるけど、口実にしか過ぎなかった。

「オレのこと待ってる間、暇じゃない?」
「大丈夫。いつも舞子のこと待ってるのと同じだし」
「でも、早く帰れるんなら、明るい時間に帰った方が……」
「……あの、嫌なら嫌って言ってくれていいよ」
「嫌じゃない、嫌じゃない! ただ、オレのためにだけ待たせんの、悪いなって思ったから」
「平気。 今日は図書室行く用事もあるし」
「あ……あー、そっか。 うん、わかった。じゃあ、帰りに教室寄るね!」

 今日は図書室で借りた本の返却日でもあった。図書室に行くなら、気になる本を読んでいるし、また新しい本を借りてこようって気にもなる。それ以外に理由はないんだけど、春原くんは気まずそうに返事をしてくれたから、もしかしたら強引すぎたかもしれないと少しだけ後悔してしまった。


「みょうじさん、一人なんだね」
「え? うん。いつもそうじゃん」
「うん……まぁ、それもそうなんだけど」

 春原くんはいつも通り、18時過ぎに教室に顔を出してくれた。暖房を止めて、鞄を持って、電気を消して、教室を出る。最近はやたらと寒くなっていた。そりゃ冬の時期なんだから当たり前なんだけど、ちょっと前までは我慢できた手袋のない生活も、ついに手袋必須と思われた。指先が冷たくて、寒さのあまり羽織っていたコートのポケットに手を入れる。

「飲みたいもの、考えてきてくれた?」
「ホットカルピス!」
「ふふ、子供かっての」

 購買に行くまでの間にそんな話をしたけど、コーヒーって言わないあたり、子供っぽさを感じてしまった。男子とはそれほど仲良くないけど、洋太はコーヒーをよく飲んでいた。洋太基準っていうのがおかしい話かもしれないけど、よりによってカルピスって、と本音を零すと春原くんは顔を赤く染めながら「笑わないでよ!」と言った。

「じゃ、ありがとね、ジュース」
「どういたしまして」

 購買を出て、校門までの道のりの途中に自転車の駐輪場がある。チェーンの鍵をポケットから取り出した春原くんにお礼を言われて、返事を返した。自販機の前で落ちてきたカルピスを手にした時にも「ありがと!」と言われた言葉だったけど、ここでそれを言われるってことは、それはさよならの合図だ。

 私、面倒な性格をしてるって思われるかもしれないけど、また一緒に帰ろって言われるのを期待していた。きっとこれ、私が言い出さないとそうなりはしない。本当は、薄っすらと感じ取れてはいる。殻を破らないと。たとえ私の自意識過剰な勘違いだったとしても、彼の心に近付くためには、意を決して、勘違いであろうがなかろうが、伝えなければ意味がない。

「春原くん、あのさ」
「なに?」
「……私、もう菅根くんとは何もないからね」
「……えっ」
「ほら。 洋太に、春原くんと、私と菅根くんトークで盛り上がってるって聞いたから」
「え、そ、そんなこと!」
「洋太にも、もう何もないからって言っといた」
「そ、そうだったんだ……なんか、ごめん」
「なんで謝るの?」
「嫌な思いさせちゃったかなって思って」

 あ、よかった。私の勘違いじゃなかったって、春原くんと会話をして安心してしまった。やっぱり春原くんは私と菅根くんに何かあると勘違いしていた様子だった。その話は昨日の話だったんだけど、洋太は春原くんにそれをまだ告げていなかったらしい。あいつ、忘れやすいところがあるから。数日後に、思い出した拍子に口にする姿が簡単に想像できる。

 春原くんには、馬鹿正直にちょっとだけ勘違いしていたと言われた。やっぱりこの人、私のこと考えてくれているんだ−−っていう、期待と確信が同時に訪れて、私は口を開いた。

「「じゃあさ」」

 春原くんと声が被った。全く同じ言葉で、同じタイミングでそれが被さってしまったことに、春原くんと同時に驚いてしまった。「え、なに?」「みょうじさんこそ」とお互いに今起こったことはなんだったんだと言いたげな様子で口を開く。

「また一緒に帰ろうって言おうと思った」
「それ、オレも同じこと言おうと思った……いいの?」
「うん、いいよ」

 春原くんは気まずそうな様子で、頬を人差し指で擦りながら言った。この場に及んで、同じことを考えていたことに安堵しながら、私が少なからず意識してもらえているということにほっとした。


 舞子に前に言われた。恋の駆け引きっていうものが存在するっていうこと。舞子は少女漫画が好きな子だ。だけど少女漫画に登場する主人公に憧れたり自己投影するわけでもなく、あくまで第三者としての立場で楽しんでいる、謂わば純粋に漫画の世界を楽しんでいる子なんだけど、その世界観を友達に押し付けてしまうくらい、ある意味で夢を見ている子でもあった。私は舞子のそういうところは好きだ。きっと舞子がそういうものにハマって、私にそんなことを言わなければ、私はこの感覚を一生かけても知らなかったと思う。

「寒いね」
「うん」

 学校でできていたはずのいつも通りの会話が帰り道にはなくて、はぁーっと息を吐いて、あの日以上にはっきりと映し出される白い息を吐き出しながら、はじめて一緒に帰った日にした会話をここでも繰り返した。会話はないし、何を話したらいいのかわからない。だけど、それが居心地の悪いものとは一切感じられなかった。

「……あ、そういえばさ、ここからソライロタワーの先っぽが見えるんだよ」

 全然遠いんだけど、一際目立つ都心の中心にそびえ立つソライロタワーのある方角が私の家がある場所だった。対して、春原くんの家は反対方向だっていう話はだいぶ前に聞いていた。自転車を引いている春原くんに向かって、目の前に並んだ低い建物と、街を隔てる木々の合間に見える小さなソライロタワーの先っぽを指出した。

「え、どこ?」
「あそこ」
「いや、全然見えな……あ、あれか!」
「見えた?」
「……なんか、もっとはっきり見えるんだと思ってた」
「そんなに都会じゃないからね、ここ」

 もっと大きいものを期待していたらしい春原くんは、やっと見えたソライロタワーの先っぽを見るなり笑っていた。だけど、春原くんの住んでる場所よりも大きく見えるし、というか、見えるだけまだマシだと思うんだけど。

「東京タワーとか、ソライロタワーってもう登った?」
「ううん、登ったことはないかな」
「え、そうなの? もったいない」
「オレ、高いところ苦手で……」
「えっ、そうなの? 意外」

 春原くんと話していくうちに、春原くんのことを少しずつ知っていけているような気はしたけど、本当のところまだあんまり知らないっていうことに気付いた。

「じゃ、観覧車とか、ジェットコースターとかも乗れない感じ?」
「絶叫系は乗れる! 観覧車は、乗れなくはないけど……」

 まるで一つの弱点を突かれたといった様子で春原くんは語尾を小さくして呟いた。3年生になったら修学旅行で沖縄に行くから、きっとテーマパークは候補に挙がるはずだ。そのことをちょっとだけ匂わせつつ、先取りしたような感じで春原くんの弱点っていうやつを知ってしまった。

「みょうじさん、冬休みは何してんの?」
「家にいるか、友達と遊んでるかかな。 春原くんは、部活あるんでしょ」
「うん、大会まで合宿もあるし」
「冬休みはずっと?」
「うん。 大晦日と正月は家にいれるくらい」

 私が、冬休みは一日中友達と遊べるし家にいられるしでラッキーと思えていたことは、春原くんとは無縁のようで、春原くんは冬休み期間中もずっと部活をしているらしい。嬉しそうに合宿があると口にした春原くんに、楽しそうに部活しているなぁと思っていたら、春原くんは思い出したように「あ、でもオレ」と口にした。

「24日の夜なら暇してる」
「そうなの? じゃ、遊び行こうよ。 ソライロタワー登るの」
「えっ……登るの!? いいけど……」

 その日の夜なら暇をしているって言った春原くんに、反射的に遊びに行こうと口にしてしまった。ちょっとだけ冗談交じりに言ってみせれば、春原くんはとてもわかりやすそうに顔を歪めた。それでも、いいけど、と言って24日に春原くんと遊びに行く予定を立ててしまった。


 家に帰ってから気付いたけど、あれ……24日の夜って、クリスマスイブじゃん。