意識



 初めて春原くんと一緒に帰ったのは、期末テストが終わった日だった。


 テストが終わればその日から部活動が解禁される。「テスト死んだー」とか「久しぶりの部活だー」とか、最後のテスト時間が終わってチャイムが鳴り止むと教室のどこからともなく嘆きとか喜びとか、そんな声が響き渡った。

「赤点回避できそー。なまえちゃんのお陰だわー」
「ジュース奢ってよねー」
「わかってるって! じゃ私、部活行ってくるから、いい子にして待っててよね」

 舞子は部活が好きな子である。勉強会をしている日々の中で何度「早くソフトボールやりたい!」と聞いたことか。たまにバッティングセンターに付き合わされることもあったけど、地獄のような勉強尽くしの日々が終わりを告げると、舞子は一目散に教室から出て行ってしまった。

「みょうじさん! 今日も碓井さんのこと待ってんの?」
「うん」
「ねぇ、オレにもジュース奢らせて!」
「春原くん、そういうの気にしなくていいから」

 今日はこれから部活サボって彼氏とデートするんだっていう祐未と、校舎から離れた茶道部の部室に向かうこゆきにバイバイを交わして、トイレに行こうと思って廊下を歩いていたら春原くんが駆け寄ってきた。きっとサッカーボールが入っているんだろう大きい鞄を抱えながら、舞子との話を盗み聞きしたらしい春原くんは肩を揺らしながら言う。

 舞子や洋太とは長い付き合いともあって、奢り合うっていうのは何でもないことのように思っていたし、春原くんには見返りが欲しいからっていう理由で勉強を教えていたわけではないので私がそれを断ると、春原くんはつまらなそうに「ええー」と言葉を漏らした。

「百瀬ーー!!」
「あ、純也だ!」

 突然、春原くんを呼ぶ声が遠い場所から聞こえてきた。春原くんと一緒に声がした方を振り返ると、やはり遠い場所で大きく腕を振って春原くんを呼んでいる男子生徒の姿がある。きっと、どこかのサッカー部なんだろう。春原くんは大きく手を振り返して「今行くー!」と大声を出した。

「じゃ! 帰りに教室寄るから、飲みたいもん考えといてよ!」

 一応、その話は遠慮したつもりだったんだけどな。春原くんは奢ってくれる気でいるのか、その言葉を掛けて純也って呼ばれた男子生徒の方へ早歩きで向かってしまったから、大丈夫だからって声を掛けられなかった。


 友達を待っている時間は、はじめこそは長い待ち時間に思っていたけど、1年以上も続けていれば、待っている間にやることとかを作って時間を潰せていた。舞子とは1年生の頃から同じクラスで、意気投合して仲良くなって以来、ずっと彼女の戻りを待っていた。先生がいない教室なら充電できるからひたすら携帯をいじってたり、図書館で借りた本を読んでいたり、課題をやったり、エトセトラ。

「なまえー!」
「あれっ、早い、どうしたの?」

 今日は携帯をいじって暇つぶしをしていた。気になる情報まとめサイトをサーフィンしていると、突然誰もいなかった教室のドアが開いて、部活が終わるには早すぎる舞子が顔を覗かせた。

「ごめん、おばあちゃんが体調崩したみたいで、私帰んなきゃいけないことになった!」
「え、大丈夫なの?」
「大丈夫だとは思うんだけど、心配だからさ! 病院行く。 親、迎え来てるけどなまえも一緒に帰る?」
「あー……私、ちょっと用事が……」

 どうやら親が迎えに来たらしい舞子は私にそう声を掛けてきた。だけど私は、春原くんが部活終わりにここに来ることを知っていたので、それを断ってしまった。「え、用事??」と舞子は首を傾げて私に訊ねた。ちょっと、いろいろ……と言葉を濁せばニヤニヤとした表情に変わっていくけど、親から着信が来たって舞子はそれ以上聞くこともせずに「明日はよろしく!」とだけ言って、ドアを閉めて廊下を走っていく。


「みょうじさんお待たせー! 飲みたいもん考えといてくれた?」

 春原くんが教室に来たのは18時を少し過ぎた頃だった。きっともうすぐ来るだろうなと思っていた私は帰り支度を済ませていて、春原くんが顔を覗かせたら鞄を持って、教室の電気を消して廊下に出た。

「あれ、碓井さんは?」

 いつも舞子が戻ってくる時間まで教室にいる私が帰ろうとしていたことに気付いた春原くんは、首を傾げて教室と廊下をきょろきょろと見渡していた。「私、このまま帰る」と春原くんに言えば、春原くんは驚いたように「なんで?」と返す。

「舞子、おばあちゃんの体調悪いみたいで、先に帰っちゃったんだ」
「そうなの!? 大丈夫かな……っていうか、もしかして、オレのことわざわざ待っててくれた?」
「え? うん」

 自販機のある購買に向かう途中、歩きながら春原くんは焦ったように口を開いた。メールを送ったり置き手紙をしたり、春原くんを待たずに帰ってしまう方法もあったけど、きっと奢る気満々だっただろう春原くんの期待を裏切りたくなかったのでお言葉に甘えていようと思った。それに一度遠慮した身として、今日に限って帰ってしまうということは感じ悪いかなとも思っていた。

 暖房を付けっぱなしにしていた教室の中は暖かかったけど、廊下に出ると寒い。外に出るともっと寒かった。冬の乾燥した空気が素肌に触れると、寒さで思わず巻いていたマフラーを握りしめる。購買に着いて、自販機の前に立って「何が飲みたい?」と言われると真っ先にホットココアを指差した。

「ありがとー」
「どういたしまして!」

 ガコンッと音を鳴らして落ちてきたホットココアを手にした春原くんは「あったかいね」って言いながらそれを差し出してくれた。まだ手袋をはめるほどの寒さではないけど、冷えた指先が温かい缶に触れると芯まで暖かくなる。

「一人で帰んの?」
「そうだよ」
「じゃあ、オレが一緒に帰ってあげる!」
「いや、大丈夫だよ。家の方角、反対じゃない?」
「ちょっと遠回りになるけど、あ、それにオレ、自転車だからさ!」

 どうやら春原くんは自転車登校らしい。駐輪場に行くまでの道のりの中、背負っていたリュックを降ろして自転車の鍵を探しながら、春原くんは私に笑顔を向けた。私はそれに頷いて、なおもリュックの中を漁っている春原くんを盗み見る。きっと春原くんのリュックの中はごちゃごちゃしているんだろうな。春原くんは自転車の前に来てやっと鍵を取り出せば、再びリュックを背負い直して「よし」と言いながら、自転車を引いて私の傍に来た。その横を私はココアを握り締めて歩き出す。

「……寒いね」

 教室ではそこそこ話をする仲だったけど、いざ帰り道まで一緒となると、この寒さもあってか静かな空気が漂っていた。暖かいココアを飲んではぁーっと息を吐けば、その息は白かった。

「春原くんってさ」
「んー?」
「好きな人いるんだっけ?」
「え……」
「ほら、この間、聞けなかったから」

 寒いね、うん、っていうそれだけの会話の中で、私は訊ねた。何気ない会話をしようと思ったけど、不意にその言葉が漏れてしまったあたり、私はその話が気になっていたのかもしれない。一週間前、テスト勉強をしていた時に聞けなかった答えを聞きたかった。

「オレは……うん、いると思うよ」
「思うって、なにそれ」
「好きとか、まだよくわかんなくて」
「あー、でもそれ、わかるよ」

 高校生活じゃ、ありきたりな恋バナトークだ。私は、隣を歩いている春原くんのことが気になっている。春原くんは他の誰かを気になってるかもしれないけど、その発言と様子に、親近感と呼べばいいのか、幸でも不幸でもないよくわからない感情が渦を巻いた。

「私も、好きとかわかんなくて。これから好きになってくのかなって思ったり、思わなかったり」
「オレは、いいと思うけど……」
「え、なにが?」
「あ、いや、なんでもない」

 慌てたように前を向いた春原くんに首を傾げてしまった。そんな中で、私は初めて自分で口にしたことを再度頭の中で思い浮かべた。意識しているし、気になってはいる存在なのかもしれないけど、好きなのかそうじゃないのかっていうのが、まだよくわかっていない。好きになりかけているのかもしれないけど、付き合いたいとか、そういう気持ちが私の中で定まっていない。だから、きっとこれから好きになっていってしまう可能性もあって、付き合いたいなって思ってしまう日がいつか訪れてしまうのかもしれない。
 私はそんなことを考えながら、隣を歩く春原くんの姿を頭の中にも映し出して、息を吐いた。春原くんが言った言葉が何に対しての良いと思うなのかがわからなくて聞き返すものの、春原くんははぐらかした。それからすぐに思い出したように顔を上げて「でも……」と口を開いた。

「オレ、きっと好きなんだと思う」

 そう言った春原くんの息だって白かった。その姿が微笑ましく感じてしまって、私は静かに笑った。巻いていたマフラーを緩んでしまった口元を隠すように持ち上げる。

「じゃ、告白とかするの?」
「……タイミング待ってる」
「なに、タイミングって」
「あるじゃんか。 あ、今、いけるなっていうのとか」
「え、なに、その恋愛経験豊富な感じ」
「いや、豊富じゃないけど! あるじゃん、サッカーやってても、この隙ならいける!とか、あ、今はダメだ!とか」
「サッカーが基準っていうのが、すごい、運動バカって感じがするね」
「みょうじさんはないの?」
「私はないよ」

 だって、自分から告白しようなんて一度も思ったことないし……と、本音を春原くんにぶつけて、初めて気付いた。私、たとえ好きになったとしても告白する気が全くないんだっていうことに。されたら嬉しいっていう、その程度に今いるってことに。だけどその理由を自分を納得させるようにそっと口に出す。

「……振られたりしたら嫌じゃん。 それに告白って、男からしてくるもんでしょ?」
「みょうじさん、受け身だねー」
「女子ってそういうもんじゃない?」
「でもさ、そういうこと、相手も同じこと思ってたらダメじゃんね」
「え、女が告白してくるもんでしょって?」
「いや、そっちじゃなくて」

 徒歩15分圏内の私の家はもうすぐだった。「私の家、あそこらへんだから」ってその方向を指を指して告げたら、春原くんは足を止めて私を見た。

「好きだから、付き合いたいなって思うけど、相手が今の関係を望んでるままだとしたら、男だって言い出せなくなる時もあるでしょ?」

 きっとその言葉は春原くんの本心なんだろうなってことは、ちょっと困ったように笑った顔を見て察した。春原くんから顔をそらして、いつの間にかぬるくなってしまったココアに口つける。

「男子も、そういうこと考えたりするんだね」
「するよ。 それに……」
「うん」
「好きになっちゃった子が、他の男子と付き合おうとしてるのかもしれないって思ったら、邪魔しちゃいけないって思うでしょ!?」
「え……」
「……あっ、その、えっと、何言ってんだオレ……」

 ……、……え、なんだ、今の。
 一瞬、胸になにかが刺さったように身体が跳ね上がりそうになって、静かに大きく息を吸い込んでしまった。口をつけていたココアを離そうにも身体が動かなかった。

「あの、春原く……」
「みょうじさん! 家ってこの辺だっけ!?」
「えっ、うん、そう。 あそこの道、越えたらすぐ」
「じゃ、オレ、ここで帰るね!」
「え、え? う、うん。 ありがとう、気を付けてね……」

 身体が硬直してほとんど動いてくれないのに、心臓の音だけは大きな音を立て続けたまま鳴り止まない。え、なんだ、さっきの。これを勘違いしない方がおかしいんじゃないかっていうくらい、衝撃的な事を言われたような気がする。
 「バイバイ!」って手を振って、自転車に跨って走り去っていく春原くんの後ろ姿に呆然と立ち尽くしながら、同時に、春原くんを好きになることを許された瞬間のように感じた。