意識



 春原くんが彼女と別れた話を聞いたのは、期末テストが迫った頃だった。


 あと一ヶ月後には冬休みが始まるねとか、今年が終わるねとか、1年生の頃はまだ長いように思えていた時期があっという間に過ぎていった頃。最近はぐっと気温が下がり始めてストッキングに足を通した。セーターはベストから長袖に変わった。学校にいるときは脱いでいたブレザーを羽織りながら生活していた。

「勉強会するんじゃなかったの」
「イベント今日までなんだよー」

 毎度恒例のテスト一週間前の部活停止期間と勉強会の時期、当たり前のように部活停止期間に入ったその日はいつものメンツで遊びに行って、次の日からは舞子と洋太との勉強会。だけど舞子は、おばあちゃんのデイサービスの見送りがあるって理由で、「明日からよろしく!」と今日は先に帰ってしまっていた。いつも3人でやっていた勉強会から一人抜けた形になったけど、先月の中間テストから仲間入りしたらしい春原くんの姿もそこにあって、変わらない3人の人数がそこにあった。

「みょうじさん、また勉強教えてよ!」
「春原くん、前回勉強したところとか、ちゃんと覚えてる?」
「覚えてる、覚えてる!」

 勉強する気でいたのに、洋太はアプリゲームに夢中で一人離れた自分の席から動こうとはしないし、和気藹々といった様子の春原くんは、ご機嫌に私の目の前で数学のワークを広げた。結局、あれから私は春原くんへ揺れ動いた気持ちを隠しつつ、変わらないクラスメイトとして接しているんだけど、こうやって頼られるってことは嬉しいことに変わりなくて、その気持ちを隠したまま春原くんと向かい合った。

「あ、これ、10位以内確定だわ」
「じゃあ早くここに座る」
「待てって、あと30分あるんだよ」
「その30分で問題5問は解けるよ」
「あー……うんこ! ちょっとうんこ行ってくるから、あと30分待って」
「あのさぁ……」

 アプリゲームの順位とかよくわかんないけど、洋太にとってその30分が大事なのか、私がうるさく口挟むと頭をガシガシと掻いて席を立ち上がった。視線はスマホから外さないまま、うんこって言いながら、どっかでアプリゲームを続けようとしているに違いない。もし2人きりだったら私は容赦なく帰るところだけど、目の前には春原くんがいるからそれはできなかった。

「あのさ、春原くん。 そこ、なんで7と8が出てきたの」
「え! だって、6に1と2足したら7と8になるでしょ!?」
「なるけど、そこは足し算じゃなくて掛け算だよ」
「そうなの!? そうだったっけ!? じゃオレ、全部間違えてるじゃん!?」
「いや、そこしか間違えてないけど、なんでノート写してるのに間違えるの」
「解きながらやってみようと思って……」
「その気持ちはわからなくもないけど」

 曲線y=3x^3-7xと直線y=2x-aの共通点の座標は、方程式3x^3-7x=2x-a すなわち -3x^9x=aの実数解である。……という問題文と数式を、まるまる写し書きしてくれていたと思っていた春原くんは、どうやら自力で解いてみようという気持ちを持ってくれていたらしい。わけもわからずノートを写されるよりも、そっちの方が私としても嬉しいんだけど、思いっきり間違えながら解いていた姿に苦笑いを零してしまった。

「……春原くんって、彼女と一緒に勉強したりしないの」

 洋太が教室を出ていって、数学の公式を春原くんに教えながらノートに写していく姿を見ていた。シャーペンで書いた数式を消しゴムで消している姿を見ながら、聞きたくもない話だけど、気になっていることを隠しきれなかった私は春原くんへ訊ねた。

「うん、しないね。 別れちゃったし」
「……え」

 自ら墓穴を掘るつもりで訊ねたことだ。心の準備はできていた。勉強についての次は、最近は何して遊んだのとか、そういう会話をする準備だってしていた。
 だけど、春原くんはシャーペンを持ち直して、私のノートを照らし合わせるように書き写しながら、彼女とは別れたと、そう口にした。

「えー、そうなんだ。ごめん。 なんで別れたの?」
「部活で忙しくて、あんま会えなかったから」
「ふーん」
「うん」

 沈黙が流れた。その言葉を想像しなかった私は言葉が詰まる。なんで、どうしてって、聞きたいことはあったし、好きになりかけてる春原くんが彼女と別れたってことを聞いて喜ぶべきことだったのに、どうしてか素直に喜べない私がいた。

 ガラッとドアの開く音が聞こえて、教室の外から洋太の声が聞こえる。そしてちょうど今、どこかの友達に出会したらしく、教室のドアをちょっと開けたまま、廊下で遠いどこかを見て声を上げている姿と声が耳に入り込んだ。
 なんだ、てっきりどこかでアプリゲームしていると思ってたのに。うんこかは定かではないけど、本当にトイレに行っていただけのようで、その姿を視界に入れた。チラッと春原くんを見るけど、春原くんはノートと向かい合ったままだった。

「洋太、声でかい」
「あはは、わかる。 気を取られちゃって、どこまで写したのかわかんなくなるね」

 そんな話をしながら洋太の様子を盗み見る。洋太の傍に寄ってきた男子生徒は……あれは確か、4組のバスケ部だったっけ。窓越しに見えたその人を見つめながら、運動部って本当に元気だよなぁと思った。

「みょうじさんってさ」
「うん?」
「今、好きな人いたりすんの?」
「えっ……うーん……うん……」

 洋太、早く戻って来ないかな。触れてはいけない春原くんの破局情報を聞いてしまって空気が悪くなったように感じた私は、洋太の戻りを待ちわびていた。だけど、静かになってしまった空気の中で春原くんが私に訊いた。その言葉に、触れられたくなかった話題に触れられてしまったみたいに、ドキッと心臓が音を鳴らした気がした。
 自分で意識している人ができたってことを自覚したものの、先日の菅根くんの件とか、今の春原くんみたいに誰かにそれを言われると、悩んでしまうというか、はっきりとそうだとは答えられなくて、半ば濁らすような形で私は呟いていた。

「春原くんは?」
「オレは……」

 なんではっきりいるって答えられないんだろう。意識している春原くんに訊かれてしまったからとか、好きになられた菅根くんに言われたからっていうのがあるかもしれないけど、きっと洋太や舞子に聞かれたって、今みたいに言葉を濁らせてしまう気がした。
 これ以上自分でも理解不能なことを聞かれて、言葉を濁らせ続けることはしたくなったから、私から話をそらすために同じことを春原くんに聞き返した。ついこの間まで彼女がいた春原くんにこんなことを聞くって、意地の悪いことをしてしまっただろうか。春原くんは口を開いた、オレは……。

「お待たせー」
「あ、戻ってきた。おかえり。 本当にうんこだったんだ」
「女がうんことか言うなよなー」

 春原くんのオレは……の続きを聞けないまま洋太が戻ってきた。良かったのか、悪かったのか。洋太が戻ってきたことでこの話は打ち切りとなって、やっと傍に寄ってきた洋太を見上げた。

「春原くんがいなかったら、私、今頃帰ってたよ」
「そんなこと言うなってー。 春原、お前どこまで行ったよ」
「問題文3つ目!」
「は、まだそこなの? 俺なら5問くらい余裕だわ」
「ひどい! オレ、結構真面目にやってんだよ!?」

 マジで、じゃあ褒めてやらないとな!って春原くんの頭をわしゃわしゃ撫で始める洋太と、やめてよー!って目の前でじゃれ合いを始めた2人を見ながら顔を引きつらせた。トントンとわざとらしくシャーペンの先っぽを机に当てて「真面目にやらないなら本当に帰るからね」って言ってみせると、2人とも大人しくなったのが面白かった。