意識



 春原くんと付き合ってから、1年が経った。


「なまえさん、ここが鎌倉です!」
「なーんか、想像してたのと違う……」
「なに想像してたの?」
「電車と海があるの想像してた」
「ええー、それはもうちょっと先の方にあるっぽい……江ノ島の手前くらい? オレ、お腹空いちゃったから、食べ歩きしたいんだけど……」

 春原くんと付き合いだした1年はあっという間だった。1年と少し前、春原くんと付き合うことになるだなんて思いもしなかった−−というのはいつ思い出してもその考えは変わらなくて、今日だって、電車で鎌倉に向かっている間に「付き合って1年経ったんだね」っていう出だしの言葉から「まさか1年前はさ」なんて話をしていた。

 そういう話をしていれば移動時間はあっという間に過ぎていって、目的地に到着。颯爽と繁華街の方に歩き出した春原くんを追いかけながら、私は期待と違っていた街の景色につい本音を零してしまった。鎌倉って初めて来た。下調べは前々から見ていた雑誌やテレビの記憶頼りとその知識程度しかなくて、海が見える駅のアレは私の記憶違いだったんだろうか。神奈川って横浜くらいしか行ったことがないからまるでわからない。春原くんにぼやけば春原くんは携帯を取り出してわざわざ私が期待していたような場所を探し出してくれたけど、遠回しに我慢しろと言われてしまう始末だ。
 鎌倉の町並みを一言、今時の言葉を使って言うならエモいって感じ。東京の都心や私たちが住んでいる町と比べたら、雰囲気は全然違って、真新しい景色を眺めながら「腹減ったー。あ、お茶屋さんがある!」と狭い道の左右に広がるお店に興味を示している春原くんに着いて歩いた。

 最近になって、春原くんってちょっと変わったな−−と思ったことがある。自分の感情を押してくることが増えてきた。それはそれで、機嫌を伺われたり優柔不断な態度をとられるよりだったら全然良いんだけど。今日も改めて感じた春原くんの言葉に素直に頷くしかない。

「こっから、20分くらいで行けるって! 江ノ島も近い!」
「意外と近いね。江ノ島行くなら、生しらす丼食べたい」
「なまえの胃袋って、異次元なの?」
「それ、春原くんには言われたくないんだけど……だってスイーツしか食べてないじゃん。デザートは別腹だよ」
「たぶんそれ、飯食った後に言うセリフだと思うんだけど……あ、顔嵌めパネルある! 撮って!」

 とはいえ、春原くんは私が想像していた場所を調べてくれて、連れて行ってくれようとしていた。でも、駅付近から繋がっている有名な通りを歩きながら目に付いたものを食べ歩いて、脇道に置かれた置物やパネルに興味を示してやたら写真を撮りたがる春原くんは完全に女子のノリだった。「イエーイ!」と言いながら突然ツーショットの自撮りを撮ろうとすることも何度もあった。けど、こうやって動き回っているせいか、さっきまで食べ続けていた胃の中に溜め込んだものは綺麗に消化されて、家に帰って体重計を見るのが怖くなるほど食べ歩き続けた記憶しかない。

 お昼過ぎまで鎌倉のメイン通りで食べ歩きをしたけど、春原くんはRe:valeの出身地だから聖地巡りをしたいと言っていたのに、ほとんど好きなものを食べて歩く時間に消化していた。通り掛ったライブハウスを見て「ここがライブをしてた場所……かもしんない……」と写真を撮ってたけど(後から全く違う場所だったことが発覚した)満喫している春原くんの隣で、美味しいものを食べられている私もこの時間は満喫してた。


「女の子って、やっぱ、海とか好きなの?」
「……え、なに、急に。 まぁ、私は山よりだったら海の方が好き」
「じゃあさ、来年の夏は海に遊びに行こうよ!」
「海? なに、海水浴?」
「そーそ。水着着てさ、ビーチバレーやったりさ!」
「あんなに食べ歩いてた私に向かって、そういうこと言っちゃう?」
「そんな太ってないでしょ。なまえの水着姿はオレも見たい」
「すごい、下心有り有りな感じに聞こえる」
「なんで!? オレはただ純粋な気持ちで言ってんだよ、海で遊んだりしたいじゃん!?」

 春原くんが胃袋を満たして一通り観光を終えると、春原くんは私が期待していた場所に連れて行ってくれようとしてくれた。「あ、ほら、海、見えてきた」と、海の見えるほど近い場所を走る窓の外から海が見えると、電車に揺られながら春原くんに唐突に尋ねられた質問は、首を傾げてしまいそうだった。
 私たちが住んでいる場所は東京都の郊外で、海が見えることなんてない。座っていた座席から、つい春原くんの方を向きながら眺めているとそれを問いかけられたけど、春原くんはインドアな人間だから、サーフィンも登山も似合いそうだけど。さすがに私は体力は無い方だから、山を登るよりだったら海で遊んでいた方が楽しい。
 天気は快晴に近く、海と空の境界線も遠目からでもくっきりとわかった。東京湾でもない鮮やかな太平洋の景色に頬を緩ませてしまう。

「来年の夏は、海、行きたいね」
「ほら、やっぱりそう思うでしょ!?」
「……うん」
「どうかした?」
「ううん。 あとどのくらいで着く?」
「あと2駅!」

 東京で暮らしていると、やっとかぁっていう気持ちがあるけど、こういう行ったことのない場所でそう言われるとわくわくが止まらなかった。春原くんには言ってないけど、海沿いを走ってるというだけで十分に心が満たされた私にとって、駅から見える景色を想像するだけで楽しくて仕方がないのだ。

 目的の駅に辿り着けば、そこは私の想像通りの景色が広がっていた。道路を挟んだ、海が駅に面したホーム。最寄りの高校の制服を着た人たちが、冬休み中の、クリスマスだっていうのにちらほらホームの椅子に腰掛けているのが目に入る。あとは、有名な駅ということもあって、カメラを構えた観光客っぽい人たちもいる。

「……なんかさ。来年の夏も……」
「ん?」

 人が多いわりに、駅のホームは静かだった。海岸沿いに打ち付ける波の音が聞こえてくるし、目の前を走る車の音も静かなものに聞こえてくる。
 薄着のジャケットの袖の内側からインナーの袖を引っ張りながら、この空気をかき消さないように私は呟いた。周りに会話をしている声が聞こえないようになるべくこそっとした声を出したけど、春原くんは「ん?」と言いながら、私の顔元に耳を傾けた。

「来年の夏も、一緒にいてくれる前提なの、嬉しいなって思って……」

 来年の今頃はどうしているんだろうと思うことはある。漠然と、ぼんやりと、そうだったらいいなと考えることもある。だけど春原くんの未来にはちゃんと私がいるっていうことに、恥ずかしいからなのか嬉しいからなのか、身体が落ち着かなくて引っ張り上げた袖を何度も手直しするように交互に引っ張った。

「進学先決まったり、就職決まったり、卒業アルバムの写真撮影とか、文集書かされるたびに、もう終わりなんだなって思うと、寂しいよね」

 もしこれが2年生の出来事だったとしたなら、来年のことなんて、簡単に想像できる。同じ学校に通って、同じクラスに通って、毎日顔を合わせ続けるんだから。お互いの存在が来年もあることは当たり前だけど、3年生である今は、卒業した後のことなんて未知なものにしか過ぎなかった。

「もうちょっと、春原くんと一緒にいたいな」
「オレも、なまえともっと一緒にいたい」

 寂しさが募るとそんな本音が零れ落ちた。これは学校生活でのこともそうだし、今日のこともそうだ。
 私の言葉に同意してくれた春原くんが嬉しくって、照れ笑いを浮かべながら「ありがと」と顔を上げて春原くんの顔を見たけど、それも一瞬だった。心臓が飛び上がった振動で視線が海の向こうを見つめた。

 −−「まだ、一緒にいたいなって思って」
 数ヶ月前に、初めて春原くんを家に上げた日に言われた言葉と同じように、春原くんの本音が言葉に乗っていた。あの時の、春原くんがこんなに優しげに笑ってくれる人だっただろうかと思った、あの優しげな笑みをここでも浮かべていた。あの時の私、どんなふうに春原くんのこと見て喋ってたっけ。あの時の記憶を必死に思い返して、なんでもないような気持ちでいようとしているのに、何故か今は謎の動揺を生んでいる。

「……、今日って、何時まで大丈夫なんだっけ?」
「遅くても22時かなぁ。夜ご飯食べてくるとは言ったけど」
「……東京帰ろっか」
「え?」
「すぐ帰れるところでさ、今日はギリギリまでなまえと一緒にいたいなって……」
「え……あー、うん。そう、だね?」

 もう一度海を眺めていた春原くんが私に訊ねた。江ノ島に行こうとしていたはずだけど、東京に帰るを選択した春原くんにちょっと驚く。まだ夕方。こっから東京は一時間半くらいで帰れる。門限は22時。ギリギリの時間まで神奈川で時間を潰して、帰ることだけを目的に電車に乗るよりだったら、早いうちに向こうに帰って、向こうで遊んでいた方が気持ち的には楽だとかそういうものなのかな。帰ろう、と言った後に理由を付けてきた春原くんに、私は頷くしかない。そうなの?とか思っちゃったけど。でも、私も見慣れた景色の中で過ごしていたいという気持ちはあった。

「ちゃ、ちゃんと帰すし……」
「……へっ?」
「ちゃんと……」
「なに……?」

 この時間はちょうど東京行きの電車が到着する時間のようで、遠くの方から電車の警笛が聞こえてきた。音が聞こえる方に目を向けると、ホームの先端にカメラを抱えた人たちがちらほら。撮り鉄ってやつ。こんなところにもいるんだ……と思ってたら、春原くんは鼻を触りながら、急に小さな声を発した。もじもじしてるっていうか、鎌倉にいた時までの勢いはどこに行ったの。とても何かを言いた気な春原くんだったけど、何を言いたいのかわからない私は首を傾げるしかない。

「−−なまえ、待って」
「わっ、えっ、……乗らないの?」

 電車が目の前に停車すると、ドアが開く。降りていく人、乗っていく人が私たちの横を通り過ぎて行くけど、帰ると言ったはずの春原くんは、電車に乗り込もうとした私の手を引っ張って、それを阻止してきた。春原くんは電車に乗り込もうとする気配がない。

「オレが今思ってること、ぶっちゃけてもいい?」
「え、ここで? いいけど……」
「引かない?」
「引かないと思うけど……」
「オレ、本当はさ、本当は……帰したくない……っていうのが正直な気持ち……」
「え……? え!?」

 一体何を言ってくれるんだろうと思ったら、春原くんから飛び出てきたのはそんな言葉だ。帰したくないとか、そういうのってドラマの中の話だと思ってたんだけど。まさか自分が言われる立場になるだなんて思いもしなくて、私は声を上げてしまった。そして、引かないと言ったけれど、頭の中ではその言葉が糸が張るようにピンと来て、咄嗟に後退りをしてしまった。
 しかし、春原くんは私の右手をがしっと掴んで逃してはくれなかった。

「帰したくない! オレ、なまえともっと一緒にいたい!」
「は、え!? と、東京に帰るんでしょ、それに明日だってまた会えるし」
「今日一緒にいたいの! 寒いし、人肌恋しいの!」
「な、なに言って、」
「なまえはオレと一緒にいたくないの!?」
「そりゃ、一緒にいたいけど、でも」

 そんなこと言われたって、家に帰らないと、いけないじゃん。流石に彼氏と一緒に遠くに遊びに行って帰らないのはまずいじゃん。それでもはっきり無理だとは突っぱねられなくて、拒否と肯定を繰り返しながら首を振ってはみせるけど、春原くんは今の気持ちを譲る気は一つもないらしい。
 しまいには子供のように駄々を捏ねられてしまった。だって、来年はこんなふうに過ごせているのかわからないだとか、自分は年明けには手術に備えて心細い生活を送ることになるのだ、なんてことを言われてしまえば断固拒否ができなかった。

 自分の気持ちを前面に押し出してくることが多かった春原くんだけど、こんなに積極的になっちゃう!? 春原くんが一緒にいたいと悲痛な想いを口にしてくれるのは嬉しいことだったけど、私のことも考えてほしいんだけど。親にはなんて言えばいいの。ていうか、春原くんはそんなこと言って、自分の親にはなんて言い訳をするつもりなのだろう。

 電車のドアがプシューと音を鳴らして閉まる。すぐに電車が動き出してしまって、乗りそびれてしまった。春原くんに指先をがっちりと掴まれて、追い掛けることもできない。
 私は今、とても焦っている。親になんて説明しようというものそうだけど、春原くんとのことだ。この日の約束を決めた時から、気付いてた。私は、泊まってまで一緒にいたいっていう気持ちがない……というか、それを言い切りはしないけど、本当はしたくないってこと。

「……ごめん、春原くん。流石に一緒には、過ごせないや。帰らないと……明日も、会えるし」
「なまえ……」
「帰らないと、ごめん」
「いや、オレの方こそごめん。無理言って……つか、大丈夫? 震えて……」
「さ、寒くて……?」
「なんで疑問形? ……もしかして、怖がらせちゃった? ごめん!」
「そういうわけじゃ、なんだけど」

 いつも体温が高い春原くんの手だけど、私の手がいつもよりずっと低いのか、暖かいと感じることがなかった。寒さのせいだと思いたかったけど、ただ単に緊張しているだけ。私が。
 春原くんと一緒にいたいけど、一緒にいたくない−−その意味を、春原くんの言葉ではっきり理解してしまったら、身体の芯が急に凍り始めていく。全身の血液が冷えて行くように指先にも伝わって、それがずっと冷たいままだ。

「私、やっぱり」

 一向に温まる気配のない繋がれた指先に視線を落とす。私が、本当は春原くんと一緒にいたくなっていう理由は……。

「今日、これ以上春原くんと一緒にいると、なんか、寂しくなっちゃいそうだから」
「え?」
「休み明けてもちょっとしか会えなくて、卒業したらもっと会えなくなって、今日一緒にいたら、なんか……なんか、駄目だと思うし、」
「駄目って何が?」
「もっと寂しくなっちゃいそう……」

 私が抱いている理由って、これだ。好きだから一緒にいたい。一緒にいたいけど、これから会う機会がどんどん減ってしまうことを想像すれば、寂しくて仕方がない。友達みたいに、しばらく会えなくなるからって、今のうちにたくさん思い出作りして、楽しかった記憶を残したいわけじゃない。今一緒にいる時間が濃くなれば濃くなるほど、来年の今頃の私が見えなくなっていく。春原くんが私と来年も一緒にいてくれることが前提で海の話をしてくれたのは嬉しかった。けど、それよりもずっと寂しさの方が大きい。

「今日、このまま帰っちゃったら、オレはずっと寂しいまんまだよ」
「春原くん」
「でも、なまえが寂しくなる気持ちもわかるし、そんな気持ちにさせちゃうくらいなら、オレが我慢するから! んはは、無理言っちゃってごめんね」

 私の指先の力は強くなっていく一方なのに、口数だけは減る一方だった。春原くんが納得してくれて、春原くんが諦めてくれて、だから私の言った通りに東京に帰る。
 ……それでいいの? と、打ち明けてしまったせいで、心の中の私が問い掛けてきた。それで良かったんだけど。一度自覚してしまったらいいとは思えない。寂しくなるのがわかっているくせに、そう感じてたくせに、今になって、一緒にいないと余計に寂しくなりそうだって思う。

「でも、本当はさ、私も、帰りたくない……」

 これも、ドラマでよく聞いてた台詞だ。衝動的に帰りたくないって口にする女の子の気持ちなんて想像できなかったけど。一緒にいたい気持ちが大きければ、心の中に住み着いてしまった寂しさを押し込めてて出てきた言葉だ。自覚したくせに、未来の私が、今日一緒にいなくて良かったって思いながら、それでも一緒に過ごせば良かったってちょっとでも後悔するくらいなら、一緒にいたい気持ちが大きい私を優先するしかなかった。