意識



 春原くんは、アイドルにハマったらしい。


 週末の土曜日。お姉さんがハマっているらしいRe:valeというインディーズアイドルグループのライブに連れて行かれた春原くんは、最初はあまり乗り気でもなさそうな雰囲気を出していたけれど、それに行った日の夜に、興奮気味に電話をよこしてきた。

『Re:valeのライブ、めちゃくちゃ最高だった! バンさんもユキさんも格好良くてさ、歌も最高で! 早速姉ちゃんからCD借りたんだ! 今度ライブ行ったら、自分用にも買ってくる予定!』
「テンション高すぎなんだけど。 でも、良かったね」

 正直、ライブに行った春原くんがすぐに電話を掛けてきて、最高だったとそのグループに語られたことには驚いてしまった。とても失礼なことを言ってしまうと、たかだかアイドル、ましてやインディーズのライブで、春原くんが元気になってくれるとは思ってもいなかったから。夏休みに入るまではサッカーの話ならこうやって勢いよく語り出してくれたことは何度もあったけれど、落ち込んでいた春原くんが、そうやって好きなものを元気に話し出してくれることはそれっきりだったから、春原くんが元気になってくれたことは素直に良かったと思えた。立ち直れたのかどうかはこの時点ではわからなかったけど、春原くんが少しでも元気になれたことは、私の解決できるかできないか、あやふやなまま抱いていた悩みが一つ解決されたような気がした。
 そうやって嬉しそうに話している春原くんの声を聞いていたら、この間言われかけた話しておかなきゃいけないと思う話のことも、告白されていたようなあの場面のことも、私は忘れてしまうのだった。

「おー、なまえー」
「あれ、洋太じゃん。……って、ちょっと、うちの前でやめてくんない!?」
「仕方ねぇじゃん、うんちしたいんだって」
「今すぐ引っ張って、道路の真ん中でさせてよ!」
「車来たらヤバイだろ!?」

 春原くんとの電話を終えてリビングに向かったら、お父さんが帰ってきていて、回覧板に目を通したのか名前を記載した後に隣の家に回してきてくれとお願いされた。「わかった」と言って外に出ると、ちょうどそこには、エチケット袋を片手に下を向いている洋太が立っていた。隣には、というか真下には、洋太の家で可愛がられているビーグルの姿がある。マーキングではない、思い切り腰を下ろして踏ん張っている姿が即座に目に付いて思わず声を上げてしまった。しかし私の一声も虚しく、目の前でポロポロという効果音が似合わないものを排出している姿が続いて目に入って、うわっと手のひらで瞼を覆ってしまった。

「……最悪なんだけど」
「ちゃんと片付けるし、敷地汚してないだろ」

 とっくに慣れた様子で糞の後始末をしている洋太に、不快な顔付きで家の外に出るけど、なんにも考えていないワンコは私を見上げていた。名前はポチ。ありきたりな名前すぎて、名前を教えられてすぐに覚えてしまった。

「春原はめちゃくちゃ可愛がってくれたのに、この姉ちゃんはお前のこと嫌いなんだってよー」
「別に嫌いじゃないけど」

 後始末を終えてわしゃわしゃ犬の頭を撫でる洋太は、嫌味っぽいものを交えたように犬に告げていた。嫌いじゃないし、可愛いと思うけど、うんちをするのは好きじゃない。それを正直に言ってしまえば、お前は動物飼うのに向いてないと言われてしまった。飼わないし。

「どっか行くの?」
「お隣さんに、回覧板」
「へー」

 用を済ませるべく、それだけを告げて洋太の横を通り過ぎたけど、道路に面してすぐのインターホンを鳴らして、すぐに出てきてくれたお隣さんに会釈と回覧板を回して後ろを振り返ると、電信柱の根元を鼻で付いているのをじっと見ている洋太がまだそこにいた。

「−−春原くんがさぁ」

 家の目の前で犬の様子をじっと見ていた洋太に、なんとなく声を掛けた。春原くんがアイドルのライブに行って、最高だったと興奮気味に電話をしてきたんだと、さっきあったことを報告するように話をしてしまった。

「アイツがアイドルを、ねぇ……」

 一向に地面から鼻先を離さない犬のリードを引っ張るものの、引っ張られてもなお地面の匂いを嗅ぎ続ける犬を見ながら、洋太はへぇ、と反応をみせてきた。

「なんか意外だったなー」

 それについて、特に話すことはなにもないんだけど。とっくに陽が沈んだ真っ暗な空を見上げながら、春原くんが元気になってくれたのは嬉しいけど、なんだかよくわからない気持ちを抱いてしまっていた。

「どっちかっつーと、アイツの方がアイドルって感じする」
「あー、それはわかるかも」

 地面を突く犬を見つめながら呟いた洋太のセリフに、私はわかると同意をしてみれば、洋太は「だろ?」と言ってきた。春原くんがアイドルにハマったのが意外だと思ってしまったのは、そういうのもあるのだろうか。



 春原くんが元気になった翌週の月曜日の話、学校に登校してきた春原くんはやたらご機嫌な様子だった。きゃっきゃとはしゃいでいる、そういう言葉がぴったり。なんだか女子高生みたい。挨拶ついでに私の元に颯爽と近寄ってきて「なまえ、聞いて!」と電話越しで聞いていた話を、ここでも聞くことになる。Re:valeの話。すごいんだって、語彙力のない感想を興奮気味に話してくれる春原くんに、元気になってよかったと思いながら、先日と変わらない話の勢いにはいはいと頷いていた。

「来週のRe:valeのライブに行ったら、CD買ってくるんだ!」
「それ、一昨日も聞いたから」
「なまえにも聴かせてあげる!」

 バンさんが格好いい、ユキさんが格好いい。私は数回目にしたポスターの2人しか見ていなくて、どこがどう格好いいのかっていうのがイマイチ理解できない。でもまぁ、CDを貸してくれてそれを聴けるというなら、春原くんの好きなものを知れるという意味での期待はあった。サッカーもそうだったから。春原くんが好きなものを話してくれる姿が好きだから、私もそれは楽しみだった。

「なーんか今日のこゆき、やたらご機嫌じゃない?」
「えっ」
「なんかあったー?」

 悪いことが続けて起こるように、良いことも続けて起こるものだ。そう思ったのは、いつメンで机を囲ってお弁当を食べていた昼休みに、それに気付いた祐未が話の種を巻いたからだ。確かに今日のこゆきはどこか機嫌がよかった。
 問い詰めるように舞子と祐未が「なになに、聞かせて!」とこゆきの前に身を乗り出せば、こゆきは小声でぽつぽつと言葉を落とした。実は昨日、彼氏の家に泊まりにいって、そこで……と、真昼間からするような話ではない話を、こゆきは恥ずかしそうに口元を隠しながら伝えてくる。男女の、チョメチョメな、そういう話だった。

「なまえ、口開いてる」
「や、だって……」

 キャーっと声を上げてこゆきの肩を叩いている祐未と、テンションが上がって足をばたつかせながら口元を抑えて叫び声を抑えている舞子だったけど、私は舞子に言われた通りに口を開けたまま硬直してしまった。

「こゆき、だってまだ付き合って3ヶ月くらいじゃない!?」
「や、3ヶ月もあれば十分でしょ」
「え、えー……」
「これ、100回くらい言った気がするけど、なまえが遅いだけ!」
「そんなに言われてないから!?」

 付き合って3ヶ月で!?っていうのが私の正直な気持ちで、それが前面に押し出されてしまった私は、祐未や舞子と同じようにテンションが爆上がりするはずもなく、背中がむず痒くなってしまった。引くと言ったらそれは大袈裟すぎるけど、こゆきはキスを済ませるのも早かったし、それだって早くて、でもそれが普通であると言うように、私が遅いと言われてしまう始末だ。

「そんななまえちゃんはー? 春原とはもうヤった?」
「え!? ……いや、えっと……」
「ほらね。 なまえはそういうのないからー」

 したには、したけど……という小っ恥ずかしい告白を、肯定も否定もせずうやむやに口を開いたばかりにこの流れを断ち切れた。ちょっとだけ、自分に振られないことに安心してしまった。そういう話を聞くのは苦手ではないけど、自分の話をする分には話が違うことを自覚してしまいつつ、彷徨わせた視線を、教室の後ろで数人の男子とたむろしている春原くんに向けてしまった。
 そうすると偶然なのかなんなのか、春原くんと目が合ってしまった。ひらりと手を振られて、なんとなくそれを返した。

「……何やってんの、あんたら」
「えっ……手を、振られましたので」

 その瞬間は隣に座っていた舞子にバッチリ見られていたらしい。手を振った状態のまま宙に浮かせた手のひらは舞子の手によって静かに降ろされてしまった。私がこういうことをしていると、そんなことをするなんて珍しいといつも騒いでいる舞子だけど、今日は白けた目を私に向けてくる。最近は一周回って、私の春原くんへの態度に面白みを感じなくなったのだろうか。

「いいなぁ、彼氏……」
「舞子がそんなこと言ってんの、珍しいじゃん」
「だってさぁ、だってさー、クリスマスまで2ヶ月しかないんだよ!?」
「まだ2ヶ月もあるよ?」

 どうやら舞子は、クリスマスがいよいよ近付き始めて焦っているらしい。祐未の言うように舞子がこんなことを言い出すのは珍しいし、こゆきが言うようにまだ2ヶ月もある。部活も引退してフリーな時間が増えているし、交友関係も広いからそんなに焦らなくてもいいような気がするけど……と言いたい気持ちをぐっと抑えこむ。

「高校生のうちに一度くらい彼氏とクリスマスデートしたかった……」
「諦めんの早すぎだから」
「意外と諦めている時に転機が訪れたりするんですよ。物欲センサーが引っ掛かるからさ!」
「もうそれ言っちゃってんじゃん」
「本当に焦ってヘコんでるかと思った」

 本当に焦って気落ちしているのだと思っていたけれど、そうでもないらしい。物欲センサーに引っ掛からないように、あえて諦める心を持つことも大事だと舞子は意見を主張していたけれど、これって諦めているうちに入るのだろうか。舞子の本心は意外と分かりづらいのだ。

「春原ー、誰かいい人いない?」
「えっ、オレ?」
「あんた友達多いじゃん、運動部だし! 他校の人とかさぁ、そういう友達いっぱいいるでしょ!?」

 しかし彼氏が欲しい、というのはやはり本心らしい。ぱっと顔を上げた先で目が合ってしまったのか、春原くんをマークした舞子は席を立ち上がって這い寄った。春原くんの隣には洋太が居たけれど、今の舞子の眼中には入っていないようだ。舞子は春原くんのことを「あたしが今まで出会ってきた人の中で一番交友関係が広い!」と言っていたくらいだから、そのくらい頼みの綱だったのだろう。

「うぅん、碓井さんって、どんな人がタイプなの?」
「イケメン!」
「抽象的すぎるだろ」
「背が高くて、スポーツやってて、体格ガッチリ目の筋肉モリモリな人で、あとあと、エロい感じの人!」
「エ、エロい感じ……?」
「お前、スケベな男が好きなの?」
「違う! 色っぽい仕草を見て、うわぁエロいわーっていうのあるじゃん、アレだよアレ!」
「あー、春原がよく言ってる、腰をくねらせる女に興奮するっていうアレか」
「ばっ、馬鹿馬鹿! 何言ってんだよ!!」

 どこのグループもこんな真昼間から一体どんな会話をしているんだ。舞子と春原くんと洋太の声を盗み聞いて、良い人を紹介してくれと訴える舞子を他所に、男子らしい下品な話をしていることはなんとなくわかる。ていうか、腰をくねらせる女が好きって何……?

「はぁあ? 変な例えしないでよ。私のは抱かれたいって感じのやつだからさぁ」
「こいつは抱きたい精神あるし、似たようなもんだろ?」
「まぁ、確かに……?」
「確かに、じゃないから! それ同意しないで! これ誤解だよ!!」
「でもま、そういうことだから、よろしく!」

 洋太が何を言っているのか意味不明だけど、舞子はスルーを決めて何やら慌てている春原くんに敬礼を一つ。高校三年生の秋に舞子の脱・クリぼっち作戦が決行された。